茶道用語

信楽焼(しがらきやき)
滋賀県甲賀郡信楽町を中心として焼かれる陶磁器の通称。天平14年(742)聖武天皇が紫香楽宮を造営したとき、造営用布目瓦を焼いたのがその始まりとされている。本来は種壷、茶壷、甕、擂鉢などの雑器が中心であったが、室町時代後期に「侘茶」が流行しはじめると、いち早く茶道具として注目を集め、種壺は「蹲(うずくまる)」の花入水指に、糸を紡ぐ時に綿や麻を入れる緒桶(おおけ)は「鬼桶(おにおけ)」の水指に、油壺や酒壼は花入に見立てられた。これらの逸品は古信楽といわれる。『松屋会記』 天文十一年(1542)四月九日に「床ニ晩鐘 牧渓、小軸、足ノアルツリ物、信楽水指、畳ニ置合、茶ノ前ニ画ヲ取テ、松花大壺、アミニ入テ出ル」、天文18年(1549)の津田宗達の『天王寺屋茶会記』に「しからきそヘテ茶碗也」とある。『瓢翁夜話』に「古信楽といふうものハ、弘安年間製せし所のものにて、極疎末なる種壷類に過ぎざりき、其後点茶の宗匠紹鴎、利休、宗旦、遠州など、工人に命じてつくらしめしより、これらの人の名の冠らせて称美せらる。この外空中信楽、仁清信楽などいふものあり、是又空中、仁清が信楽の土を以て諸器を製せしよりの名なり」とあり、武野紹鴎も信楽焼を愛好し茶器を焼かせ、また千利休は自らの意匠による茶器を作り、紹鴎信楽・利休信楽・新兵衛信楽・宗旦信楽・遠州信楽・空中信楽などと茶人の名前を冠した茶器が現れるほど名声を博した。
長石を含んだ白色の信楽胎土は良質で、鉄分の少ない素地のため、高火度の酸化炎により焦げて赤褐色の堅い焼締め肌の明るい雰囲気が特徴となっている。本来は無釉だが、焼成中に薪の灰がかかる自然釉が淡黄、緑、暗褐色などを呈し器物の「景色」をつくっている。薪の灰に埋まって黒褐色になった「焦げ」、窯のなかで炎の勢いにより作品に灰がかかり自然釉(ビードロ釉)が付着した「灰被り」、「縄目」赤く発色した「火色」、胎土に含まれたケイ石や長石が炎に反応し、やきものの表面に現れる)」、「蜻蛉の目(やきものの表面に窯を焚く灰が掛かり、それが溶けて釉薬と同等の働きをしたもの)」 また、水簸をおこなわないため、胎土中の粗い長石粒が溶けて乳白色のツブツブになる「石はぜ」も信楽焼の一つの特徴となっている。

敷板(しきいた)
風炉の下に敷く板。荒目板、真塗掻合(かきあわせ)、敷瓦がある。荒目板は、粗い目から細かい目へと横に筋目が入っている真塗の小板で、目の粗いほうを手前に置き、土風炉のみを据える。真塗掻合は唐銅風炉に用いる。掻合は、薄く一回漆を拭いたもので、木目が勝手付から客付に流れるように置く。敷瓦は、焼き物で釉掛りを手前に置き、鉄風炉に用いる。

色紙(しきし)
和歌・俳句・書画などを書く方形の料紙。五色の模様や金銀箔などを散らすものもある。寸法は、大は縦六寸四分・横五寸六分、小は縦六寸・横五寸三分の二種があり、これに準じた方形の料紙をも総称する。元来は染色した紙のことを言ったが、詩歌などを書く料紙の一としての呼称は、屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、これを色紙形と呼んだことに由来するという。『大鏡』に「故中関白殿、東三条つくらせ給ひて、御障子に歌絵ども書かせ給ひし色紙形を、この大弐に書かせまし給ひけるを」とある。享保19年(1734)刊『本朝世事談綺』に「色紙短尺の寸法は三光院殿(三条西実枝)よりはじまる御説、大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」、安永6年(1777)刊『紙譜』には「色紙大小あり、縦大六寸四分、小六寸、横大五寸六分、小五寸三分」とある。藤原定家筆と伝える小倉色紙が最も古いものとして伝世する。『今井宗久茶湯日記書抜』に「 天文二十四年(1555)十月二日 紹鴎老御会 宗久 宗二イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、一  定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、一槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、一 円座カタツキ水サシ イモカシラ 一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」とあり、紹鴎が始めて掛物に色紙を懸けたとされる。

食籠(じきろう)
食物をいれる蓋付きの身の深い容器。「篭」は俗字。「喰籠」とも。おおくは円形または角形で、重ね式のものもある。茶人に好まれたことにより、茶席でおもに主菓子を盛り込む菓子器として用いられ、輪花など様々な形が現れた。素材も最初は、漆器であったが、陶磁器も用いられるようになった。書院の棚飾りにも用いられ、『君台観左右帳記』や『御飾記』にも座敷飾として違棚に「食篭」が置かれている。『嬉遊笑覧』には、「食籠は、東山殿御飾記、君台観左右帳記、仙伝抄に棚にかざれる図あり、重に作りたるもの多し、又私の贈り物はこれを用。宗碩の佐野渡に、此ふたりの方より食籠などといふものとりどりにてこまごまと書おくり侍る。貞順故実集、食籠は面向へ不出候、去ほどに貴人へは諸家より進上なく候、世上をわたし候てふるくなる故に、貴人の御前へは斟酌候也といへり」とある。

自在棚(じざいだな)
利休袋棚の中棚と天板を取り去った下の部分をもとにした大棚。一啜斎好み。杉木地で、戸袋部分には格狭間透かしを施し、手前側は建具になっていて横引きに開けることができる。炉・風炉の両方に使う。炉に用いるときは、地板を右、戸袋を左にし、風炉に用いるときは、地板を左にし、戸袋を右にして使う。

次第(しだい)
茶道具本体に付属する物全般をいう。次第は、茶入茶碗などの茶道具本体を収める袋(仕服・御物袋など)や包み、(内箱・中箱・外箱・付属品の箱・惣箱など)や挽家書付、付属する添状(伝来書・譲り状・極書など)や蓋・盆など全部を指す。茶道具本体の今までに経過してきた歴史を物語るものとして次第と呼ばれる。

時代物(じだいもの)
作者などのはっきりしない古作の道具をいう。

七官青磁(しちかんせいじ)
中国の龍泉窯(りゅうせんよう)で焼かれた青磁の一種で明末時代から清時代にかけて制作されたものをいう。七官の名の由来は諸説あり、明の七官という位の者が請来した、との説が有力とされる。透明な青緑色の光沢の強い釉で、概して貫入があるのを特徴とする。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。

繻珍(しちん)
繻子(しゅす)の地に、数種の絵緯(えぬき)と呼ばれる紋様を織るためだけの緯糸(織物の横幅方向の糸)を用い、紋様を織り出した絹紋織物。もと中国明代に始まるといい、七色以上の色糸を用いたので七糸緞(しちしたん)。「朱珍」「しゅちん」とも。

七宝棚(しっぽうだな)
利休袋棚の右側半分をもとにした、天板・地板・中棚が四方の二重棚。有隣斎好。青漆爪紅で、中棚が七宝透かしになっている。初飾りは、地板に水差し、中棚に茶器を飾る。後飾りは、天板の上に柄杓を斜めに、蓋置をその左に置き、茶器を中棚に飾る。柄杓の合を左向こうの柱にもたせ柄杓の端を左前の柱にとめ、蓋置を地板の左前隅に置き、中棚に茶器を飾ることもある。また、柄杓、蓋置を中棚に飾ることもある。このとき茶器は水屋に持ち帰る。

七宝文(しっぽうもん)
文様の一。円周を円弧によって四等分した文様。これを上下左右に連続させた物を「七宝繋ぎ文」、数多く繋ぎ合わせて、その一部を欠いた物を「破れ七宝文」、四つの楕円形を円周の内側に抱いた単独の文は「七宝文」「輪違い文」という。同じ半径の円を円周の四分の一ずつ重ねてゆく四方連続文様で「四方」に連結した文様が広がっていくところから吉祥であるとされ、七宝と音が似通っているため「七宝」の名がついたという。中央に花文を入れることもある。円の繋ぎ目に丸い点をいれたものを「星七宝」という。

七宝焼(しっぽうやき)
銅や銀などの器胎にガラス質の釉を焼き付ける工芸技法。「七宝」、「七宝流し」ともいう。七宝の名は、日本で名付けられたもので、仏典に七種の宝玉を七宝と呼ぶところから、七宝焼の美しさを譬えたものか。稲葉新右衛門(1740〜1786)の『装剣奇賞』に「今七宝と称するものは、はじめ海外より来る所にして、七宝とは此方にて名付しにて、正名あるものなるべし、隋帝の七宝焼といへるは、七種の宝玉なるべし、所謂七宝とは、金、銀、瑠璃、頗梨、車渠、瑪瑙、珍珠の七種をいふ、但し此七種をあつめて工めると、おほよそをもて七宝と名付にやしらず」とある。中国では「琺瑯(ほうろう)」といい、また明の景泰年間(1450〜1456)宮廷の工房で作られた琺瑯器が最も名高い品であることから、俗に「景泰藍(ちんたいらん)」とも呼ばれる。七宝の起源は明確でないが、古代アッシリア、エジプトにもあり、中国では秦、漢時代からあり、明の曹昭の洪武21年(1388)『格古要論』に「大食窯出於大食國。以銅作身、用藥燒成五色花者、與佛朗嵌相似。嘗見香爐、花瓶、盒兒、盞子之類、但可婦人閨閣之中用、非士大夫文房清玩也、又謂之鬼國窯。」とあり、元代には「大食窯」「鬼国窯」と称し、アラビヤから伝わったとする。この頃の琺瑯は、いずれも掐絲琺瑯(有線七宝)で、器胎の上に、銅などの細い針金を文様の輪郭に合わせて植線し、焼いて固定させたうえで輪郭内に色釉薬をつめて焼成するもので、明の景泰年間に最盛期をむかえたとされる。その後、有線を使わずに器胎に直接色釉で図案を描いて焼き付ける画琺瑯が、多彩な表現ができ、絵画的なぼかしの描法もできるところから、琺瑯の主流となった。日本でも6世紀の古墳からの出土品や、正倉院の七宝鏡などがあるが、その後は衰退したのか文献資料が存在せず、室町期になると中国の七宝器が舶載され「七宝」と名付けられた。その後、慶長年間(1596〜1615)に平田道仁が朝鮮の工人から技法を学んだとされ、『鏨工譜略』に「道仁 平田彦四郎、京都住、慶長年中、依台命朝鮮人より七宝を流す伝を受、東都七宝の祖とす、御金具師也、正徳三年死」とある。『瓢翁夜話』に「七宝は、元来茶器には用ふべからざるものなれど、古渡のものは随分雅味ありて、水指なんどに用ふるものあり、我邦のものにても、寛永ごろの製作は古渡の如く、濃き薬にて、かせたる所ありて面白し」とある。

志戸呂焼(しとろやき)
遠江国(静岡県)榛原郡五和村(島田市)志戸呂の陶器。遠州七窯の一。大永年間(1521〜28)に始まり、天正年中(1573〜92)に美濃国(岐阜県)久尻の陶工加藤庄右衛門景忠がこの地に来て五郎左衛門と改名して従業し、天正16年(1588)に徳川家康から焼物商売免許の朱印状を授けられ、五郎左衛門の帰国後は弟子の某が加藤五郎左衛門を名乗って業を継いだという。寛永年間(1624〜44)小堀遠州の意匠をもって茶器を焼き、遠州好み七窯の一つと称された。また享保年間(1716〜36)から「志戸呂」あるいは「質侶」の印を用いたとする。土質は淡赤、釉色は濁黄または黒褐色で、堅焼である。のちに窯は付近の横岡(金谷町横岡)に移ったが振るわなかった。『工芸志料』に「志戸呂焼は大永年間、遠江国志戸呂(大井川の上流、無間山の麓にあり)に於いて初めて之を製す。当時専ら葉茶壷、花瓶を造り、間々他の諸器をも造りしが、後業甚だ衰う。寛永年間、点茶家の宗匠小堀政一、業を工人に勧む。因りて再び盛んに起こる。工人能く茶壷を造る、其の質粗にして、土色は淡赤、釉色は濁黄にして黒色を帯び、甚だ瀬戸の破風窯に似て、而して陶質堅実なり。今はただ雑器をのみ製出すと雖も、而れども仍お能く古躰を失わず。」、『本朝陶器攷證』に「遠州好七窯の内、島物と瀬戸を写す。薄作なり。呂宋の作振を写す物もあり。上作の茶入は丹波に成てあり。土、黄・白・薄赤・砂利。薬、黒薬に黄と浅黄のうのけ、黒、金気、柿、黒鼠、萌黄、黒鼠に黄の胡麻薬出る。極古きものは黒鼠に黄のごま薬。砂利土にてすこし厚作ゆえ、古唐津と云来る赤土もあり。」

品川棚(しながわだな)
小堀遠州好みの遠州が品川御殿山の茶席に三代将軍を迎えて茶事をした折、茶室の余材で作ったと伝えられる、大きな七宝の透かしのある

志野焼(しのやき)
桃山時代に美濃(岐阜県)で焼かれた白釉の陶器。素地は「もぐさ土」という鉄分の少ない白土で、長石質の半透明の白釉が厚めにかかり、釉肌には細かな貫入や「柚肌」と呼ばれる小さな孔があり、釉の薄い口縁や釉際には、「火色」(緋色)と呼ばれる赤みの景色が出る。絵模様のない「無地志野」、釉の下に鬼板で絵付けした「絵志野」、鬼板を化粧がけし文様を箆彫りして白く表し志野釉をかけた「鼠志野」、鼠志野と同じ手法で赤く焼き上がった「赤志野」、赤ラク(黄土)を掛けた上に志野釉をかけた「紅志野」、白土と赤土を練り混ぜ成形し志野釉をかけた「練り上げ志野」がある。さらに近年、大窯で焼かれた志野(古志野)と区別し登り窯で焼かれたものを「志野織部」と呼ぶ。天明5年(1785)の『志野焼由来書』に「伝言、文明大永年中、志野宗心と云う人ありて茶道を好む故に、其の頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯にて茶器を焼出す、是を志野焼と称す。」とあり長く瀬戸で焼かれたとされていたが、昭和5年(1930)の荒川豊蔵(1894〜1985)の古窯跡調査以降、美濃の可児・土岐などの窯で黄瀬戸・瀬戸黒・織部とともに焼かれたとされ、志野宗心についても、貞享元年(1684)刊の『堺鑑』に「志野茶碗 志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也 但し唐物茶碗の由申伝。」とあるように今云うところの志野焼とは異なるとされる。元禄頃までは志野焼は織部焼と目され、千宗旦の弟子の城宗真が、織部好みの焼物に「篠焼」と名付けてから織部焼と区別されたとされる。

仕服(しふく)
茶入薄茶器茶碗挽家などの道具類を入れる袋。「仕覆」とも書く。茶入の仕服には、名物裂古代裂が多く使用される。茶入によっては、名物裂の替袋(かえぶくろ)を何枚も持つものもある。仕服は、茶入茶杓とともに客の拝見に供される。
もと、茶入に付属する「袋」「挽家」(仕服に入れた茶入を保存する木の器)「箱」「包裂(つつみぎれ)」その他の補装を「修覆(しゅうふく)」といい、修覆が仕覆となり、茶入袋の呼び名になったという。

絞茶巾(しぼりちゃきん)
点前の一。普通の点前では茶巾を定められた通りに畳んで茶碗に仕組み、茶席へ持ち出すが、絞茶巾は水屋で茶巾を絞ったままの状態で茶席へ持ち出し、点前の中で畳み直すもの。絞茶巾の点前には夏冬二通りあり、酷暑の時期に水を含ませた茶巾を客前で絞ることにより涼を感じてもらい、また茶筅通しの湯を捨て、茶碗をいったん膝前において茶巾を絞り畳み直し、その間に茶碗を冷ますという。厳冬の時期には、夏場と逆に茶筅通しの湯を捨てる前に茶巾を畳み直し、その間に茶碗を温めるという。裏千家では、夏に行うものを「洗い茶巾」という。『南方録』に「茶巾の仕込やうに、さらしと云ことあり。これは勢多かもん、古き高麗の皿のごとくなる茶碗所持す。湯水のとりあつかい、茶筅すヽぎなど、ことの外難儀のものなり。されどもあまり見事なる一体故、秘蔵なり。休に名を付てたまわれりとなり。則水海と付らるヽ。さしわたしの寸、畳十五目なり。休、茶杓を削て、茶碗にそへて送らるヽ、茶杓の名を勢多と云。この茶碗に、かもん始てさらし茶巾を仕出したり。端ぬいなしにて、仕廻の時に、天目のごとく茶巾をさばかれたり。秘蔵といヽ、休の名をつけ、茶杓をそへられたるひらき、尤のこととなり。さらし茶巾一段さはやかにて、休も感心なり。されども冬はさむき心ありと、休申されしなり。これより平目なる茶碗には、夏むき涼しさをこのみて、さらしに仕込む、一段苦しからずと、休もの玉ふ。」とあり、瀬田掃部が始めたものと云う。

下蕪(しもかぶら)
器物の形状の一。筒形の置き花入の胴の下部が、蕪の形に膨らんだもののこと。「蕪」とは、古銅または青磁尊形花入で、胴の張った部分をいい、「下蕪」の他に「中蕪(なかかぶら)」、「蕪無(かぶらなし)」がある。

地紋(じもん)
器物の地肌全体に付けられている文様。釜文様の呼び方の一。の全体に配された霰・霙・亀甲・花弁など抽象的・幾何学的図象のことで、図柄(絵)とは区別されるというが、一般には図柄も含めていう。織物において、異組織を用いたり、地組織の一部を浮かしたりして模様を織り出すが、浮き織りの模様を上文といい、下の模様を地文という。また紋織物を染めた場合、織の模様を地紋という。

車軸釜(しゃじくがま)
茶湯釜の一。荷車などの車輪の中心部に似ているところからの呼称で、古くからこの名がある。

尺八(しゃくはち)
竹花入の一。竹を筒切にし、根の方を上にした逆竹として用い、花窓はなく、一節を真ん中より下に残し、後方に釘孔を開けた形の花入で、尺八切という。『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて作ったとされる。「尺八」は、高さ27cm、太さ11cm、肉厚の真竹で、立ち枯れと思われる竹を、逆竹寸切(ずんぎり)にし、中央よりやや下に節一つある花入。尾張藩士・近松茂矩(1697〜1778)の『茶窓陂b』に「秀吉公小田原陣中にて、利休韮山竹の、すぐれて見事なるを見出し、是こそよき花筒ならんと、秀吉公へ申上げしに、左あらばきれよとありし故きりしに、利休も是はと驚くほどによく出来し故、さし上しに、存の外、公の御意にかなはず、さんざん御不快にて、庭前へ投捨させられし故、同じ所にて尺八をきりさし上しに、是は大に御意に入し、前の竹よりあしかりしかども、御秘蔵なりしが、利休死罪の時、御怒りのあまりに、打破すてられしを、今井宗及ひそかにとりあつめおき、後につぎ合せ秘蔵す。年経て堺の住吉屋宗無、所持せしが、宗無死後に、同所、伊丹屋宗不値百貫にもとめて、家に伝しとなん。」とあり、秀吉の小田原の陣中で、利休が韮山竹のすぐれたのを見付け、これは良い花入になるであろうと言い、利休も驚くほど良く出来たため、秀吉に進上したところ、思いのほか、気に入らず、大変不機嫌になり、庭前に投げ捨てた。そのためすぐに同じ韮山の竹で、尺八の花入を切って献上した所、今度は意に適い秘蔵した。しかし利休死罪の時、怒りのあまりに、投げて割ってしまった。それを今井宗久がひそかに拾い集め、継ぎ合わせて秘蔵したという。『茶湯古事談』に「尺八切の花生は、輪なしの寸斗切なりしを、飽林といひし者は哥口をそきとなん。一節こめて切を一節切、二節こめるを尺八切となん。」、『生花口伝書』に「一 尺八切百度切差別の事 尺八と百度切とは能似たれとも寸法相違あり。百度切は元竹を寸切に伐りたるもの也。これ古織公の作なり。尺八は節一つこめて切也。東山殿茶湯の時、青竹を伐りて花を生け玉ひしより尺八の名ありといひつたへたり。然れ共利休蒜山の竹を切て三つに切られし、其末竹を尺八と名付し事顕然たり。休罪を受て後、公の床頭に休の献せし尺八の花入を懸る。居士を憎るゝのあまり彼花筒を二つにわり、庭上に捨らるゝ。宗久其座にありて、ひそかに是をとりてつき用ゆと也。是今堺の町人住吉屋といふ人所持すとあり。」、「一 律僧の事 切かきなく尺八の如く三つ節をこめて、尺八よりたけ長し。秀吉公小田原御陣の砌、利休京都より御見舞に伺候す。軍中に御茶を献せらるるに、湯本早雲寺の藪中の竹を伐り花筒とす。御感斜ならすと、利休日記に律僧と銘を付、書判せられしと也。」、『茶道筌蹄』に「醋筒 尺八はサカ竹、醋筒はスグ竹、当時は両様とも尺八と云ふ、如心斎始て酢筒を製す、ヘラ筒の通にてフシトメ也、ヘラ筒は節なし」、「置尺八 如心斎好、スグ竹ふしなし、千家所持銘伏犠」、『槐記』に「窓なしの花生と、尺八の花生とは、その差別あり、他流には曾てその差別なし、宗和流には、そのさた第一のこと也、凡て一重二重は格別也、輪のなきは皆尺八と云と覚えているはひがこと也、凡そ竹さかさまにきりて、根の方の上になりたるは尺八也、たとへ一重にても尺八と云、真ろくに根を下へなして輪なきを輪なしと云、先日二三にこのことを話したれば、大に感心して申せしは、昔し江戸にて、宗匠の花生の書付に、尺八花生とありて、一重切のありしを、これは箱が、何の世にかちがいたるなるべしと云て、其花生の箱は用まじき由を申たりしは、大なる誤りにてこそ侍しと申したりと仰られし。」とある。

社中(しゃちゅう)
共通の目的のもとに人々が集まった組織の仲間、転じて同門の仲間。田宮仲宣の享和元年(1801)刊『橘菴漫筆』に「社中と云事、此頃俳諧者流の徒これをいへり、社中と云は、惠遠法師、庭際の盆池に白蓮を植て、その舎を白蓮社と云、劉遣民雷次宗宗炳等の十八人集合して交をなす、これを十八蓮社といふ、謝霊運その社に入んことを乞ふ、惠遠、謝霊運が心雑なるを以交をゆるさず、斯る潔白なる交友の集会をなせしより、蓮社の交と云、然るに芭蕉の友人山口素道師、致仕の後、深川の別荘に池を穿、白蓮を植て、交友を集、蓮社に擬せられしより、俳諧道専ら社中と云事流行しぬ」、竹内玄玄一の文化13年(1816)刊『俳諧奇人談』に「弱冠より季吟の門に遊んで俳諧の達者と呼ばる。庵の名を今日といひ、又来雪とも、素堂とも言へるも、その別号なり。後にある主家を辞してより深川の別荘に蓮池を掘り交友を集めて晋の恵運が蓮池に擬せしより、俳家もっぱら社中と称するはこれこれらによってなり。」、内田魯庵『芭蕉庵桃青傳』に「素堂の號は此頃より名乘りしものにて、庭前に一泓の池を穿ちて白蓮を植ゑ、自ら蓮池の翁と號し、晋の惠遠が蓮社に擬して同人を呼ぶに社中を以てし、浮葉卷葉この蓮風情過ぎたらんの句を作りて隱然一方の俳宗たり」とあり、中国浄土教の祖とされる東晋の僧 慧遠(334〜416)が、元興元年(402)仏陀跋陀羅・仏陀耶舎・慧永・慧持・道生等の僧や劉程之・張野・周續之・張詮・宗炳・雷次宗等の在家信者ら念仏実践を望む同志たちと廬山・般若台の阿弥陀像前で誓願を立て、念仏結社を結成したことに始まり、山口素堂(1642〜1716)が惠遠の白蓮社に擬して同人を呼ぶのに「社中」の語を用いたのが流行したものという。明治4年(1871)『慶應義塾社中之約束』にも「今日ハ人ニ学フモ明日ハ又却テ其人ニ教ルコトアリ、故ニ師弟ノ分ヲ定メス教ル者モ学フ者モ概シテコレヲ社中ト唱フルナリ」とあり、江戸後期から明治初期にかけて用いられた。

十徳(じゅっとく)
茶人が式正の場にて身につける羽織に似た服。流派により違いがあるが、一般的には黒の紗や絽の無紋の単衣で、広袖の角袖、折返しの襟がなく、腰に襠あるいは襞をつけ、共紐である。鎌倉時代の末ごろにはじまり、室町時代には旅行服として用いた。伊勢貞丈の『四季草』に「十徳の裁縫は素襖の如く、左右の腋をぬひふさぐなり、革のむなひもゝあり、是に具したる袴はなし、白布又は白練などをたゝみて帯にして、一重なり、前にて結び置なり、十徳に紋を付る事もあり、今も京都にては、門跡方のこしかきの者これを著るなり、江戸にても将軍家の御こしかきの者は著るなり、今世医者の著するも同じ裁縫なれども、羅精好紗などにて縫ひ、色は黒く無紋にして、胸紐に皮を用ひず、十徳と同じきれにて平ぐけにして、短くして結び、帯をせずしてはなち著にするゆゑ、別の物のやうに見ゆれども、実は同じ物也、今は俗人は會てきる事なし、たゞこしかきのきるばかりなり」とあり、江戸期に入って僧侶、医師、儒者、茶頭などが用いるようになり俗人は着なくなり、駕輿丁だけが着た。現在の羽織の祖形ともいわれている。十徳の語は、鎌倉時代の齋藤助成の永仁3年(1295)『布衣記』に「白布を、十徳のおびのごとく平ぐけにして、其帯をもつて箙を腰に付」とみえる。谷川士清の『倭訓栞』に「じつとく 服にいふ、直綴の訛音なるべし、褊綴とも称せり、褊衫より出たる名なるべし」とあり、禅家の褊衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを折衷して単に仕立てた法衣の一種である褊綴(へんとつ)のことで、直綴の訛ったものとする。喜多村信節の文政元年(1818)刊『瓦礫雑考』に「十徳は直綴 掇或は綴とも書たり の略製にて、其名をとなへ訛りしまゝに、やがて十徳といふ名さへ出きし也、かく誤りしこともやヽ古く見えて、下学集に直掇とを別に出せり、産業袋といふものに、十徳は直綴のとなへぞこなひ、されば十徳のごとくして袖ながく、四すそを五寸ばかりヅツ綻せたるを褊綴といふ、是にて知るべしといへども、直綴は長袖裳付の衣のこと也、志かれば十徳の仕立やうのものを、直綴といふべき謂なしといへるは、却て非なり、そは省略せるによりて、名の変りたることに心つかざるなり」「さて直綴を省略して十徳と名づくるは、利用多きにもよれるなめれど、その本は直綴の譌音なり。此服今は俗体の人は着ざれども、昔は普く俗に用ひたり、故に下学集等の書にも、みな俗人服用の内に出せり、撮攘集に行旅の具の内に出せるも、便宜なる服なればなり。」、屋代弘賢『古今要覧稿』に「紗十徳は、そのはじめ詳かならざれども応仁の頃清水詣する足軽のもじの十とく着たりと奇異雑談いへば其頃に起れるにや、京都に紹鴎の遺物なりとて黒紗の十徳を持伝へし人あり、裁縫全く今の十徳とおなじくして、たヾ異なる所は腋を紫絲にてかヾりつゆ紐の有るもになり、また腋に陬をとりしもあり、是即今医師其外坊主の用ゆる十徳のはじめ成べし」とある。

春屋宗園(しゅんおく そうえん)
享禄2年(1529)〜慶長16年(1611)。臨済宗の僧。大徳寺111世。春屋は道号、宗園は法諱、自号は一黙子。『龍賓山志』には「自號一愚子、集云一黙藁」とあり。大徳寺102世江隠宗顕に参じ、江隠示寂後、古渓宗陳と共に笑嶺宗訴に参じ、永禄12年大徳寺に出世開堂。大通庵、三玄院、薬泉寺、龍光院の開山。後陽成天皇の勅問に答えること数度、「大宝円鑑国師」号を特賜される。津田宗及今井宗久利休らと親交。利休の孫宗旦を弟子とする。古田織部小堀遠州の参禅の師。利休大徳寺三門の修復を寄進した際、落慶法要の導師をつとめた。遺稿に『一黙稿』がある。慶長10年(1605)道安が「利休」の意味を訊ねたのに対し「参得宗門老古錐 平生受用截流機 全無技倆白頭日 飽対青山呼枕児」(参得す宗門老古錐 平生哉流の機を受用す 全く技倆なし白頭の日 青山に対するに飽きて枕児を呼ぶ)の偈をあたえる。

春慶塗(しゅんけいぬり)
漆塗りの一種。木地を黄または赤に着色し、透漆を上塗りして木目が見えるように仕上げたもの。起源ははっきりしないが、後亀山天皇(1347〜1424)のとき和泉国堺の漆工春慶が考案したと伝えられこれを堺春慶というとされ、一説では道元禅師(1200〜1253)が中国からつれてきた工人僧の春慶が越前の永平寺にいて創始したともいう。俗に日本三春慶と呼ばれ、岐阜の飛騨春慶、秋田の能代春慶、粟野春慶(水戸春慶)が知られる。「粟野春慶」は、室町時代の延徳元年(1489)に稲川山城主・源義明が粟野(現在の城里町)で始めたといわれ、別名「水戸春慶」と呼ばれるように徳川光圀公も御用塗物師を召し抱えて奨励した。「飛騨春慶」は、慶長11年(1606)高山城主・金森可重の御用大工高橋喜左ェ門が打ち割った木の木目が美しかったので蛤盆にしたものを塗師・成田三右ェ門が木地を隠してしまわない透き漆を工夫して塗り上げ献上したところ、加藤四郎左衛門景正の作とされる名器「飛春慶」の茶壺の黄釉に似ていることから「春慶」と命名したといわれる。命名者は領主金森可重とも子の金森宗和ともいわれる。慶長17(1612)金森可重が、批目面桶・片口・塗木地二組および雉子一掛を将軍秀忠に献上、以後将軍献上は例年のこととなり湯桶・片口・麪桶の三種が献上されたという。「能代春慶」は、霊元天皇(1663〜1686)のころ飛騨高山の漆工 山打三九郎が、秋田県能代へ移って春慶塗をはじめたとされる。

春嶺紹温(しゅんれい しょうおん)
臨済宗の僧。大徳寺204世。京の人。諱は紹温或は宗恩。175世随倫宗宜に嗣ぐ。寛文3年(1663)正月19日出世。太清軒に住す。丹波桑田郡法輪寺、勢洲鈴鹿郡亀山正覚寺を再興。寛文7年(1667)9月17日示寂、54才。龍源門下明叟派。

紹鴎袋棚(じょうおうふくろだな)
武野紹鴎が厨子をもとに考案した溜塗春慶塗などのものがある。大棚で、二枚の襖張の袋戸が引き違いについており、右側に平水指を入れて使う。の場合のみ使用する。の天板の上には茶道具を飾らない。ただ花入が床の間に置けない時ににあわせて小ぶりの花入を飾るとか、硯箱などの文房具を飾るかするのが習い。初飾には、地袋の上中央に薄茶器を飾る。後飾では、袋戸のなかに柄杓蓋置を飾る。左の袋戸を開け、柄杓を斜めに飾り、蓋置をその手前に飾り袋戸を閉める。

常慶(じょうけい)
樂家二代。永禄4年(1561)〜寛永12年(1635)75歳。田中宗慶(そうけい)の子で与次、のち吉左衛門といい、これより樂家では代々吉左衛門を名乗る。田中宗慶は長次郎の妻の祖父で長次郎とともに樂焼を製陶した。樂家の『宗入文書』によると、常慶は田中宗慶の子の庄左衛門宗味の弟であり、秀吉から印と暖簾を拝領したとする。「樂」の字の「白」の部分が「自」(自樂印)になっている。作品は長次郎以来の作風を受け継ぎ重厚であるが、口縁が平らで、見込に茶溜りがなく深く、箆削りに変化をつけているものが多い。沓形の茶碗や土見せの高台など、長次郎茶碗には見られなかった作行きのものもある。また赤黒の二種の釉に加えて白釉(香炉釉)を創始し、茶碗に用いている。長次郎没後、天下一焼物師の名をゆるされる。

正午の茶事(しょうごのちゃじ)
正午頃を席入とする茶事。一年を通じて行われるが、炉正午の茶事が最も正式な茶事とされる。茶会の招きを受けると、「前礼」といい招かれた相手先に挨拶し、当日は「寄付」に集り、客が揃うと案内をうけ「外待合」に通り、亭主の「迎付」を受け「蹲踞」で手水をつかい席入したあと、炉正午の茶事では、初炭懐石、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となり、銅鑼の合図で再び席入(後入)し、濃茶後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出するという、二刻(4時間)にわたる茶事である。風炉正午の茶事では、懐石初炭菓子中立濃茶後炭薄茶の順となる。『茶道筌蹄』に「昼 利休居士の時代までは二食なり、巳の刻頃を昼飯といひ、〓(日甫)時を夕飯といふ、夫故昼の茶の湯といへば、巳の刻時分をいふ、当時一日に三食なるゆへ、昼の茶といふは、午時のごとくなりぬ」とあり、午前10時頃だったものが正午頃になったという。

精進椀(しょうじんわん)
懐石家具の塗椀の一。禅院で饗応膳として使用された膳椀で、天正時代に頻繁に使われている「鉢の子椀」がこれにあたるのではないかという。飯椀の身が椀形であるのに、飯椀の蓋・汁椀の身蓋とも端反りになっている。朱塗で、高台の内側が黒塗になっている。現在では真の膳椀として、仏事の茶事や格式の高い茶事に用いられる。元禄4年(1691)刊『茶道要録』に「利休形諸道具之代付」として「精進椀但シ三人前 二十四銭目。替汁椀但シ一組 四銭目。精進二ノ椀 十三銭目。大壺皿蓋共 十銭目五分。小壺皿同 同前。平皿同 同前。楪子三ツ 七銭目五分。豆子三ツ 六銭目。」とあり、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「精進椀 利休形、香台の内何れも黒し、平内蓋、楪子底黒、豆子底黒、引鉢皆朱、但し茶会には常の手付飯器も用ゆ、折敷朱角切裏黒、但し坪はなし」、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』に「ふた二つとも汁椀と同形なり、尤、口にひもなし、食椀ばかりひもあり、ぬり内外朱、かうだいの内いづれも黒塗、地すりは朱の方なり、何れも椀の深さなりかつかう汁椀と同事、食椀は一つはなれたる形り格好なり、是を皆朱の精進わんとて利休好なり」とある。

消息(しょうそく)
手紙のこと。天文17年(1548)の辞書『運歩色葉集』に「消は尽なり。通なり。息は生なり。陰と陽に象どるなり。又、息を消すと讀む間、筆にて書くなり。口にて言はずなり。是れ消息なり。」とあり、「消」は死、「息」は生の意味で、本来は安否の意。そこから安否を尋ねる手紙や伝言など、また訪問の意になった。「書簡」の意味で「手紙」が用いられるのは新しいことで、それ以前は「文(ふみ)」「消息」などの語が用いられた。消息は、ふつう和様の書状をいい、本来は仮名消息を消息とするようだが、現在は仮名交じりのものも含めて消息と称している。漢文の手紙は尺牘(せきとく)と呼ぶ。「尺」は長さ1尺、「牘」は文字を記す方形の木札のことで、漢尺1尺(約23cm)の細長い木簡(牘)を細い紐で綴ったものに手紙を書いたことから、後に手紙の意となった。消息が茶席の掛物として用いられるようになるのは、墨蹟古筆に次ぐが、そのはじめは利休とされる。

笑嶺 宗〓(言斤)(しょうれい そうきん)
永正2年(1505)〜天正11年(1583)。大徳寺第107世。古嶽宗亘に参じ、大林宗套の法を嗣いだ。永禄9年(1566)三好義継が義父三好長慶の菩提を弔うため建立した大徳寺の塔頭(たっちゅう)聚光院(じゅこういん)の開山。千利休の禅の師で、同院は茶道三千家の菩提寺となっており、利休居士の月命日にあたる28日には三千家交代で法要を営まれている。
南方録』に「或人、風炉、夏冬茶湯の心持、極意を承り度と宗易に問れしに、宗易答、夏ハいかにも涼しきやう、冬ハいかにも暖かなるやうに、炭ハ湯のわくやうに、茶ハ服のよきやうに、これにて秘事ハすみ候由申されしに、問人不興して、其ハ誰も合點の所にて候と云ハれたれハ、又、易の曰、さあらは右の心に叶ふやうにして御覧せよ、宗易客に參り、御弟子になるへしと申されける。同座に笑嶺和尚御坐ありしが、宗易の被申やう至極せり。かの諸悪莫作衆善奉行(しょあくまくさ しゅうぜんぷぎょう)と鳥〓(上穴下果)(ちょうか:道林禅師)の答へられたる同然ぞとの玉ひし也。」と見える。

初座 (しょざ)
中立のある茶事における前半の席。ふつう、席入したあと、ならば初炭懐石風炉なら懐石初炭と続き、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となる。『南方録』に「数奇屋ニテ、初座・後座ノ趣向ノコト、休云、初ハ陰、後ハ陽、コレ大法也、初座ニ床ハカケ物、釜モ火アイ衰ヘ、窓ニ簾ヲカケ、ヲノヲノ一座陰ノ躰ナリ、主客トモニ其心アリ、後座ハ花ヲイケ、釜モワキタチ、簾ハヅシナド、ミナ陽ノ躰ナリ、如此大法ナレドモ、天気ノ晴クモリ、寒温暑熱ニシタカイテ変躰ヲスルコト、茶人ノ料簡ニアリ」とあるように、後座の陽に対し陰とされ、茶室の窓には簾が掛けてあり、茶室の中は仄暗くなっており、ふつうには掛物だけが掛けてある。

初炭(しょずみ)
茶事で、亭主が最初に行う炭点前では、夜咄の時は薄茶(前茶とよぶ)がもてなされた後となるが、普通は席入したのち主客の挨拶があり、そのあとすぐに行う。風炉では、朝茶の時は懐石より先に行うが、普通は懐石がすんだのち行う。

初風炉(しょぶろ)
5月になって初めて開かれる茶会を「初風炉」といい、初夏の趣となる。村田珠光が四畳半に初めてを切り、武野紹鴎千利休の点前を定めるまでは、茶の湯は四季を問わず風炉を用いていたが、現在では夏の風炉、冬のと使い分け、立夏(5月5日)頃にはを閉じ、風炉を用いる。このようにをふさぎ風炉に改まってから一ヶ月の間も初風炉といい、5月は初風炉の季節とされる。

祥瑞(しょんずい)
中国明代末の崇禎年間(1628-1644年)に景徳鎮窯で作られた染付磁器のこと。日本のからの特定の注文により作られ、素地は精白で、細い線で緻密に描き込まれた地紋と捻文や丸紋などの幾何学文の多様が特徴。一部の器の底に陶工の名と考えられる「五良大甫呉祥瑞造」の銘をもったものがあるためこの名が付いた。古染付とは異なり、最良の青料が用いられ、古来染付磁器の最上とされている。日本でもさかんに写しがつくられた。

真形釜(しんなりがま)
茶湯釜の最も基本的な形態。口はやや内側に繰り込んだ「繰口(くりくち)」で肩はなだらか、胴の中央に「鐶付(かんつき)」が付き、胴の上部と下部のつなぎ目に庇のように出ている「羽」をめぐらした釜。時代が下がるにつれて肩の張りが強くなり、鐶付の位置がだんだん上の方に上がってくる傾向がある。このかたちは茶の湯の成立以前に厨房で使われていた「湯釜」の形態をとどめており、芦屋釜の古作の多くはこの形をしている。

真塗(しんぬり)

真塗棗
もともとは黒漆の塗り放しのことをいったが、現在は「蝋色塗(ろいろぬり)」(呂色塗)を施した漆工品。蝋色塗とは、本来それほど光沢のない漆に光沢を出すため、油分を含まない蝋色漆を塗り、乾燥させた後表面を木炭で研ぎ出し、その後炭を粉末にした炭粉を水あるいは砥粉を植物油に混ぜて研磨剤として磨く「胴摺り(どうずり)」を行い平滑とし、生漆を漆の面につけて拭う「摺漆(すりうるし)」をして、さらに少量の油と角粉で磨く「角粉磨き(つのこみがき)」をして、表面を鏡の様に仕上げ漆黒の光沢をあらわしたもの。刷毛目を残さないように塗り上げるため高度な技術を要し最高の塗りとされる。

  
  
  
  
  
 

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