茶道用語

炉(ろ)
の一部を切って床下に備え付けた茶用の小さな囲炉裏のこと。1尺4寸四方で、通常は壁塗の炉壇が用いられる。11月はじめから5月はじめ頃まで茶席で湯をわかすために用いられる。『南方録』に「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、松板のふちなし天井、小板ふき宝形造、一間床也。秘蔵の墨跡をかけ、台子を飾り給ふ。其後炉を切て及台を置合されし也。」とあり、村田珠光が四畳半に初めて炉を切ったとされる。炉には、大炉、長炉、丸炉など色々あるが、『茶湯古事談』に「紹鴎の比まては炉の広さ一尺五寸七分半四方なりしか、余りひろ過て見苦しとて紹鴎一尺四寸四方に切初しより、今に其寸法を用ゆとなん」、 『南方録』 に「紹鴎、四畳半に炉ありといへども、いまだ炉の広狭定らず、の大小に随て切しなり。公と相談ありて、二畳敷出来、向炉隅切に台子のカネを取て、一尺四寸の炉を始られ、その後四畳半にも、いなか間四畳半には一尺三寸、京畳には一尺四寸なり。」、 「草庵の炉は、初は炉の寸法定まらず、紹鴎利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」とあり、利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用い、席中に切る点前の炉としては、1尺4寸四方に規格化されたとされる。炉の切り方には,「入炉 (いりろ)」 と「出炉 (でろ)」 とがある。「入炉」は、点前畳の中に入った炉で、「向炉」と「隅炉」がある。「出炉」は、点前畳に接した外に切った炉で、「四畳半切」と「台目切」がある。このおのおのに本勝手と逆勝手があるとすると合わせて 8 通りの炉の切り方があり得るので「八炉の法」が唱えられているが、本勝手が普通で、これは亭主の右側に客が座し、左が勝手付になる。また、大炉(おおろ)」は1尺4寸より大きい炉で、裏千家では玄々斎が北国の囲炉裏から好み「 大炉は一尺八寸四方四畳半左切が本法なり。 但し、六畳の席よろし」とし、逆勝手での点前がある。「長炉(ながろ)」は、長方形で水屋などに使う。「丸炉(がんろ)」は円形の鉄炉で、水屋の控えなどに使う。

轆轤目(ろくろめ)
轆轤(ろくろ)の上に粘土を置き、轆轤を回転させて指で粘土を引き上げて成形していくときに、轆轤の回転につれて指の痕が表面に周回条についたもの。一種の装飾として、茶入茶碗では見所になっている。箆(へら)、鉋(かんな)などによるものもある。

露地(ろじ)
茶室に付随する庭の通称。一般的に飛石、蹲踞、腰掛、石燈籠などが配される。露地とは、もともとは町屋の家と家とを結ぶ細長い通路のことで、茶室に通じる路のことを路地、あるいは道すがらという意味の路次の字をあてていた。『和泉草』に「古来は路地なしに、表に潜を切開き、座敷に直に入たる也。」、『長闇堂記』に「昔は四畳半えん差にして、六畳四畳土間屋根の下有手水、それにすわりぬけ石の石船すえ、又木をもほり、桶をもすへしなり。」とあり、古い時代には露地はなく表に潜戸を作り、この潜戸を通り『山上宗二記』の紹鴎座敷の指図に「坪ノ内」とみえるような細い通路を通って茶室に入り、手水鉢も縁側か軒の内にあったとされる。『茶式湖月抄』に「利休の時代は、何方も一重露地なり。往還の道路よりすぐに露地の大戸を開き内にいり、大戸のきわに腰掛あり、板縁または簀子等の麁相なる仕立なり。露地草庵みなこれ侘の茶の湯なれば、誠に中宿のやすらひ迄なり。其の後古田織部正、小堀遠州等にいたつて、万に自由よきやうとて堂腰掛などいふもの出来て、衣装等をも着更しなり。よつて衣装堂ともいふなり。家来従臣も、ここまては自由に往来なすがゆへに、今は一重うちに塀をかけ中傴を構へ此内にまた腰掛をつけ初入に主中くぐりまで迎に出る。」、三斎『細川茶湯之書』に「昔はかならず外の廬路口まで亭主迎に出たれ共、近年は廬路の内、中のしきりくヾり迄来り、外のくちひらきて、共の者までも外の腰かけにはいりて、そこにてかみゆひなどをし、衣裳をきる客人もあり。」、石州『三百箇條』に「外路次といふ事、昔ハ無之也、利休時分ハ少腰掛なとして待合にせしとなり。金森出雲守可重虎の門の向に屋敷有之、台徳院様(徳川秀忠)へ御茶差上候時に、始て待合を作りしと也、是より待合出来始候」とあるように、露地を垣根などで仕切り中門を配し、露地口から中門までの外露地と、中門から茶室までの内露地を作った二重露地、さらに外露地と内露地の間に中露地を加えた三重露地が出来上がってくるのは織部遠州の時代とされる。露地に飛石を据えることは『長闇堂記』に「路次に飛石するとの始を云に、東山殿の御時、洛外の千本に、道貞といふ侘数奇の者ありて、其名誉たるによりて、東山殿御感有て、御鷹野の帰るさに、道貞の庵へ御尋有し時、御脚口わらんづなりけれは、童朋に雑用を敷せて、御通り有しを学びて、其後石を直せるとなり」とあるが、『南方録』に「休の露地にとび石なき露地あり。その時は玄関の外に、ひくき竹すのこにても、板ばりにても、小ゑんを付て、げたにても、せきだにても、ふんぬぎて小ゑんにあがり、それより、くゞりにても、せうじにても、あけて入なり。」「もず野は、露地すべて芝生なり。とび石なき事相応なり。集雲のは苔地、草履のうら、しめりていかゞと思へども、石はこびむつかしくて、ふんぬぎにしてをくなり。」とあり、必ずしも全てに飛石が据えられたわけでもないようである。また露地に石燈籠を据えるのは、『貞要集』に「石燈籠路次に置候は、利休鳥辺野通りて、石燈籠の火残り、面白静成体思ひ出て、路次へ置申候よし、云伝有之候、又等持院にてあけはなれて、石燈籠の火を見て面白がり、夫より火を遅く消し申由云伝る」とあり、利休の晩年の事とされる。『茶窓閑話』に「紹鴎が利休へ路次の事をしへるとて心とめて見ればこそあれ秋の野の生にまじる花のいろいろ此歌にて得心せよとありしとかや。しかればそのかみは路次にも花咲く木草をきらはざりしが。小堀遠江守政一其座敷の花を賞鑑させんとて。路次に花ある木を栽られざりしより。今はなべてうゑぬ事となりし」とあり、遠州が露地に花の咲く木を嫌い、これは以後露地に花の咲く木を避けるようになったとある。露地の字が使われるようになるのは江戸中期とされ、『南方録』に「露地と云こと、紹鴎、利休、茶の本意これにとヾまる大切のことなるに、俊伝には幽宅以来伝授これ無き哉、またいづれその時忘却したるや、夢にもこの露地の沙汰なきゆへ、心ぎたなきことにも成けるなり。あまりに忘却して、露地と云文字さへ知らず。路地、路次、廬地などかきあやまれり。俊自筆の書等にも、路地、路次とかけり。この一事にて、俊伝の茶論ずるにたらざること知ぬべし。路次なども連続の字なれども、道路のことなり。かの露地の意味茶の大道なるを弁へずしては、何に依て茶とも湯とも云べきぞ。」、「露地は草庵寂寞の境をすへたる名なり、法華譬喩品に長者諸子すでに三界の火宅を出て、露地に居ると見えたり、又露地の白牛といふ、白露地ともいへり、世間の塵労垢染を離れ、一心清浄の無一物底を、強て名づけて白露地といふ」とあり、高い精神性を付与するようになる。

炉開き(ろびらき)
風炉の使用をやめてを使い始めること。開炉(かいろ)。を開き、初夏に摘んで寝かせていた新茶を初めて使う「口切」が行われるため「茶人の正月」と呼ばれる。普通、陰暦亥(い)の月の初亥(い)の日(2005年は11月11日)に開くとされる。中国から伝わり、平安時代に宮中行事となった「玄猪(げんちょ)」という儀式に由来するといわれ、陰暦十月上亥の日に餅を食すと万病が避けられるということで、その餅を亥子餅といい、また猪は子をたくさん産むことから子孫繁栄を祝うものとされたので、女房の間でお互いに餅を送りあうことが盛んに行われていた時期もあった。鎌倉時代の有職故実書『年中行事秘抄』に、「朱塗りの盤四枚に紙を立て、台の上に据え、女房がこれを取り、朝飼(あさがれい)に置く。次いで蔵人所の鉄臼に餅を入れて搗く。猪子形に作り、寝所の四隅に挿す」、鎌倉時代の事典『二中歴』に「亥子餅七種粉、大豆・小豆・大角豆・胡麻・粟・柿・糖」とある。また江戸時代には、亥は陰陽五行説の極陰(水性)にあたり、火難を逃れるというところから、この日にや炬燵を開き火鉢を出す習慣があったという。

炉縁(ろぶち)
真塗
(囲炉裏)を作る際、畳を切って中に炉壇を入れ、その上にかける木の枠のこと。炉縁は大別して木地縁と塗縁がある。木地は一般的に小間に用いられる。初期の炉縁は木地の「沢栗(さわぐり)」で、利休時代の名工として「久以(きゅうい)」「長以(ちょうい)」「半入(はんにゅう)」などがあり、それぞれに刻印を用いている。当時の木地縁は使うたびに洗ったので「洗い縁」とも呼ばれ、水に強い沢栗材が用いられた。他に黒柿・縞柿・桑・桜・紅梅・松・桐・杉等さまざまで、北山丸太や皮付丸太等の丸太物や、鉄刀木(たがやさん)・花梨などの唐木、社寺の古材を仕立てることある。木以外に竹を使用することもあり、角竹を使ったもの、木地に胡麻竹や煤竹を貼りつけたものもある。塗縁は、無地と蒔絵にわかれ、塗縁は一般的に広間(四畳半以上)で使用し、桧材真塗を正式とするが、あらゆる漆加工が使用される。塗には真塗溜塗掻合塗・朱塗・青漆・布摺・春慶・荒目等がある。蒔絵も、好みによって各種の文様が施される。
炉縁の寸法は、1尺4寸四方、高さ2寸2分5厘、天端1寸2分5厘、面取2分5厘を原則とし、田舎間の場合1尺3寸四方、また好みにより違いがある。 『南方録』 に 「草庵のは、初はの寸法定まらず、紹鴎利休、くれぐれ相談の上、大台子の法を以て万事をやつし用て、向炉一尺四寸に定めらるるなり」 とあり、利休が永禄12年(1560)の堺の茶会で用いている。 山田宗偏の『茶道要録』に「春は洗縁を用ゆ、陽気〓を挙る故に見て悪し、故に用、客毎に洗ひて用べし。沢栗の目通を以て作る。冬は塗縁を用ゆ、洗縁の古びたるを掻合に漆塗て用。是侘なり。又不侘人は真塗を用。是は檜地也。」、『茶湯古事談』に「炉縁、利休時代迄は四畳半の炉には真の塗縁、四畳半よりせまき座敷には栗のあらひ縁を用ひて、冬春の分ちなりし由、然に中比より冬はぬり縁、春は洗ひ縁といひ、又一説には片口・面桶もあたらしく、木地を用れは、口切には洗ひ縁、春に及んてはぬり縁を用ゆともいふ、一概には論しかたしとなん」とある。

  
  
  
  
  
 

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