茶道用語

濃茶(こいちゃ)
抹茶の一。玉露などと同じく若芽や若葉の時期に覆いをかぶせ直射日光が当たらないように栽培した茶の古木の新芽を蒸して乾燥したものを茶臼でひいてつくられたもの。薄茶に対しての語。一人分が茶杓にたっぷり3杓の茶を目安とし、まず一人一杓あてで人数分の茶を茶碗に入れてから、茶入を両手で手前に回しながら残りの茶を入れ、湯を必要量の半分程度を茶碗に入れ、茶筅で茶を少しずつ湯にとかし固練りしてから、服(飲み具合)のよいほどに湯を足して練り上げる。茶事においては、濃茶が最も大切なもてなしであり、連客の飲み回しとするのが普通(流儀により各服点もある)。この濃茶の飲み回しを「吸い茶」と言い、利休が始めたとされる。享保16年(1731)の序をもつ尾張藩士近松茂矩の編になる『茶湯古事談』には、「むかしハ濃茶を一人一服づつにたてしを、其間余り久しく、主客共に退屈なりとて、利休が吸茶に仕そめしとなん」。また『草人木』にも、「むかしハ独ニ一服つつの故(茶入れより茶を入れる回数は)ミすくい也(三掬い)。利休よりはすい茶なる故に、猶定なし。」とある。

香合(こうごう)
風炉の中で焚く「香」を入れる「盒子」(小さな蓋付の器)。炭手前のときに普通は、炭斗(すみとり)に入れて席中に持ち出し、炭をついだ後、火箸で香合より香を取り、下火の近くと、胴炭のあたりに入れる。炭点前がない場合は、床の間に紙釜敷(和紙を重ねて四つ折にしたもの)に載せて飾る。風炉には木地、塗物等の香合を使い、伽羅(きゃら)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などの香木を使う。には普通は陶磁器のものを使い、練香(ねりこう;香木の粉と蜂蜜などを練り上げた物)を使う。このような香合の使い分けは、茶会記を見る限り江戸時代中期、享保年間の頃からこのような傾向があるという。
古くは、「室礼(しつらい)」(座敷飾り)に香炉に付属して置かれ、大半は唐物の塗物であった。草庵の茶室でも香炉と一対で席中に持ち出し飾られたが、茶会記への初出は『松屋会記』天文11年(1542)4月8日に「床に香炉、立布袋香合」とあるもので、炭道具として独立したかたちでの香合は、『宗湛日記』文禄2年(1593)正月19日に「スミトリ ヘウタン ツイ朱ノ香合 ホリモノアリ スミノ上ニオキテ」とあり、文禄年間(1573〜1595)以降に炭手前が定着してからとされ、慶長年間に入ると『宗湛日記』慶長4年(1599)2月28日に「香合 今ヤキ」、『松屋会記』慶長6年(1601)11月20日に「炭斗フクヘ、桑箸、香合備前、御炭両度アリ」とあり、和物の焼物香合が登場する。炭手前灰器に濡灰を盛って使うようになると練香が使われるようになり、練香を塗物香合に入れると毀損の恐れがあるところから焼物香合が用いられ、『茶道筌蹄』に「黄瀬戸 根太、利休所持、一翁宗守伝来、今出羽侯にあり」とあり、天正年間から黄瀬戸が使用され、志野織部は慶長・元和の頃、同じ頃に次第に備前信楽伊賀唐津などが焼かれるようになる。唐物の焼物は茶会記への初出は和物の焼物より遅く寛永年間で、もとは日用雑器から取り上げたものが多く、『茶道筌蹄』に「香合は道具中にも至て軽き物ゆへ、利休百会にも香合の書付なし、夫故に名物も少なし、名物は堆朱青貝に限る」とあるように、古い時代ではそれほど重く扱われていないが、江戸時代後期、文化・文政年間になるころ、蓋置などとともに小物に趣向を凝らす事が盛んになり、唐物を中心に陶磁香合が重く扱われるようになり、安政2年(1855)に交趾染付呉州青磁祥瑞宋胡録などの唐物香合を主に215種で編集した『形物香合相撲番付』が制作され、後世の評価にも影響している。

柑子口(こうじぐち)
器物の形状の一。「かんすくち」「かんしこう」とも読む。口縁部が丸く膨らんでいる器形をいう。「柑子(こうじ)」は蜜柑の一種で、口縁部の膨らみが蜜柑に似ているところからの名称。中国では、この器形を「蒜頭」(ニンニク)という。漢時代にはこの口部を持った青銅器の瓶が多く作られ遺品が多く、漢銅器の形を写した蒜頭瓶は陶磁として元時代の青磁に製作されいる。

合子(ごうす)
蓋のある容器の総称。盒子。ごうし。『貞丈雑記』に「合子とも合器とも云は椀の事也、身とふたを合する故の名也」、『箋注倭名類聚抄』に「按、合子有蓋、故名合、猶謂香匳為香合、蛤蜊亦以有蓋得蛤名、則知今俗所用漆椀即是」とあり、蓋付の漆碗のこと。合子形(ごうすなり)は、蓋付の碗をかたどった扁球形のもの。
建水の一。元来は蓋物の身の方を利用したもの。形は深く、上部で口が開き、裾すぼまりで底は平らになっているもの。『茶道筌蹄』に「合子 物をはかる合なり」、『源流茶話』に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて」、『茶道望月集』に「是を台子にて用て建水中の真也、勿論唐金物也、口外へそりたる物也、又左もなきも有、ゑふご少し口の立たる物也、元来は書院座敷の本飾の時、棚下に飾りて塵壷に用し具と也、唐土にては、魚鳥の骨を吐入る為の用に飾ると也、然ども往古鎌倉の時代に、径山寺より渡りし台子の具はしからず、今和朝にて細工人の形として用る事、往古より写し伝へし形にや」とある。

高台(こうだい)
茶碗や皿鉢などの器の底裏にあって台状をなし、器胎を支えるもの。茶碗などでは見所となる。器の底に輪状にした土をつけて作る付高台(つけこうだい)と、轆轤で水挽きして器を成形したあと轆轤を回転させ「切り糸」(「しっぴき」ともいう)で切り離し、半は乾かしたあと底の土をヘラなどで削りだして作る削り出し高台に分けられる。高台を削り出さずに、糸切り跡を残したものを糸底(いとぞこ)という。高台は、その輪の形から「輪高台」「三日月高台」「面取高台」「蛇の目高台」「二重高台」、高台の内側の削り痕の状態から「糸切高台」「兜巾高台」「渦巻高台」「縮緬高台」「椎茸高台」「櫛高台」など、高台の足の状態によって「竹節高台」「撥高台」「切高台」「割高台」「桜高台」などがある。また高台の底部である畳付(たたみつき)の付着物の痕により「貝殻高台」「砂高台」などの名がある。

交趾(こうち)
交趾とは、前111年前漢の武帝が南越国(広東省・広西及びヴェトナム北部)を征服して置いた9郡の一つ。同郡は現在のヴェトナム北部のトンキン・デルタ地帯に位置していた。交阯と書かれることもある。唐の初期(7世紀)、交趾郡は交州と名を改められたが、以後も中国では、ヴェトナム人の国をさす名称として交趾を用いた。
交趾焼は、元・明時代に造られた軟陶質の三彩や 黄・緑・紫釉陶などの総称。名称は現在のベトナム北部を通商した商船 (交趾船)から付いたといわれ、主な産地は中国の南部地域(広東、福建等)の諸窯とされ、窯跡は不明とされていたが、近年の研究により、中国福建省平和県田抗で交趾の古窯が発見され、呉州染付などの産地とほぼ 同地域であることが解った。
香薬品の容器として渡来した交趾焼は、その異国情緒や美しさから茶人に香合として珍重され、茶道具として使われ続けている。
交趾手は、形成後、文様の輪郭を強い彫線や、堆線(細い線状の泥土を地上に貼り付けていく加飾技法)で区切り、内外に釉薬が混ざらないように配色する。この場合彫線や、泥土の線は異色の混融防ぐ役目を果たし、いくつかの色彩が対照の妙を発揮する。緑、紫、青、黄、茶等の色がある。

弘入(こうにゅう)
楽家12代。安政4年(1857)〜昭和7年(1932)75歳。11代慶入の長男。明治4年(1871)12代吉左衛門を襲名。大正8年(1919)剃髪隠居して弘入と号す。箆目も強く、二重の幕釉を得意としている。赤楽には、青い窯変を出したものが多い。印は、大正8年(1919)に隠居するまでは「楽」の中央の「白」の右側が「8」になった「8楽印」を使い、隠居後は「楽」の中央の「白」の左右が炎のようになっている。明治23年(1890)長次郎三百回忌を執り行い、赤茶碗を300個作り、碌々斎筆の草楽印を使う。

紅毛焼(こうもうやき)

江戸時代にオランダ船により舶載された陶磁器の総称。阿蘭陀焼、和蘭焼ともいう。鎖国下の江戸時代の日本ではオランダとのみ正式な交易が行われていたため、元来はオランダを意味した「紅毛」「阿蘭陀」「和蘭」は、「西洋」と同じ意味で使われた。オランダのデルフト、イギリスのウエッジウッド、イタリアのマジョリカや、フランス、スペイン、ポルトガル、さらには中近東諸国のものまで含まれる。藍・黄・緑・赤などで胴の前後に煙草の葉を思わせる文様と蔓唐草文楊を描き胴の上段と共蓋の外周に累座が描かれた容器を水指に見立てたものは「莨葉(たばこのは)水指」と呼ばれ珍重され、写しも多い。煙草の葉を輸入する際の容器であったとも言われるが、大中小さまざまな類品があり、水指花入茶器建水火入などに見立てられている。また、白地や青磁色の無地のものが、水指建水火入などに用いられている。


高麗茶碗(こうらいちゃわん)
朝鮮半島で焼かれた茶碗の総称。そのほとんどは李朝時代に焼かれたものであるが、当時、日本では朝鮮のことを高麗と呼んだため、この名がある。『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」とあるように利休の時代には高麗茶碗が盛んになる。このころまでに請来されたものには、古雲鶴三島・刷毛目・狂言袴・堅手粉引井戸熊川呉器蕎麦斗々屋柿の蔕などがある。慶長年間になると日本の注文によって焼かれた茶碗もあり、御所丸金海伊羅保・彫三島などがこの時期の注文茶碗ではないかと推測されている。江戸時代になると、対馬藩が朝鮮釜山の和館内に釜を築き朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせた御本茶碗がある。

香炉釉(こうろゆう)
釉薬の一。樂家二代の常慶がはじめた白い釉で、貫入が細かく黒く入る。香炉に多く使われたために、後世「常慶の香炉釉(こうろぐすり)」と呼ばれた。

呉器茶碗(ごき ちゃわん)
高麗茶碗の一種。御器・五器とも書く。呉器の名は、形が椀形で禅院で用いる飲食用の木椀の御器に似ているためといわれる。一般に大振りで丈が高く見込みが深く、高台は外に開いた「撥高台(ばちこうだい)」が特色とされる。素地は堅く白茶色で、薄青みがかった半透明の白釉がかかる。「大徳寺(だいとくじ)呉器」「紅葉(もみじ)呉器」「錐(きり)呉器」「番匠(ばんしょう)呉器」「尼(あま)呉器」などがある。「大徳寺呉器」は、室町時代に来日した朝鮮の使臣が大徳寺を宿舎とし帰国の折置いていったものを本歌とし、その同類を言う。形は大振りで、風格があり、高台はあまり高くないが、胴は伸びやかで雄大。口辺は端反っていない。「紅葉呉器」は、胴の窯変が赤味の窯変を見せている事でその名があり、呉器茶碗中の最上手とされる。「錐呉器」は、見込みが錐でえぐったように深く掘られて、高台の中にも反対に錐の先のように尖った兜巾が見られるのでこの名がある。「番匠呉器」は、形が粗野で釉調に潤いがなく番匠(大工)の使う木椀の様とのことでこの名がある。「尼呉器」は、呉器の中では小ぶりで丈が低く、ややかかえ口なのを尼に譬えたという。

古清水(こきよみず)
京焼の一種。一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(おくだ えいせん:1753〜1811)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称する。幕末に五条坂・清水地域が陶磁器の主流生産地となり、この地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前の色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締陶を含む磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もある。

古渓宗陳(こけい そうちん)
天文元年(1532)〜慶長2年(1597)。臨済宗の僧。大徳寺第117世住持。別号蒲菴。大慈広照禅師。越前朝倉氏の一族に生まれ、出家後足利学校で学ぶ。笑嶺宗訴の法を嗣いだ。信長の葬儀に導師をつとめる。秀吉が信長の菩提を弔うため建立した総見院の開山。利休の参禅の師で、利休大徳寺門前の屋敷に作った四畳半茶室「不審菴」の名は古渓宗陳に庵号をもとめ「不審花開今日春(ふしんはなひらくこんにちのはる)」という禅語からつけられたといわれる。利休は、天正10年(1582)12月28日の朝会で古渓宗陳の墨蹟を掛け、天正16年(1588)9月4日聚楽屋敷において秀吉の怒りにふれ九州に配流される古渓宗陳の送別の茶会春屋宗園、玉甫紹j、本覚坊同座で開き、天正19年(1591)自刃する前に古渓宗陳宛に道安と連著の「末期の文」という財産処分の遺言を残す。

碁笥椀(ごけわん)
懐石家具の塗椀の一。飯椀・汁椀とも、落込み蓋で、碁笥底。元禄4年(1691)刊『茶道要録』の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「黒塗碁笥椀 利休形、汁飯椀とも碁笥底、坪平なし。」、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』に、飯椀・汁椀が載り「右内外真黒花塗なり」とある。

心の文(こころのふみ)
村田珠光が弟子の古市澄胤(ふるいちちょういん:1459〜1508)に宛てた文。
「古市播磨法師   珠光    
此道、第一わろき事ハ、心のかまんかしゃう(我慢我執)也。こう(巧)者をはそねミ、初心の者をハ見くたす事、一段無勿躰事共也。こうしゃ(巧者)にハちかつき(近付)て一言もなけ(嘆)き、又、初心の物をはいかにもそた(育)つへき事也。此道の一大事ハ、和漢のさかい(境)をまきらかす事、肝要々々、ようしん(用心)ありへき事也。又、当時、ひゑか(冷枯)るゝと申て、初心の人躰が、ひせん物、しからき物なとをもちて、人もゆるさぬたけ(闌)くらむ事、言語道断也。か(枯)るゝと云事ハ、よき道具をもち、其あちわひ(味)をよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まて、ひへやせてこそ面白くあるへき也。又さハあれ共、一向かな(叶)ハぬ人躰ハ、道具にハかか(抱)らふへからす候也。いか様のてとり(手取)風情にても、なけく所、肝要にて候。たゝかまんかしゃうかわるき事にて候。又ハ、かまんなくてもならぬ道也。銘道ニいわく、心の師とハなれ、心を師とせされ、と古人もいわれし也」
珠光ノ筆蹟」「珠光 掛物」などと呼ばれ、正保3年(1646)小堀遠州が奈良の松屋久重の求めにより、表具をなおし、大徳寺の江雪和尚に奥書をしてもらい、自ら箱書をしたためて、久重に与えたという。その後、宝永元年(1704)頃、久重の孫、源之丞久充の代に、大坂の豪商、鴻池道憶に譲られ、近代になって数寄者の平瀬露香が手にし、昭和11年(1936)創元社『茶道』巻五に「心の師の一紙」として最初に取り上げられたが、この時点ですでに写真だけしか存在せず、その後写真の存在もわからなくなっているとされる。『茶道古典全集』には「珠光古市播磨法師宛一紙」、『日本思想体系』には「心の文」として収められている。

古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)
松平不昧が「陶斎尚古老人」の名で刊行した名物道具の図説。版本18冊。天明7年(1787)陶斎尚古老人序。寛政2年(1790)から寛政9年(1797)にかけて江戸須原屋市兵衛から四回にわけて刊行された。茶入の部が、中輿茶入之類5巻(1.唐物。2.古瀬戸春慶。3.藤四郎、藤四春郎慶。4.金華山。5.破鳳。)、大名物茶入之類2巻(1.唐物。2.古瀬戸。)、雑記之部5巻(1.後窯国焼能類、2.天目茶碗之類、3.楽焼茶碗之類、4.茶杓、花入、茶箱、5.水指、釜、硯。)、拾遺之部4巻(1.藤四郎、金華山、破風。2.唐物、古瀬戸、春慶。3.掛物、歌の物、小倉色紙、墨跡。4.香炉、台、盆、香合。)、名物切之部2巻(1.緞子、金欄。2.間道、雑載。)の18巻からなる。実見した茶器には○印をつけ、茶記名・所蔵者・法量・図・付属物およびその図を記している。序に「一 凡名物と称するは。慈照相公茶道翫器にすかせ給ひ。東山の別業に茶会をまうけ。古今の名画。妙墨。珍器。宝壺の類を聚め給ひ。なを当時の数寄者。能阿弥。相阿弥に仰せありて。彼此にもとめさせられ。各其器の名と値とを定めしめ給ふ次て。信長。秀吉の二公も。亦此道に好せ給ひ。利休。宗及に仰せて。名を命し値をも定めしめらる。後世是等の器を称して名物といふ。其後小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」とあり、千利休の時代以前の名品を「大名物」と呼び、小堀遠州によるものを「中興名物」と称するのはこの書による。なお不昧は文化8年(1811)道具商、伏見屋甚右衛門こと亀田宗振に授けた形式を以って『和漢茶壺鑒定(わかんちゃつぼかんてい)』(瀬戸陶器濫觴ともいい、『和漢茶壺濫觴』『和漢茶壺竈分』『和漢茶壺時代分』の3巻からなる)を著し「宝永の頃、数寄者ありて、諸国の茶器ども借覧して、其形を模したるものに合三冊あり、名物はこれと同物にはあらざるなり、今世誤りて名物記三冊物と名づけ、真の名物を弁へざる事を、亀田氏深く嘆き、余に筆記を乞ふ、需に応じ以て三巻の書となし、これを授くるもの也、干時文化八辛未二月」と松平乗邑の『三冊名物記』を非難し、自著の『古今名物類聚』の不備をも書き改めている。

後座(ござ)
中立のある茶事における後半の席。一般的には、中立のあと銅鑼や喚鐘の合図で席入(後入)し、濃茶後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出する。『南方録』に「数奇屋ニテ、初座・後座ノ趣向ノコト、休云、初ハ陰、後ハ陽、コレ大法也、初座ニ床ハカケ物、釜モ火アイ衰ヘ、窓ニ簾ヲカケ、ヲノヲノ一座陰ノ躰ナリ、主客トモニ其心アリ、後座ハ花ヲイケ、釜モワキタチ、簾ハヅシナド、ミナ陽ノ躰ナリ、如此大法ナレドモ、天気ノ晴クモリ、寒温暑熱ニシタカイテ変躰ヲスルコト、茶人ノ料簡ニアリ」とあるように、初座の陰に対し陽とされ、茶室の窓に掛けてあった簾を取り外し、茶室の中を明るくする。ふつうにはが掛けてある。

御所丸(ごしょまる)
高麗茶碗の一種。御所丸の名は、朝鮮との交易に使われた御用船を御所丸船といい、文禄・慶長の役のとき、島津義弘がこの手の茶碗を朝鮮で焼かせ御所丸船に託して秀吉に献上したことからきたという。桃山より江戸期にかけ日本から朝鮮に御手本(切形)を送って焼かせたものを御本といい、古田織部御本で金海の窯で焼かせたもので「古田高麗」ともいい、御本としては最も古いもの。堅手の一種で「金海御所丸」ともいう。形は織部好みの沓形で、厚手。腰には亀甲箆という箆削りがあり、高台は大きく、箆で五角ないし六角に切られている。高台は釉がかからず土見せ。白無地の「本手」(白手)と、黒い鉄釉を片身替わりに刷毛で塗った「黒刷毛」と呼ばれるものがある。

呉須(ごす)
酸化コバルトを主成分とする染付(青花)に用いられる顔料。中国では青料という。還元焔により藍色を呈し、酸化させると黒味を帯びる。コバルト鉱が風化して水に溶けて沈殿し、鉄、マンガン、ニッケルなどの化合物が自然混合した天然のコバルト混合土。これらの化合物が多いほど黒くなる。日本では産地の浙江省紹興地方が古くは呉の国と呼ばれたため呉州(ごす)と呼び呉須と書いたとされる。元朝(1279〜1368)末に、西域よりスマルト(酸化コバルトを4〜6%溶かし込んだ濃紺色のガラス)、中国で「蘇麻離青(そまりせい)」と呼ばれる鮮やかな青藍色を発する青料が招来し、景徳鎮で使われたが、明朝成化年間(1465〜87)に輸入が途絶え「土青(どせい)」といわれる中国産の黒ずんだ青料が使われるようになる。明朝正徳年間(1506〜21)からは、西アジアより「回青(かいせい)」と呼ばれる、明るい青藍色のものが輸入され、嘉靖(1522〜66)、隆慶(1567〜72)、萬暦(1573〜1619)の青花に主として使われる。

呉州、呉州手(ごすで)
明末から清初に中国南部の民窯で輸出用として大量に焼かれた素雑な磁器。呉須とも書く。官窯に比べて、素地は厚く灰白色、透明感のない釉で、畳付(底部)付近に窯に焼き付くのを防ぐ砂が付着した「砂高台(すなこうだい)」で、素朴で素早い筆さばきの絵付けや一気に捻り上げられた器形が、茶人に好まれた。大皿が多いが鉢や碗、香合、水差などもある。茶碗は山水文や丸龍文が代表で山水文の絵が狩野派の粉本により同じ模様が御本茶碗にもあり日本からの注文品。「呉州」の名は呉(中国南部)の焼物というのが通説。『万宝全書』に「呉州手染付」の項が見え「下手の南京もの」、また染付手の良いものは「子昂(すごう)」、良くないものを逆に「ごす」というとあり、同様のことが新井白石の安積澹泊(あさかたんぱく)宛書簡にもある。『塩尻』に「磁器にごすと称する物あり、是我朝の俗語なり、昔趙子昂手書事よし、吾俗能書を手かきと云、此磁器麁薄なり、故に俗に手あしき焼ものをいふより、子昂をかへして昂子手といふ也」、『嬉遊笑覧』に「呉洲手 万宝全書染付のあしきを名付たり、手のよきを子昂といふ、其うらなれば、ごすでといふとぞ、新安手簡にも、ごすでは子昂を打返して、手のあしきを申ことヽ申候、是も京都将軍の世の俗語と聞え候とあり、さることもあるべけれど、画焼青をゴスといふ、磁器の青絵なり、よく製法して絵をかき、釉水かくれば青色となれども、元と色黒きもの故、釉水かヽらぬ処は其色黒し、故に藍色の黒みある陶器なれば、ゴス手といひしを、謎の名のやうに取なしたるもの歟。」とある。厳密な産地は特定されずにいたが1994年に福建省平和県で窯址が確認された。顔料は、紅彩を中心に緑釉と青釉の組み合わせ。「呉須赤絵」「呉須青絵(青呉須)」「呉須染付」「白呉須」「餅花手」などがある。

後炭(ごずみ)
茶事において、濃茶が済んだあと、薄茶に移る前に、釜の煮えがおちてくるので、炭を再び加えるために行う炭点前。のちずみ。初炭に対しいう。前の炭が十分残っている場合は省略するほか、朝茶夜咄では続き薄茶とし、後炭を行わないのが習い。

古瀬戸(こせと)
「古瀬戸尻膨茶入」
瀬戸で生産された陶器のうち,鎌倉時代の初めから室町時代の中頃までの施釉陶器(せゆうとうき)を古瀬戸と呼ぶ。。『古今名物類聚』に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。倭土和薬にてやきたるを古瀬戸といふ。古瀬戸は総名なり。大形に出来たるを大瀬戸と云なり。此手小瀬戸に異なり、小瀬戸といふは小形に出来たるをいふ。此手大瀬戸に異なり、入唐以前やきたるを、口兀、厚手、掘出し手といふ。大名物は古瀬戸唐物なり。誠に唐土より渡たるものをば漢といふ。これは重宝せぬものなり、唐物と混ずべからず。掘出し手といふは、出来悪敷とて、一窯土中に埋みたりしを後に掘出したりとなり。一説には小堀公時代に掘出したるともいふ。総て入唐以前の作は、出来は田夫にて下作に見ゆるなり。古瀬戸煎餅手といふあり、これは何れの窯よりもいづる。窯のうちにて火気つよくあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり。後唐の土すくなく成たるによりて、和の土を合てやきたるを春慶といふ。春慶は藤四郎が法名なり。二代目の藤四郎作を真中古といふ。藤四郎作と唱るは二代めをさす也。元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称するは、同名二人つづきたる故、混ぜざるために唱分たるなり。」とあり、その起源は陶祖加藤四郎左衛門景正(通称藤四郎)による中国製陶法の招来とされ、道元禅師が貞応2年(1222)、明全に従って宋に渡ったとき藤四郎が道元の従者として渡宋し、禅修業の傍ら逝江省の瓶窯鎮で製陶の修業をし、安貞元年(1227)帰国後、尾張の瀬戸に窯を築き、中国風の陶器を焼いたのが始まりと伝えられ、藤四郎が倭土和薬で焼いたものを古瀬戸というとしている。近来は桃山時代以前の瀬戸陶磁器を古瀬戸と概称する場合が多い。 「灰釉(かいゆう)」のみが使用された前期(12世紀末〜13世紀後葉)、「鉄釉(てつゆう)」が開発され、素地土の柔らかいうちに印を押して陰文を施す「印花(いんか)」、文様をヘラや釘、クシ等で彫り付ける「画花(かっか)」、粘土を器体に貼り付けて飾りにする「貼花(ちょうか)」など文様の最盛期である中期(13世紀末〜14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉〜15世紀後葉)の三時期に区分されている。 前期の「灰釉(はいぐすり)」は、朽葉色の釉薬で戦前一般には「椿手(ちんしゅ)」と呼ばれた。鎌倉後期以降の「鉄釉」は鬼板という天然の酸化鉄を釉薬に混ぜたもので、黒若しくは黒褐色に発色する。今日、この黄釉若しくは黒釉の掛かったものも古瀬戸と称することがある。

古曽部焼(こそべやき)
寛政二年(1790)、京都・清水で製陶技術を習得した五十嵐新平が、攝津国島上郡古曽部村(大阪府高槻市)で開いた登窯。 雅味のある茶陶産地として「遠州七窯」のひとつといわれているが、遠州没後の開窯。書体は異なるが、代々「古曽部」の印を用い、江戸後期から明治時代の間、古曽部焼は庶民的な陶器として親しまれたが、四代目信平在世中に窯が廃された。民間のいわゆる地方窯(じかたよう)で、主として日用の雑器(飯茶碗、小皿、湯のみ、土瓶、火鉢など)でしたが、雑器の合間には抹茶椀、水指、菓子鉢、香合、茶托などの茶器も焼かれた。
作風は荒々しく力強い初代、民芸的な二代目、茶器や雑器など積極的に作陶に取り組んだ三代、赤色をだすのがむずかしい辰砂釉を使いこなした四代、それに三代・四代を補佐した三代の弟、弁蔵など、全体的にひなびた味わいがあり、特に茶器は京坂の文人たちにも愛好されている。

古代裂(こだいぎれ)
歴史の古い織物の断片。古い裂地は、飛鳥から奈良時代の染織品で大部分が法隆寺(法隆寺裂)と正倉院(正倉院裂)に遺されている「上代裂(じょうだいぎれ)」。主に宋・元・明といった中国から渡来した金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんとう)など当時の茶人たちに珍重され名物の茶入れや茶碗などの仕覆(仕服)に用いられたことで名付けられた「名物裂」。一般的に歴史の古い裂地を総称する「時代裂(じだいぎれ)」、「古代裂」の語があり、「時代裂」、「古代裂」は広く一般にも用いられ、明確な定義は無い。

古銅(こどう)
古代の銅器、またそれを写した宋元代の銅器。唐物の古い銅器、のち和物にも使われる。胡銅とも書く。大槻文彦の『大言海』には「コドウ 古銅 銅器ノ製作ノ、年代ヲ歴タルモノ。多ク、支那ヨリ渡レルモノニ云フ」とある。室町時代の辞書『下学集』(1444)に「古銅花瓶、コトウノクワヒン」、同『運歩色葉集』(1548)に、「古銅 コトウ」とみえ、『君台観左右帳記』に「繪胡銅の物大事にて候。からかねの色をよく見わけ。文のさしやうにて、心得有べし。無文の物大事にて候。」、「胡銅。紫銅。宣旨銅。」、『山上宗二記』に「一 桃尻 関白様 本は珠光所持也。但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。」「一 そろり 古銅無紋の花入紹鴎。天下無双花入也。関白様に在り。」、「一 槌の花入 紫銅無紋の花入、本は紹鴎所持也。四方盆に居わる。関白様より上る。本御所様に在り。」とあり紫銅を区別し、『大言海』に「シドウ 紫銅 カラカネ」とある。『烏鼠集(うそしゅう)』に「古銅の物 かなはたさくりとしたるハ漢也、又ためぬるりとしたるハ和、き扨見事なるハ漢、轆轤め有ハ和」とある。明の張謙徳(1577〜1643)の『缾花譜』に「銅器之可用挿花者、曰尊、曰罍、曰觚、曰壺、古人原用貯酒、今取以挿花、極似合宣、古銅缾鉢、入土年久、受土氣深、以養花、花色鮮明、如枝頭、開速而謝遅、或謝則就缾結實、若水秀傳世古則爾、陶器入土千年亦然」とある。

後藤塗(ごとうぬり)
讃岐漆器(香川漆器、高松漆器)の加飾技法の一。「梧桐塗」とも書く。明治30年頃に、旧高松藩藩士・後藤太平(1853〜1923)が考案したもの。黒漆で中塗して、中研をした上に、朱漆をヘラを使って薄く塗り、乾かないうちに指先で塗面を叩き凹凸の模様を付け、2、3日乾かしてから、伏塗といって、透漆を薄く塗り込み、炭研ぎ、艶上げをしたもの。完成直後は全体的に黒っぽく朱色がわずか に見える程度だが、年数が経つにつれて伏漆が透明度を増し、凹部に漆が厚く溜り、凸部の漆は研磨されて薄くなり、朱色が鮮やかに発色し、伏漆に濃淡が現われ、朱色が透明度を増し、美しい光沢と深みが増し、使うほどに味が出る。

五徳(ごとく)

用    風炉
風炉中に据えて釜を載せる器具で、鉄製と土製がある。輪に三本の柱が立ち、釜が掛けやすいよう先端が内側に曲がり爪状になる。爪の形により、小爪・中爪・長爪・鴨爪・蝮爪・平爪・銀杏爪・瓦爪・笹爪・芋爪・法蓮爪などの名がある。 の五徳は大ぶりで下部の輪は円形になっている。風炉の五徳は小ぶりで下部の輪の一部が切れていて、前土器を立てやすいようになっている。初期の風炉は切掛や透木を用いたので風炉に五徳を据えるようになったのは後のこととなる。稲垣休叟の『茶道筌蹄』に「昔ハ台子切懸け、土風炉にても透木を用ゆ、紹鴎時代より五徳を用ゆるならん」とある。もともとは輪の部分を上にして使用していたものを茶湯で用いるようになってから爪を上にして用いるようになった。

五徳蓋置(ごとく ふたおき)
七種蓋置の一。風炉中に据えて釜を載せる五徳をかたどった蓋置。透木釜、釣釜を使う炉の場合や、切合の風炉の場合など、五徳を使用しない場合に用いる。三本の爪のうちひとつだけ大きな爪がある場合は、それを主爪という。置きつけるときは、輪を上にして、主爪があればそれを杓筋に向ける。棚に飾るときは、輪を下にして、主爪が客付側手前にくるように飾る。

小棗(こなつめ)
の一。の小ぶりなもので、濃茶器として用いる。茶杓で何杓か入れたあと、茶碗の縁で茶杓を一つ打って櫂先の茶を払ってから茶碗にあずけ、小棗を傾け、右手を添えて、茶入のように回さずに、残りの茶を入れる。茶入は高価でなかなか持てないため、数奇者が茶入の代用として小棗を用いたともいい、真塗が基本で中棗や大棗のように蒔絵が施されることはない。『正伝集』に「棗の茶入は、茄子の化也。故に肩衝に濃茶を入る時は、薄茶は必棗に入て用る也。宗易或時、小棗に濃茶を入て袋を掛、中次に薄茶を入、茶点し事あり。惣て古は、焼物の本茶入は、細々小座敷へ出す事なく、棗中次等を専ら出せしと也。」とある。

粉引(こひき)
三好 三井記念館所蔵
朝鮮陶器の装飾方法の一つ。本来は、鉄分の多い素地に白泥(泥状の磁土) をずぶ掛けし、高台(こうだい)裏をも含む素地全面に白化粧を施し、そのうえに薄く透明釉を掛け、やや還元気味で焼き上げたもの。白い粉が吹き出したように見えるところから、粉引と呼ばれる。粉吹とも書く。李朝初期から中期にかけて全羅南道の長興、宝城、高興、順天で焼かれていたとされる。土に鉄分が多く黒いため白く化粧がけをしたもので、背景には、「御器は白磁を専用す」とされたように、白磁が国王専用の御器として一般庶民の使用を禁じたため、白磁の代用として焼かれたと思われる。その後、1602年に王朝の官僚に使用が許され、1720年には一般人にも許可されるようになり、19世紀には白磁が大衆化し、粉引は姿を消してゆく。
粉引は、釉薬の下にまた別の土の層があるため、独特の柔らかな釉膚で白い色調があたかも粉を引いたように見える。胴の一部に釉薬がかからず土が見える部分で、特に褐色に発色しているものを「火間(ひま)」といい古来粉引の見所とされる。また長く使い続け釉の上に「雨漏り」と呼ばれるしみができたものも景色として好まれる。素地と釉薬が直接触れていないために強度的には弱い。
茶碗では「三好粉引」「松平粉引」が著名。なお、高台まで白化粧されていないものは「無地刷毛目」と呼ぶ。

粉引唐津(こひきからつ)
唐津焼の技法のひとつで粉引の技法を用いたもの。褐色の粘土を使い、素地に白泥の化粧土を掛け、乾燥させた後に透明釉を掛けて焼成したもの。表面が白く粉を吹いたようにみえる。粉吹きともいう。

古備前(こびぜん)
備前焼のうち、鎌倉時代から桃山時代までの作品。また、塗り土された、いわゆる伊部手とよばれる作品より以前の、江戸時代初期に焼かれたものも含めて古備前と呼ぶこともある。

古筆(こひつ)
昔の人の筆跡。特に、平安時代から鎌倉時代にかけての能筆家の筆跡。古筆の呼称は、尊円親王(1298〜1356)の文和元年(1352)『入木抄(じゅぼくしょう)』に「其筆仕の様は、古筆能々上覧候て可有御心得候。」とあるのが初見という。主に和様書道の草仮名のものにいう。古筆切・懐紙色紙詠草短冊などの形状がある。「古筆切(こひつぎれ)」は、巻物、帖などの断簡。ほとんどが勅撰や私撰の和歌集を能筆家が書き留めたもので、桃山時代から江戸時代初期にかけて茶湯が盛んになるにつれ古筆が愛好され、巻子や冊子の歌集などが、手鑑に押したり、幅仕立に適する大きさに切断された。「寸松庵色紙」「継色紙」「八幡切」「石山切」「高野切」等がある。『逢源斎書』に「一、恋の哥ハかけ候事、休不被成候、定家ニも三幅在之、 ○わたのはらふりさき見れはかすかなる三笠の山に雪ハふりつゝ ○八重もぐらしげれるやどのさびしさに ○こぬ人をまつほの浦の夕なきにやくやもしほの身もこかれつゝ」、『茶道要録』に「恋の歌は必ず不用」とあり、古筆でも恋歌は使用しないこととされる。

古筆家(こひつけ)
古筆の鑑定を業とした家。古筆了佐(1572〜1662)が初祖。古筆了佐は、江州西川の人。姓は平澤、初名は弥四郎、長じて範佐、出家して了佐と称す。関白太政大臣近衛前久に古筆目利(鑑定)を伝授され、烏丸光広に和歌を学ぶ。関白豊臣秀次より「古筆」を家号とするよう命じられ、「琴山」(きんざん)と刻した印を賜り、以後代々極印として用いる。また、了佐の三男勘兵衛は江戸に出て、京都の本家とは別に古筆別家をたてた。本家五代了a、六代了音、別家三代了仲は、幕府の寺社奉行支配の古筆見職に任じられた。
古筆家歴代。初代了佐(りょうさ)、号は正覚庵檪材、寛文2年(1662)没、91歳。2代了栄(りょうえい)、了佐の四男、名は定門、通称を源五郎のち三郎右衛門、号は即心庵直裁、延宝6年(1678)没、72歳。3代了祐(りょうゆう)、了栄の八男、名は定香、通称を八郎兵衛また八兵衛、号は即性庵直空、貞享元年(1684)没、40歳。4代了周(りょうしゅう)、了祐の養子、名は重忠。号は不妙庵法室、本姓は小川、母は古筆了佐の娘。貞享2年(1684)没、17歳。5代了a(りょうみん)、了佐の五男の了雪の二男、名は重政のち光就、通称は六蔵また治左エ門、号は即空庵玉翁、元禄14年(1701)没、57歳。6代了音(りょうおん)、了aの二男、名は最博、通称は才三郎、享保10年(1725)没、52歳。7代了延(りょうえん)、了音の子、名は長泰。号は玄仲庵長泰、安永3年(1774)没、71歳。8代了泉(りょうせん)、了延の子、初め了就、名は最隆、号は鏡照庵澗山。天明2年(1782)没、43歳。9代了意(りょうい)、神田道僖(定武)の長男神田道古(定常)、了泉没後師家を相続、名は定常のち最長、通称は半之丞、号は鑑覚庵道古、天保5年(1834)没、84歳。10代了伴(りょうはん)、了意の長男、名は最恒、通称は弥太郎、号は一蓬庵夢翁、嘉永6年(1853)歿、64才。11代了博(りょうはく)、了伴の四男、名は最信、号は即修庵、文久2年(1862)没27歳。12代了悦(りょうえつ)、了伴の弟常最の三男、名は最祐、即覚庵、明治27年(1894)没、64歳。13代了信(りょうしん)、了悦の長男、昭和21年(1946)没、84歳。
古筆家別家歴代。初代勘兵衛(かんべえ)、了佐の三男、名は一村、慶安3年(1650)没。2代了任(りょうにん)、一村の子、名は守村、延宝2年(1674)没、46歳。3代了仲(りょうちゅう)、了任の養子、本姓は清水、名は守直。字は勘兵衛、元文元年(1736)没、81歳。4代了任。5代勘兵衛。6代吉次郎。7代了任。8代勘蔵。9代了助。10代長三郎。11代了之助(4代〜11代鑑定活動不明)。12代了観(りょうかん)、本家10代了伴の三男、名は最村、故ありて業を廃す。13代了仲(りょうちゅう)、了観の廃業後相続、浅野文達の子で清水了因の養子、名は栄村。14代了仲(りょうちゅう)、名は直村、明治24年(1891)没。15代了任(りょうにん)、昭和8年(1933)没。

小袋棚(こぶくろだな)
桐木地でできた四本柱の小棚で、利休袋棚(志野棚)の左側だけを独立させて棚にしたもの。官休庵4代直斎好み。の場合にのみ使用する。 袋の戸は けんどん蓋になっていて、 中に水指を入れる。けんどんを開けて棚の勝手付にとり、水指を半分出して使う。
初飾りには、戸袋の上に茶器、戸袋の中に平水指を飾り、後飾りでは柄杓を棚の天板の勝手付寄りに縦に、蓋置を柄杓の右横手前、水指を戸袋の中に戻し、茶器を戸袋の上に飾る。
利休袋棚はその間口が畳の幅と同程度のいわゆる大棚だが、これから変化した小棚には、利休袋棚の右側だけを棚にした二重棚、利休袋棚の中央の部分を横に取った官休庵5代一啜斎好みの 自在棚(じざいだな)がある。

小堀遠州(こぼり えんしゅう)
江戸時代の茶人・大名。建築家、造園家としても著名。天正7年(1579)〜正保4年(1647)。 幼名を作介、元服の後、正一(のち政一)、号は宗甫、孤篷庵。小堀氏は近江国坂田郡小堀村(長浜市)の草分けの土豪。父の新介正次はもと浅井長政の家臣で、浅井家が織田信長により滅亡後、長浜城主の秀吉に仕え、その弟の秀長に配属されて家老となり、天正13年(1585)姫路から大和郡山城に移る。作介もこのとき郡山城に入り、同16年には秀長訪問の利休の茶湯に給仕したともいう。文禄4年(1595)郡山豊臣氏が廃絶したので父とともに秀吉の直臣に復帰し、伏見六地蔵に移った。この頃、古田織部に茶道を学び、籐堂高虎の養女を娶り、春屋宗園に参禅して宗甫の法名を授かる。関ヶ原の戦いで正次は徳川家康に通じ、その功により備中松山城を賜り、備中代官として松山に赴く。慶長9年(1604)父の死後、26歳で遺領1万2千石を継いだ。慶長13年(1608)には駿府城普請奉行となり修造の功で従五位下遠江守に叙任される。この官位により遠州と呼ばれる。元和5年(1619)近江小室藩に移封。元和7年(1621)二代将軍徳川秀忠に点茶の指南をする。元和9年(1923)伏見奉行となり、二条城修築や大阪城本丸御殿の作事奉行に当たるなど、建築家・造園家としても名を馳せた。晩年は三代将軍徳川家光に仕え、茶の湯三昧に過ごし、その茶の湯は「きれいさび」と称されている。正保4年2月6日、伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じた。遠州の茶道は遠州流として続いている。

御本(ごほん)
「御本立鶴茶碗」
御本とは「御手本」の意で、17〜18世紀にかけて、日本で作られた手本(茶碗の下絵や切り形)をもとに朝鮮で焼かれた茶碗を御本茶碗と呼ぶ。これらの茶碗には、胎土の成分から淡い紅色の斑点があらわれることが多く、この斑点を御本または御本手(ごほんで)と呼ぶこともある。
寛永16年(1639)の大福茶に細川三斎の喜寿を祝おうと、小堀遠州茶碗の形をデザインし、三代将軍家光が立鶴の下絵を描きこれを型にして前後に押して白と黒の象嵌を施した茶碗を対馬藩宗家を取りつぎに釜山窯で焼かせた。この茶碗を「御本立鶴茶碗」といい、御手本から始まったことから御本とよばれた。釜山窯は、寛永16年(1639)、朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で本来の名称は「和館茶碗窯」という。大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼かせた。古い高麗茶碗を基としつつも、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られた。元禄をすぎるとしだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯。

胡麻(ごま)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。窯焚きのときに薪の灰が器物に降り掛かり、高温により溶けて、釉薬化したもの。胡麻を振りかけたように見えるので、胡麻と呼ばれる。置き場所などの条件により色々な「胡麻」が出来る。 「かせ胡麻」は成温度が低い場所で出来る胡麻、備前の方言でかせている(触感がガサガサしている)からきた呼び名でしばしば緑がかった色になる。焼色の違いにより「メロン膚」「えのき膚」と呼ばれる物もある。「流れ胡麻」焼成温度が高い場所(火前)で出来る胡麻で、降り掛かった灰が熔けて流れ落ちているもの、「玉だれ」とも。「微塵胡麻」微塵粉を撒いたかの様な小さな粒状の胡麻で耐火度のやや高い土に、松灰が薄くかかった時に出来やすい。 「黄胡麻」酸化焼成で松灰中の鉄分が発色したもの。

駒沢利斎(こまざわ りさい)
千家十職の指物師。駒沢家は、初代宗源が延宝年間に指物業を始め、四代のときに表千家六代覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師となり「利斎」の名を与えられ、以後、代々これを名乗る。
初代宗源 生没年未詳 名は宗源、通称は理右衛門。二代宗慶 寛永5年(1628)〜元禄6年(1693) 通称は理右衛門。三代 長慶 不明〜貞享3年(1686) 通称は利兵衛、理右衛門。四代利斎 延宝元年(1673)〜延享3年(1746) 三代の婿養子。表千家六代覚々斎の知遇を得て千家出入りの茶方指物師となり「利斎」の名を与えられ、初めて「利斎」を名乗る。歴代の墓地を妙顕寺に移し日蓮宗に改宗。宗源、宗慶、長慶を家祖三代とし利斎としての初代。五代利斎 宝永4年(1707)〜宝暦14年(1764) 丸に「り」の字の印判を使い始め、代々継承している。六代利斎 元文4年(1739)〜享和3年(1803) 隠居後「春斎」を名乗る。七代利斎 明和7年(1770)〜安政2年(1855) 六代利斎の婿養子。名は信邦。通称は茂兵衛。表千家九代了々斎より「曲尺亭」の号を、天保11年(1840)隠居の際に表千家十代吸江斎より「少斎」の号を授かる。塗師としても名工で「春斎」の号を用いた。八代利斎 寛政8年(1796)〜弘化3年(1846) 六代利斎の長男十次郎の長男。天保11年(1840)利斎襲名。九代利斎 文化14年(1817)〜文久2年(1862) 七代利斎の子。名は十次郎・寿次郎、通称は理右衛門。十代利斎 天保12年(1841)〜慶応2年(1866) 八代利斎の長男。名は重次郎。26歳で早世したため、九代利斎の弟子岡本喜助が亡くなる明治元年(1868)まで後見を務める。十一代利斎 嘉永3年(1850)〜明治35年(1902) 岡本喜助の子で十代利斎の婿養子。名は利斎、通称を理右衛門。歴代の中で最も茶の湯に精通した人物といわれる。十二代利斎 明治9年(1876)〜明治29年(1896) 十一代利斎の長男。名は利三郎。十三代利斎 明治16年(1883)〜昭和27年(1952) 十一代利斎の次男、十二代利斎の弟。名は重次郎。十四代利斎 明治41年(1908)〜昭和52年(1977) 十三代利斎の妻。名は浪江。尼利斎とも。当代は十四代が昭和52年(1977)に逝去後、長く空席が続いており、十四代の甥で駒沢家後見の吉田一三の長男吉田博三が後を嗣ぐべく修行中。

独楽塗(こまぬり)
漆塗の一。朱・黄・緑などの彩漆(いろうるし)を同心円状に色分けして塗り、文様としたもの。さらに、その上に針彫や金蒔絵を施したものもある。明代頃から造られたものといわれ、日本でも江戸時代に香合・盆・莨入茶器菓子器など盛んに模作された。高麗塗。

熊川(こもがい)
高麗茶碗の一種。熊川の名は、慶尚南道の熊川という港から出たもので、その近くの窯で出来たものが熊川から積み出されたためという。「熊川なり」という形に特徴があり、深めで、口べりが端反り、胴は丸く張り、高台は竹の節で比較的大きめ、高台内は丸削りで、すそから下に釉薬がかからない土見せが多い。見込みの中心には「鏡」「鏡落ち」または「輪(わ)」と呼ぶ小さな茶溜りがつくのが一般的。また釉肌に「雨漏り」が出たものもある。「真熊川(まこもがい)」「鬼熊川(おにこもがい)」「紫熊川(むらさきこもがい)」などの種類がある。「真熊川」は、作風は端正でやや深め、高台も高く、素地が白めのこまかい土で、釉は薄い枇杷色、柔らかく滑らかで細かい貫入がある。古人は咸鏡道(かんきょうどう)の熊川の産と伝えて、真熊川のなかで特に上手のものを、その和音を訛って「かがんどう(河澗道・咸鏡道)」とか「かがんと手」と呼ぶ。「鬼熊川」は、真熊川にくらべ下手で、荒い感じがあるのでこの名がある。形はやや浅めで高台が低く、見込みは広いものが多く、鏡が無いものもある。時代は真熊川より下るとされる。「紫熊川」は、素地が赤土で釉肌が紫がかって見えるもの。

  
  
  
  
  
 

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