茶道用語

大海(たいかい)
茶入の形態の一種。だいかい。大ぶりで口が広く、甑(頸部)が短い、肩が横平面に張ったやや扁平な平丸型の茶入で、胴部中位には一条の線刻(胴紐)が巡らされているものが多い。本来は茶席には用いず、茶臼でひいた抹茶を入れておく「挽溜(ひきだめ)」として水屋で使っていたが、侘び茶の流行で、茶席で用いる様になったといわれる。『山上宗二記』に、「一、万歳大海 昔 代二千貫。但し、当世は数寄に入らず。惣見院御代に失す。一、打曇大海 代物千貫。是も当世は数寄に入らず。一、水谷大海 当世数寄には如何。右、大海は多し。当世には好悪とも数寄には用いず。昔より中古までは、名物とて用うる也。」とある。『嬉遊笑覧』には、「又茶壷に口の大きなるを大海といふ、小きを内海といふ。『万宝全書』に「むかし大海は茄子或は肩衝 茶入に一ツヽ添置て、茶臼より大海に茶をうつして後、茄子へも肩衝へも茶を入替るなり、然れば大海は挽溜の器にして、古へより小座敷へは出たる法なし、自然広間書院の台子には飾り置也、宗易作意にて大海を挽溜に用ては、やきものとやきものとあぶなき事なりとて、引ためには雪吹を用ひられしと也。」とある。

太閤窯(たいこうがま)
初代小西平内(こにし へいない)が、独学で楽焼を習得し、昭和6年(1931)に神戸有馬温泉に窯を築き茶陶を作ったもの。初代小西平内は、明治32年(1899)愛媛県に生れ、若くから大阪に出て、独学で楽焼を習得し、昭和6年(1931)、神戸有馬温泉に太閤窯を築く。また、甲子園ホテルで庭焼を初め、川喜田半泥子に認められ、昭和31年(1956)五島慶太の推薦を得て渋谷東急東横店で個展。昭和33年(1958)兵庫県西宮市甲山に移窯。昭和39年(1964)太平を名乗り隠居。平成3年(1991)没。二代小西平内は、昭和3年(1928)愛媛県に生まれ、昭和21年(1946)初代小西平内に入門。昭和22年(1947)川喜多半泥子の作陶指導を受ける。昭和39年(1964)初代小西平内の引退に伴い二代小西平内を襲名し、楽焼や古伊賀写しを得意とする。

大正名器鑑(たいしょうめいきかん)
高橋箒庵(たかはしそうあん)編著による、茶入茶碗の図録。大正10年(1921)から昭和元年(1926)に刊行された。茶入五編・茶碗四編からなり、原寸写真、名称、寸法、付属物、雑記、伝来、実見記が記されている。中興名物については、松平左近将監乗邑の三冊物名物記(追記を除く)と松平不昧古今名物類聚(拾遺之部を除く)の二書の双方或は一方に記載された大名物以外のものを中興名物としている。

台調(だいしらべ)
茶碗に由来がある場合の点前。天目台帛紗のかわりとして使う。

台子(だいす)
天地二枚の板でできた茶道具を飾る。飾り方に一定の規式があり、これを台子飾りという。この規式は能阿弥が「書院の七所飾」を参考に「書院の台子飾」を制定したとされる。真台子・及台子・竹台子・桑台子・高麗台子などがある。台子は元来は禅寺の茶礼に使用していた道具で、文永四年(1267)南浦紹明(なんぽしようみよう)が宋から将来したと伝えられ、喜多村信節の文政13年(1830)序の『嬉遊笑覧』に「筑前国崇福寺の開山南浦紹明、正元のころ入宋し径山寺虚堂に嗣法し、文永四年に帰朝す、其頃台子一かざり径山寺より将来し崇福寺の什物とす、是茶式の始なるにや、後台子を柴野大徳寺へ送り、又天竜寺の開山夢窓へ渡り、夢窓この台子にて茶の湯を始め茶式を定むといへり」とある。室町初期の台子棚は幅一間ほどもあり現在の台子とは異なったようで、『南方録』に「大台子、東山殿には唐台三つまで御所持ありしかども、はゞ長さカネに合たるは一つと、紹鴎の覚書にあり。所々御台子を用らるゝに付、日本にて能阿弥好にてカネよくこしらへられしと云々。」とある。『源流茶話』には「今用る四本柱の台子ハ利休改正にて大円盆を長盆に改め、茄子又は円壺の茶入に台天目を組合、真行台子の法を被定候」とある。

台天目(だいてんもく)
台に載せた天目茶碗。また、茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。天目茶碗を台に載せたまま行う点前。稲垣休叟(1770〜1819)の『茶道筌蹄』に「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、『茶式花月集』に「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」とある。

大徳寺(だいとくじ)

龍寶山大徳禅寺。京都市北区紫野にある禅宗寺院で臨済宗大徳寺派大本山。山号「龍宝山」、本尊は釈迦如来、開基は赤松則村、開山は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。宗峰妙超は、弘安5年(1282)播磨国守護・赤松氏の家臣・浦上氏の子として生まれ、11歳で地元の書写山円教寺に入り天台を学ぶが、のち禅宗にめざめ鎌倉の高峰顕日、京の南浦紹明に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るに随い鎌倉入りし、徳治2年(1307)印可を受け、東山の雲居庵に住していたが、元応元年(1319)赤松則村(円心)の帰依を受け洛北紫野の地に小院を造った。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、元亨4年(1324)雲林院菩提講東塔の中の北寄り20丈の土地を与え、正中2年(1325)大徳寺を祈願所とする院宣を発している。後醍醐天皇も当寺を保護し、元弘3年(1333)宸翰で「本朝無双之禅苑」とし門弟に相承せしめ他門が住持となることを禁じ、「五山之其一」にする綸旨を発し、元弘4年(1334)には南禅寺に並び五山の「第一之上刹」とする綸旨を発した。
しかし室町幕府が成立すると、大徳寺は南朝系とされ、かねてから対立していた夢窓疎石(1275〜1351)門派が足利氏の外護を受け、康永4年(1345)足利尊氏が夢窓疎石を開山として天竜寺を創建。康暦元年(1379)禅寺を統括する最高位者として僧録司を設け初代僧録に疎石門の春屋妙葩(1311〜1388)を任じ、永徳2年(1382)足利義満が夢窓疎石を開山として相国寺を創建するなど勢力を伸ばし、至徳 3年(1386)幕府が五山十刹の寺位を定め、天龍寺を五山の一位、相国寺を二位とし、大徳寺は最下位に近い十刹の第九位とされた。永享3年(1431)相国寺鹿苑院(僧録司)より証文等を差し出すよう求められると、十刹となる事は開山の素意と違うとし元の如く弁道所となると申し出て、叢林を退き林下に下る。(五山十刹の寺院を「叢林(そうりん)」と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも在野的立場にある寺院を「林下(りんか)」という。)文安2年(1445)26世養叟宗頤の入山にあたり、元弘の旧規に復し同寺を五山の班に列せしむ綸旨を受け、『蔭凉軒日録』延徳3年(1491)に「大徳寺今為紫衣者四十年以来也、以故南禅天龍前住者不会合大徳衆、慈照院殿無御存知大徳住持為紫衣、以勅旨此、慈照相公御逆鱗有之。」とあるところから、本来五山制度では五山之上の南禅寺住持にのみ許された紫衣を着用するようになり、林下にありながら南禅寺に並ぶ格式を示したと思われる。
応仁元年(1467)の応仁の乱で焼失し衰退したが、文明5年(1473)後土御門天皇から復興の綸旨が出され、文明6年(1474)一休宗純が勅命で住持になり、堺の豪商祖渓宗臨および寿源らを勧進して再興をはかり、また天文年間から畠山義綱・大友義鎮・三好義継らの大名が帰依し、天正10年(1582)秀吉が信長の葬儀を行い総見院を建立、諸大名もあいつぎ帰依し、塔頭の多くがこのころより江戸初期に建立された。寛永13年(1636)開山大燈国師三百回忌に際し、法堂方丈ほか諸堂を再建し、洛北一の巨刹となり寺領二千二百石を領したが、明治4年(1871)太政官布告第四号で「社寺領現在の境内を除の外一般上知被仰付」と寺領を没収され、多くの塔頭が廃絶した。
大徳寺は、 侘び茶を創始した村田珠光一休に参禅して以来、茶の湯 の世界とも縁が深く、武野紹鴎千利休 をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもち、三千家の菩提所となっている。
また、墨跡などの「現大徳」は管長を現わすが、「前大徳」は前管長ではなく前住大徳という位で、また「紫野」と書けるのは塔頭の住職に限られる。
文明7年(1475)の綸旨で「當寺住持職新補事、非前住之擧達者、不可有率爾之勅請」(当寺住持職新補の事。前住に非ざるの挙達は、卒爾の勅請あるべらず)と大徳寺住持補任の制が定められ、元和元年(1615)徳川家康の「大徳寺諸法度」に「一、僧臘転位并仏事勤行等、可為如先規寺法事。一、参禅修業、就善知識三十年、費綿密公夫、千七百則話頭了畢之上、遍歴諸老門、普途請益、真諦俗諦成就、出世衆望之時、以諸知識之連署、於被言上者、開堂人院可許可、近年猥申降論帖、或僧臘不高、或修行未熟之衆、依令出世、匪啻汚官寺、蒙衆人嘲者、甚違干仏制、向後有其企者、永可追却其身事。」と定められ、これについて「祥雲寺文書」に「僧臘之事者、自古僧籍と申て僧名帳御座候、是より自古至今之僧衆座牌の次第、書付之御座候間、戒臘之違申儀無之候、転位之事従下官進上官申儀、次第無相違候、殊自平僧住持長老の位より上申候事、入院開堂之儀式不私候、其人之修行相窮、出世時至候へハ、従為其門中相勤、申一山之評定両度候、第三度よりは、於方丈一山之大衆相集一一列同心之上、即於開山国師之前吹挙状を相調、諸長老連判之仕、当寺自昔之伝奏観修寺殿を以て、禁中へ令言上之時、叡覧有之、其日より住持入院之儀被仰出、勅使其御沙汰候、是ハ依文明七年之綸旨、如此相定法よりて候」とある。
現代では前住大徳は、年齢40歳以上で所定の修行を終えた者が何人かの推薦状を添えて申請し本山で審議の上認可するもので、この位を受けると本山大徳寺にて一日だけ「大徳寺住職」になる「改衣式」を行い、方丈(導師)という役をして本尊と開山をはじめ各祖師に報告の法要をし一山の各住職に披露する。前住大徳は紫の衣を着、「前大徳」と書くことが許される。この上に再住大徳があり、年齢70歳以上で5名以上の推薦を受け、前住大徳の資格を受け付けた順番になるが、これは本山全体に大きな行事が予定されたときのみ選ばれ、再住大徳に選ばれると歴代大徳寺住持の世譜に残る。
管長制度は明治5年(1872)「教部省達第4号」により教導職管長を一宗一名置くこととされて以降のもので、その後明治7年(1874)「教部省達書乙第3号」により各派に管長を設けることができるようになり、明治9年(1876)「教部省達書第27号」により臨済宗の天竜・相国・建仁・南禅・建長・妙心・東福・大徳・円覚の各派に管長を置くことが許可され、明治17年(1884)「太政官布達第19号」により各宗派に管長を置くことが定められて以降大徳寺派管長として再住大徳の中から1名選ばれる。現管長は15代 高田明浦(明浦宗哲・室号 嶺雲室)。大徳寺世譜


台目構(だいめかまえ)
台目切(点前畳の外のに、点前畳の中心線から上手にかけてを切る)ののかどに中柱を立てて袖壁をつけ、隅に釣棚をしつらえた点前座の構成を台目構という。『茶湯古事談』に「利休三畳大目構の座敷を作り、初めて炉を中に上て切しより、大目構の炉といひならわし」とあるように、利休が大阪屋敷の三畳台目に試みたのが最初と伝えられ、『宗湛日記』天正15年(1587)正月12日に「利休 御会。大阪にて宗湛。宗伝。深三畳半。四寸五徳居。、霰姥口。鬼面床の向柱に、高麗筒に白梅入て。手水の間に取て。に橋立の大壺を置て網に入。次の間小棚の下に土水指 唐物也。同茶尻ふくらに入。井戸茶碗に道具仕入て土水覆引切。」、同14年12月21日朝会の「草部や道説御会宗湛一人。深三畳。勝手の内に一尺程の小棚有。下に土の水指、共蓋。、箆被。、貫弦鉄。棚には台天目あり。手水の間四方盆に肩衝すへて。勝手畳の中に被置候。 土水覆」とあり、このときの「次の間」「勝手」が、台目構の初見とされる。 当時は袖壁が下まで付いていて、のちに、客座から道具座が見えるように、袖壁の下方を吹き抜くようになったという。点前座が台目畳でなく丸畳の場合は、特に「上げ台目切」といい、点前畳の中央より上げて切ったようになる。

台目畳(だいめだたみ)
茶室の一。普通のの凡そ四分の三の大きさのもの。古くは大目とも書く。台子風炉先屏風を置く分を切り捨てた寸法に由来する。『南方録』に「中柱の右にをなしたるを台目切と云ことは、六尺三寸のの内、台子のはヾ一尺四寸と、屏風のあつみ一寸と、かきのけて、則その一尺四寸はヾ、元来一尺四寸四方の風炉の座を、右のに出してを切たり。一枚だヽたみの内、台子の置目分切のけたるゆへ、台目切の、台目かきのと云なり。六尺三寸の内、向一尺五寸のつもりにてこれを除き、残て四尺八寸のなり。」とあり、6尺3寸の丸畳から1尺4寸の台子の巾と厚さ1寸の屏風の分を切のけた残りの4尺8寸を台目畳の基準とする。茶室の構えにより寸法は若干かわる。

大林宗套(だいりん そうとう)
文明12年(1480)〜永禄11年(1568)。臨済宗の僧。大徳寺90世。弘治3年(1557)三好長慶(1522〜64)が建立した南宗寺の開山。三好一門はじめ、武野紹鴎利休今井宗久、津田宗達、津田宗及などが参禅。武野紹鴎に一閑の居士号を贈る。後奈良天皇から「仏印円証禅師」、正親町天皇から「正覚普通国師」の号を授かる。
春屋宗園の『一黙稿』に「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也」(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)とあるところから、利休に「宗易(そうえき)」の道号を与えたとされる。

高砂手(たかさごで)
染付花入の一。中国明代末の景徳鎮の古染付の花入。形状は、砧形で、鯉耳が付いた頸部の裏表に人物、肩に蓮弁紋、胴に水藻が描かれている。茶人が、謡曲「高砂」にちなみ、二人の人物を尉と姥に、水藻を若松に見立て、高砂手と称した。景徳鎮の造形系譜にはない形で、小堀遠州の時代に日本の茶人から注文されたもの、あるいは日本向けに作られたものとされる。

高杯(たかつき)
器物の形状の一。脚がついた杯・盤・折敷の類を云う。元は、食物を盛る土器の下に木の輪を台にしたもので、台も土器にして作り付けにしたものを土高杯といい、後には木製、漆塗りにして菓子などを盛った。またそれに倣った陶磁もある。『貞丈雑記』に「たかつきと云は、食物をもるかはらけの下に、わげ物の輪を置たるを云也。つきと云は杯の字也。土器茶碗などの類を、すべてつきと云也。かわらけの下には輪を置て、杯を高くする故、たかつきといふ也。大草流の書に、式三献の折敷高つき也とあるは、右の土器の下にわげ物を置く事也。今時如此なる物を、木にて作りて高杯と云も、かわらけの下にわげ物の輪を置て、高くしたる形をまなびて作り出したるなり。」とある。

高取焼(たかとりやき)
筑前黒田藩の御用窯で遠州七窯のひとつ。慶長5年(1600) 黒田長政が筑前福岡に転封した時、朝鮮出兵の際連れ帰った朝鮮韋登の陶工「八山」に命じ、鷹取山南山麓永満寺宅間に「永満寺窯」を築かせたのが始まり。八山は鷹取山に因み「高取」の姓と「八蔵」の名を賜り高取八蔵重貞と名乗り黒田藩「御用窯」となる。慶長19年(1614)内ヶ磯に移り「内ケ磯窯」を開く。寛永元年(1624)帰国を願い出たため2代藩主忠之の勘気にふれ禄を召し上げられ八蔵親子は山田村唐人谷に「山田窯」を開く。この三窯時代の作品を「古高取」といい陶質は堅硬で茶褐色釉の上に斑に黒色釉を掛け古格があり珍重される。寛永7年(1630)八蔵父子は許され藩命により伏見に赴き小堀遠州の指導を受け、白旗山の山麓に「臼旗山窯」を開く。また唐津城主寺沢氏の浪人五十嵐次右衛門を聘し瀬戸の陶法を学ばせ下釉を施すようになる。これを「遠州高取」という。寛文5年(1665)3代藩主光之の時、初代八蔵の次男八蔵貞明が2代目を継ぎ朝倉郡小石原村鼓に移住し「小石原鼓窯」を開く。これを「小石原高取」という。4代藩主黒田綱政は、宝永5年(1708)小石原から陶工を呼び福岡城下近くに「東皿山窯」を開かせ、皿山奉行を小石原から移し、抹茶碗・茶入・置物などに限定し主として幕府および諸侯への贈答用に当てた。5代藩主黒田宣政は享保3年(1718)西新町窯を開き、もっぱら日用雑器を焼かせた。これは「西皿山」と呼ばれる。明治4年(1871)の廃藩置県により御用窯は閉ざされるが、その後再興され、福岡市内と小石原の2カ所に数軒ある。

高橋道八(たかはし どうはち)
京都清水焼の陶工、高橋家の通名。初代高橋道八(1740〜1804)は伊勢亀山藩士の次男に生まれ、名は高橋周平光重。宝暦年間(1751〜64)に京に出て作陶を始め、粟田口に開窯。松風亭、空仲、周平と号す。以後代々高橋道八を名乗る。2代道八(1782〜1855)は初代道八の次男。松風亭、華中亭。奥田頴川の弟子となり、同門の青木木米と共に当時の三大名工とされる。文化8年(1811)京都五条坂に開窯。仁和寺の宮より「仁」の一字を、醍醐寺三宝院門跡から「阿弥」の称号を拝領して仁阿弥を名乗り、仁阿弥道八が一般的通り名。作風は色絵磁器から茶陶・彫塑など多岐に渡り、特に琳派の画風の「雲錦手」や人物・動物を写実的に模した彫塑の名手。紀州偕楽園御庭焼、高松藩の賛窯、嵯峨角倉家一方堂焼、西本願寺露山焼などに参画。天保13年(1842)伏見に隠居、道翁、法螺山人と称して桃山窯を開く。安政2年(1855)73歳でこの地に没す。尾形周平は弟。3代道八(1811〜1879)は幼名道三、名は光英(みちふさ)。華中亭。青磁雲鶴三島刷毛目を得意とし、青花白抜画の釉の上下に濃淡のボカシを出すことを発明、釉薬も改良発明した。4代道八(1845〜1897)名は光頼。華中亭。明治7年(1874)父を継ぎ、青花磁・彫刻・白磁を得意とし、京都府勧業場の御用係。5代道八(1869〜1914)四代の子が幼少のため、甲賀の人、小川勇之助が継ぐ。6代道八(1881〜1941)4代の次男。華中亭。大正4年(1915)襲名。染付煎茶器に名品が多い。当代8代道八(1938〜)京都市立日吉ヶ丘高校美術科卒業ののち、京都府訓練校にて轆轤成形を学び、京都市工業試験場にて釉薬を学ぶ。父7代道八に師事。昭和58年(1983)8代道八を襲名。

竹台子(たけだいす)
天板、地板ともに桐木地で、竹の四本柱で支えた棚。大小あり、大は珠光好み、小は利休好み。「眞台子」を基本として、村田珠光が上下の板を桐木地とし白竹の柱を立てることを創案し、武野紹鴎に伝わり、紹鴎利休の時代に現在見られる大きさになったとされる。珠光好竹台子は、幅3尺5分、奥行1尺4寸、高さ2尺2寸と眞台子と同様の寸法となっている。利休好みは台子地板から「風炉の部分」を除いて「用」に好んだもの。寸法は、天板長さ2尺4寸8分、幅1尺2寸7分7厘、厚さ5分5厘、地板の長さ・幅は天板と同じで厚さが1寸2分、竹柱の高さは1尺8寸1分。柱は、三節を客柱(右手前)と角柱(左向う)に、二節を向柱(右向う)と勝手柱(左手前)にする。ただし、三節一本の時はこれを客柱に用いる。元来、地板は根のほうを勝手付に、天板は根のほうを客付にする。用とされているが風炉に使用するときは小風炉を用いる。

武野紹鴎(たけのじょうおう)
文亀2年(1502)〜弘治元年(1555)。室町時代の堺の町衆。通称新五郎。名乗りは仲材、号は一閑、大黒庵。父は武田信久。信久は若狭守護大名武田氏の後裔で、諸国を流浪ののち泉州堺に定着、武野と姓を改め、皮革商を営み産をなした。母は興福寺の衆徒中坊氏の女。紹鴎は若い頃より歌道を志し24歳の時に上洛、27歳のとき連歌師印政の手引で当代随一の文化人、三条西実隆(さんじょうにしさねたか;1455〜1537)と対面、古典と和歌を学ぶ。また宗碩ら当代の著名な連歌師にも親しむ。『南方録』に「宗易の物語りに、珠光の弟子、宗陳(そうちん)・宗悟(そうご)と云う人あり。紹鴎は此の二人に茶の稽古修行ありし也」、また大徳寺の古岳宗旦に参じ、次いで大林宋套に参禅し、宗套から一閑居士号を受ける。『山上宗二記』に「紹鴎、三十マデ連歌師ナリ。三条逍遥院殿『詠歌大概』之序ヲ聞キ、茶湯ヲ分別シ名人ニナラレタリ。」という。戦火を避け31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念する。晩年に京都下京四条の夷堂に大黒庵を設ける。『山上宗二記』に「当代千万ノ道具ハ、皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出也」、『南方録』に「紹鴎に成りて四畳半座敷所に改め、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗うちをうすぬり又は白木にし、之を草の座敷と申されし也。鴎はこの座に台子は飾られず。」、『長闇堂記』に「一 つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん」とあるように、珠光の四畳半茶の湯をさらに深化させ、藁屋根の四畳半にを切って茶室とし、唐物の茶器のかわりに信楽 水指備前 建水、竹自在鉤、釣瓶 木地 水指木地曲物建水、竹蓋置など、日常雑器を茶の湯に取り入れ、「紹鴎のわひ茶の湯の心ハ、新古今集の中定家朝臣の歌に、見わたせは花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕くれ 此歌の心にてこそあれと被申しと也。」「連歌ハ枯レカジカケテ寒カレと。茶ノ湯ノ果テモソノ如クナリタキト、紹鴎常ニ言ウト、辻玄哉言ワレシトナリ」とあるような「わび茶」を完成させた。門下に、今井宗久津田宗及千宗易らがいる。

竹花入(たけはないれ)
竹で作られた花入。置花入、掛花入、釣花入がある。『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」、『逢源斎書』に「一、竹筒事。小田原陣御供休被参。其時大竹在之故、花入に切被申候。園城寺も其時の花入。日本第一。小田原より帰陣在之。園城寺少庵へみあげ心に越被申候。尺八は堺いたみやに宗不に在之。休持用也。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて一重切「園城寺」(おんじょうじ)、「音曲」(おんぎょく)、逆竹寸切「尺八」(しゃくはち)、その他に二重切「夜長」(よなが)も作ったとされ、「尺八」は秀吉に献上し、「音曲」は織部に送り、「園城寺」を少庵への土産にし、「よなが」は自ら使用したらしく『利休百会記』天正19年1月の会に「よなが」の名がみえる。『茶道筌蹄』に「太閤小田原城を攻られし時、居士供奉し陣中にある事久し、或時伊豆韮山山城内に大竹ある由をきゝて矢文を以て其守将北條美濃守氏規に乞得て華入二筒を製し其一筒は尺八と名付け即ち太閤へ献す、一筒は一重切園城寺と銘し少庵へ与ふ、是竹華入の始也」とあり、これを竹花入の始めとするのが通説となっており、会記にも『天王寺屋会記』天正18年(1590)7月9日の桑山修理の朝会に「床ニ竹ノ切カケ」が初見されて以降、竹花入が頻繁に現れるようになる。ところが、竹檠を見立て団扇形の花窓を刳り抜いた紹鴎所持「洞切」をはじめ紹鴎作と伝える竹花入が何口か現存する。これについては『逢源斎書』に「一、竹花入の筒事。紹鴎作と申候は無事也。利初に候。」、『随流斎延紙ノ書』に「一、たけ置花入、無事なり、紹鴎たけ置花入とて、片桐石見守切被申候しとなり」とあり紹鴎作を否定している。ただ他にも「天下御作 天正十五年十月六日大会」の漆書と利休花押のある豊臣秀吉作で利休が拝領したとされる根付竹を寸切にした「大会」(だいえ)という銘をもつ竹花入が伝来し、『茶道筌蹄』に「利休二重切に上り亀の蒔絵をなし正親町天皇へ献す、端の坊は利休八幡端の坊にあたふ」とあり、これも伝存するが、正親町天皇は天正14年(1586)には譲位しており、これも利休三筒より前の作ということになるなど、利休以前にも竹花入は存在したが、利休によって正式な花入として認知されたのではないかと云う。『茶湯古事談』には「秀吉公、小田原御陣の時、利休も茶釜つけたる七節のゑつるの指物さし、馬上にて御供申せし、石垣山の御陣城にも数奇屋をかこはせられ、橋立の御壷、玉堂の御茶入なとにて、家康・玄旨・由古、利休に御茶給り、又信雄卿・忠興・氏郷・景勝・羽柴上総守勝雅に前波半入杯加へられ、御茶給りしとなん。同陣中にて、利休韮山竹の勝れて見事なるを見出し、是そよき花生ならんと秀吉公へ申上しに、さあらは切よと有し故切しに、利休も是はと驚く程によく出来たりし故差上しに、存の外御意に不入、さんざん御不快にて庭前へ投捨にせられし故、同所にて尺八を切差上しに、是は大に御意に入し、前の竹よりあしかりしかとも、御秘蔵なりしか、利休死罪の時御怒りの余り、打わり捨させられしを、今井宗及ひそかに取あつめ置、後つき合せ秘蔵せし、年を経て堺の住吉屋宗無所持せしか、宗無死後に同所伊丹屋宗不値百貫に求めて家に伝しとなん。はしめの竹は、庭の石にあたりひゝき入しか、利休ひろひて、少庵へ土産とせし、或時是を床にかけ花入しに、客か水のしたゝりて畳のぬるゝを見て、いかゝといひしに、此もるこそ命なれといひし、三井寺の鐘のひゝきを思ひよせて、園城寺と名つけ、則筒に園城寺少庵と書付有、後は金粉にてとめて有、後に金屋宗貞かもとにありしを、京の家原自仙か八百両に求置し、或時尾州の野村宗二か京都に遊ひ帰るとて、自仙へ暇乞に行しに、来年の口切頃には必のほられよ、園城寺つゐに茶に出さぬか、来年は始て出さんといひしかは、宗二もそれはかりに又上京せしに、彼園城寺を出し口切せしに、あらたにかこひをたてしか、みゆる所に竹一本も遺さりし、是園城寺の竹に憚りしよし、京中の茶人も称美せし、自仙子なく、甥の徳助を養ひ、家財共に譲りしか、後に不勝手になりかゝりし此、或人江戸の町人冬木にいひしは、兼々園城寺を望まれしか、自仙跡も不勝手に成行は、今にては手にいるへし、本は八百両にてかひしか今は判金にては百枚にはうるへし、弥求め遺すへきやといひしに、冬木大ひに悦ひ、何とそもらひくれよ但し八百両を判金百枚にまけさせる事は望なし、それては道具の威かさかる程に、やつはりもとの値段に八百両にもらひくれよとありしかは、やかて冬木か方へおくりしとなん、又同竹にて音曲を切し、是に狂哥あり、其文いまに京の人所持すとなん、亦よなか、二重筒も利休作にて百会にいたせり、はし之坊と云も同作にて名高しとなん。韮山竹、利休見出し切そめて竹の名所と成し、御当代になりてォりに切事御停止也、故に世にまれなりしとなん。」とある。「尺八」「一重切」「二重切」の利休三種のほかに、遠州により「藤浪」など上の輪に節を置いた掛切や二重切の輪と柱を切り取った「再来」銘の「輪無二重切」が作られ、『逢源斎書』に「一、花入竹之事。切様在之候。面談に而なく候ヘは不被申候。船は宗旦初而切出し被申候。」とあるように、宗旦により舟形の「横雲」「貨狄舟」「丸太舟」など釣舟が作られ、藤村庸軒により一重切の窓を吹貫にした「置筒花入」が作られ、また利休が薮内剣仲に花を入れて送ったとされる薮内家伝来の手桶形の「送筒」(利休送筒)と呼ばれるものもあり、これは花を運ぶための「通い筒」を見立てたもの。他に、表千家の逢源斎好「長生丸」、覚々斎好「沓舟」、如心斎好「置尺八」「稲塚」「根深一重切」「酢筒」、裏千家の仙叟好「太鼓舟」「旅枕」「窓二重」「ヘラ筒」「鶴首」、又玄斎好「色紙」、玄々斎好「御神酒筒」「三徳」などがある。

畳(たたみ)
畳の大きさは、京都を中心とした関西の畳の寸法を基準とした「畳割り」(内法制)と、東日本の柱の真から柱の真までの間隔を基準寸法とする「柱割り」(真芯制)の違いがあり、地方により畳の大きさがちがう。「畳割り」(内法制)は、畳の寸法を優先して柱の位置を決めていくもので、いわゆる「京間」がこれにあたる。「京間」は別名「本間畳」といい、京都を中心に大阪・瀬戸内・山陰・九州で用いられてきた基本尺で畳の一枚の大きさが長さ6尺3寸×幅3尺1寸5分(1909×955o)で、部屋の大きさが変わっても畳一枚の大きさは一定である。これに対し、「柱割り」(真芯制)は、柱間(柱と柱の間の心々寸法)を6尺(1818o)とし、ここから畳の大きさを決めていくもので、「田舎間」別名「関東間」・「江戸間」と呼ばれる。田舎間は柱の位置や柱の太さにより畳の大きさが決まるため、結果的に部屋の大きさや間取りにより微妙に畳の大きさが異なる。また他に主に愛知・岐阜・三重地方で使用される「中京間」などがある。畳の寸法としては、一般的に、京間6尺3寸×3尺1寸5分(1909×955o)、中京間6尺×3尺(1818×909o)、田舎間5尺8寸×2尺9寸(1757×879mm)となる。なぜ一間の長さが京間6尺3寸と田舎間6尺になったかについては、寛政6年(1794)の『地方凡例録』には「太閤検地の頃迄は六尺三寸と聞ゆ、今も屋舎等の壱間ハ六尺三寸を京間と云ひ、六尺を田舎間と云、故に田地等も検地の時代知れざる処は、今に六尺五寸四方を壱歩と云ひ習ハせし所もあり、又古検ハすぺて六尺三寸竿を用ることなりといへども、近世は古に復して六尺を壱間とす」とあり、検地竿の違いが、六尺三寸の京間、六尺の田舎間の一間の違いとなったとされる。茶室の畳は、の大きさや茶道具が、京畳の大きさに合わせて決められ、置き合せも京畳の短手の目数の縁内64目を基準とされているので、通常京畳を使用する。但し、田舎間を用いる流儀もある。これら一畳まるまるの大きさの畳を「丸畳」と呼び、他に「台目畳」や「半畳」がある。また、茶室内の畳にはそれぞれ用途により、亭主が座って点前をする「点前畳(てまえだたみ)」(茶道具を置くので「道具畳」ともいう)、茶道口の前に敷かれ亭主が茶室に入るとき最初に踏み込む「踏込畳(ふみこみだたみ)」、踏込畳から客畳までに敷かれた「通畳(かよいだたみ)」、客の座る「客畳(きゃくだたみ)」、床の前に敷かれ特別な客(貴人)が座る「貴人畳(きにんだたみ)」、が切ってある「炉畳(ろだたみ)」の名がある。

棚物(たなもの)
点前に際し茶道具を飾り置く棚の総称。棚は、四畳半以上の広間に使い、小間には使わない。棚物の、に付くいちばん下の棚を「地板(じいた)」、いちばん上の板を「天板(てんいた)」、中間に棚板があれば「中板(なかいた)」という。客が入る前に茶器を飾り付けておくのを「初飾」、点前後に柄杓蓋置などを飾り残すのを「後飾」、茶碗まで飾り残すのを「総飾」という。棚は大別して、台子、卓(しょく)、袋棚(ふくろだな)に分けられる。台子系の棚として、真台子(しんのだいす)、及台子(きゅうだいす)、竹台子、竹柱四方棚(たけばしらよほうだな)、木瓜棚(もっこうだな)、卓系の棚として、丸卓矢筈棚、袋棚には紹鴎袋棚利休袋棚があり、利休袋棚から出た二重棚、烏帽子棚小袋棚自在棚があり、その他宗匠好みに、壷々棚梅棚蛤棚などがある。『南方録』に、「四畳半にはかならず袋棚已下の置棚、卓子、箪子の類に道具かざりて、茶を立しことなり。の上に道具置合することは、二畳敷一尺四寸より始り、台目切等、専にカネをわり付て置合ることなり。されども四畳半にては、一向の草庵ともいヽがたき心にて、の上置合ることなかりしことなり。京畳四畳半にて、紹鴎を御茶申されし時、棚なしに前後仕廻れし、これ最初なりと、のもの語なり。」とあり、棚を使わずに畳に置き付けるようになったのは利休からとする。

莨入(たばこいれ)
莨盆の中に組み込み、刻みたばこを入れるのに用いる道具。『煙草考』に「烟盒 俗謂烟草入也。多用漆器、或陶〓、或曲輪(漢人此謂巻環)、梨地(漢人此謂描金)、彫紅、螺鈿、銅鍮、紙器(俗所謂張子之類也)等、其形容不一、各従所好用之、納縷烟居盤上。」とあり、唐物の見立てや檀紙の畳紙など様々ある。

莨盆(たばこぼん)
莨入火入灰吹煙管、香箸など喫煙具一式を納めておく道具。形はさまざまで、大別して手付きと手無しに分けられ、唐物には蒟醤・青貝・漆器・藤組など、和物には唐木・漆器・木地・一閑張・篭などがある。家元の好み物も多く、宗旦遠州宗和あたりから好み物の煙草盆が登場する。煙草盆に必ず備えられるのが火入灰吹で、向って左に火入、右に灰吹を入れ、莨入煙管、香火箸(香箸)を添えるときは、煙管二本を前へかけ、香火箸を灰吹の右に置く。茶事においては、寄付、腰掛に置かれ、席中では薄茶が始まる前に持ち出され、それぞれ形状、材質、技法など異なったものを用いる。また大寄せでは、最初から正客の席に置かれる。『茶式湖月抄』に「たばこ盆の事は、利休時代まで、稀々に用いしゆえ、莨盆一具などなかりし也。やうやう九十年来、世人なべて用ることとなれり。利休煙草盆あり、これは利休の名をかりたるなるべし。」とあり、江戸後期に莨盆一具が茶事の道具として一般的になったとする。『目ざまし草』には「芬盤といふものは(ある説に、志野家の人、某の侯と謀て、香具をとりあはせたりといへり)、香具を取りあはせて用ひしとなり。盆は即ち香盆、火入は香炉、唾壷は炷燼壷、煙包は銀葉匣、盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。後々に至り、今の書院たばこ盆といふ様の物出来ると也。」とあり、莨盆一具は香具を見立てたとする。

田端志音(たばた しおん)
陶芸家。昭和22年(1947)北九州市戸畑区に生まれる。昭和60年(1985)より5年間、茶道具商の谷松屋戸田商店勤務をへて、平成3年(1991)作陶の世界に入り、平成4年(1992)神戸市北区に築窯。 陶芸家の杉本貞光に師事した後、平成16年(2004)軽井沢鶴溜に窖窯による工房「志音窯」を創設。吉兆の創業者である湯木貞一に才能を見出され、作品は吉兆をはじめ有名料亭で用いられる。乾山写しを中心に、赤絵・銹絵・染付なども手がける。

田原陶兵衛(たはらとうべえ)
萩焼の陶工。田原家の通名。豊臣秀吉公の文禄・慶長の役に際して、日本に渡来した朝鮮の陶工李勺光の高弟として共に広島から萩に移住し、松本の御用焼物所に御雇細工人として召し抱えられた松本ノ介左衛門を始祖とし、三之瀬焼物所開窯者の一人赤川助左衛門を初代として、代々赤川助左衛門を称す。幕末の九代喜代蔵の嫡男謙治が田原姓を名乗り、以来田原陶兵衛を称する。○初代赤川介左衛門、明暦3年(1657)萩松本より深川三之瀬に移住し、蔵崎五郎左衛門に協力し三之瀬焼物所を開窯。○二代松本助左衛門、寛文年間、支藩岩国吉川家より度々焼物御用を仰付かる。寛文八年、岩国にて陶技指導。○三代赤川助左衛門(三左衛門)。○四代三左衛門(佐兵衛、左々ヱ門)。○五代喜右衛門(忠兵衛)、宝暦十三年、一族共同の窯、東ノ新窯を増築する。○六代赤川喜右衛門、安永三年、赤川姓の一代名字を許される。天明三年、「由緒並名字御免之証拠物」を藩庁へ提出。天明六年、御雇細工人として召し抱えられる。○七代赤川忠兵衛。○八代赤川喜代蔵、晩年毛利家の御一門、吉敷毛利家の御家頼分となる。○九代田原謙治、慶応元年、吉敷毛利家の御家頼田原家の名跡を嗣ぐが、引続き深川三之瀬にて家業に従事する。○十代陶兵衛(高麗陶兵衛)。守雄。現在地に新しく窯を築く。ドイツ等外国を含め各地の博覧会に出品し萩焼振興に努める。○十一代陶兵衛(高麗陶兵衛)、忠太郎。十代陶兵衛の長男。昭和18年(1943)技術保存窯指定。昭和22年(1947)芸術陶器窯認定。○十二代陶兵衛。源太郎。昭和元年(1925)十代の二男として生れる。昭和31年(1956)兄の死去により十二代を襲名。昭和56年(1981)山口県指定無形文化財萩焼保持者認定。日本工芸会理事。○十三代陶兵衛、謙次。昭和26年(1951)十二代の長男として生れる。武蔵野美術大学、同大大学院卒業後、中里重利に師事。平成4年(1992)陶兵衛襲名。日本工芸会山口支部展奨励賞受賞。田部美術館茶の湯の造形展入選。西日本陶芸美術展入選。日本工芸会正会員。

玉子手(たまごで)
高麗茶碗の一種。玉子手の名は、玉子の殻のような滑らかでやや黄味がかった釉調による。熊川または粉引の上手ともいう。姿は熊川に似るが、土が細かく柔らかで、素地が薄く手取りが軽い。口作りは端反りになったものが多く、胴でやや膨らみ、見込みに鏡があることが多く、高台はやや低く竹節、高台内はやや兜巾となる。釉薬はやや黄味がかった乳白色で滑らかで、貫入が入る。窯変で青みが出るものもある。

玉水焼(たまみずやき)
楽家4代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯したもの。当時は彌兵衛焼と呼ばれた。楽家脇窯とされる。
玉水焼初代一元(いちげん:1662-1722)は、一入と伊縫(いぬい)氏との間に庶子として生まれるが、一入は寛文5年(1665)雁金屋三右衛門の子で2歳になる後の宗入を養子とする。後年跡目の問題が起き、庶子の一元がその母とともに、楽家の文書や楽の銀印を持って母の生地である山城国玉水村(京都府綴喜郡井手町字玉水)に移り住み、長次郎以来5代目として一元を称し、新たに楽焼の窯を開いた。2代一空(いっくう:1709-1730)は一元の長男、彌兵衛、一空。3代任土斎(にんどさい)は一空の弟、彌兵衛、任土斎。任土斎は妻を娶らず血統は三代で絶えたが、一元の弟子で玉水村八人衆のひとり伊縫甚兵衛が4代を継ぎ楽翁(らくおう)と号す。5代娯楽斎(ごらくさい)は楽翁の子で、宗助、甚兵衛、娯楽斎。6代涼行斎(りょうこうさい)は、惣助、彌兵衛、涼行斎。7代浄閑斎(じょうかんさい)は惣助、浄閑斎。8代照暁斎(しょうぎょうさい)は、甚兵衛、照暁斎、自ら「伊縫楽甚兵衛」と署名した。明治12年(1879)10月10日没して玉水焼は断絶した。

玉藻焼(たまもやき) 
玉藻焼は香川県にあり、主に楽焼を造る。初代 氏家常平(うぢいえ つねへい)。大正3年(1914)香川県善通寺大麻に生れる。昭和3年(1928)五代清水六兵衛に師事。昭和22年(1947)大川郡大内町に誉水窯を開窯し、愈好斎の指導を受ける。昭和24年(1949)愈好斎が玉藻浦に因み玉藻焼と命名。二代 氏家常美(つねみ)。昭和43年(1968)初代玉藻に師事。平成4年(1992)二代玉藻襲名。
香川の高松の高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれ、その由来は万葉集で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれる。(玉藻城は、海沿いにありお堀に海水を引き入れた水城)

溜塗(ためぬり)
漆塗の一種。中塗に朱・紅柄・青・黄などの彩漆を塗り、木炭でみがいて艶消しを行い、上塗に透漆を塗り放したもの。透漆を通して色が透けて見える。朱漆の上に透漆をかけたものを紅溜(べにため)といい、下の赤が透けて濃い栗色になる。この色を「ため色」という。

短冊(たんざく)
和歌・俳句・漢詩・絵画などを書くための細長い料紙。短籍・短尺・短策・単尺などとも書き「たんじゃく」ともよむ。『和歌深秘抄』には「短冊の事、為世卿頓阿申合候哉、長さ一尺にて候、只今入見参候、此題岸柳、為世卿自筆にて候、裏書は頓阿、重而子細は尭孝筆跡にて候」とあり、鎌倉末期、藤原定家の曾孫 二条為世(1250〜1338)と頓阿(1289〜1372)が初めて作ったとされ、寸法は懐紙を竪に八等分にし、巾一寸八分、長さ一尺のものだったが、時代が経つにつれ今日の巾二寸、長さ一尺二寸に変わった。ただ天皇は少し大きめの短冊を用いたともいう。現存する最古の短冊は『宝積経要品紙背短冊』とされ、足利直義の跋によれば、或人が夢に「なむさかふつせむしむさり」(南無釈迦仏全身舎利)の十二字を得、それを一字ずつ首に冠した和歌を募り、光明院・尊氏・直義・細川和氏・高師直・兼好・頓阿・浄弁・慶運らの短冊を得、それらを継合せて一帖に装し、その背景に康永3年(1344)10月兄尊氏、僧夢窓疎石と共に大宝積経の要品を書写して高野山に納めたもの。料紙は、鎌倉末期はいわゆる杉原紙で白無地のの簡素なもので、室町時代以後は和歌の会で短冊を用いることが定着し、素紙に雲形を漉き込んだ打曇紙(うちぐもり)がほとんどであった。室町時代の末には金泥・銀泥で下絵を描いたもの、桃山時代には華麗な装飾や下絵を描いたものが用いられた。

旦入(たんにゅう)
楽家10代。寛政7年(1795)〜嘉永7年(1854)59歳。9代了入の次男。文化8年(1811)10代吉左衛門を襲名。弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号す。紀州御庭焼偕楽園窯にも参加し「清寧」の印を拝領する。作行きは了入の影響を受け、多彩な箆削りの変化を見せ茶碗の各所を引き立たせる箆は更に技巧的にみがかれている。作品は全般に小ぶりで、釉がけは薄く、赤茶碗には濃淡が生じる。口造りは伸びやかな「五岳」をなす。浅い茶溜りがある。 天保9年(1838) 長次郎の250回忌をつとめ、黒茶碗を250個焼いた。印は、「木楽印」といい、下部が「木」になっている。

丹波焼(たんばやき)
丹波国(兵庫県)立杭(篠山市今田町立杭)を中心として焼かれる陶器の通称。「立杭(たちくい)焼」ともいう。日本六古窯の一つで、平安末期から鎌倉初期から始まるとされ、大同元年(806)長門国萩の陶工・風呂藪(ふろやぶ)惣太郎(宗太郎)が陶法を伝えたという口碑もある。慶長末頃まで三木峠、床谷(とこらり)、源兵衛山、太郎三郎(たきうら)、稲荷山の「穴窯」で種壺や甕(かめ)など無釉の焼締(やきしめ)陶を焼き、これを小野原焼という。慶長16年(1611)頃に「穴窯」に替わり、朝鮮式の「登り窯」が築かれ、左回りの蹴轆轤(けろくろ)、釉薬も使われるようになる。寛永年間、小堀遠州(1579〜1647)の指導により茶碗茶入水指建水等が作られ「遠州丹波」と称され、茶入に中興名物「生野」がある。鉄分の多い土で、黒味を帯びさびた味わいがある。釉薬は、灰釉、赤土部(あかどべ)釉、飴黒(あめぐろ)、江戸後期から白釉、土灰釉が使われる。

箪瓢(たんぴょう)
器物の形状の一。瓢箪を逆さにしたように、上が大きく下が小さく膨らんだ形のもの。茶入水指建水などにある。箪瓢建水は、七種建水の一。

  
  
  
  
  
 

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