茶道用語

陶器考(とうきこう)
田内米三郎(梅軒)著の陶磁器の解説書。「陶器考 全」と「陶器考 附録」からなる。前者は嘉永7年(1854)序の、南蛮・安南・呂宋・高麗物などの概説。後者は安政2年(1855)序で、日本陶磁を窯別に解説する。内容は江戸末期の通説が多い。遠州好七窯の称の初出という。明治16年(1883)京都 西村九郎右衛門刊行により流布したという。

道入(どうにゅう)
楽家三代。慶長4(1599)〜明暦2年(1656)。楽家2代 常慶の長男として生まれる。名は吉兵衛、のち吉左衛門、剃髪して道入、別名「ノンカウ」。存命中より「樂の名手」と称えられ、楽家歴代随一の名工とされる。本阿弥光悦の『本阿弥行状記』には「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に樂等の伝を譲り得て、慰に焼く事なり。後代吉兵衛が作は重宝すべし、しかれど当代は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」とある。長次郎常慶の古楽の作風から脱し、釉や窯の改良により、釉薬がよく溶け光沢のある優雅な楽茶碗を完成させた。作品は大ぶり、のびやかな器形で力強く、総じて薄作り。口縁は薄く削り込まれた蛤端(はまぐりば)で、口作りに凹凸のうねりをつける「五岳(ごがく)」といわれるものの基本をつくる。焼成温度が高くなったために、黒・赤釉ともによく溶けて光沢がある。窯変、黄土がけ、飴釉(あめぐすり)の使用、かけ外しなど釉技も変化に富んでいる。薄手の口づくりや大きな見込みにも特色がある。また、黒釉を胴の上部に何度も塗り重ね、焼いているうちに熔けた黒柚が、下部の薄い釉の上に幕のように垂れ下る幕釉(まくぐすり)の技法を生み出した。この時、黒釉中の不純物のため幕状の裾が美しい青白色の、帯状の窯変をおこすことがある。これを蛇蝎釉(だかつゆう)とよぶ。高台土見せのものもある。ノンコウ七種として、黒楽の「獅子」「升」「千鳥」「稲妻」、赤楽の「鳳林(ほうりん)」「若山」「鵺(ぬえ)」がある。銘印は大小二種あり「樂」の字の中の「白」が「自」となっていて「自樂印」と称される。

同朋衆(どうぼうしゅう)
法体(ほったい)で、将軍・大名に近侍して殿中の雑役や諸芸に従事した者。同朋の名は「童坊」あるいは「同行同朋」からきたものといわれる。阿弥号(あみごう)を用い、剃髪(ていはつ)をし法体(出家姿)となる。「阿弥」は、一遍上人のひろめた時宗の信徒に許された号で「南無阿弥陀仏」の中2文字をとったものといわれる。もとは、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に随い、合戦での死者に十念を授け、菩提を弔い、葬送し、遺品を家族に届け、合戦のないときは、和歌や連歌、茶の湯をはじめ様々の雑芸などにも奉仕した。やがて室町初期に幕府の職制に次第に組み込まれ、将軍の近くにいて芸事をはじめ、もろもろの雑務を担当するようになった。猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥などが、足利義教・義政の同朋衆を務めた。

東陽坊釜 (とうようぼうがま)
茶湯釜の一。利休好み。『茶道筌蹄』に「東陽坊 天猫作。筒釜鬼面。鉄のカケゴ蓋有。アゲ底。ケキリ真鍮の丸鐶。利休所持を真如堂東陽坊へ送りし故に、東陽坊の名あり。」とある。『茶窓閑話』に「京師真如堂の僧に東陽坊といふあり茶道を好みて。利休の弟子となり尤侘数寄の名誉ありけり。」とある東陽坊長盛に送ったことから、あるいは真如堂東陽坊に送ったことから付されたといわれる。東陽坊長盛(1515〜1598)は、安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人。京都真如堂東陽坊住職。号は宗珍。茶は千利休に学ぶ。薄茶の先達といわれる。長次郎作黒楽茶碗「東陽坊」などを所持したことで知られる。北野大茶会で東陽坊長盛の好みによってつくられた副席とつたえられる茶室「東陽坊」が建仁寺方丈裏庭にある。

遠山(とおやま)
器物の文様・形状の一。遠山とは、遠くの山、遠くに見える山のことで、道具の模様や部分が遠山の形に似ているものをいう。茶壷においては、茶壷の肩部に箆などで付けられた、山形あるいは波形の沈線。『茶具備討集』に「肩以箆鋭画連山之形也」(肩に箆のさきを以って連山の形を画くなり)とある。ときに肩部に釉薬がなだれかかったものをいう。茶壷の胴部にあるものは「裾野」と呼んでいる。

兜巾(ときん)
修験道の山伏がかぶる小さな布製の頭巾(ずきん)。大日如来の五智の宝冠を擬したもので、無明煩悩を示す黒い漆塗の布で造り、十二因縁にかたどって12の襞をとり、不動明王の八葉蓮華にちなみ前八分にかぶり、十八界を表わす1尺8寸の紐で頤に結びとめるものという。また、その形状をした器物をいう。茶碗などでは、高台の内側の削り痕の中央部が突起をなしているものを兜巾といい、兜巾のある高台を「兜巾高台」という。茶杓の先端である露先の形状が兜巾になった「兜巾形」がある。

徳元(とくげん)
安土桃山時代の鍛冶師。奈良の人。姓は金森。おもに具足を製作し、他に蓋置・火箸・鐶などの茶道具を手がけた。

得入(とくにゅう)
楽家8代。延享2年(1745)〜安永3年(1774)29歳。7代長入の長男。宝暦12年(1762)8代吉左衛門を襲名。明和7年(1770)剃髪隠居して佐兵衛と号す。得入の名は没後25回忌において送られた。三十歳で歿したため、作品数は少なく、長入の作行きの影響がうかがわれる。大部分が赤茶碗で、作風は穏やか。高台の中には兜巾渦巻がある。黒樂の「玉の絵茶碗」に金入りのものがあり「得玉」といって喜ばれる。印は、楽の中央の白の中の「一」が点になっている。

床(とこ)
 「琵琶床」 床の一部に飾り棚風の地袋があり、この棚に、琵琶を飾ったところから琵琶床という。
 
座敷において掛物花入などを飾る場所のこと。『南方録』に「掛物ほど第一の道具はなし」とあるように、客は席入すると、まず床前に進み掛物を拝見することとなっており、会記においても床として掛物を記する事が慣わしとなっている。一般的な形として、床柱を立て、足元に床框(とこがまち)、上部に落掛(おとしがけ)を設け、床(ゆか)部分にはが敷かれる。またこれらを略したり変形したものもあり、床柱を立てないものに、壁の一部に掛軸が掛けられようにしてある「壁床(かべどこ)」、壁の前に板や台を置いた「置床(おきどこ)」、落掛けだけの「釣床(つりどこ)」、床框をつけず、床と室内の床の高さが同じ「踏込床(ふみこみどこ)」、床框のかわりに蹴込板をつけた「蹴込床(けこみどこ)」、床の内側の隅の柱を見せないないよう天井まで土壁で塗りまわした「室床(むろとこ)」、前面の片側に袖壁がつけられた「袋床(ふくろどこ)」、袋床の落し掛けと袖壁の壁止めがなく、壁が塗り回しになっている「洞床(ほらどこ)」などがある。『茶話指月集』に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。」、『茶湯古事談』に「紹鴎か四畳半は一間床也、道安か四尺三寸に縮めし床を利休見て、是は一段よしとて其後四畳半建し時に四尺三寸になせしより、今も大かた四尺三寸床にすとなん」とある。

土佐光貞(とさ みつさだ)
江戸時代中後期の画家。元文3年(1738)〜文化3年(1806)。土佐派別家初代。土佐派十九代土佐光芳の次男。幼名茂松丸。字は士享。号は廷蘭。初め内匠と名乗る。宝暦4年(1754)従六位上、内匠大屬となり、本家とは別に一家を立て、禁裏絵所預となる。同11年正六位下、同13年内匠大允、明和元年(1764)左近衛将監.同5年従五位下、安永4年(1775)従五位上、土佐守、天明2年(1782)正五位下、政4年(1792)従四位下、享和2年(1802)従四位上に叙せられた。明和元年(1764)、同8年(1771)、天明7年(1787)等の大嘗会悠紀主基屏風を描く。寛政度内裏造営では清凉殿の障壁画を描いた。墓は京都知恩寺にある。

斗々屋茶碗(ととや ちゃわん)
高麗茶碗の一種。斗々屋の名は、利休が堺の魚屋の棚から見出したからとも、堺の商人・斗々屋所持の茶碗からともいわれる。平茶碗のような形が多く、薄手でやや堅め、半透明の釉がごく薄くかかる。俗に「こし土の斗々屋」というように、土が細かく、肌には細かく鮮やかな轆轤目があり、腰に段がつき、竹節高台で、箆削(へらけず)りによる縮緬皺(ちりめんじわ)があり、削り残しの兜巾(ときん)が立っている。その様子が椎茸の裏側に似ているので「椎茸高台」と呼び、特徴となっている。素地は鉄分が多く赤褐色にあがったものが多いが、青みがかかったものは青斗々屋として上作とされる。

土風炉(どぶろ)
土を焼いて作った風炉。磨き上げて乾燥させ素焼きし表面を燻し上げ黒く焼いた黒陶。焼締めたあと外側を研磨し漆を施したものや、黒色のほか灰茶色の素地に黒褐色の窯変のある雲華(うんげ)と呼ばれるものもある。文政13年(1830)序の喜多村信節の『嬉遊笑覧』に「土風炉は奈良をもとゝす」とあり、奈良の春日大社の土器師が造り出したのがはじめといわれ「奈良風炉」とも呼ばれる。「唐銅切合風炉」の形状を模した火鉢形の眉風炉「透木風炉」から始まり、「紹鴎風炉」「利休形眉風炉」へと変化し、やがて「眉」を取り去った前欠風炉(頬当風炉)の「利休面取風炉」や「道安風炉」、「雲龍風炉」「紅鉢風炉」「鳳凰風炉」などが造られる。眉のあるものを「真」、眉のないものを「行」とする。土風炉の炭点前にかぎって、まき灰をし、敷板は横に鉋目のある荒目板を用いる。安芸藩の儒医 黒川道祐(?〜1691)のまとめた山城国の地誌『雍州府志』に「号土風炉元南部宗善(永楽善五郎家の先祖南都土器座西村家二代宗善:〜1594)之所造為上品」、正徳二年(1712)の図説百科辞書『和漢三才図絵』に「奈良風炉也陶工称天下一宗四郎(永楽善五郎家の先祖南都土器座西村家三代宗全の弟)」とあり、今の永楽家が土風炉師として名を上げていたことがわかる。

銅鑼(どら)
金属製の打楽器で、丸盆形のもの。砂張製が最もすばらしい音色を出す。小間の茶事に用いられ、中立して腰掛で待つ客に、茶席の準備がととのったことを知らせるために打つ。縁に紐を付け、天井につるしたり、木製の枠につるしたりして、中央部の半球状に膨らんでいる部分を、塗りまたは彫のある柄の先に球状の皮が付いた銅鑼撥(ばち)で打つ。銅鑼の打ち方は、大中小があり、強弱をつける。夜間には銅鑼の代わりに音の静かな喚鐘(かんしょう)が用いられるが、喚鐘は青銅製の小さな釣鐘で、茶会にあわせて様々な形態のものが用いられる。銅鑼は普通「大小大小中中大」と7点打ち、喚鐘は「大小大小大」と5点打つ。最初の大から小に移る時は間をあけ、中中は重ね打ちとし、最後の大は少し間をおいて打ちとめる。

緞子(どんす)
絹の紋織物の一種。段子または純子とも書く。経糸(織物の縦の長い方向の糸)と緯糸(織物の横幅方向の糸)が5本以上で織物の表面が経糸か緯糸だけで覆われているように見える繻子(しゅす:朱子)織のひとつ。普通は、経糸と緯糸が各五本ずつの五枚繻子の表裏の組織をそれぞれ地あるいは紋に用いたもの。経糸が緯糸を四本浮かし五本目の緯糸に潜り込むことから、経糸の渡りが大きく地合いが緩むために、手触りが柔らかくて光沢が良く、重量感がある。
南坊録』に「大方唐物名物などはどんす(緞子)袋多し、金入袋もまたかならず添てあり、普光院殿(足利義教)慈照院殿(足利義政)などの御時までは、渡り来る巻物おおよそはなり。金入錦こと更厚くして袋に用いがたし。どんす(緞子)の上品なるはうすくやはらかにて、専ら袋に用られしなり。その後唐へあつらへて、どんす(緞子)地の金入、好の如く織てわたりしゆえ、金入を用る人多し、されども東山殿時分の御賞翫と申せば、一入称することなるゆえ、むかしのどんす(緞子)をかけて古風を思ふ人もあり。所詮金入、金不入袋二つあるべきことなり」とあり、金襴が厚くて袋に用い難く緞子が使われたとする。仕覆としては茶入を痛めず品位もあり、仕覆の名物裂に緞子の数が多い。また『石州三百ケ条』に「昔ハ唐物ニハ古金襴、和物にはかんとう・純子の類を用、利休より布而唐物などに袋をかろく、かんとう・純子のたくひを用、和物なとハ古金襴の類を用いて袋をおもくする也」とあり唐物茶入の袋に緞子を用いるのは利休からとある。

富田焼(とんだやき)
江戸時代、赤松伊助(松山と号す)が、讃岐国志度で長崎から伝えた交趾焼の技法に基づいて源内焼(舜民焼)を焼いていた平賀源内(1728〜1779)の弟子となり陶法を学び、香川県大川郡富田西村の吉金に開窯した吉金窯が起こり。 大川郡富田は良質の製陶原料に恵まれ、最近の木村広山(富田焼窯元)と田中十三八による富田焼は富田の印を用い抹茶器・煎茶器・花器を製造している。 『陶器考』に「一啜斎宗守の好みたる風炉の敷瓦の小口に〓をおしたると、松露の香合あり、此時代のものには小き冨田の印あり、作ぶり信楽によく似て、水薬多く吹たり。」とある。

  
  
  
  
  
 

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