茶道用語

長板(ながいた)
風炉水指などをのせる長方形の板。『草人木』に「板のはヽ・たけ・あつさハ台子の下の板の寸尺に無別儀」、『南方録』に「台子の上の板を、上段の板、下を長板といふなり。」、『源流茶話』には「長板ハ台子の上板より見立てられ」とあり、台子の地板または上板を型どったもので、真塗利休形で大小二種あり、大は風炉用、小は用に使いる。風炉用は長さ二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分。用は長さ二尺四寸、幅一尺、厚さ四分。また、この他に桐木地一閑張宗旦好)などがある。

中置(なかおき)
10月始めから開までの時期に、点前畳中央に風炉を据える扱いをすること。風炉は、ふつうの中央より左に据え、水指を釜の右側に置くが、10月にもなれば肌寒い日もあり火の気が恋しくなるため、火を少しでも客に近づける気持ちで、それまで道具畳の左に据えられていた風炉を真中に寄せ、その反対に、水を入れた水指は客から遠ざけ風炉の左に置く扱いをする。その場合、水指を置く場所が普段よりも狭くなるため、胴廻りが細く背の高い細水指を使用する。また風炉もできるだけ火が見え、暖かさを感じるものが用いられる。この季節が終わると、いよいよの季節となる。

中川浄益(なかがわ じょうえき)
千家十職の金物師。火箸灰匙、水次薬鑵などを作製。中川家の先祖は、越後で、戦国時代には武具の制作をしていたといわれ、初代紹益が天正年間に京都に上り、利休の茶道具を作り始めたとされる。当代11代。初代 紹益(1559〜1622)與十郎、紹高、道銅紹益ともいい、鎚物に優れ、千利休に薬鑵を認められたことに始まるとされる。二代 浄益(1593〜1670)太兵衛、重高。寛永年間に千家出入の職方となる。表千家四代江岑宗左より灰屋紹益と名前が紛らわしいことから、浄益に改めるよう申しつけがあり、これ以降、代々「浄益」を名乗る。また、妻は金森宗和の娘という。三代 浄益(1646〜1718)長十郎、重房、太兵衛。砂張の製品を作り始める。四代 浄益(1658〜1761)源吉、重忠。菊亭家より「友寿」の号を賜る。五代 浄益(1724〜1791)吉右衛門、頼重。六代 浄益(1766〜1833)吉右衛門、頼方、宗清。七代 浄益(1796〜1859)吉右衛門、頼実。書付にいがみの特徴があるところから「いがみ浄益」の名がある。印判に「頼実」「竹蔭七代」を用いる。八代 浄益(1830〜1877)吉右衛門、紹興。三井家手代麻田佐左衛門の子・幾三郎。九代 浄益(1849〜1911)益之助・紹芳。十代 浄益(1880〜1940)淳三郎・紹心。当代十一代 浄益(1920〜)十代の長男として生まれ、京都市立第二工業高校金属工芸科卒業。父死去の後、昭和15年(1940)に十一代清右衛門を襲名。紹真。

中里重利(なかざと しげとし)
唐津焼作家。昭和5年(1930)唐津焼の人間国宝12代中里太郎右衛門(無庵)の三男として生まれる。昭和27年(1952)日展入選。昭和40年(1965)日展特選・北斗賞を受賞。現代日本陶芸展では連続7回入選。昭和50年(1975)日本現代工芸美術展会員賞・文部大臣賞受賞。昭和52年(1977)日展会員、日本現代工芸美術評議員、日展審査員。昭和55年(1980)日本新工芸展会員賞・楠部賞受賞。昭和61年(1986)日展評議員。

中里 隆(なかざと たかし)
唐津焼作家。昭和12年(1937)唐津焼の人間国宝12代中里太郎右衛門(無庵)の五男として生まれる。昭和34年(1959)京都市立工芸指導所に学ぶ。昭和35年(1960)京都清水坂の松風栄一に入門。昭和36年(1961)佐賀県立窯業試験場で井上萬二らに轆轤の指導を受ける。朝日新聞社主催第十回現代日本陶芸展で陶彫「双魚」が第一席受賞。昭和46年(1971)種子島に渡り、西乃表市古園に築窯し、種子島焼を始める。昭和49年(1974)唐津に戻り唐津市見借に築窯、小山富士夫により「隆太窯」と命名。昭和60年(1985)現代陶芸選抜展賞受賞。長男の太郎右衛門窯13代中里太郎右衛門(逢庵)、三男の三玄窯の中里重利とともに中里三兄弟と称される。

中里太郎右衛門(なかざとたろうえもん)
元和元年(1615)に唐津藩の御用窯となって以来、400年近い歴史をもつ唐津焼の窯元。有田の「柿右衛門」「今右衛門」とならび「佐賀の三右衛門」と称される。
元禄14年(1701)唐津藩窯が築かれ、宝永4年(1707)、中里家4代太郎右衛門らは藩命により唐津坊主町に藩窯を築き、藩の御用品を焼き、さらに享保19年(1734)、唐津藩主土井大炊頭利実の命により、5代中里喜平次らが、坊主町から現在の唐人町へ藩窯を移し、御用窯「御茶碗窯」を築く。この窯で焼かれた器物は「献上唐津」と称され、窯は廃藩後も十一代中里天祐(1924年没)まで使用し今も中里太郎右衛門邸内に残る。
12代中里太郎右衛門(無庵)は、昭和2年(1927)旧唐津藩御用窯の「御茶碗窯」を継承。佐賀・長崎両県に広がる古唐津の窯跡を発掘調査し、唐津焼初期の割竹式登窯を復元築窯。ろくろの上に粘土紐を積み、指で継ぎ目を密着させ、あて木を内側からあて、外側を叩き板でたたきながら形作る、桃山時代の古唐津の叩きの技法を再現した。昭和51年(1976)「唐津焼」で人間国宝に認定される。昭和60年(1985)歿、90才。
当代13代中里太郎右衛門(逢庵)は、大正12年(1953)12代の長男として生まれ、本名は忠夫。昭和26年(1951)日展初入選、昭和31年(1956)北斗賞、昭和40年(1965)日展特選。昭和44年(1969)13代中里太郎右衛門を襲名。昭和51年(1976)日展評議員。昭和56年(1981)日展内閣総理大臣賞、昭和59年(1984)日本芸術院賞受賞。昭和60年(1985)から日展理事。

中立(なかだち)
茶事において、初座後座の間に、客がいったん茶室を出て、露地(通常内露地)の内腰掛へ移り休憩すること。この間、亭主は茶室の飾り付けをあらため、濃茶の準備をし、再び客を迎え入れる。

中次(なかつぎ)
薄茶器の一種。円筒の寸切形で、蓋と身の合わせ目(合口)が胴のほぼ中央にあるところからの呼称。『源流茶話』に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」とあるように、肩衝系の茶入挽家の形が中次とされる。ただ、『日葡辞書』に「ヤロウまたはnacatcugui 碾いた茶を入れるある種の小箱」、『雪間草』に「薬籠 当世の中次なり黒塗又やろうとも云」とあり、本来薬を入れる器である「薬器」「薬籠」からという説もある。円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)がある「真中次(しんなかつぎ)」、真中次の蓋の肩を面取りした「面中次(めんなかつぎ)」、面中次の蓋を浅くした「茶桶(ちゃおけ)」、茶桶の身の裾も面取りした「雪吹(ふぶき)」、茶桶の蓋を立上がりがほとんどない程浅くした「頭切(ずんぎり)」(筒切・寸胴切)、真中次の合口の部分が細く鼓を立てたような「立鼓(りゅうご)」、上下(蓋・身)を丸くした「丸中次(まるなかつぎ)」などがある。

長野裕(ながの ゆたか)
釜師。人間国宝 長野垤志(ながの てつし:1900〜1977)の次男。昭和16年(1941)生。日本伝統工芸展受賞2回、金工新作展受賞2回、東京支部展受賞3回。日本伝統工芸展鑑査委員。日本工芸会正会員。平成13年(2001)二代目長野垤志を襲名。

中村宗哲(なかむらそうてつ)

千家十職の塗師。 中村家の家祖は、豊臣秀吉の重臣中村式部少輔の臣で京都武者小路に隠栖していた。その隣家が千宗旦の二男甚右衛門(一翁宗守)が養子に入った塗師吉文字屋。一翁宗守が千姓に復姓の際、隣家の中村八兵衛に娘を嫁がせると同時に、吉岡家の家業である塗師の技も併せて継承させ、これが初代宗哲となる。『茶道筌蹄』に「宗哲 中村八兵衛勇山と号す、一翁宗守の婿也、始は蒔絵師なりしが塗師になりしは、もと一翁宗守は塗師吉文字屋甚右衛門方の養子になりたる人也、後ぬ師を中村八兵衛へ譲り茶人となるなり、夫より塗師を業とす」とある。 初代宗哲(1617〜1695)号は方寸庵、漆翁、杯斎。名は八兵衛。2代宗哲(1671〜1706)初代宗哲の子。号は汲斎、名を八兵衛。3代宗哲(1699〜1776)2代宗哲の子。名は方寸庵、漆桶、勇庵など。4代宗哲(1728〜1791)3代宗哲の婿養子。号を深斎、若年八郎兵衛宗哲と署名し、後年剃髪して宗哲となる。5代宗哲(1766〜1811)4代宗哲の婿養子。号を豹斎、俳号漆畝。名は八兵衛。6代宗哲(1794〜1839)5代宗哲の長男。号を揲斎、名を八郎兵衛為一。後に弟に代を譲り分家して「八郎兵衛宗哲」を名乗る。7代宗哲(1799〜1846)5代宗哲の次男。6代の弟。号は獏斎、俳号黒牡丹、名を八兵衛安一。尾州徳川家から得玄の印を拝領して「得玄宗哲」という。8代宗哲(1829〜1884)7代宗哲の子。号は到斎・聴雨・蜂老、名を八郎兵衛忠一。大綱和尚より聴雨の号を受く。9代宗哲(1856〜1911)8代宗哲の婿養子。号を英斎、俳号は一畝、名は喜三郎。10代尼宗哲(1862〜1926)。8代宗哲の四女。名は真。11代宗哲(1899〜1993)9代宗哲の次男。号は元斎、俳号九土、名は八郎兵衛。12代尼宗哲(1932〜2005)。11代宗哲の長女。名は弘子。昭和61年3月12代宗哲を襲名。13代宗哲(〜)。12代宗哲の次女。父は三代諏訪蘇山。名は公美。平成18年(2006)13代宗哲を襲名。


柳楽泰久(なぎら やすひさ)
陶芸作家。松江「寿康窯」窯元。昭和10年(1935)島根県簸川郡多伎町(出雲市)に生まれる。昭和41年(1966)日本現代工芸展入選。日展入選。昭和42年(1967)寿康窯を興し松露亭田部長右衛門朋之より窯名を授かる。昭和48年(1973)日本伝統工芸展奨励賞受賞。昭和50年(1975)日本工芸会正会員。昭和52年(1977)日本陶芸展入選。昭和61年(1986)田部美術館茶の湯の造形展奨励賞受賞。平成2年(1990)金重陶陽賞受賞。

名越浄味(なごし じょうみ)
京釜師。『釜師由諸書』に「京作紹鴎時代に京都天下一西村道仁、名越善正なり」とある名越善正の子が京都名越と江戸名越とに分家した後の京都名越初代 名越三昌が「浄味」と号し、俗に「古浄味」と称される。弥右衛門、浄林。慶長19年(1614)越前小掾に任じられ、京都大仏鐘を鋳る。寛永15年(1638)没70余歳。二代 昌高、弥右衛門、寛永16年(1639)没。三代 昌乗、弥右衛門、浄味と号し、のち昌乗斎と号す。宝永5年(1708)没。四代 三典、弥右衛門、初名を昌晴、剃髪後 浄味を号し、俗に「三典浄味」また「足切浄味」という。享保7年(1722)没。五代 弥右衛門、享保9年(1724)没。六代 昌光、弥右衛門、剃髪後 浄味を号す。宝暦9年(1759)没。七代 昌永、弥右衛門。八代 昌興、弥右衛門、剃髪後 浄味を号す。九代 昌暉、弥右衛門。十代 昌次。十一代 昌文。

梨子地(なしじ)
蒔絵の技法の一。梨地とも書く。主に文様以外の余白に蒔く地蒔(じまき)に用いる。器面に漆を塗り、漆の乾かぬうちに漆の上に金・銀の粉末(梨子地粉)を蒔き、上に梨子地漆を塗って、梨子地粉が露出しない程度に研ぎ出し、漆を通して梨子地粉が見えるもの。梨の果実の表皮に似ているのでこの名がある。鎌倉時代に生まれた技法で、江戸時代には技法が完成し、梨子地粉の蒔き方にも色々な工夫が行われ、梨子地粉をすきまなく蒔いた「詰梨子地」(つめなしじ)、金梨子地の中に大きく厚い平目粉をまばらに蒔いた「鹿の子梨子地」(かのこなしじ)、刑部梨子地粉といわれる不定形の金銀粉末を蒔いた「刑部梨子地」(ぎょうぶなしじ)などが行われた。「梨子地粉」(なしじふん)は、主に梨子地塗りに使われる金属粉の形状的分類で、金銀などの地金をやすりでおろして細かい粉にした「鑢粉」(やすりふん)を薄くのばし大小にふるいわけた「平目粉」(ひらめふん)をさらに圧延して薄く延ばしたもの。鎌倉・室町時代頃までは粉が厚く、いわゆる平目粉で塗面に金粉がのぞいているが、その後梨子地粉の製造が巧妙になり、時代が下るほど薄くなってくる。梨子地漆(なしじうるし)は、上質の透漆(すきうるし)に雌黄(しおう)またはくちなしの実の煮汁を混ぜて練り、上掛けして金銀粉を透かし見た時に発色が良いよう透明で黄色味をもたせた梨子地用の上塗漆。

茄子(なす)
丸形のやや下膨れで、口造りが細まった茶入。全体の形が茄子の実に似ている事に所以する名称。中国では油壺として使用されていたと考えられているが、日本に伝わり茶入として取り上げられ、古くは唐物茶入の最上位におかれた。『茶道秘録』に「茄子は茶入の中の頂上也。然る故に道具の中にては天子の御位に比する也。押出して小壷と茄子の茶入を云也。真行の台子の時は、茄子ならでは用ひぬ也。此時は必盆に載る也。」とある。

なだれ
釉薬が垂れ下がっているもの。「流」や「頽」の字を当てることもある。茶入では上釉のなだれが景色となり、ふつう置形をなす。釉なだれの先端に釉がたまっている釉溜を「露」と称する。

(なつめ)
利休形棗

薄茶器の一種で、最も一般的なもの。黒梅擬(クロウメモドキ)科の植物の棗(ナツメ)の実に形が似ているところからの呼称。他の薄茶器にくらべ器全体の角を取り曲面で出来ている。室町8代将軍足利義政(1436〜1490)の用命を被ったとされる村田珠光(1423〜1502)時代の塗師・羽田五郎(生没年不詳)が、初めて棗形茶器を作ったとされる。武野紹鴎(1502〜1555)が好みとして用い紹鴎在判(糸底に花押)の黒小棗(紹鴎棗)が伝わる。「棗」の語の初見は『今井宗久茶湯書抜』の永禄6年(1563)10月27日の項という。棗が塗物茶器として確たる位置を占めるのは利休(1522〜1591)の時代からとされる。珠光紹鴎利休と次第に寸法が小さくなっている。現在では、利休形棗と呼ばれる棗が定型となっており、大棗・中棗・小棗の三種があり、小棗濃茶用、大棗は薄茶専用、中棗は兼用とされる。濃茶には無地棗を用いる。その他、棗系の薄茶器には、大棗を平たくした「平棗」、小棗を上下に引き延ばした「長棗」、中棗で上部よりも下部の方が膨らみを帯びた「尻張(しりはり)棗」、中棗で胴が張った「胴張棗」、碁石を入れる容器に似た「碁筒(ごけ)棗」、まん丸い形で毬棗の別名がある「丸棗」、小棗で蓋から底へかけて次第に膨らんでいる尻張形で、五本の指で上から鷲掴みに取り扱う「鷲(わし)棗」。中棗と平棗の中間の寸法で白粉を解く容器を利用したことに始まる「白粉解(おしろいとき)棗」などがある。また、好み形により種々の名がある。『源流茶話』に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」、『槐記』に「大体棗は、茶入の挽家也。夫故文琳、丸壺、肩衝を始として、夫々の茶入の形に応じて、挽家はある物故、唐物廿四の挽家にある形より、外はなき筈也、と合点すべし。是大事の習也。」、『嬉遊笑覧』に「棗といふ器は、其形棗実に似たれば、やがてかくよべるにて、もと是も茶桶なるべし。棗も中次も皆然り。庭訓に茶箋茶桶茶巾と出たり。元来は桶といひしは曲げものなり。後には曲物ならぬをも桶といへり。」とある。


名取河(なとりがわ)

陸奥国の歌枕。宮城県と山形県の二口峠付近に源を発し仙台市長町の南東で広瀬川と合流し、名取市閖上で太平洋に注ぐ。「名取川瀬々の埋れ木あらはればいかにせんとか逢ひ見初めけん 」(読人不知 『古今集』)にみられるように、埋もれ木で名高い。埋もれ木とは太古地上に大繁茂していた植物が地中に埋没し樹種炭化作用をうけたもので工芸資材として珍重される。江戸期にはすべてが伊達家に収納され、その一部が宮中に献上された。
4代直斎宗守は九條家の諸太夫の家柄の出身で、伊達家より宮中に献上された埋木を九條家との縁で拝領する機会があり、直斎はこの埋木から四方錫縁(すずぶち)の香合を作らせた。長角錫縁の外見は埋もれ木の木地を生かし、身の内側に細い線描きにより川波のさわぐ模様の蒔絵がほどこされている。蓋裏に「名取河」、身の底部に「守(花押)」の文字が漆書されている。これには直斎の添状が「名取河香合送るとて 宗守 薫物の香や埋木の 花の友 官休庵 直斎花押)」とある。歴代家元による写しが造られ、波の蒔絵は流儀を代表する図柄となり、数々の道具に用いられている。


生爪(なまづめ)

古田織部所持の伊賀花入織部の愛蔵品であったが、懇望によって上田宗箇に譲られたものであるという。生爪の銘は、織部の宗箇宛て添状に「以上 花筒つめを はかし侯やうに存侯 宗是ことつて 進入侯茶入宗是ニ 可被遣侯来 春万々可得 貴意候間不 能詳侯 恐惶 古織部 大晦日重然(花押) 宗ケ老 人々御中」 とあり、「つめ(爪)をはかし侯やうに存侯」 と書かれたことに由来するという。伊丹屋宗不の書いた箱書には 「覚永九年二月朔日 道朴ヨリ来 古田織部殿秘蔵に所持侯を上田主水駿無理ニ御所望侯筒也 主水殿より道朴被申請候 いかやき花筒 道朴ヨリ形見ニ来ル 古織部殿そへ状有之」 とある。


南蛮砂張(なんばんさはり)
砂張の一。南蛮貿易によって日本にもたらされた、中国・東南アジアなどのものとされ、大名物に南蛮砂張淡路屋舟釣花入などがある。『万宝全書』の唐金物之次第に「高麗沙張 槌目なし、黒色也 南蛮沙張、槌目有るもあり、書写沙張 日本之物なり」とあり、黄みを帯びた白銅色できめが細かく、叩出しによる「虎肌」と称する、鎚跡の凹凸の痕跡が全体にあり、斑紋をなしている。

南蛮物(なんばんもの)
安南(ベトナム)、暹羅(シャム;タイ)、呂宋(ルソン;フィリピン)などで焼かれた焼物の総称。また中国南部のものや朝鮮半島の焼物が南蛮物とされている例もある。焼締の無釉陶の壷、瓶、鉢などが多く、室町時代以降、南蛮貿易によって日本にもたらされ、茶の湯の道具に見立てられ用いられるようになった。水指花入建水灰器などにその例は多い。

南蛮縄簾(なんばんなわすだれ)
南蛮物の一。胴部に櫛状の道具で縄簾を掛け連ねたような縦に平行な線を入れた櫛描文(くしがきもん)があるもの。鉄分の多い細やかな土を用い、全面が茶色一色に焼き上がり景色のない物が多い。水指建水などに見立てられている。南蛮縄簾水指は、筒形ないし寸切形をし、胴に櫛描文がつき、比較的整った姿をしている。安南(ベトナム)で作られたものとされる。この縄簾風の櫛描文が横に入ったものは別に横縄ともいう。

南方録(なんぼうろく)
利休に師事した堺の臨済宗大徳寺派南宗寺集雲庵主、南坊宗啓が利休から授かった口伝秘事を書き留めたものとされる茶書。南坊宗啓が『南方録』を完成したのは、利休没後二年目の文禄二年(1593)二月二十八日、利休の祥月命日のこととなっており、その翌月、南坊宗啓は飄然と何処かへ姿を消し、再び集雲庵に戻ることはなかったとされる。その93年ののち、貞亨三年(1686)福岡藩士立花実山よって書写され、その後実山によって新たに二巻を付加され秘蔵され、その披見は誓紙・血判をとったうえ読み聴かせる形で、極めて限られた範囲の中で厳重に行われたという(立花実山『岐路弁疑』)。 『南方録』の流布は、文化文政時代に入って目立ち、『南坊録』の書名も広まるが、『南方録』のほうが正しいようで「茶は南方の嘉木也」(『茶経』)より名付けられるとする。
この茶書が永らく尊重されてきたのは「利休にかえれ」を合言葉として元禄以降に隆昌した利休こそ茶の湯の正風であるとする風潮によるものと考えられている。ただ、現在伝来している『南方録』が利休時代の所産でないことも確かで、立花実山らが「利休にかえれ」を目指すあまり、その編述にさいし古風な趣を匂わせようと努めたため、かえってこの茶書に疑念を抱かせ、明治以降この『南方録』を「偽書」と見る向きも現れ、現在の研究では『南方録』は実山が収集した資料に創作を加えて編纂したものであるという見解が一般的である。 しかし、その内容は利休の茶の湯の本質を伝えており、立花実山らの編述書と見なしつつも、「利休への回帰」を人々に促す鮮烈な茶書として高く評価されている。

南鐐(なんりょう)
良質の銀の総称。本来は輸入された良質の銀を意味していたが、室町後期からは単に良質の銀を意味するようになった。南挺・南庭・南延ともいう。中国の銀の産地の一つに南鐐という地名があり、そこから銀の異名となった。

  
  
  
  
  
 

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