武者小路千家 歴代お家元

初代(四世) 似休斎一翁(じきゅうさいいちおう)  延宝3年没 83才 (1593〜1675)
 千宗旦の次男。名は甚右衛門のち宗守。号は一翁、似休斎(じきゅうさい)、宗次。
 早くに武者小路にある塗師・吉文字屋与三右衛門のもとへ養子に出され、吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り塗師を業としました。
 慶安2年(1649)、大徳寺百八十五世、玉舟和尚から一翁宗守の号を授かり、以降官休庵の主は「宗守」号を代々襲名します。
 明暦年間(1655〜1658)には、吉文字屋の塗師の業と娘(宗寿)を中村八兵衛(千家十職 初代中村宗哲;1617-1695)に譲り、千氏に復して茶の湯者となります。
 寛文3年(1663)讃岐高松藩松平侯の茶堂となります。
 寛文7年(1667)松平侯の茶堂を隠退し、武者小路の地に茶室「官休庵」を建てました。

 好み物に、算木釜(唄鐶付)、竹皮炭斗、 信楽蓋置山の神などがあります。

二代(五世) 許由斎文叔(きょゆうさいぶんしゅく)  宝永5年没 51才 (1658〜1708)
 初代一翁の子。名は甚四郎のち宗守。号は文叔、許由斎(きょゆうさい)。讃岐松平家に出仕。
 似休斎65歳の時の子供として生まれ、18歳で父一翁が他界しますが、翌延宝4年(1676)「宗守」を襲名し、高松松平家に出仕しています。道具の審美鑑定にすぐれた見識を持ち、近衛家の道具の極めもしています。茶の点前も「一時の上手にてありけり」と評判されました。
 紀州藩士横井次太夫が、その師表千家七代如心斎から学んだところを記した 『茶話抄』には、「文叔宗守ハ一時の上手にてありけるよし、其書置ける物に、茶をたてる心得をいへり、 まつ居所ヲ畳に付て腰をすえ、両の足の甲を畳ニ付て膝頭を張様に心を付へし、茶をたてるなり(態)、多くハ腰すはらす、腰のぬけるを不覚して力味はつむに仍(依)て、目立て見苦候、騎馬杯にも其心得有る事也。 第一茶をたてるハ心の業にてあれば、心ハはりて、業ハ和らかにするか よし、用の手ハしつはりとして、無用の手ハ早クする事其心得也とそ」とあります。

三代(六世) 静々斎真伯((せいせいさいしんぱく)  延享2年没 53才 (1693〜1745)
 二代文叔の子。名は宗守。号は真伯、静々斎、静斎。同家伝来の名物茶碗「木守(きまもり)」(長次郎)を自ら写し、本歌の「木守」を高松藩主松平侯に献上します。
  好み物に、宝珠釜、地主棗などがあります。

四代(七世) 直斎堅叟(じきさいけんそう)  天明2年没 58才 (1725〜1782)
 三代真伯の養子。九条家の臣・嵯峨家の出身。幼名は久之丞(ひさのじょう)。名は宗守。号は直斎、堅叟(けんそう)。延享2年(1745)21歳で家督を相続し襲名しています。安永元年(1772)、火災で家屋を焼失しましたが、同3年の一翁百回忌を迎えるにあたり再建します。
  好み物に、名取川香合源氏車香合矢筈棚小袋棚蛤棚梅棚、妙喜庵卓、竹柱四方棚、香狭間棚、糸組釜敷、糸組炭斗などがあります。

五代(八世) 一啜斎休翁(いっとつさいきゅうおう) 天保9年没 76才 (1763〜1838)
 四代直斎の養子。京都の人で川越兵庫の子、直斎の門人でしたがのち養子として五代目を継ぎます。名は宗守。号は一啜斎、休翁、円明(えんみょう)、渓澗(けいかん)。茶室「半宝庵」を創建します。
 好み物に、 梅棚自在棚烏帽子棚壷々棚、二重棚、つぼつぼ棚、などがあります。

六代(九世) 好々斎仁翁(こうこうさいにんおう)  天保6年没 41才 (1795〜1835)
 五代一啜斎の養子。名は宗什のち宗守。号は好々斎、仁翁(じんおう)。裏千家九世石翁玄室(不見斎)の三男で、同十世認徳斉宗室(柏叟)の弟にあたります。
 養子に迎えられて家を嗣いぎ、高松侯の茶頭を引き継ぎます。養父一啜斎より三年早くに四十一歳で帰寂茶法は父玄室に学びました。

 好み物に、楽亀絵香合、桜蒔絵中棗などがあります。

七代(十世) 以心斎全道(いしんさいぜんどう)  明治24年没 62才 (1830〜1891)
 五代一啜斎の養子。 表千家十世吸江斎宗左の実弟で、久田家七代皓々斎宗也の子。名は宗守、隠居後は宗安。号は全道(ぜんどう)、以心斎。
 茶法は了々斎と兄吸江斎に学ぶ、好々斎が比較的早世で一啜斎の養子となり官休庵を嗣ぎます。
 早くに隠居し宗安と号した。幼児痘蒼を煩い眼を傷め、後失明をしたため六代好々斎の未亡人宗栄が門人木津宗詮の協力で一時家職を代行しました。

 好み物に、独楽透竹縁莨盆などがあります。

八代(十一世) 一指斎一叟(いっしさいいっそう)  明治31年没 51才 (1848〜1898)

 七代以心斎の養子。表千家十世吸江斎祥翁宗左の次男で表千家十一世碌々斎の弟。義父七代以心斎の甥。名は宗守、号は一指斎、一叟(いつそう)、翠古(すいこ)、清々軒。嘉永6年(1853)の大火で類焼しましたが、明治14年に一部を再興します。
 好み物に、アイヌ細工独楽形香合、武蔵野蓋置、清友棚、萬寿棚などがあります。


九代(十二世) 愈好斎聴松(ゆこうさいちょうしょう)  昭和28年没 65才 (1889〜1953)
 八代一指斎の養子。久田家十代宗悦((表千家十世吸江斎の末弟)の次男。名は宗守、号は愈好斎、聴松(ちょうしょう)。9歳の時養父八代一叟宗守に先立たれ、表千家碌々斎・惺斎の元で成人します。
 第三高等学校をへて東京帝国大学国史学科を卒業後中絶していた武者小路千家を再興します。
 大正15年(1926)、「官休庵」を改築。『茶道妙境』『茶道風与思記(ふとおもうき)』などの著書があります。

 好み物に、 君が代棗、楽器棗、菊置上棗、吉祥草茶桶、和歌裏棗、常盤棗、華甲朱棗、円窓花入、澤潟棚、末広棚、梅棚、木瓜棚などがあります。

十代(十三世) 有隣斎徳翁(うりんさいとくおう)  平成11年没 87才 (1913〜1999)

 九代愈好斎の養子。名は宗守、隠居後は宗安。号は有隣斎、徳翁(とくおう)、旧姓は島。
 第三高等学校をへて京都帝国大学文学部、同大学院に進み京都市史編纂委員なども務め、昭和16年に女婿(料理研究家千澄子)として官休庵に入り、昭和28年(1953)10代家元を継ぎます。昭和39年(1964)千茶道文化学院創立。昭和40年(1965)財団法人官休庵を設立。 平成元年(1989)、家督を長男(不徹斎)に譲ります。好み物に、七宝棚などがあります。


十一代(十四世) 不徹斎宗守(ふてつさいそうしゅ) (1945〜

 有隣斎徳翁宗守と料理研究家千澄子との間に生まれた長男。慶應義塾大学法学部政治学科、同大学院文学研究科で美学美術史を専攻。
 昭和49年(1974)
後嗣号「宗屋」を襲名、平成元年10月「不徹斎」の斎号を授与されました。同年12月先代有隣斎宗守が病の為「宗守」を襲名します。
好み物に、起風棚、嶺雲棚などがあります。


隨縁斎(ずいえんさい)
 当代家元 不徹斎宗守の長男として、昭和50年(1975)京都に生まれる。慶応大学環境情報学部卒業後、文学部に学士入学し、日本美術史(中世絵画史)を学ぶ。慶応大学大学院修士課程修了。平成15年(2003)4月後嗣号「宗屋」を襲名。同6月京都・大徳寺で得度、「隨縁斎」の斎号を授けられた。現在、明治学院大学非常勤講師として日本美術史を講じる。目利きとして知られ「利休の再来」という評もあります。

 
 
 

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