茶道用語

槐記(かいき)
江戸時代の随筆。正編七巻、続編四巻。近衛家煕(このえ いえひろ)の侍医山科道安(やましな どうあん)が、享保9年(1724)から享保20年(1735)にいたる家煕の言行を筆録したもの。茶の湯をはじめ歌道・香道・花道・有職について詳記。近衛家煕(1667〜1736)は、関白太政大臣基煕の嫡男。母は後水尾天皇皇女无上法院常子内親王。幼名は増君。宝永4年(1707)関白。同6年(1709)摂政。同7年(1710)太政大臣。享保10年(1725)落飾、予楽院真覚虚舟と号す。詩歌・茶・花道に通じ、書道は当代一流と称された。山科道安(1677〜1746)は保寿院理安の子。名は元直。芝岩と号す。父の業を継ぎ、保寿院を襲号。法眼。小児科医として近衛家に伺候。

皆具(かいぐ)
台子長板に飾る道具一式をいう。本来は、装束・武具・馬具などのその具一式がそろっているものをいった。通常は、水指、杓立、建水蓋置の四器が同一の作りのものをいうが、現在では風炉も統一した意匠で揃えられているものもある。唐銅などの金属製や陶磁器製がある。『南方録』に「台子にては、カネの物ならでは、水指、杓立、こぼし、蓋置ともに用いず候。」とあるように、唐銅の皆具は真の皆具と言われる。

懐紙(かいし)
畳んで懐に入れておく紙。茶席で、菓子を取ったり、器物をぬぐったりするのに用いる。また、平安貴族が、書状や詩歌の料紙に用いるために装束の懐中に入れたもの。懐中に入れたところから「ふところがみ」、畳んで懐に入れるところから「畳紙(たとうがみ)」等と称した。のちには詩歌などを正式に詠進する詠草料紙(和歌を書き記す料紙)を意味するようになり、順徳天皇(1197〜1242)の歌学書『八雲御抄』に「一首歌は三行三字墨黒に可書、但二三行も吉歟、五首已下は一枚及十首は可続、皆用高檀紙、・・・女歌薄様若檀紙一重」とあるように、男性が檀紙を女性が薄様を用いるのがならわしとなり、紙の大きさは『懐紙夜鶴抄』に「天子は大高檀紙を其まヽ遊ばさるヽ也、其故に高一尺五寸余也、摂関は一尺三寸余、大臣より参議まで一尺三寸、中少将殿上人は一尺二寸、其以下に至ては一尺一寸七八分たるべし」とされ、和歌懐紙の書式は『言塵集』に「書様は手うちおく程に袖をのこして詠字をかく也、上は一寸一二さげて書也、詠字と題とのあはひに姓名をば書なり」とあり、紙の右端を袖と称して掌の幅にあけて季題詠題を書く。これを端作という。次行に官位姓名を書く。歌は『作歌故実』に「今の世懐紙の書法に九十九三とて、初行九字、第二行十字、第三行九字、終りの行三字といふが通例なり」とある。一紙一首が正式であるが『兼載雑談』に「一首懐紙は三行三字なり、二首三首は二行七字なり、五首七首は一紙に二行づヽ也、十首より上は紙を続べし」、『懐紙夜鶴抄』に「十首は紙三枚二行七字也、若二行に書時は、跡殊外あまりて見ぐるし、二行七字能也、十種までをつぎ懐紙といふ」とあり、二枚以上になるのを続懐紙という。詩懐紙もこれに準じ、俳諧懐紙は杉原紙四枚を横二つ折りにし表と裏とし、水引で右端をとじ、一枚目を初折、二枚目を二の折、三枚目を三の折といい、最後の四枚目を名残ノ折という。初折表に「表八句」といって八句を書き、その第1句目を発句という。初折の裏、二の折の表裏、三の折の表裏と名残ノ折の表にそれぞれ十四句を書き、名残ノ折の裏に八句を書き、各句の下に作者の名を記す。

懐石(かいせき)
茶席で、茶をすすめる前に出す簡単な料理。「懐石」の語の初出は『南方録』とされ、江戸前期までは「会席」(山上宗二記)、「献立」(宗湛日記)、「仕立て」「振舞」(天王寺屋会記)などの文字が使用され、一般的に使われるようになるのは井伊直弼(1815〜1860)の『茶湯一会集』以降の茶書という。『南方録』に「懐石は禅林にて菜石と云に同じ、温石を懐にして懐中をあたたむるまでの事なり。」とあるように、禅院では本来「非時食戒」により、間食はもとより正午を過ぎたら翌朝まで一切食事をとってはいけないため、温石を布に包んで腹に入れ、腹中を温め空腹をしのいだことからの軽い料理の意で、谷川士清(1709〜1776)の『倭訓栞』に「くわいせき 茶人の客を請じて、茶より前に飲食を出すを恠石といふは、蘇東坡が佛印禅師に點心せんとて、恠石を供せられしによれり。」とある。『山上宗二記』に「紹鴎の時より十年前までは、金銀ちりばめ、二の膳、三の膳迄在り。」とあり、茶席の料理も本膳と異ならなかったが、『南方録』に「小座敷の料理は汁一つ、さい二か三つか、酒もかろくすべし。わび座敷の料理だて不相応なり。」とあるように、利休の頃より一汁三菜の簡素な侘びを主体とした料理を作りだしたとされる。ふつう汁一種、向付・煮物・焼物の三種の一汁三菜とともに、飯と香の物が添えられる。これに加え強肴、吸物・八寸による酒のもてなしを加えて、懐石を終わる。古くは汁、向、香の物、煮物が一汁三菜とされたが、それに加え強肴、進肴が持ち出され、その中の一種である焼物と香の物とを一緒の器に盛って出し、やがて焼物を品数に数えるようになり、香の物は最後に出すのが普通となったという。

懐石家具(かいせきかぐ)
懐石に用いられる膳や椀の類をいう。貞享3年(1686)刊『雍州府志』に「塗師之中造椀具折敷膳重箱等物是謂家具屋倭俗凡椀并膳専称家具」(塗師の中、椀具折敷の膳重箱等の物を造る、是を家具屋と謂う。倭の俗に凡そ椀并びに膳を専ら家具と称す)とある。
利休形としては、元禄4年(1691)刊『茶道要録』に「利休形諸道具之代付」として初代宗哲の頒布する利休形家具が掲載されており、そこには吉野椀上り子椀丸椀面桶椀精進椀の五種があり、それぞれ飯椀、汁椀、壷皿(椀)大小、平皿(椀)の揃いで、面桶椀以外は二ノ椀も付き、精進椀には楪子豆子が添う。皆朱折敷、鉋目折敷、曲折敷、隅不切折敷。食盛杓子共、湯盛、酒盛、通折敷。重盒二重、縁高、楪子ノ椀(菓子椀)、高杯盆となっている。庸軒の次子の正員の『茶道旧聞録』では、吉野椀上り子椀丸椀面桶椀精進椀の五種に加え、一文字椀菓子椀を加えた七種があげられている。また、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「食器 利休までは尽く朱椀也、利休より黒椀を用ゆ、朱椀も兼用。黒塗丸椀 坪平付大小とも利休。黒塗上り子椀 利休形、坪は外蓋又内蓋もあり、平内蓋。黒塗碁笥椀 利休形、汁飯椀とも碁笥底、坪平なし。黒塗一文字椀 坪平付、大小とも利休形。朱丸椀 坪平付、黒つばめ利休形。吉野椀坪付 利休形、芍薬椀と云は不可也、葛の花也、親椀ばかり碁笥底、坪は了々斎好、尤以前は上り子の坪平を用ゆ。面桶椀 利休形、何れもうるみ、外蓋菜盛りばかり、坪平は丸椀を仮用ゆ」「菓子椀 朱黒ツバメ利休形、烹物ワンにかりもちゆ」とあり、吉野椀上り子椀丸椀面桶椀精進椀碁笥椀一文字椀菓子椀利休形としている。

懐石道具(かいせきどうぐ)
茶事にだされる食事(懐石)に用いる道具。懐石道具は、家具と器物と酒器がある。今日一般的に用いられる道具として、懐石家具には、折敷両椀、煮物椀、吸物椀(箸洗)、八寸、飯器、杓子、湯次、湯の子掬い、通盆、脇引があり、懐石器物には、向付、焼物鉢、漬物鉢、預鉢などがある。酒器には、引盃、盃台、燗鍋、銚子、預徳利、石盃などがある。

花押(かおう)
文書の末尾などに書く署名である書判(かきはん)の一種。元々は、文書へ自らの名を自署していたものが、次第に草書体にくずした草名(そうな)、押字(おうじ)となり、特殊な形状を持つ花押が生まれ、花押が一般的になってからは花押が書判の別称とされるようにもなる。『貞丈雑記』に「草名と云は、名乗の字を甚だ略して草に書きたるなり。我はよめども人はよめぬ程にやつして書けるなり。押字・花押とは又別なり。」「押字と云は、名乗の字を草に略して自分々々のしるしに用いて書く事なり。右の押字に二合・二別の品あり。二合と云は、名乗の二字を一ツに合せて作りたるを云なり。(中略)二別と云は、名乗の上の字をば常の字体に書きて下の字ばかりを草にやつして作るなり。」「花押と云は、名字の字を用いずして、別に人々の好みによりて草木の花葉・鳥獣・器物その外何なりともその形を押字の如く作りて用ゆるを云。花と云ははなやかという儀にて、俗にいわばだてなる心なり。たとえば〓(水鳥なり)、〓(桃なり)、この類、人々の巧に寄せて品々の形あるべし。当世地下人の書判、名乗の字を用いずして色々の形を書くも、花押の類なり」とある。伊勢貞丈は『押字考』で、自署の草名から起こった「草名体」、諱(いみな)(実名)の偏・旁・冠などを組み合わせて作る「二合(にごう)体」、諱の一字または他の特定の文字を形様化した「一字体」、動物・天象等を図形化した「別用体」、上下に並行した横線を二本書き中間に図案を入れた「明朝体」に五分類しており、後世の研究家も概ねこの5分類を踏襲している。平安時代には草名体、二合体が多く一字体も間々用いられたが、鎌倉時代以降はほとんど二合体と一字体が用いられ、別用体はごく一部にとどまる。江戸時代には、明の太祖が用いたことに由来するといわれる明朝体を徳川家康が採用したことから徳川将軍に代々継承され、江戸時代の花押の基本形となり徳川判とも呼ばれた。新井白石の『同文通考』に「異朝にて押字花押などいふもの、吾朝にしては判とぞいひける。我国にてこれを用ひられし始、未だ詳ならず。異朝の押字は、天子の詔の画諾といふ事よりはじまれりといふ也。此説通雅に見ゆ、およそ諸侯より奉る所の議奏に、天子みづから諾の字を草字にてしるし賜るを、画諾とはいふことなり。吾朝にも、いにしへより天子の詔勅に、御画といふことありしなれば、其由来ることは久しき事にや。天子の御押、今はたヾ後深草帝このかたの物のみ世には伝はれり。人臣の押字の今の世にのこれる中に、参議藤原左理卿の押字を以て其首となすべし。此人村上、冷泉、円融、花山、一條、五代の朝廷に歴仕せし人なれば、其比ほひより、此事既にありしなるべし。」とあり、発生は中国の画諾とし、日本も中国にならって用い始め10世紀頃より始ると考えている。『古今要覧稿』には「すゑ判は本名草名と云、漢名を花押とも押字ともいへり、西土にての始未た詳ならすといへとも晋の代の押字あるよしは程史に見え、又戯鴻堂法帖に顧ト之の押字あるときは晋の代には慥かに行はれたることしられたり、池北偶談に見えし諸葛武候の押字といへるは正しく花押の形状ならんともおもはれす、さりなから三国の比に権興せしものにやとは思はるヽなり、我朝にては奈良の朝小野篁等始て作出給ふ也と消息耳底抄に見えたり、奈良の朝とは平城天皇の御宇なるへし、されとも東大寺の文書に良弁僧正の花押あるときははやく其前よりもありしなるへし、又高野山什物承和二年の弘法大師の遺告に押字あり、其尾に国判といふもの見ゆ、五人連署の中二人は正しく草名なり、これ古文書中において草名の所見最古きものなり、新井筑後守曰異朝の押字は天子の画諾と云事より始れりと云なり、此説通雅に見ゆ、凡諸侯より奉る所の議奏に天子自ら諾の字を草書にてしるし賜るを画諾とは云なり」とあり、承和二年(835)を初見とする。

梅花皮(かいらぎ)
梅華皮とも書く。茶碗の高台付近を箆削りした部分の上に掛かった釉薬が、釉を厚く掛け過ぎたり、火の回りが不十分で、焼成不足のために釉が十分熔け切らず、粒状に縮れて固まったものをいう。本来は焼き損ない出来損ないであるが、茶人が見所の一つとして取り上げたもの。井戸茶碗では、腰部や高台脇の梅花皮は約束ごととされる。梅花皮の名は、もとは刀の柄や鞘に用いた鮫皮の文様をいい、硬い粒状凸起のあるエイの一種の梅花皮鮫の皮に漆を塗って研ぎ出したもので梅の花が咲いたように見えることからこの名が付いている。

替茶碗(かえちゃわん)
薄茶の場合、客が茶を飲んでいる間に、次の客に出す茶を点てるための別の茶碗薄茶点前では、何服も重ねてお茶を点てるところから、二個以上の茶碗を使う事が多い。このときは、正客が一服目を頂いている間に、亭主は次の茶碗で茶を点てて出す。これを替茶碗といい、それに対し始めに点てた茶碗を主茶碗(おもちゃわん)という。次客は正客が飲み終わり、拝見し終わった茶碗をあずかっておき、これを替茶碗と引き換えに亭主に返す。三客以下も同様。

掻合塗(かきあわせぬり)
漆塗の一種。素地に柿渋を下地として塗り、その上に黒・紅殻などの色をつけて半透明や黒の透漆による上塗りを一回だけしたもの。漆下地の代わりに柿渋を下地とするので柿合塗(かきあわせぬり)、渋下地(しぶしたじ)ともいう。欅、栓、栗などのように目(導管の凹んだ部分)のはっきりした材に砥粉等で処理せず目を潰さずに漆を塗ると、目が漆を弾き細かい穴が空いて、木地の杢目がはっきり残るため「目ハジキ塗」ともいう。木地の木目がはっきり残るため素雅な趣があり、傷が目立ちにくいなどの利点もある。

書付(かきつけ)
茶の湯の道具の、品名、作者、銘、伝来、由緒などを紙に書いて添えたり、道具をおさめるなどに書いたもの。道具を入れるの甲や蓋裏などに書かれたものを「箱書付」「箱書(はこがき)」、茶杓を入れる詰筒に書かれたものを「筒書付」「筒書(つつがき)」という。墨書が一般的だが、漆書や、蒔絵もある。書き手は、作者、道具を作らせた人、道具として取り上げた人、所持した人、また所持者の依頼により、著名な茶人や家元宗匠が行う場合も多い。また、紙に書いて貼り付けたものを「貼紙(はりがき)」、作者や伝来などの鑑定、保証の目的によるものを「極書(きわめがき)」、道具の伝来を記したものを「伝来書」、伝来や極めを別に記した書状を「添状(そえじょう)」、作品に関連した手紙を「添文(そえぶみ)」という。茶道具は、その時代と伝来が尊重されるため、書付により道具の評価が決まる事が多い。

柿の蔕(かきのへた)
高麗茶碗の一種。斗々屋の一種といわれる。柿の蔕の名は、茶碗を伏せた形と色あいが柿の蔕のように見えるところからという。腰に段があり、懐は広い、やや厚手で、土味はザングリして手取は軽く、口縁は箆で切り廻しがあり樋口(といくち)になっている。鉄分の多い砂混じりの素地に、薄く釉薬をかけ、釉肌は暗褐色で、高麗茶碗のなかで最も渋く侘びた作ぶりである。

角谷一圭(かくたに いっけい)
釜師。茶湯釜の人間国宝。本名 角谷辰治郎(1904〜1999)。明治37年(1904)10月12日釜師角谷巳之助(1869〜1945)の三男として大阪市に生れる。父 角谷巳之助に師事。のち鋳金工芸作家 香取秀真(1874〜1954)に茶釜制作、鋳金全般を学ぶ。茶釜研究者の細見古香庵(1901〜1979)から影響を受ける。香取秀真の勧めで芦屋釜を復元させ、篦押で鮮明な地文を鋳出し、重量感のある堂々たる風格の現代茶釜を制作した。昭和17年(1942)商工省技術保存資格認定。昭和33年(1958)第5回日本伝統工芸展高松宮総裁賞。昭和53年(1978)勲四等瑞宝章。昭和59年(1984)重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。平成11年(1999)没。

覚入(かくにゅう)
楽家14代。大正7年(1918)〜昭和55年(1980)62歳。13代惺入の長男。昭和15年(1940)東京美術学校彫刻科卒業。昭和20年(1945)14代吉左衛門を襲名。造形的な力強さをもった作品が多い。昭和53年に樂美術館を設立。印は、自筆の草書の楽字印。昭和29年より高松宮妃殿下の書かれた大小二つの樂字印を使う。「十四代喜慶」の角印。

掛物 (かけもの)
に掛けられる書や画。裂や紙で表装され「軸」「幅」ともいう。『南方録』に「掛物ほど第一の道具ハなし」とあるように、茶席で最も重要とされ茶事茶会の主題というべきもので、道具の取り合せの中心をなす。掛物には墨跡経切古筆懐紙消息色紙詠草短冊唐絵、古画、家元の字句、画賛などがある。室町時代の茶の湯では唐絵が多く掛けられたが、珠光一休禅師から墨跡を印可の証として授かって以来、掛物を仏画や唐絵に代わって墨跡を掛けるようになり、武野紹鴎は藤原定家の「小倉草子」を茶席に掛け、これが茶席に古筆を掛ける嚆矢となった。江戸時代に入ると、古筆切や色紙懐紙宗旦時代から茶人の画賛も作られるようになった。

籠花入(かごはないれ)
霊昭女
竹、藤、藤蔓、通草蔓、木の皮などを編んだ花入の総称。唐物、和物に分類され、置花入、掛花入、釣花入がある。唐物は、室町時代から江戸時代初頭にかけて招来された明代の籠を唐物籠と呼びならわし、「霊昭女」(れいしょうにょ)、「牡丹籠」、織部伝来「手付籠」のほか、「南京玉入籠」、「臑当籠」、「芭蕉籠」、「舟形藤釣」、津田宗達所持「藤組四方耳付籠」、西本願寺伝来「木耳付籠」、紹鴎所持「瓢籠」「大黒袋籠」など、本来の花器のほか雑器の見立物もある。和物は、利休時代以降多く用いられるようになり、利休好「鉈鞘籠」「桂川籠」、宗旦好「虫籠」「栗籠」、宗徧好「梅津川籠」、宗全好「宗全籠」「蝉籠」「振々籠」「掛置籠」などがある。江戸時代の中期以降好みの籠が数多くなり、表千家の碌々斎好「宮島籠」「大津籠」「飛騨籠」、惺斎好「千鳥籠」「江ノ島サザエ籠」「南紀檜手付籠」、裏千家の竺叟好「唐人笠籠」、又玄斎好「立鼓籠」、不見斎好「若狭籠」、認得斎好「蛇の目筒籠」、不昧好「竹の節籠」、玄々斎好「鶴首籠」「末広籠」、圓能斎好「藤組芋頭」「時雨籠」「花摘籠」、淡々斎好「泉声籠」「宝珠籠」「繭籠」、鵬雲斎好「烏帽子籠」「寿籠」などがある。
初め、籠花入は風炉の別なく使われおり、籠花入が風炉の季節に限っていられるようになったのは明治時代初頭前後ではないかと云う。ただ、唐物籠に限っては炉の時季にも用いられる。籠を花入に用いることについては、遠藤元閑の元禄7年(1694)刊『当流茶之湯流伝集』に「義政公、唐絵の花籠を見て始めて籠花入を用いるとや」とあり、茶席で籠花入が用いられたのは『天王寺屋会記』天文18年(1549)正月9日の徳安の茶会に「なたのさや」とあるのが初出と云う。また、『茶話指月集』に「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」とあるように、籠の花入には薄板は用いない。

画賛(がさん)
絵の余白に書き添えた文章または詩歌。賛。賛は、本来人物の事跡を述べ賞揚する中国文学の一形式であったが、禅宗で「真賛」と称して師が弟子に対して自賛の肖像画(頂相)を与えることで相伝の証とする習慣が宋代に生まれ、鎌倉時代以降、禅宗とともに導入され、賛を絵画にいれる習慣が一般化した。普通は、絵の筆者以外の人物が賛を付けるが、画も賛も同一人物が記した物は「自画賛」という。

菓子(かし)
漢語で「果物」の意。日本でも近世頃までは菓子を果物の意味として使っていたが、江戸時代には果物を「水菓子」と呼ぶようになる。『延喜式』の諸国貢進菓子には、楊梅子(やまもも)・平栗子・甘栗・椎子(しいの実)・梨子・覆盆子(いちご)などと甘葛煎(あまずらせん)が挙げられている。また中国よりもち米、うるち米、麦、大豆、小豆などの粉に甘味料のあまかずら煎や塩を加えて練り、丁子(ちょうじ)末や肉桂(にっけい)末などを入れ、餅とし、あるい餅を胡麻油で揚げた菓子が伝来し「唐菓子(からくだもの)」と呼ばれた。茶会の菓子としては、『天王寺屋会記』の天正元年(1573)11月22日織田信長の茶会では「御菓子九種 美濃柿、こくししいたけ、花すり、むき栗、キンカン、ざくろ、きんとん、むすびこぶ、いりかや」。『利休百会記』では、菓子の記述のある88会中、「ふ」72(ふの焼68、ふ3、ふのけしあえ1)、「栗」55(焼栗29、栗25、打栗1)、「椎葺」15、「いりかや」15、「こふ」7、「やき餅」「とうふ湯波」各5などが見え、一種の場合はほとんどなく、三・四種類が出されている。「ふの焼」は小麦粉を水でねり焼鍋にのばし、焼けた片面に味噌をぬって巻いたものといわれる。寛永期の茶会記には「ヨモギ餅、アン入テ」「栗粉餅、砂糖カカラズ」などと見え,アンコ餅・キナコ餅・ウズラヤキ・サトウチマキなど菓子として出てくる。現在、菓子は大別して、主菓子(おもがし)と干菓子(ひがし)に分かれ、濃茶には主菓子、薄茶には干菓子が用いられるが、近年薄茶のみの場合に主菓子・干菓子の両方を出す事も多い。主菓子と干菓子の区別がされるようになるのは元禄頃とされる。

菓子器(かしき)

菓子を盛りつける器の総称。菓子器は、主菓子用と干菓子用に大別される。主菓子は、懐石の一部として、懐石同様一人一器を原則とし、最も正式な主菓子器としては、菓子椀を用い、一椀ごとに杉楊枝と黒文字を箸一膳として添える。しかし現在ではあまり用いられず、一般的には縁高を用いる。この菓子椀と縁高の扱いを簡略したものに銘々盆と皿があり、一客一器に菓子を盛り、楊枝か黒文字を一本ずつ添える。また、食籠は客数の菓子を盛り入れて、菓子箸または黒文字箸を蓋上に一膳置いて取り回す。更に略して、盛込鉢や盛皿があり、菓子と箸は食籠同様に扱う。干菓子用には塗物や木地物が多く使われる。『松屋会記』に見ると、弘治2年(1556)「食籠饅頭」、永禄2年(1559)「盆ニ菓子 キンナン・アマノリ・クモタコ」、永禄11年(1568)「かごにアマノリ一種」、天正11年(1583)「高坏盆ニヤウヒ三、イリカヤ」、天正14年(1586)「吉野大鉢ニ牛房一種」「八寸カンナカケ、大カマホコ、カヽセンヘン、ツリ」と、食籠、盆、籠、高坏盆、八寸などが使われるようになっている。会記では「器」とし、料理の献立の一部として一段下げて記される。


菓子椀(かしわん)
朱塗縁金のやや低目の蓋付椀。最も正式な菓子器とされる。一椀ごとに杉楊枝と黒文字を箸一膳として添える。『正法眼藏』の「看經」に「堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。」と菓子を椀に盛ることが見える。元禄4年(1691)刊『茶道要録』の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「菓子椀 朱黒ツバメ利休形、烹物ワンにかりもちゆ」、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』にも載らない。畑 銀鶏(1790〜1870)撰『浪花襍誌 街迺噂』に「江戸通用の吸物椀に同く、大ぶりにて深みあり、色は内外あらひ朱にてぬる、料理種はくさぐさなれども、先は切身、かまぼこ、ゑび、椎茸、松茸、麩、ゆば、菜、せりの類也、江戸の種と同じ」とあり、料理椀としても用いられた。

数茶碗(かずちゃわん)
大寄せ茶会などで客が多人数のとき、手前でつかう主茶碗と替茶碗だけでは手間をとるため、水屋で点て出しをすることがあるが、このとき茶を点て出しする際に使う数多くの茶碗。揃いの茶碗を使う事が多い。また茶人の好みで数を限定して焼かせた茶碗を数の内茶碗、数茶碗ともいう。

片桐石州(かたぎり せきしゅう)
江戸時代の大名茶人。石州流の祖。慶長10年(1605)〜延宝元年(1673)。初名は長三郎、のち貞俊、更に貞昌(さだまさ)と改める。号は宗関・能改庵・浮瓢軒等。大和小泉藩 初代藩主 片桐貞隆と今井宗薫の娘との子として摂津茨木で生まれる。賤ヶ岳七本槍の一人として有名な片桐且元の甥に当たる。寛永元年(1624) 従五位下石見守に叙任。寛永4年(1627)父の死去により家督を継いで藩主となる。茶は、道安の流れを汲む桑山宗仙に学んだといわれている。千宗旦小堀遠州・松花堂昭乗とも交わり、茶の宗匠としてしだいにその名が広がっていった。四代将軍 徳川家綱のために『茶道軌範』を作り、寛文5年(1665)家綱の茶湯指南となる。

片口(かたくち)
器物の形状の一。液体を注ぐために口縁部の一方に注ぎ口がついている容器。椀・杯・鉢形の片口は、本来は酒・醤油・油などの液体を、口の小さい容器に移すさいに使う台所道具。見立てで、懐石で香物鉢などに用いたり、小振りのものは茶碗にも用いる。一般に瀬戸系のものは注口の上に縁がなく、唐津系のものには縁がある。注口を欠いたものを「放れ駒」、注口を欠きその破片で共繕いしたものを「繋ぎ駒」ということがある。『南方録』に「鳶口の茶碗に、珠光茶碗のごとく見事なるものあり。片口とも、鳶口とも云なり。休公の所持は、近衛殿、筧と名づけ玉ふ秘蔵なり。台子にも休台にも出されし無疵物なり。何時も口を上座になすべし。手前の時、口を我右の方にしてさばく。こぼしに水をうつす時も、口よりこぼすべし。茶巾にてふくには、先口を下よりあしらい、さて口の右のきはに茶巾を打かけてまはし、口の左の方にてふきをさめ、この時、口を我左にして前にをき、茶入てさて立るとき、口の下に左の手をそへ、右の方へ少傾けてふり立べし。左なければ、口より茶あまりて、あやまちすることあり。客前へ出すに、口は客の右にして出す。客は左手にのせ、右手を口の下にそとそへてのむなり。」とある。また、片口壺を水指に用いたものもあり、『源流茶話』に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光 備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」 とある。

肩衝(かたつき)
器物の形状の一。主に茶入の形態の一種。肩の部分が角ばっている、すなわち肩が衝(つ)いているからの称で、その形態には「一文字」「怒り肩」「撫肩」などがあり、大きいものを「大肩衝」、小さいものを「小肩衝」という。茶入のほかにに「肩衝釜」と称されるものがあり、肩の上部が平らになり、角が衝き出て、すぐ下にさがる形になっている。

堅手(かたで)
高麗茶碗の一種。堅手の名は、素地や釉が堅いところからという。李朝初期から中期にかけて焼かれた。殆どが灰白色の半磁器質の素地に、釉は白がかった淡青色を総掛けしてある。「古堅手(こかたで)」「雨漏(あまもり)堅手」「鉢の子」「金海(きんかい)堅手」などがある。「古堅手」古渡りの堅手で、素地はざんぐりとして手取りは軽く陶質の感じ、釉調はうるおいがあり荒い貫入があり、失透ぎみで粉白に見え、釉はたいてい高台裏までかかり、作風は軽快で、轆轤目が立ち、高台は竹節。「雨漏堅手」は、やや焼上りが柔らかいためか、白い釉膚に雨漏りのしみのような景が生じた茶碗。「鉢の子」は、袖の子ともいい禅宗僧が托鉢に用いる鉄鉢に似た形から来ていて、碗形で、口はやや抱え、高台際は切り回しで竹節が多く、白地に赤みの窯変を呈したものが多い。「金海堅手」は、釉肌に針穴くらいの小さな穴が点々とあり、その周りが薄桃色に赤みざしたもの。

加藤 光右衛門(かとう こううえもん)
美濃の陶芸家。昭和12年6月12日加藤十右衛門の次男として生まれる。高校卒ののち、美濃大萱に八坂窯を築き岐阜県無形文化財保持者であった父 十右衛門に師事し作陶を学ぶ。笠原の地に山十窯を開き、父親譲りの作風で黄瀬戸美濃伊賀花入水指、引出し黒の茶碗など茶陶中心に活動。芳右衛門、弥右衛門との三兄弟としても知られる。

鉄盥(かなだらい)
建水の一。口が広く浅くて背の低い盥状の建水。平建水ともいう。七種建水の一。

金森宗和(かなもり そうわ)
江戸初期の茶人。金森重近。天正12年(1584)〜明歴2年(1656)。飛騨高山城主 金森可重の長男として生れる。宗和流の祖。祖父の長近は千利休門下の茶人、父の可重は道安の弟子で、飛騨に居る時に父可重に茶を学ぶ。慶長19年(1614)父から勘当され、母とともに京都に移り住み、大徳寺の紹印伝双に参禅して剃髪、宗和と号した。勘当の理由は諸説あり、父の意に反して豊臣方に加担し大阪冬の陣への従軍を拒んだからとも、何らかの政治的配慮があったからともいわれる。近衛信尋(応山)、一条昭良(恵観)、鳳林承章、小堀遠州、片桐石州等と交友を深め、やがて茶人として名を成す。古田織部小堀遠州の作風を取り入れながらも、その茶風は上品・繊細で、公家社会を中心に広く受け入れられ、千宗旦の「乞食宗旦」に対し「姫宗和」と呼ばれた。その系譜は宗和流として今日まで続いている。また、京焼の祖といわれる野々村仁清を指導したことでも知られる。また、大工・高橋喜左衛門と塗師・成田三右衛門らに命じて、飛騨春慶塗を生み出したともされている。

金谷五良三郎(かなやごろうさぶろう)
江戸初期よりの京都の金工師。「金屋」を称していたが、明治になり9代目から「金谷」と改める。当代は14代。昭和7年(1932)13代金谷五良三郎の長男として誕生。13代に師事。昭和48年(1973)第60回神宮遷宮記念須賀利御太刀謹作。昭和64年(1989)14代を襲名。横井時冬(1859〜1906)の明治27年(1894)刊『工藝鏡』に「金谷家の祖先は豊臣氏の遺臣安藤某の子にして通称を五郎三郎といひ法号を道円といふ。寛永中京師に来りて銅器鋳造に従事せしとぞ。銅器に色付を工夫せし人にて世人これを五郎三色といふ。これより代々五郎三郎の通称を以て其業を世襲せしといふ。九代五郎三郎は金谷家中の名匠にして専ら意を鋳型彫鏤銅色の三事に用ひ頗る精巧を極めけりとなん。内外博覧会へ出品して賞牌を受けしもの数十個の多きにいたれり。明治廿二年九月二日没す。年五十四。本国寺塔頭多聞院に葬る。」とある。

蟹蓋置(かに ふたおき)
七種蓋置の一。蟹の形をかたどった蓋置。『茶道筌蹄』に「筆架をかり用ゆ」とあり、文鎮や筆架などの文房具を見立てたものという。蟹の頭のほうが正面になり、これを杓筋にして用いる。名水点の初飾で、この蓋置水指の蓋上に飾り、水指の水が名水であることを客に知らせることもある。の場合はそのまま、風炉の場合は裏返して用いる。足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐金の蟹を景として配し、その一つを紹鴎蓋置に用いたのがその始まりと伝えられ、『雲集蔵帳』に「大名物 蟹蓋置 東山御物 紹鴎 利休 小堀 土屋 酒井雅楽頭」とある。

狩野永真(かのう えいしん)
江戸前期の狩野総本家八代目の絵師。狩野永真安信。慶長18年(1613)〜貞享2年(1685)。狩野永徳の孫。狩野孝信の第三子。長兄に探幽、次兄に尚信がいる。幼名を雄丸、通称を源四郎・右京進・永眞(法眼永真)。・牧心斎、「牧心斎永真」(扶桑名公画譜)などと号した。兄の探幽と尚信とが江戸に移り京都の狩野本家の跡がなかったので宗家をついだが、自らもやがて江戸に移って幕府の奥絵師となり、中橋に居を構えて中橋狩野の祖となる。作品に「百人一首歌仙絵」などがある。安信の門人には英一蝶などがいる。

蕪無(かぶらなし)
花入の形状の一。青磁または古銅 花入の形をいう。尊形の胴の張った部分を蕪というが、これのない形のものを指す。『山上宗二記』に「一 蕪無 青磁茶碗の手、本は引拙、其の次、紹鴎、名人へ代々渡り、天下一の花入也。関白様 一 蕪無 本は京の新在家池上如慶所持。花桐の卓に居わる。惣見院殿御代にて滅す。 一 蕪無 本は大内殿内相良遠州所持。其の次、薩摩屋宗忻所持。薄板に居わる。右三つ花入名物也。此の外、蕪無の花入十計在り。少々ぬるきものにて、数寄に入らざる物也。」、『分類草人木』に「青磁の筒、蕪なしの様なる結構なる花瓶には、さびたる花を入るるべし。」とある。

釜(かま)
湯を沸かす鋳鉄製の道具。茶事・茶会を催すことを「釜を懸ける」「懸釜」と言い習わす。茶湯釜は大別して「芦屋」「天命」「京作」の3種に分類される。茶湯釜の歴史は鎌倉時代にさかのぼるともいわれ、室町時代には、筑前(福岡県)の「芦屋釜」と佐野(栃木県)の「天命釜」が茶湯釜の名品を作り出し、その後利休の時代に京都で盛んに茶湯釜が制作され、西村道仁、辻与次郎などの釜師が現れ天下一の称号を受けた。用、風炉用に分かれ、ともに形や地紋は種類が多い。「蓋」には、掬蓋・一文字蓋・盛蓋・恵明蓋・掛子蓋・茫蓋など、 「口」には、甑口・姥口・矢筈口・鮟鱇口・姥口・繰口・十王口・立口などがある。釜を持つ際に環を通す部分を「鐶付(かんつき)」、口造りから環付に至るまでを「肩」、釜の底と胴の継ぎ目にあたる部分を「羽」、肩から羽までを「胴」、羽より下を「底」と呼ぶ。などの形状によりさまざまの形がある。肌には、荒肌、砂肌、絹肌、鯰肌(なまずはだ)、霙膚(みぞれはだ)、霰肌(あられはだ)、糸目肌、柚肌、刷毛目などがあり、また地紋には型押しと箆の二手があり、文様、絵画、文字などがある。

釜敷(かましき)
火からを下ろしたときに、の下に敷くもの。釜置(かまおき)。紙、藤、籐、竹、糸組、蒲、竹皮を編んだもの、竹の節、木のものなどがある。白の美濃紙一帖(48枚)を四つ折りにして用いる紙釜敷は、利休が懐紙を用いたのが始まりで、真の位の釜敷とされ、席中には炭斗に入れず懷中して出る。のちに奉書・檀紙などや箔押など好まれるようになる。『千家茶事不白斎聞書』に「一釜置紙、柳川と小菊を用。竹の節釜置は宗旦好也、是は琉球王より宗旦花入を頼越候時、右花入を切て被遣、残りの竹に而釜置に成、是より釜置初る。此釜置宗守へ遣し候由也。右花入の礼として、琉球より青貝の香合へ伽羅を入来る。此香合今に有。桐板の釜置、利休好勝手物也、木にて四角に指候釜居、利休形水遣道具なり。ふし組物釜置、穴大なるは利休、同釜置、穴小サキは紹鴎形也。」とある。

神谷宗湛(かみや そうたん)
天文20年(1551)〜寛永12年(1635)。博多の豪商神屋家の6代目。通称を善四郎・字は貞清・法名は惟清宗湛居士・宗旦・宗丹。茶人。5代目紹策の子。神屋家は対明勘合貿易や曾祖父寿貞の発見した石見銀山などにより富を積む。永禄12年(1569)大友勢と毛利勢の戦火を避け博多津から肥前唐津に移る。天正10年(1582)島井宗叱と共に上洛、織田信長に謁見し、本能寺の変にも遭遇し、書院の床に掛けてあった玉澗(ぎょくかん)の遠浦帰帆(えんぽきはん)図を引き外して逃れたと伝えられる。天正14年(1586)年秀吉の招きで上洛し大徳寺で得度し宗湛と号す。翌15年正月、大坂城で開かれた大茶会で、今井宗及の紹介で利休に会い、秀吉からは「筑紫ノ坊主」と呼ばれ大歓待をうけ、同年の九州征伐に際しては秀吉に随い島井宗室らとともに博多復興を命ぜられる。文禄元年(1592)からの朝鮮出兵のときは兵糧米調達を命ぜられ秀吉に協力した。秀吉が死に、天下の商人としての時代は終わり、慶長8年(1603)徳川家康の将軍宣下に際しては黒田如水を介して貢物を贈っている。黒田長政の入封に伴い福岡藩の御用商人となる。寛永元年(1624)二代福岡藩主黒田忠之に、かつて秀吉に所望され「日本の半分とならば」と断った秘蔵の茶入「博多文琳」を黄金千両、知行五百石と引き替えに召し上げられる。宗湛は黄金と知行を固辞したという。『宗湛日記』3巻がある。

亀井味樂(かめい みらく)
高取焼の窯元。福岡市西新皿山。享保3年(1718)5代藩主黒田宣政の命に依り小石原村より招かれて麁原村に窯を開いた西皿山の陶工の一。13代窯元、亀井弥太郎(1883〜1956)が、味楽と号し、昭和19年(1944)農商務省指定陶芸技術保存作家に指定された。14代味楽(1931〜)源八郎。13代の孫。日本工芸会正会員。文化連盟理事。福岡市無形文化財保持者。15代味楽(1960〜)正久。14代味楽の長男。平成13年15代亀井味楽を襲名。亀井楽山(かめい らくざん)は、14代味楽の弟。

甕蓋(かめのふた)
南蛮物の一。平たい形で、口が広く浅く、東南アジアで甕の蓋として用いられたものを、建水灰器水指の蓋などに見立てたもの。『茶道筌蹄』に「甕蓋 南蛮のツボの蓋なり」とある。瓶蓋。

唐絵(からえ)
中国から伝来した絵画、あるいは日本人の手になる中国風の絵画。元来は舶載された中国絵画の呼称だったが、平安時代中期に日本の風物を描く「大和絵(倭絵)」が現れ、旧来の仏画を含む中国風の風物などを中国風の画法で描いたものを「唐絵」と呼ぶようになり、室町時代には主として中国伝来の水墨画を中心とする宋元画が「唐絵」と呼ばれた。狩野永納の元禄6年(1693)刊『本朝画史』に「狩野土佐氏是倭画之専門也、雪舟子是漢画之祖筆、狩野家是漢而兼倭者也」とあり、江戸時代では日本人の手になる中国風の絵画に対し「漢画」の呼称が一般的になる。谷文晁の文化8年(1811)『写山楼無声詩話』に「唐画和画といふこと、今人誤て土佐狩野二派を以て和画と称し、其他を唐画浮世絵なんといふものあり、是不然なり、和画の称すてに久し、弘仁姓氏録云、雄略天皇御時、卒四部集帰化、男龍一名辰貴、善画工、五世孫勤大壹恵尊亦工絵、天智天皇御世、賜姓倭画師」「また唐絵といふは異邦のこと絵たるをいふなるへし、本邦のこと絵たるをは大和絵といふなるへし」とある。

唐銅(からかね)
青銅の古称。材料は銅と錫の合金が大半であり、それ以外に鉛、ニッケル、亜鉛など使用されている。現在の青銅といっているものは錫、銅、鉛の合金で、一般的な配合は、銅に錫を5〜10%、亜鉛を0〜4%配合。その配合割合により唐銅(銅・錫・鉛・亜鉛で赤銅色)、朧銀(銅・鉛・亜鉛・銀で青白い黒色)、黄銅(銅・亜鉛・鉛で黄色)、赤銅(銅・鉛・亜鉛・銀・金・砒素で黒色)などがある。『和漢三才圖曾』には「唐金 加良加禰 按唐金初自中華來、其器色似鐡而比鐡甚濃、此銅色稍黒、未知其名、俗呼爲唐金乎、今本邦專制之、造法銅一斤鉛五分之一、共鍛練之。」とある。

唐津焼(からつやき)
佐賀県西部から長崎県一帯にかけて焼かれた陶器。起源については一般的に室町時代末から桃山時代にかけて岸岳(きしだけ)城を居城とした松浦党首の波多氏のもと雑陶を中心に焼かれたのに始まり文禄3年(1594)波多氏の改易にともなって廃絶したといわれる。現在の唐津焼は、文禄・慶長の役(1592〜93、1597〜98)以降、豊臣秀吉が朝鮮出兵のおり連れ帰った陶工たちによるものといわれ、蹴轆轤(けろくろ)や割竹窯とも言われる唐津独特の連房式登り窯という新しい技術により、岸岳陶工や新たに渡来した朝鮮陶工たちによって操業されたと考えられている。初期の唐津焼は李朝の雑器と全く同一とみられるものが多い。土味と素朴な絵、簡素な形、渋い色調から「一井戸、二楽、三唐津」と呼ばれ侘茶碗とし愛好された。
釉薬(ゆうやく)は、木灰が基礎となる「土灰釉(どばいゆう)」が主で、絵唐津などに使われている。また、斑唐津朝鮮唐津には「藁灰釉(わらばいゆう)」が使われ、藁灰の特性である白濁作用で白く濁った焼きものになる。その他「鉄釉」や「灰釉」などが使われる。胎土(たいど)は、山から採った土をほとんどそのままの状態で使い生地が荒いところから「砂目」といわれるものが主で「土見せ」と呼ばれ、高台周辺に釉薬をかけず生地の土を見せたものが多い。
唐津焼は、主として釉薬や装飾技法の違いから次のように分類してきた。「絵唐津」、「朝鮮唐津」、「斑唐津」、「粉引唐津」、「三島唐津」、「刷毛目唐津」、「奥高麗」、「瀬戸唐津」、「献上唐津」、木灰釉で酸化焼成により淡黄渇色に発色した「黄唐津(きからつ)」、木灰釉で還元で焼かれた為に青く発色した「青唐津(あおからつ)」、鉄分を多く含んだ木灰釉で、原料の成分により黒、飴、柿色など様々な発色をした「黒唐津(くろからつ)」、褐色の陶土に化粧土を刷毛で塗り、櫛目を使って文様を表した後に、長石釉や木灰釉を掛け焼成した「櫛目唐津(くしめからつ)」、器面にへら等で文様を彫り付け釉薬をかけた「彫唐津(ほりからつ)」、黒釉の上に長石釉を二重掛けし焼成し、鉄釉と長石釉が溶け合い、蛇肌になる「蛇蝎唐津(じゃかつからつ)」などがある。

唐物(からもの)
中国およびその他の外国から輸入された品物の総称。舶来品。とうぶつ。とうもつ。 「唐物」の語は、延喜3年(903)8月1日の太政官符に「應禁遏諸使越關私買唐物」とみえ、また朝廷から大宰府に派遣され唐物を検査する役を唐物使(からものつかい)と称した。唐朝(618〜907)が滅び宋朝(960〜1279)になってからも「唐物」と呼び、下って江戸から明治に至るまで中国渡りの品物を「唐物」と総称し、やがて中国以外の海外のものを含む語意が加えられていった。茶入においては、『古今名物類聚』に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。」とあり、加藤四郎左衛門が唐から持ち帰った土と薬で焼いたものを唐物という。

唐物点(からものだて)
茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。唐物茶入を使用する時の点前。象牙茶杓または真の茶杓を用いる。『槐記』に「唐物にて盆點にする物は、文琳、丸壷、肩衝、小壷、此四ッのみ也。其外の唐物は、盆に不載、唐物點にする也。」、『茶道筌蹄』に「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、『茶式花月集』に「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」とある。

訶梨勒(かりろく)
インド原産のシクンシ科・ミロバランという植物。梵語で「Haritaki」。成熟果実を乾燥したものを訶子、核を取り除いたものを訶子肉という。訶子はタンニンやケブリン酸を含み、収斂・駆風・咳止め・声がれ・眼病・止潟薬として古くから知られ、仏教の原始経典である『撓繹「含經』に「世尊問曰。由何命終。梵志復手捉撃之、白世尊言。此衆病集湊、百節酸疼故致命終。世尊告曰。當以何方治之。鹿頭梵志白佛言。當取呵梨勒果、并取蜜和之、然後服之、此病得愈。」とある。日本には鑑真和尚(687〜763)が招来したとされ、天平勝宝8年(756)聖武天皇崩御の77忌に孝謙天皇・光明皇后が東大寺盧舎那仏(いわゆる奈良の大仏)に献じた薬物を記した献物帳『種々薬帳』に「呵梨勒一千枚」とある。柱飾りとしての訶梨勒は、西村知備の文化3年(1807)刊『懸物図鏡』に「慈照院(足利義政)のお好みで作らせた物で、霊綿綏(れいしさい)ともいう。訶梨勒は水毒を避け緒病を治す。これを粉末にして酒に入れて飲むと気を鎮める。昔は訶梨勒を糸でつないだだけのものを使っていたが、義正の時から袋の中に納めるようになった。」とあるといい、相阿弥の『御飾書』に「一、かりろくとて柱飾なり」とあり室町期には書院の柱飾りとなっている。訶梨勒が水毒を解くというところから、茶席での柱飾りに用いられるようになったという。訶梨勒は、訶子・竜脳・沈香・白し・薫陸・かっ香・甲香・甘松香・大茴香・丁字・白檀・安息香・茴香など1年の月の数を示す12種類(又は12の倍数、閏年は13種類)の香木などを天貝帳と言う和紙に包んで布袋に納め、紐で吊り下げ、袋は果実の形で果実の実りや生命力を表し、五色の組み紐を使う時は「陰陽五行」を、白は「訶梨勒」の花を、四つの編み目は「四季」を表すという。その前史としては平安朝の頃より端午の節句に、邪気を払い不浄を避けるものとして、種々の香料を入れた美しい玉に、あやめの根を添え造花を飾り五色の糸飾りを長く垂れ下げた薬玉(くすだま)を柱や簾に掛けたり身に付けたことがあるといい、『続日本後紀』、嘉祥2年(849)に「五月五日藥玉飮酒人。命長福在止奈毛聞食。故是以藥玉賜。御酒賜波久止宣。日暮乘輿還宮。」とみえるのが初出という。

皮鯨(かわくじら)
絵唐津の一。皮鯨手。鯨手。鯨口。口縁部に鉄釉を筆で一周させたもので、白い膚に黒い鉄釉が鯨の黒い表皮およびその下の白い脂肪層のように見えることから名付けられたとされる。なお、この手法は唐津焼以外にも見られるが通称「口紅」と呼ばれる。

川端近左(かわばた きんさ)
大阪の塗師。初代川端近左 文政元年(1818)〜明治22年(1889) 川端家は代々京都二条高倉上ルで「近江屋」の屋号で備前岡山藩、但馬豊岡藩の御用油商を務めたが、趣味で始めた蒔絵が昂じて、天保年間には漆の仕事もするようになり、「近江屋」の屋号と「佐兵衛」の名より「近左」と号したという。元治元年(1864)の蛤御門の変で火災に遭い、岡倉天心の勧めや三井家の後援もあり慶応2年(1866)長男の滝之助(川端玉章)と共に江戸に移住。二代近左 文政6年(1823)〜明治34年(1901) 初代の弟。本名佐七。初代近左長男の玉章が家業を継がなかったため二代近左を継ぐ。慶応3年(1867)土田潮流、大阪春海商店、戸田商店より勧められ大阪に移住。三代近左 嘉永6年(1853)〜明治45年(1912) 初代近左の三男。本名義洞。二代近左に跡継ぎがなかったため兄玉章の後援を受け明治30年(1902)に大阪に移住。明治34年(1906)三代近左襲名。四代近左 明治24年(1891)〜昭和50年(1975) 三代近左の兄対吉の三男。本名対三郎。初代近左長男の玉章が二代近左の弟子川合漆仙の相談の上、12歳のとき三代近左と養子縁組。22歳で四代近左襲名。五代近左 大正4(1915)〜平成11年(1999) 四代近左の女婿。本名川畑三義。奈良県に生。昭和3年(1928)四代近左に入門。昭和16年(1941)四代近左が養女に迎えた姉の末子の吉子の婿養子となる。昭和38年(1963)五代近左を襲名。日本画を能田耕風に学び、大阪府展、市展にて知事賞、市長賞受賞。日本美術院展数回入賞するが、以後個展を主とし、茶方として茶器製作に専念。昭和56年(1981)59年(1984)大阪府工芸功労賞受賞。六代近左 昭和22年(1947)〜 五代近左の長男。昭和41年(1966)大阪市立工芸高等学校美術科卒業。昭和45年(1970)京都市立芸術大学漆芸科卒業。平成12年(2000)六代近左襲名。

鐶(かん)
の上げ下ろしに使われる道具。の両端にある鐶付という穴に通して釜を持ち上げる。風炉の別はない。材質は鉄が一般的で、南鐐砂張などがある。水屋用は釜を傷めないように鉄より柔かい真鍮の輪を使う。利休形ささげ鐶が標準で、これはささげ豆の形に凹凸をもつもので滑りにくくなっている。普通の鐶は、鐶付にかけるとき右は向こうから手前へ、左はこちらから向こうへ動かすが、普通の鐶と合わせ目が逆になっている左鐶もあり、真の鐶である。そのほかにも輪になっていない常張鐶や蜻蛉鐶など特殊なものもある。

鐶付(かんつき)
茶湯釜の鐶を通す所。の左右の肩にあり、を持ち上げるとき、釜鐶(かまかん)を通すもの。鬼面(きめん)、獅子面(ししめん)、尼面(あまつら)、遠山(とおやま)、松笠(まつかさ)、竹節(たけふし)、蜻蛉(とんぼ)、海老(えび)、兎(うさぎ)、七宝、管(くだ)、笛や扇など、動物・植物・虫類など様々な意匠がある。

間道(かんとう)
吉野間道
縞文様のある裂をいい、「縦縞」「横縞」「格子縞」がある。漢島、漢東、漢渡、広東、閑島、邯鄲などの字が当てられる。名物裂の縞織物が、主として中国広東地方で産出された絹織物であったことからこの名称が起こったとされる。「日野間道」のようにインドや中近東などの木綿の入った縞織物もある。
『石州三百ケ条』に「昔ハ唐物ニハ古金襴、和物にはかんとう・純子の類を用、利休より布而唐物などに袋をかろく、かんとう・純子のたくひを用、和物なとハ古金襴の類を用いて袋をおもくする也」とあり唐物茶入の袋に間道を用いるのは利休からとある。『山上宗二記』には「紹鴎茄子 四方盆に居わる。かんとう(間道)の袋にいる。 関白様」「茄子 似りとも云い、百貫茄子とも云う。かんとう(間道)の袋」「珠光小茄子 かんとう(間道)の袋に入る。」とあり、天下の四茄子のうち三つまでが間道の袋に入っている。

   
   
   
   
   
 

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