茶道用語

会津本郷焼(あいづほんごうやき)
会津(福島県)の焼物。蒲生氏郷が会津に入封し、文禄元年(1592)に葦名氏の「黒川城」を大改修し、黒川の地を若松、黒川城の名を鶴ヶ城と改めるが、このとき城郭の屋根を瓦葺きとするため播磨国(兵庫)から瓦工を招き、小田村(会津若松市花見ヶ丘)で黒瓦を製造したのが始まりとされる。その後、正保二年(1645)会津松平藩祖 保科正之が、美濃国から長沼(岩瀬郡長沼町)へ移り住んでいた陶工 水野源左衛門を召し抱え、釉をかけた赤瓦を、小田村と本郷村で焼かせた。特に本郷では、土が良質であったことにより、やがて陶器が製造されるようになり、また、水野家三代瀬戸右衛門成紀を将軍家御用の江戸高原焼へ弟子入りさせ、水簸法を学ばせるとともに、茶碗づくりの技術を修めさせた。その後、水野家から献上する茶碗には高台に巴印を削りだしたことから「巴茶碗」と呼ばれ、四代成行、五代成房も名工で、この三代から五代までの作品を古本郷と呼び珍重する。寛永12年(1800)瀬戸、美濃、京都、鍋島で学んだ佐藤伊兵衛が磁器の焼成に成功し、磁器も生産するようになる。

愛蓮説(あいれんせつ)
中国北宋の儒学者、周茂叔(しゅう もしゅく)の説(自分の意見を述べた文)。「水陸艸木之花、可愛者甚蕃。晋陶淵明独愛菊。自李唐来、世人甚愛牡丹。予独愛蓮之出淤泥而不染、濯清漣而不妖、中通外直、不蔓不枝、香遠益清、亭亭浮植、可遠観而不可褻翫焉。予謂、菊花之隠逸者也、牡丹花之富貴者也、蓮花之君子者也。噫、菊之愛、陶後鮮有聞。蓮之愛、同予者何人。牡丹之愛、宜乎衆矣。」(水陸草木の花、愛す可き者甚だ蕃し。晋の陶淵明は独り菊を愛せり。李唐自り来、世人甚だ牡丹を愛す。予は独り蓮の淤泥より出づるも染まらず、清漣に濯はるるも妖ならず。中通じ外直く、蔓せず枝せず、香遠くして益々清く、亭亭として浄く植ち、遠観す可くして褻翫す可からざるを愛す。予謂らく、菊は花の隠逸なる者なり、牡丹は花の富貴なる者なり、蓮は花の君子たる者なりと。噫、菊を之愛するは、陶の後聞く有る鮮し。蓮を之愛する、予に同じき者何人ぞ。牡丹を之愛するは、宜なるかな衆きこと)。周茂叔(1017〜1073)、諱は敦頤(とんい)。宋学の開祖。濂渓(れんけい)(湖南省道県)に住んでいたので、濂渓先生と呼ばれた。蓮の花を愛して「愛蓮説」を著し、菊を隠逸の花、牡丹を富貴の花、蓮を君子の花とした。「愛蓮説」を採録した『古文真宝後集』は室町時代の禅林で模本漢文集として愛読された。

青備前(あおびぜん)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。匣鉢(さやばち)の中や、入れ子になった品が、燃料の松の熾(おき)に覆われ蒸し焼きになり、素地中の鉄分が冷却時の還元雰囲気(酸素が少ない状態)で酸化第一鉄となり青灰色を呈したもの。素地中の鉄分量、焼成温度、冷却還元雰囲気の濃度などによって水灰色から黒に近い濃灰色まで様々な色が出る。
これとは別に、藤原楽山に代表される塩窯青焼による青備前がある。焼成の最後に焚口から塩を投入し、窯を密閉して窯全体に冷却還元を起こすもの。塩は青灰色の呈色のためではなく、窯内に塩を投入してガス状にし、塩と器表面の化学変化により、器表面をガラス化させ艶のある青を出す技法。食塩青。塩青焼。

赤絵(あかえ)
赤を主とする多彩の上絵付。色絵ともいう。白磁のまま、若しくは磁体に染付などほどこし透明釉薬を掛けて焼成させた後、赤色を主体に二・三色の顔料で上絵をほどこし再焼成してつくられる磁器、あるいはその図柄を赤絵と呼ぶ。 中国では宋赤絵がその先駆で、元末から明初にかけて景徳鎮で染付とともに焼かれるようになり、嘉靖年間(1521〜66)には完成期を迎える。中国で闘彩あるいは五彩と呼ぶものに相当するが、狭義に赤絵といえば、紅の上絵のまさるものをさす。色の数が多くなると五彩、金彩、銀彩を用いたものを金襴手、銀欄手。赤以外の色合いも鮮やかなものを錦手、染付と組み合わせたものを染錦ともいう。青花、すなわち染付に釉上の紅彩を配合したものは宣徳年間(1426〜1435)より出現し、成化年間(1465〜1487)には3、4色の上絵をほどこすようになった。嘉靖・万暦年間(1522〜1619)には多色の彩色をほとんど器物全面にほどこした五彩が出現した。わが国で一般に万暦赤絵と呼ばれるものがこれである。日本では伊万里 に始まり、古九谷・京焼などで焼かれた。 肥前有田では、明末清初の赤絵を取り入れた柿右衛門の赤絵がある。

赤織部(あかおりべ)
織部焼の一種。鉄分の多い赤土を素地として、文様は白泥で装飾されることが多く、中には鬼板(鉄釉)との組合せで文様が描かれたものがある。主に皿、小鉢、向付(むこうずけ)、茶碗などに多くみられる。

赤木明登(あかぎ あきと)
漆芸家。昭和37年(1962)岡山県金光町に生まれる。昭和59年(1984)中央大学文学部哲学科卒業。世界文化社入社。家庭画報編集部に配属。昭和63年(1988)退社後、輪島に移住。平成元年(1989)輪島塗下地職・岡本進に弟子入り。平成6年(1994)年季明け、礼奉公の後、独立。和紙を貼った独自の漆器づくりを始める。平成9年(1997)ドイツ国立美術館「日本の現代塗り物12人」に選ばれる。平成13年(2001)東京国立近代美術館「うつわをみる-暮らしに息づく工芸」に招待出品。平成16年(2004)ドイツ国立ディ・ノイエ・ザムルング美術館に作品が収蔵される。

暁の茶事(あかつきのちゃじ)
の季節において、極寒の朝の夜明けを楽しむ茶事。歳暮より2月にかけ、早朝5時頃からはじめられる。古くは暁会の名称はなく、すべて朝会と云い、夜を込めて露地入りしていたが、朝会の案内に夜を込めて行く事が稀になり、別に暁七ツ時(寅の刻。日の出の2時間前頃。およそ冬至では午前4時頃)に席入するものを暁会と称するようになったという。『茶道筌蹄』に「暁 七ツ時に露地入するなり。当時は七ツ半なり。」と、昔は午前4時に露地入したが、今は午前5時となったとし、「前日黄昏に露地へ水を打、燈籠并待合行燈まで火を入、暫して火を消し、暁七ツどきに火を入る也、或人の云、通草を宵に消したるまヽにてかき立て火をともすれば、残燈の趣有て一入風情あるよし、偖釜は前夜より仕懸置、客待合へ来るとき、炭を一ツ二ツ加へ、手水鉢の水を改め、迎ひ入るヽなり、偖生姜酒ぜんざい餅など様の物を出し、薄茶を寛々点て閑話をなす也、薄茶済て底を取、釜を勝手へ持ゆき、水を仕かけ濡釜にてかくる故、板釜置か竹釜置を用ゆ、しかし水をみな仕替るときは烹おそき故に、少しばかり水を仕替るがよし、偖炭手前済て膳を出す時、突上ゲを明ケ行燈を引キ、夜もほのぼのと明るが至極の時刻なれども、餘りにケヌキ合とせんとするはよろしからず、膳を出すに、汁は何、むかふはなにと、亭主より名乗もさびて面白し、小間にて突上ゲ窓の下へ参りがたき時は、末座へたのむべし、突上ゲなき席は、連子の戸を障子と仕替る、是も客へたのみてもよろし、偖中立までは随分ゆるゆるとなすべし、中立後は随分さらさらとなすべし、客もつヾきなど乞ふもよし」、『茶道望月集』に「当時は夜込とさへ云へば、何時も客入を聞て、何時も濡釜を仕掛て迎に出、客入て釜の濡色を見する事を、夜込の習とする抔と言説あり、古法にはなき事也、夫は前にも言如く、何とぞ故ありて、客七つ前にも路次入したる時の事と可知、子細は昔よりの法として、寅の刻より前の湯を宵の湯とし、後の水を当日の水とせし事なれば、七つ前に来る客には、七つ過例の料理前に炭をして後、其釜を勝手へ持入、下地の湯を捨て、新敷水を入替て持出、炉へ掛る仕方能と可知」、『南方録』に「総じて曉の火相を寅の火相と言ふ。則夫を朝會迄に用ふる。先寅の刻、宵よりつかへたる炉中を底より掃除し、井華水を汲んで釜を改め、一炭して水釜にて掛ける。凡今一度置添へて朝会客入の下火に能頃なり。夜込に客来の時刻限に応ずることなり。」とあり、暁の茶事では、初炭のあと、をいったん水屋に持ち帰り、湯を半分ほどあけ、そこへ井華水(せいかすい)をあふれるほど満たして柄杓で2〜3杓かき出し、このを再びに据える濡釜や、懐石のとき、小間天井の突上窓をあげ、暁の曙光をとり入れる習いがある。

上野焼(あがのやき)
遠州七窯の一つ。慶長7年(1602)細川忠興が豊前に入封したとき、文禄・慶長の役で加藤清正が連れ帰った釜山の城主尊益(そんえき)の子・尊楷(そんかい)を招き、士分に取り立て、茶陶を焼かせたのが始まりという。最初は城下町の菜園場村に築窯したが、慶長10年(1605)頃、上野邑に移り釜ノ口窯を築窯し、尊楷の名を上野喜蔵高国(あがの きぞう たかくに)に改める。寛永9年(1632)細川家が肥後国に移封されると尊楷も従い、八代において窯を築き高田焼を始めたが、上野には尊楷の三男の十時孫左衛門と娘婿の渡久左衛門が残り後を継ぎ、豊前小笠原藩の庇護を受け、享保年間(1716〜1736)には吉田家も加わり明治4年(1871)の廃藩置県まで焼成されたが小笠原藩の庇護を失い廃窯となり一時中断され、明治35年(1902年)に地方産業奨励の補助金を受け御用窯時代に製陶に携わった熊谷九八郎らの手により再興された。作は薄作りで、初期の品には土灰釉・藁灰釉・鉄釉を使っており、唐津古高取に似る。後に白釉地に「緑青流し」と呼ばれる上野青釉(銅緑釉)や三彩を掛ける。古作は無印で、巴印は幕末頃から使われ、十時家は「左巴に甫」、渡家は「右巴に高」、吉田家は「左巴に木」の窯印。

赤膚焼(あかはだやき)
奈良県五条町の陶器。遠州七窯の一つ。五条山では室町時代から土風炉(奈良風炉)などがつくられたが、『本朝陶器攷證』に「天正慶長の頃、大和大納言秀長卿思召にて、尾州常滑村より与九郎と申者御召よせ、窯相立焼はじめ、其御京都より治兵衛と云焼物師下りて焼立、夫より近来松平甲斐守様御隠居堯山翁、内々御世話有之候歟、何事やらん度々留窯に相成候よし、窯元ハ添下郡五條村と申所にて、土も五條山より取り候との事、其外委敷事ハ分りがたく候」とあり、天正年間(1573〜92)郡山の城主大和大納言秀長が尾張常滑の陶工与九郎を招いて開窯させたのが起こりともいわれるが不詳。『府県陶器沿革陶工伝統誌』に「正保年間に在りては、添下郡郡山に於て製せり、当時京師の陶工野々村仁清来て窯を開き、法を土人に伝ふ、故に其製品仁清焼に類するものあり」とあり、正保年間(1644〜1668)野々村仁清が立寄り製法を指導したとも伝えられる。その後大和郡山藩主柳沢堯山(1753〜1817)が京都清水より陶工伊之助、治兵衛の二人を招き窯を復興し郡山藩御用窯とし、堯山から拝領の勾玉形の「赤ハタ」印(凹印)を用いるようになったという。ただ「赤膚山」印は以前から使われていたともいう。堯山没後一時不振であったが、三代治兵衛の時代である天保(1830〜44)頃から郡山の数奇者奥田木白(1800〜1871)が治兵衛の窯で作陶を始め、仁清写しなど各種の写し物に巧みで、特に能人形は独壇場で赤膚焼の名を挙げた。作品には「赤膚山」印と「木白」印を捺している。『工芸志料』に「赤膚焼は正保年間、大和国添下郡の郡山に於いて製する所の者なり。京師の工人野々村仁清という者あり、此の地に来り始めて窯を開き土人に教えて器物を造らしむ。故にその製たるや仁清の造りし所の陶器の如し。既にして窯廃す。享和年間郡山の城主柳沢堯山、工人に命じて再び此の地に窯を開かしむ。其の土質白し、其の色は灰白色にして而して其の上に黒班の釉を施す、長門国の松本焼の如し。然れども酒器おおく食器は少し。毎器に(赤ハタ)の印を款す。工人業を伝えて今に至る。」、『本朝陶器攷證』に「赤膚焼 遠州時代は赤はだ山の池土を以て造る。土黄にしてこまかなり。堯山侯再興の時は、赤はだより半里ほど脇なる、五条山の土を以て造らせらる。土黄に赤きふありてあらし白土も有。」とある。

上り子椀(あがりこわん)
懐石家具の塗椀の一。端反りの落込み蓋で、壺皿(椀)のみ被せ蓋だが、落込み蓋もあるという。底は高台付で平皿(椀)のみ碁笥底となっている。会記での初見は『神屋宗湛日記献立』慶長2年(1597)2月25日納屋宗薫会で、それ以降、それまでの主流だった「鉢の子椀」に代わって頻出するようになるという。元禄4年(1691)刊『茶道要録』に「利休形諸道具之代付」として「上り子椀但シ三人前 十八銭目。替汁椀但シ一組 三銭目。二ノ椀 九銭目。大壺皿蓋共 同前。小壺同 同前。平皿同 同前。」とあり、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「黒塗上り子椀 利休形、坪は外蓋又内蓋もあり、平内蓋」とある。

阿古陀形(あこだなり)
器物の形状の一。南瓜の表面に似た、ほぼ等間隔の湾曲が並列した形の器物の総称。金冬瓜、紅南瓜とも称される阿古陀瓜の形状に似ているところからの名。茶入茶器香合水指花入、香炉、向付などに見られる。形物香合相撲番付には、大阿古陀、捻阿古陀、中阿古陀、角阿古陀、小阿古陀があげられている。

朝茶(あさちゃ)
茶事七式の一。朝会。風炉の時期において、夏の早朝に催される茶事。午前6時頃からはじめられ、席入初炭懐石中立濃茶続き薄茶の順に進められる。懐石は、向付に生魚をさけ、焼物を省いた一汁二菜が一般的で、替わりに香の物に青竹の箸を添えた鉢が早くに出る。朝からは新鮮な魚が手に入らなかったためといわれる。明和8年(1771)刊『茶道早合点』に「古茶の湯と云は、定りて朝の事なり」とあるように、利休の頃までは季節を問わず朝会が中心で、朝茶が酷暑の頃のものにとなったのは宗旦以後の元禄・享保の時代という。『貞要集』に「朝会と約束のときは、七ツ時分に支度をして可参、道の程遠近を考、七ツ過に待合へ可入、客揃候へば亭主迎に出、七ツ過に座入可有、極寒時分は、下火を多入置釜を揚、下火をひろげて、炉辺に寄申様にと挨拶有之也、路次に水を打不申、燈籠迎暗燈とうしんも短ク数三筋計、宵より待たる体に仕なし、あかつき方あかりのすごく無之様に仕候、小座敷の内は木地の暗燈出し申候、是は夜明て取入る時に、やすらかに有之故也、時分を見合、夜の内に炭を致候、ほのぼのと明る時分、路地の石燈籠、又は釣燈籠の火も消申節、替戸を取、圍の内暗燈を取入、膳を出し申候、古来は右の時分を第一に仕、朝会はやり申候、当代は朝会といへども夜明て路次入、五ツ時会席を出シ、此時は中立に水打申候、それも極寒の節は心得可有、風炉の茶湯には、朝会にても初後ともに水打申候、其外常の作法に替る事なし」とあり、昔は暁会という言葉はなく、朝会とのみの案内の時は暁七ツ時分(日の出の2時間前頃。およそ冬至では午前4時頃、夏至では午前2時半頃)に夜を込めて行くのが一般的だったという。

朝日焼(あさひやき)
京都府宇治市朝日山の陶器。遠州七窯の一つ。『本朝陶器攷證』に「朝日山之焼銘は、離宮社後之山を朝日山と云、右地名を以朝日焼と唱候哉のよし、初代慶長中之頃、宇治町に住居、奥村次郎右衛門歟、又は藤作とも相聞え、四代計り相続き候所、慶安年中之頃相絶、子孫無御座候、其後土器師之者も無之、朝日山之銘之字は、小堀遠州公之筆のよしにて、専ら茶器之類を焼候趣にて、種々焼立候よし」とあり、慶長年間(1596〜1615)奥村次郎右衛門藤作(陶作)が開窯したとされる。二代奥村藤作(陶作)が小堀遠州の指導を受けたため遠州七窯の一つに数えられおり、主に遠州好みの茶器を焼いたが、慶安(1648〜52)頃から一時絶えた。この時代の作を古朝日というが、多くは茶碗御本風が主である。素地は褐色で、釉肌に黒斑があり、多く刷毛目の櫛描きがある。二代目陶作の刻印「朝日」印は遠州筆の伝から俗に遠州印といわれ、「朝」の偏が「卓」になっている「卓朝日」印は遠州の三男小堀権十郎政尹筆で「権十郎印」といわれている。他に車扁の「車朝日」印、扁の頭が?になった「鍋蓋朝日」印などがある。文久元年(1861)に松林長兵衛が再興してから引続き今日に及んでいる。当代は15代松林豊斎。今の朝日焼は紅斑のいわゆる御本が特色で、土の違いによるそれぞれの窯変を「燔師」と「鹿背」に分けて呼んでいる。

芦田真阿(あしだ しんあ)
大阪の指物師。初代芦田真平。弘化3年(1846)〜大正2年(1913)。もと堂島に住んだが、株で失敗し、伏見町に移り、指物師に弟子入し、のち独立。二代芦田真阿。明治3年(1870)〜昭和3年(1928)。初代芦田真平の長男。本名真七。指真とも名乗る。木津宗泉と知り合い、のち愈好斎の好み物を作成するようになる。三代真阿。明治35年(1902)〜昭和28年(1953)。二代真阿の弟子。本名日根野幸三。二代真阿の三女房の婿養子となり三代を継ぐ。愈好斎の好み物を作成。

芦屋釜(あしやがま)
芦屋浜松図真形釜
重要文化財 
東京国立博物館蔵
羽は打ち欠かれている
鎌倉時代末期から桃山時代の天正年間にかけて筑前国(福岡県)遠賀川(おんががわ)の河口にある山鹿庄芦屋津(やまがのしょうあしやづ)で制作されたの総称。その頃より名声を博し、室町時代には茶の湯釜として、一世を風靡した。芦屋釜に関する文献では『看聞御記』の嘉吉3年(1443)正月廿二日条に見えるものが最も古い。多くの形は真形(しんなり)で、口は繰口(くりくち)、鐶付には鬼面(獅子面もある)が用いられており、胴部に羽をめぐらし(古いのほとんどは底の修理で打ちかかれている)、鋳肌は滑らかでいわゆる鯰肌(なまずはだ)、地にヘラ押しによる文様を表すことが多い。天文12年(1551)庇護者の戦国大名大内氏が陶晴賢に滅ぼされ、工人等は四散して播州・石見・伊予・京都・越前・伊勢などに移り芦屋風の釜を鋳造し、播州芦屋・石見芦屋などと呼ばれるように各地に分派した。 現在国の重要文化財に指定されている茶釜9点の内、8点が古芦屋釜、1点が古天明釜。貝原益軒の『筑前国続風土記』に「昔より此国遠賀郡芦屋里に鋳物師の良工有。元祖は元朝より帰化して上手なりしかば、菊桐の御紋の釜を鋳て禁中に捧げ、山鹿左近掾と称せらる。本姓は大田なれ共、芦屋の山鹿に居住せる故山鹿と称す。世に菊の釜、桐の釜とて、茶人の珍とするは此釜より起れり。」、『茶湯古事談』に「芦屋釜は摂津国のあしやにてはなし、筑前国の芦屋にて鋳釜なり、雪舟の下絵を最上とせり、雪舟は石見の人なりしか、時々芦屋の辺を通りありしを、治工請して下絵をかきもらひしといふ、一説には大内家其頃威勢さかんなりしゆへ、芦屋の治工をよひ、雪舟をも招きて、絵かかせ鋳させしといふ、松・杉・梅・竹の類なり、其子孫あれとも中頃切支丹の族を釜入有し時に、其釜を鋳たりしより、茶人芦屋の新釜を好ます、故に今世はつねの鍋釜をのみ鋳て渡世すとなん」とある。

跡見の茶事(あとみのちゃじ)
茶事のあとで、参会できなかった客から所望されて、その茶事の道具をそのまま使って催す茶事。『茶道筌蹄』に「跡見は朝茶正午の後に限る、夜咄には跡見なし、客は近辺まで来り、何方にて御案内を相待と亭主方へ申入るヽ也、亭主朝茶午時の茶済次第花を残し、ケ様の節は初めの客に花所望したるも宜し、客方へ案内をなす、客は案内に随て露地へ入る、亭主炭を一ツ二ツ置添て炉中を奇麗になし、但し火未落ず釜もよく烹るならば其ままにてもよし、偖水さしの前へ、袋をはずしたる茶器をかざりつけ、手水鉢の水をあらため迎に出る、但し露地へ水を打ず、客座につくとき、亭主茶碗を膝の脇にをき、勝手口明、如例挨拶して、直様に点茶をなし、客は茶入茶杓をかへし、一礼して退出するなり、夫程に急なる事もなき時は、濃茶の跡にて炭をなをし、菓子を出し、薄茶を点るもよし、菓子ははじめに待合に出しをくもよろし、元来跡見の趣意は、遠方へ旅立をする日限急にせまる歟、用事繁くして、半日の閑を得る事もならざるに、何とぞ此度の催に洩るヽ事の残念さよと、客方より乞ふ事故、誠に火急なる場合をたのしむことなれば、主客とも心得あるべき事也」、『槐記続編』に「跡見と云ことは、御成ならではなきこと也、今の跡見と云ことは、今日御茶ありと聞し、御残りあらば参り度と云の儀也、それ故今日のあとみと云ふ、又一つ其儀あるべしと仰なり、古へ秀吉などの跡見と云は、色々の名物を御成の為に設けたるが故に、此度ならで又見んことも難かるべしと云心にて、御跡を拝見する心なり、それ故二三人にかぎらず、七八人のこともあり、そのときは路次に立こととみへたり、今のは数も大かた極りあれば、茶の残りを所望する意なり、跡見にて大勢のときが、重子茶碗の作法あり」とある。

雨漏(あまもり)
高麗茶碗の一種。もともと不完全な焼成のため釉に生じた気泡やごく小さな疵を通して、永年の使用のうちに水分など異物が浸透したことにより雨漏の染みのような景色が生じたものを、茶人が呼び慣らしたもの。染みの模様は多く鼠色であるが中には紫がかかったものもある。雨漏には粉引のような柔らかなものや、堅手のものもあり、堅手のものは別に「雨漏堅手」と呼び慣らしている。

粟田口善法(あわたぐちぜんぽう)
 
室町後期の侘茶人。生没年不詳。善輔、善浦とも書く。村田珠光の弟子。京都粟田口に住み、手取釜ひとつで食事も茶の湯も行い、村田珠光も「胸ノ奇麗ナル者」と賞賛したという。豊臣秀吉が手取釜を召し上げようとしたとき、これを拒んで打ち割ったといわれ、後悔した秀吉は、千利休に命じて釜師辻越後に写しを作らせたという。この茄子形の手取釜と秀吉の朱印状が粟田口良恩寺に伝存するという。『山上宗二記』に「京堺に珠光の弟子多し、大抵聞及衆、松本・篠・道提・善法・古市播州・西福院・引拙」、「目利にて茶湯も上手、数寄の師匠をして世を渡るは茶湯者と云、一物も不持、胸の覚悟一、作分一、手柄一、此三箇条の調たるを侘数寄と云々、唐物所持、目利も茶湯も上手、此三箇も調ひ、一道に志深きは名人と云也、茶湯者と云は、松本・篠両人也、数寄者と云は、善法也、茶湯者の数寄者は古今の名人と云、珠光并引拙・紹鴎也」、「京粟田口の善法、間鍋一つにて一世の間、食をも茶湯もする也、此の善法がたのしみ、胸中の奇麗なる者とて珠光褒美せられたり」、『長闇堂記』に「粟田口の道善と云道心者の侘数奇有、手取なへ只ひとつを持て、常はこなかけみそをして、其なかを前なる川にてあらひ、茶の湯をわかし、数奇せしもの也、京へ鉢に出るにも、戸をかためす、心のたけきものなり、又、三井寺の麓にわひすきの道清といふもの有、信楽壷の六斤計も入を負て、宇治へ茶時分には行て、茶もらい帰りて、数奇せしもの也、大津衆かたられしは、京より茶のみに来る人あれは、のそきみて、肩衣十徳なきものには出あわぬ由もうされし、某ふとおもひより、行みれは、先以、其寺見事にしてさひけなく、戸口は鎖きひしくおろせり、只そのしかた何もしらぬつくり物とみへ、興さめかへりしなり」、『本阿弥行状記』に「粟田善法 禅海和尚(堺の東上市村住此僧手取鍋にて粥をにて後これをあらひて茶を煎ず) 與五郎(和州南都北市村住) 道六(所同し者故略之) この四人隠逸の異人にて、杓子にて粉炭をすくひ、炉中に提梁釜をかけ(今民間釣鍋)土居に円座をしき、主客の応対もなく、只茶を喫し楽しむ。かやうのものは只礼もなく雅もなく、変人にて習ふべからず、とわが友宗旦の噂被致し也。」、『茶道筌蹄』に「粟田口善法 無伝、侘茶人也、手取釜にて一生を楽む、手とり釜おのれは口がさし出たり、雑水たくと人にかたるな」、『続近世畸人伝』に「善輔(一作善法又善浦とも有り)は、粟田口に住む隠者也。其居は土間に炉をひらき、円座を敷て賓主の座をわかち、十能に炭をすくひて、そのまゝ炉に投ず、往来の馬士驕夫に茶をあたへ、物がたりせしめてたのしみ、昼夜のわかちなき人なり。糧つくれば、一瓢をならして人の施を乞ふ。皆其人がらを知りて、金銭米布をめぐむに、其ものゝある間は、家を出る事なし。炉にかくる所手取釜といふものにて、是にて飯を炊き、又湯をわかして、茶を喫す。其湯の沸時は、彷彿松濤声、昔日高遠幽邃趣と吟じて独笑す。手取釜おのれは口がさし出たぞ雑水たくと人にかたるな、と戯れし事もあり。豊太閤そのことを伝へきゝ給ひて、其手取釜を得て茶燕せよ、と利休に命ぜられければ、休すなはちゆきて、しかじかの御命の旨を伝ふるに、善輔聞くとひとしく色を損じ、此釜を奉ればあとに代りなし、よしなき釜故に、とかく物いはるゝも亦おもひの外なりと、やがて其釜を石に投じて打砕き、あらむつかしあみだが峰の影法師、とつぶやきたり。蒿蹊按、あみだが峰、古歌によめるは東南渋谷なれども、此粟田山にも此名をよびて、享保のころまでは茶毘所ありしに思へば、南のあみだがみねの下は鳥部野にて、もとの葬所なれば、のちに粟田にうつしたるにやあらむ。利休もあきれていはむかたなく、豊太閤は短慮におはしませば、いかゞあらむとおもひ煩へど、すべきやうもなければ、ありのまゝに申しけるに、かへりてみけしきよく、その善輔は真の道人なり。かれがもてるものを召しは我ひがごとぞ、とおほせて、そのころ伊勢阿野の津に越後といふ名誉の鋳物師あるに命じて、利休居士が見しまゝに、二つうつさせて、一つは善輔に、かの破たるつくのひとて賜ひ、一つは御物となる。善輔歿して後、その釜、粟田口の良恩寺に収まれり。其図左のごとし。(図略)またその手取釜の添文とてあり。手取釜并鉤、箱入鎖迄入念到来悦思召候。尚山中橘内木下半介可申也。 十月十一日 太閤御朱印 田中兵部大輔。花?云、田中兵部大輔は、その比の諸侯也。越後に御命を伝へて鋳させたる人ならむ。是は其時の御使番、山中、木下よりの清書也。別に持たる人の意にて、此善輔が釜の此寺にあるによりて、寄附したるならむか、善輔にはあづからざるもの也。彼太閤の御物は、或る大国の侯の御家に伝るとぞ。又細川玄旨法印も、此釜をうつせと阿野越後に仰られしに、御所の思召にてたゞ二つ鋳たる事に侍らへば、又同じ形に鋳候はむことは憚ありと辞しければ、理也とてざれ歌をよみて、さらば是を其釜に鋳付よ。これ同じものならぬ証拠也と仰しかば、やがて鋳てまゐらせけるとぞ。其ざれ歌は、手とり釜うぬが口よりさしいでゝこれは似せじやと人にかたるな、此釜、今も細川家に伝ふるよし也。又云、もとの手取釜の歌は、或説には堺の一路庵がよみしとも、又道六といふ人のよみしともいへど、此玄旨法印のうつしの戯歌にてみれば、善輔がよみしに疑なかるべし。蒿蹊評云、善輔茶を翫んで茶匠の窟に不落は陸羽盧同に勝れり。馬士驕夫をいとはず茶をあたへ物語せしむるは、宇治の亜相に似たり。しかも時の威権に屈せざるの一条は甚難して甚危し。幸にして免たるは天歟、そもそも無我の所以無敵歟。」とある。

粟田口焼(あわたぐちやき)
洛東粟田口で生産された陶器の総称で、いわゆる京焼の一。のち窯場が粟田一帯に拡大され粟田焼といわれるようになる。『本朝陶器攷證』に「「青蓮院御家領之内、山城国愛宕郡粟田口三條通蹴揚今道町江、寛永元年之頃、尾張国瀬戸と云所より、其性しれざる焼物師三文字屋九右衛門と申者、粟田之里へ来り居住し、専ら茶器を焼弘め候よし、夫より前、同町に陶工之者有無、段々探索いたし候共不詳、九右衛門関東江御召御茶碗御用相勤候ハ、三代将軍御治世中ニ候得共、旧記等無御座、初発年月不相分、同人陶工焼窯者、同町南側人家之裏、字華頂畑と云所ニ在、此窯連綿、当時同町焼物師一文字屋佐兵衛所持仕り、焼続き申候」、『青蓮院旧記』に「三文字屋九右衛門、粟田口三条通蹴上今道町に築窯」とあり、寛永元年(1624)瀬戸の焼物師 三文字屋九右衛門が瀬戸より来て粟田口三条に開窯したのに始まるとされる。印銘は粟田。『隔蓂記』の寛永15年(1638)五月二十日に「自大平五兵衛、茶入五ツ來。粟田口作兵衛焼之茶入、自此方、切形遣之茶入也。内々参ケ之約束、依然、弐ツ返于五兵衛也。参ツ留置也」とあるなど、初期には唐物写しの茶入をはじめ呉器伊羅保など高麗茶碗の写しなど茶器が作られた。御室窯の野々村仁清の色絵陶器が盛行するとその写し物も手がけ、色絵陶器が主流となる。

安藤雅信(あんどう まさのぶ)
陶芸作家。昭和32年(1957)岐阜県多治見市生まれ。昭和56年(1981)武蔵野美術大学彫刻科卒。昭和63年(1998)岐阜県多治見市に「ギャルリももぐさ」をオープン。

安南(あんなん)
安南(べトナム)で作られた陶磁器の総称。安南焼・安南手とも。「安南」の語は唐朝が辺境地域の支配のために設置した六都護府の一つ安南都護府に由来する。ベトナムでは中国陶磁器の影響のもとに早くから白磁・青磁が焼かれていたが、14、5世紀から染付赤絵の製作も始まり、室町末期から江戸前期にかけて多くの安南が舶載された。その文様は竜・獅子・鳳凰・鹿・鶴などの動物文と魚・蝶・蜻蛉のような魚虫類、草花は牡丹文・唐草文などがあるが、絵付けがゆるい。染付に用いられた胎土は、良質なカオリンが産出しないため純白にならず、全体に白化粧が施され、その上に文様を描き、灰分が多いため灰青色をおびた透明釉がかけられている。そのため肌合いに磁器のような透明感がなく乳濁し、元・明染付に比べ柔らかい印象となる。透明釉が釉裏の呉須をにじませて流れるような景色のものを「絞手(しぼりで)」と呼び、茶陶として喜ばれた。茶碗水指花入・鉢などがあり、安南染付・安南赤絵などの称がある。

安南写水指

安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)
安土桃山・江戸前期の僧・茶人。美濃生。天文23年(1554)〜寛永19年(1642)。名は日快、号を醒翁、俗名を平林平太夫。幼いとき美濃国浄音寺で出家し、京都禅林寺(永観堂)で甫叔に学んだ。慶長18年(1613)京都誓願寺五十五世法主となり紫衣を勅許される。茶道を古田織部に学び、晩年は誓願寺の境内に安楽庵を結んで風流の道を楽しんだ。近衛信尋・小堀遠州・松永貞徳らと交わる。自作及び蒐集した笑話を集め『醒睡笑』を起筆、板倉重宗に献呈した。落語家の祖とされる。

  
  
  
  
  
 

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