茶道用語

迎付(むかえつけ)
茶事の時、亭主が露地の腰掛で待っている客を迎えに出ること。中門を境に主客が黙礼をかわす。一般的には、客は寄付に揃い亭主よりの案内をうけると露地に出て腰掛に進み、腰掛の下座に円座が重ねられ上に莨盆が置かれているので、次客と詰が腰掛の円座を配り、莨盆を正客の脇に置き、客一同円座に座り亭主の迎え付けを待つ。亭主は、座掃にて席中を清め、最後に音をたてて出入口から掃き出し、次に水を張った倶利桶を持って露地に下り、蹲踞の上水を汲み出し、蹲踞の周りを濡らしてから柄杓の柄を清め、倶利桶の水を音を立てて蹲踞から溢れるように注ぎ、倶利桶を戻したあと中門に向う。客は亭主の姿が見えたら腰掛を立ち、中門のほうに進む。亭主は門を開いて亭主石の上に立ち、中門を挟んで、主客がつくばって無言の一礼をし挨拶を交わす。黙礼後、亭主は手がかりを残して閉め、客はその場で亭主が席のほうに戻る後姿を見送り、いったん腰掛に戻り頃合いを見計らって正客から順に蹲踞に進み、右手で柄杓に手水鉢の水をたっぷり汲み、柄杓半分の水で左手を清め、持ちかえて残りの水で右手を清め、再び右手に柄杓を持ちかえ、水を汲み左手に水を受け、手に受けた水で口をすすぎ、最後に残った水を静かに柄杓を立て流しながら柄杓の柄を清め、元に戻す。詰は客一同が腰掛から立つと、円座と莨盆を元あったように戻し、蹲踞を使う前に中門を閉め、掛金を掛ける。後座席入をする時は、亭主は迎付のかわりに銅鑼や喚鐘で合図をする。

ムキ栗(むきぐり)
長次郎作の黒楽茶碗。上部が四角形、下部が円形という特殊な形で、一つしか伝世していない。口縁は平。高台内には兜巾渦巻(中央が盛り上がった渦巻形の削りあと)がある。黒色がくすんで羊羹色をしている。命銘は表千家六代覚々斎(1678〜1730)か。内箱蓋裏書付、表千家八代卒啄斎宗左(1744〜1808)「長次郎黒四方茶わん 覚々銘ムキ栗 添状トモ(花押)」。外箱蓋表書付「四角 長次郎作 利休所持」。外箱蓋裏書付「利休好長次郎焼四方黒茶碗」

向付(むこうづけ)
懐石道具の一。折敷の手前に飯碗や汁碗が置かれ、その向う正面に置き付けるところからの呼称。向(むこう)、お向などともいう。向付は、季節や小間・広間など、それぞれの時と処に応じて使用される。春季には明るい色調のもの、夏季には染付の平皿風のものや、涼味を感じさせる義山が用いられ、秋季には「割山椒」(われざんしょう)など地味な侘びたもの、冬季には筒型の少し深い「筒向」(つつむこう)や、蒸物などの温かいものを盛る蓋付の「蓋向」(ふたむこう)が多く用いられる。深い鉢形を「深向」(ふかむこう)、浅い皿形のものを「平向」(ひらむこう)といい、深い器形の向付を「のぞき」ともいう。「寄向」(よせむこう)といい、名残などのときに、一同に揃いの物を出さず、ひとりひとり別々のものを使うこともある。また、向付に盛る料理も向付と呼ばれ、主に魚介類の造り身が盛られる。朝茶では生の魚介類を避け、一塩物や精進物が用いられる。

結び柳(むすびやなぎ)
初釜の飾りで、柳の枝をたわめ曲げて輪に結び、の柳釘などに掛けた青竹などの花入から長く垂らしたもの。綰柳(わんりゅう)ともいう。「綰」とは曲げて輪にするという意。中国北魏(386〜534)の賈思〓(かしきよう)が著した農書『齊民要術』に「正月旦、取楊柳枝著戸上、百鬼不入家」(正月の朝、楊柳の枝を戸口に挿しておけば、百鬼が家に入らない)とある。また「柳」を「竜」に通ずるものとし、進士に合格する登竜門にあやかろうと、橋のたもとにある柳の枝を一枝折って子に与え、竜(柳)になれと子を励まし、出世を祝ったという。唐の 張喬の詩「寄維揚故人」(維楊の故人に寄す)に「離別河邊綰柳條、千山萬水玉人遙。」 (離別河辺に柳条を結ぶ、仙山万水玉人遥かなり) とあり、昔の中国では人と別れるとき、送る者と送られる者が、双方柳の枝を持って、柳の枝と枝を結び合わせて別れる風習があった。柳枝を結ぶとは、曲げて輪にすることをいい、これは柳の枝がしなやかでよく曲がるので輪とし、無事に回転して帰るように旅中の平安を祈る意をふくませたものという。 この故事から、利休が送別の花として「鶴一声胡銅鶴首花瓶(つるのひとこえこどうつるくびかへい)」に柳を結んで入れたのが,茶席で用いられた最初ではないかといわれる。

村瀬治兵衛(むらせ じへい)
木地師・塗師。初代治兵衛は、明治30年(1897)名古屋の木地師の家に生まれる。「透かすと向こう側の光が見える」といわれたほどの薄手の挽物を得意とし、薄挽きの中に大胆さがある作風とされ、魯山人の木地師、塗師としても知られる。晩年は、樂茶碗の制作でも名を知られる。2代治兵衛は、昭和2年(1927)名古屋生まれ。県立工業学校図案科を卒業して家業に従事し、根来塗・独楽塗を得意とし、現在の治兵衛の作風を確立した。昭和51年(1976)2代治兵衛を襲名。日々庵鈴木宗保氏、立花大亀老師の薫陶を受ける。3代治兵衛は、昭和32年(1957)東京生まれ。東京造形大学彫刻科を卒業して家業に従事し、平成13年(2001)3代目治兵衛を襲名。

村田珠光(むらたじゅこう)
応永30年(1423)〜文亀2年(1502)。奈良御門の村田杢市検校の子。11歳のとき称名寺の法林院に入り僧となったが若くして茶を好み当時流行していた奈良流という闘茶にふけり、20歳のころより出家の身を厭ひ寺役を怠ったので両親と寺の両方から勘当され25歳にして還俗した。放浪ののち奈良から上洛し商人として財をなし、のち一休宗純に参禅し、その印可として「圜悟墨跡」を与えられた。『山上宗二記』に「珠光、開山。」とあり、わび茶の開祖とされる。
南方録』には「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、松板のふちなし天井、小板ふき宝形造、一間床也。秘蔵の墨跡をかけ、台子を飾り給ふ。其後を切て及台を置合されし也。大方書院の飾物を置かれ候へ共、物数なども略ありし也。」とあり、茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを遊興から「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えた。東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われる。また、象牙や銀製でできた唐物の茶杓を竹の茶杓に替えたり、台子真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進める。加えて一休禅師から宋の圜悟禅師の墨跡を印可の証として授かって以来、掛物を仏画や唐絵に代わって禅宗の墨跡を掛けるようになる。『山上宗二記』に「珠光の云われしは、藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相なる座敷に名物置きたるが好し。」とあるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の様子がみられる。

  
  
  
  
  
 

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