茶道用語

灰被(はいかつぎ)
炭火などが燃えるにつれて、白い灰に覆われること。窯の中で降灰や灰汁を被った意味で、薪の灰が器胎表面に付着して、熱によってとけて灰釉を掛けたような状態になったもの。「はいかづき」とも。灰被天目

灰被天目(はいかつぎてんもく)
天目茶碗の一種。鉄釉が二重掛けされ、下に掛けられた釉が灰色となり、釉面が灰をかぶったような翳のある不明瞭な景色を呈したもの。中国・宋時代に福建省南平茶洋窯などで焼かれたとされる。『君台観左右帳記』に「天目。御物などは一向御座無物也。大名にも外様番所などにもをかるヽ。薬建盞に似たるをば灰かづきと申。上の代五百匹。」(群書類従本)「天目、つねのことし。はいかつきを上とする也。上には御用なき物にて候間、不及代候也。」(東北大学蔵本)とあり、価値の低いものとされていたが、侘茶の盛行とともに、それまで珍重された端正で光り輝く、耀変、油滴、建盞などに代わり、灰被天目が注目されるようになり、村田珠光所持の伝承をもつ「珠光天目」が伝世し、『山上宗二記』には「天目。紹鴎所持一つ。天下三つの内、二つ関白様に在り。引拙の天目、堺油屋に在り。いずれも灰かつぎ也。」とあり、高く評価されている。

灰器(はいき)
炭点前で、灰匙で蒔くための灰を入れる器。灰炮烙(はいほうろく)。風炉用と用があり、風炉用は小振りで釉薬のかかったもの、用は大振りで湿り灰(濡灰)を入れるため釉薬のかかっていない素焼のものを用いる。灰器はの炭点前には必ず用いるが、風炉の場合には土風炉で蒔灰がしてあるときのみ用いられる。『茶道筌蹄』に「甕蓋 南蛮のツボの蓋なり。島物。備前、信楽。楽素焼 利休形なり。同薬懸 利休形、風炉に用ゆ。同焼抜 如心斎好、長入より前になし。同ノンカウ形 素焼に押判あり。同内薬 卒啄斎好、炉に用ゆ。金入 了々斎好、善五郎作、黒に金入、炉に用ゆ。半田之事。泉州半田村にて焼。素焼は炉に用ひ、薬懸風炉也。仙叟好、素焼にて少々小形押形あり炉に用ゆ。大焙烙あり、むかしは底取に用ゆ、長次郎作ある物也。」とある。

灰匙(はいさじ)
炭点前で、風炉に灰をまくための匙。風炉の折は灰形を作るのに用いる。灰杓子(はいじやくし)。鉄や銅などの金属製で、用、風炉用の二種類があり、風炉用には小ぶりで柄が長く柄に竹の皮を巻いたもの、用には大ぶりで桑の木の柄がついたものが用いられる。『茶話指月集』に「灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、、金にして柄を付けたり。、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、『茶道筌蹄』に「利休形 桑柄ニクロミさし込。少庵形 桑柄ベウ打火色。宗全形 大判形竹皮巻。仙叟形 同断大形なり。長二郎形 赤楽焼竹皮巻延付焼なり。」とあり、利休形は桑柄で匙が柄に差込みなっており、少庵好は鋲打ち、特殊なものとして楽焼(元伯好み)のものがある。

灰吹(はいふき)
莨盆の中に組み込み、煙管で吸った煙草の吸殻を落とすための器。煙壷。吐月峰。吐月峰(とげっぽう)は静岡市にある山の名で連歌師 宗長(そうちょう:1448〜1532)がここに吐月峰柴屋軒を開き自ら移植した竹を使い竹細工をし、灰吹に吐月峰の焼印をして売られたため、吐月峰と書いて灰吹と読むほどになったという。向井震軒の『煙草考』に「烟壷 俗謂灰吹也。以棄烟燼、俗謂吸殻也。漢人此謂烟糞。且以吐唾。其器用唐金或瓷器。長三寸許、大一寸餘。其形容方圓不同。或用青竹筒。」とあるが、茶席では通常竹が用いられ、青竹に限らず、普通白竹を用いている。

萩井好斎(はぎい こうさい)
大阪の指物師。初代好斎 〜昭和48年(1973) 二代芦田真阿(指真)に入門。茶の湯専門の指物師として大阪曽根崎で独立開業し、木遊軒を名乗る。愈好斎の好み物を造る。昭和32年(1957)淡々斎に好斎の号をもらい裏千家の職方となる。二代好斎 昭和9年(1934)〜平成12年(2000) 初代好斎の長男。三代好斎 昭和39年(1964)〜 本名は正也。平成13年(2001)三代襲名。萩井一丘(はぎい いっきゅう) 昭和13年(1938)〜 初代好斎の次男。本名は光次。初代好斎に師事。日本工芸会正会員。萩井一司(はぎい いっし) 昭和17年(1942)〜 初代好斎の三男。本名は守三。羽原一陽に師事。日本工芸会正会員。

萩焼(はぎやき)
山口県萩市周辺で焼かれる陶器。一楽二萩三唐津と云われ、ほとんどの場合、絵付けは行われず、大道土、金峯土を基本に、そこに見島土や地土と呼ばれる地元の土を配合して作られた胎土、藁灰を多く配合しこってりと白濁した白萩釉、白萩よりも藁灰の量が少なく釉の厚い部分は白濁し薄い部分は透明に近くなる萩釉などの釉薬のかけ具合、へら目などとともに、登窯を使用した窯変による形成が特徴で、焼き締まりの少ない柔らかな土味と高い吸水性により萩焼の胎土(原土)には浸透性があり、使用するにつれて茶がしみ込み、茶碗の色合いが変わるのを「茶馴れ」といい、色つやが時代とともに微妙に変化するため「萩の七化け」と称し珍重される。 萩焼は豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598)で、毛利輝元が連れ帰った李朝の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国し、慶長九年(1604)輝元の萩入府に伴い広島から萩に移り、松本中之倉に屋敷を拝領し、薪山として鼓ケ嶽(唐人山)を与えられ、窯薪山御用焼物所ができたことに始まる。これを松本焼と呼ぶ。一説では、李勺光は秀吉の命令で大阪へ連れてこられ輝元に預けられ、その後慶長の役で弟の李敬を連れて帰ったとも、季勺光と季敬は兄弟ではないとの説もある。『本朝陶器攷證』には「元祖高麗左衛門と申候、朝鮮の生れ李敬と申者なりしが、朝鮮御征伐之時、道しるべを致し候所、すぐ様中納言の君召つれられ、日本へ渡海仕り助六と申せしが、御帰国の後、其方何業仕候哉と御尋の所、半弓を射、又陶工をいたし候由を申上る。御悦少なからず、長く我国の宝にておはすれとて長門の松本と云所へ家屋敷を給はり、則今以其所にて製す。追々君の御印物等拝領仕、血脈相続いたし、当時新兵衛八世に相当り申候。山号を韓峯と申、俗に唐人山と申す。右高麗左衛門と申は、君より給りし名なり、氏は坂と申、是松本焼物本家筋に御座候。」とある。季勺光の死後、季勺光の子、山村新兵衛光政(松庵)が寛永2年(1625)に毛利秀就より「作之允」に任命され「窯薪山御用焼物所惣都合」を命じられ、坂助八と名乗っていた李敬も同年「坂高麗左衛門(さかこうらいざえもん)」名を受ける。明暦3年(1657)松庵の子、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆となり、大津郡深川村ふかわ三ノ瀬に「三ノ瀬焼物所」を開設、これを深川焼あるいは三ノ瀬焼と呼ぶ。深川では御用窯ながら自家販売が認められ、元禄6年(1693)には庄屋の支配に変わり民窯としての性格が強くなる。深川焼には、山村平四郎光俊の系譜で現在15代に至る坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)、山村平四郎光俊の6代目坂倉五郎左衛門の子、善兵衛が坂田姓に改姓し14代に至る坂田窯、焼物所の職人赤川助左衛門の系譜が13代に至る田原陶兵衛(たはらとうべえ)。赤川助右衛門の系譜で11代の時に赤川姓から新庄姓に改姓し14代に至る新庄窯の四窯がある。12代新兵衛は人間国宝。
寛永三年(1663)2代藩主綱広が、三輪忠兵衛利定と佐伯半六実清を御雇細工人として召し抱え、無田ケ原で御用窯をつとめたのが三輪窯で、初代休雪は元禄十三年(1700)藩命で京都の楽一入について楽焼の修業をし、4代休雪も永享元年(1744年)楽焼きの修行を命じられ、それまで李朝の影響の強かった萩焼の和風化が進められた。10代休雪(休和:1896〜1981)、11代休雪(1910〜)は人間国宝。

白磁(はくじ)
磁器の一種。素地に高純度の白陶土(カオリン)を用いた白色磁胎に、透明な高火度釉を施し、高温で焼いた白色の硬質磁器。中国六朝時代の6世紀後半・北朝北斉時代に起こり、唐代に入ると一気に流行し、青磁を凌ぐようになる。宋代では、北宋の定窯(ていよう)において蓮華刻文や細かな型押文,象牙色の精巧な白定と呼ばれるものが作られたが、金の侵入で北宋が滅ぶと同時にすたれてしまった。南には景徳鎮(けいとくちん)において陰刻文にたまった釉が青味をおびていることから影青(インチン)と呼ばれる青白磁が作られた。元時代以降は、主に絵付磁器の素地として量産されるようになる。朝鮮半島では、10世紀に白磁の焼成法が伝えられ高麗白磁がわずかに作られたが、李氏朝鮮王朝(李朝)に入りって15世紀から本格的に焼成されるようになり、19世紀には白磁が大衆化する。日本では江戸初期の有田焼に始まる。

刷毛目(はけめ)
陶器の加飾法の一。泥漿にした化粧土を、刷毛や藁を束ねたもので素地に塗り、塗り目の現われたもの。朝鮮陶器で始められたもので、多くは李朝初期に全羅南道の務安や忠清南道公州郡の鶏龍山(けいりゅうざん)にて焼かれた。李朝で一般庶民の白磁の使用が禁じられたため白磁の代用として焼かれたとされる、鉄分の多い鼠色の素地に白泥を化粧掛けして上から木灰釉などの透明釉を施して焼成した粉青沙器(粉粧灰青沙器)のひとつで粉青刷毛目ともいう。素地を白泥の中に浸す「粉引」が白土の上に透明釉を掛けた二重掛けで素地と釉薬が直接触れていないため強度的に弱く、釉剥がれがおきたり、ピンホ−ルができたりするため、白泥の素地への密着を良くするために刷毛で刷り込むようになったとも、量の潤沢でない貴重な白泥を節約するため、量産するため手間を省いたものともいわれる。白泥を刷毛引きした後、鬼板(鉄分を含む含鉄土石)で下絵を描いて焼成されたものを「絵刷毛目」(鶏龍山で焼かれたところから「鶏龍山」ともいい、素地に白泥をズブ掛けし、その上に文様を施す粉引鉄砂とは区別される。)、線彫や掻落などが行なわれた「彫刷毛目」などがある。日本では、17世紀初頭に、唐津焼において刷毛目の作品が現われる。

刷毛目唐津(はけめからつ)
唐津焼の技法のひとつ。素地の色が黒い場合、白磁に似せるため白土(化粧土)をかけて白くすることを白化粧といい、この化粧土の溶液を刷毛や藁を束ねたもので刷毛塗りし、塗り目の現われたもの。

箱(はこ)
茶の湯の道具を入れ保護するために作られた容れ物。多くは方形で蓋が付く。基本として身・蓋・底から成り、蓋には身の口縁が蓋の中に入る「覆蓋(かぶせぶた)」、身の口の上にのる「置蓋(おきぶた)」があり、「覆蓋」には身の上からかぶせる所謂「覆蓋」と「薬籠蓋(やろうぶた)」、「置蓋」には「平蓋」「桟蓋(さんぶた)」があり、「桟蓋」には「四方桟蓋」「二方桟蓋」、他に「差蓋(さしぶた)」などがあり、底にも「平底」「上げ底」などがある。材質は桐が多く、杉・栃・桑や紫檀・黒檀・鉄刀木などの唐木のものもある。また、木地真塗掻合塗春慶塗蒔絵などがある。茶道具における箱は、道具の時代と伝来を示すものとして道具とともに尊重され、作者や銘・由来などを記した「箱書」がつけられ、「内箱」「中箱」「外箱」など二重箱・三重箱に納められたり、いくつかの箱を一緒に入れた「総箱」など幾重にも仕立てられたものもある。近世以降、作品を入れる箱に作者が作品の名前、署名、印などを記したものを「共箱(ともばこ)」という。箱に掛けられた紐は、もとは「丸紐」であったが、江戸時代に入ると殆どが「真田紐」となり、流儀により色や柄が異なる。

長谷川一望斎(はせがわ いちぼうさい)
名古屋の金物師の職家。初代の青龍斎(長谷川 克明)は、尾張徳川家に抱え工として仕えた。その次男の一望斎春江(長谷川 春江)が一望斎 初代。2代一望斎春泉。当代は3代一望斎春洸。竹次郎。昭和25年(1950)長谷川一望斎春泉の次男として名古屋に生まれる。昭和38年(1968)人間国宝関谷四郎氏に鍛金を師事。昭和46年(1971)名古屋に帰り、父春泉の元で従事。昭和59年(1984)日本工芸会正会員。平成4年(1994)一望斎襲名。

八景釜(はっけいがま)
茶湯釜の一。八角形の八面に「夜雨」「晩鐘」「帰帆」「晴嵐」「秋月」「落雁」「夕照」「暮雪」の八景文様を鋳込んだもの。八景とは、中国湖南省の洞庭湖に面した瀟湘(しょうしょう)の景勝八景を北宋の宋迪(そうてき)が「瀟湘夜雨」「遠寺晩鐘」「遠浦帰帆」「山市晴嵐」「洞庭秋月」「平沙落雁」「漁村夕照」「江天暮雪」の山水画「瀟湘八景」に描いたことに始まり、これが日本に伝わり室町時代の明応9年(1500)近衛政家が琵琶湖に遊んだ時、瀟湘八景に倣って琵琶湖の西南岸から「唐崎夜雨」「三井晩鐘」「矢橋帰帆」「粟津晴嵐」「石山秋月」「堅田落雁」「勢田夕照」「比良暮雪」の八景を選ひ自ら絵と和歌をしたためたのが「近江八景」と云われ、八景は牧谿、玉澗、雪村など古来多くの画家達によって取り上げられ、日本人の風景観にも大きな影響を与えたと思われる。その八景を茶湯釜に仕立てたものが八景釜だが、八景すべてがあるのはまれで、六・四・二景ぐらいのものが多く、芦屋釜にもみられるが、脇芦屋、特に博多、伊予釜にみいだされるという。

八卦文(はっけもん)
文様の一。三本の算木を組み合わせ易占の八卦をかたどった文様。算木文(さんぎもん)ともいう。

八寸(はっすん)
懐石道具の一。八寸(約24cm)四角の杉木地の盆。転じて、献立の名称。千利休が京都洛南の八幡宮の神器から作ったといわれる。懐石で、食事の段に続き、吸物椀が出て、客が箸洗いを終わったころ、亭主が左手に八寸、右手に銚子を持って出る。八寸には、酒の肴二種をのせ、客に酒をすすめ、主客の盃の応酬がおこなわれる。肴の二種は、海のもの(生臭もの)と山のもの(精進もの)を、客の数に亭主の分を加えて盛る。八寸膳。

花入(はないれ)
茶席に飾る茶花を入れる器。金属・磁器・陶器・などがある。花入は、中釘や床柱の花釘に掛ける掛花入、の天井や落掛などから吊る釣花入、に置く置花入などがある。が畳敷きの場合は置花入の下に薄板を敷く。『茶話指月集』に「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」とあるように、籠花入には薄板は用いない。胡銅唐銅や唐物青磁などを真、上釉のかかった和物の陶磁器を行、や上釉のかからない陶磁器などを草とする。『南方録』には「小座敷の花入は、竹の筒・籠・ふくべ(瓢)などよし。かねの物は、凡そ四畳半によし。小座敷にも自然には用いらる。」とある。竹花入は、『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、此の頃以降大いに用いられるようになった。

羽田五郎(はねだ ごろう)
室町時代の塗師。生没年不詳。稲垣休叟(1770〜1819)の文化13年(1816)『茶道筌蹄』に「五郎 羽田氏、奈良法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作を法界門塗と云、羽田盆ともいふ、珠光時代の棗は、五郎作に限りては杉の木地板目なり」とあり、茶器の棗は羽田が珠光のために作ったのが最初であると伝えられる。

羽田盆(はねだぼん)
端が矢筈になった黒漆塗の四方盆羽田五郎の創意と伝えられる。『茶道筌蹄』に「羽田 羽田五郎作。矢筈盆。松屋所持なり。」、「五郎 羽田氏、奈良法界門の傍に住す、夫ゆへ五郎の作を法界門塗と云、羽田盆ともいふ。」とある。

羽箒(はぼうき)
炭点前で、炉縁の周囲、炉壇の上、五徳の爪や風炉などを掃くためのもの。三つ羽と一枚羽のものがある。一枚羽は真の羽箒として、炉、風炉共に用いる。三つ羽は行・草の位のもので、用は左羽(向って左が広い)、風炉用は右羽(向って右が広い)を使い、ともに三枚合わせて手元を竹の皮などで包んである。

蛤棚(はまぐりだな)
蛤棚
一枚の桐の板を、蛤形にくり抜いて天板とし、その残りを客付の側面に立て、勝手付を竹の柱で補った組み立て式の。地板がないため、水指は運び点前のように、点前のはじめに運び出し、終わると運び去る扱いになる。直斎好のものは節が一つの竹柱を使い杓釘がなく、天板に柄杓蓋置を飾る。愈好斎好は勝手付き側の竹柱に節二つのものを使い、杓釘があり、柄杓の合を掛けて飾る。初飾りにはの天板の上に茶器を飾り、後飾りで柄杓を柱に掛け、柱の手前に蓋置、天板の上に茶器を飾る。

浜松(はままつ)
浜辺の松。の地紋の浜松文様は室町時代の典型的な様式という。東京国立博物館所蔵の重文の「浜松図真形釜(はままつずしんなりかま)」は、室町期の芦屋釜を代表するで、下方に霰で洲浜をあらわして,そこに屈曲の多い枝ぶりの松を繊細な調子で鋳出している。

早舟(はやふね)
長次郎七種のひとつ。利休茶会で、細川三斎がこの茶碗は何焼かと質問したところ、利休が「早船を仕立てて高麗より取り寄せた」と答えたところから「早舟」と名付けられた。
松屋会記』には「早船茶碗ハ楽焼也。易(千宗易)茶ヲ御立候を忠興公問云。是は何焼に候哉。易答云。早船ヲ仕立テ高麗へ取りに遣候也。後刻忠興ヨリ只今ノ早船を申受度トノ書状参,是ヨリノ名物也。」とある。
『利休書簡』に「此暁三人御出、きとくにて候。とかく思案候ニ、色々申被下候而も不聞候。我等物を切候て、大黒を紹安にとらせ可申候、はや舟をハ松賀嶋殿(蒲生氏郷)へ参度候。又々とかく越中サマ(細川三斎)御心へ分候ハてハいやにて候。此理を古織(古田織部)と御談合候て、今日中に御済あるへく候。明日松殿(蒲生氏郷)は下向にて候。何にとも早舟事、そうさなく候ひてもむつかしく候。越中殿(細川三斎)へ無心申候て、右申如候。はや舟をハ飛もし(飛文字。飛騨守のことで蒲生氏郷〕参候。大くろを紹安に可被遣候事、乍迷惑其分ニすまし可申候。已上かしく。 十九日 両三人まいる」とあるように蒲生氏郷に早舟を授けた。

半板(はんいた)
長さ一尺四寸、幅一尺二寸の板で、風炉用の長板を半切にした寸法のため半板と称する。主に風炉中置にする際に用いる。『茶伝集』に「半板と云は、台子を半分に切て用、大台子の半分も有、小台子の半分も有、大小とも半板と申候、茶巾、茶入の小蓋は此板に載せ、蓋置も板の上前の左の角に置て柄杓を引也、此仕方後取違へ、風炉の小板に置也、半板には置、小板には無用、半板に茶杓は利休も置不申候と仰也」、『茶道筌蹄』に「大板 一尺四寸四方、台子の板幅を四角にしたる寸法也、真ぬりは紹鴎の好也、当時利斎にて製するは桐のかき合せ、あらめなし。横へ長きは長板を半切にせし也、あらめは好み不知、一閑にても写しを製す」、『茶式湖月抄』に「世に云大板は炉蓋ほど有て真塗なり、是は流儀の形にてなし千家の大板といふは長板を二ツに切たる形なり、世に云半板といふは流儀乃大板の事也、炉蓋は木地なり常に釜不掛節用ゆ」とある。

飯後の茶事(はんごのちゃじ)
食事時を外した茶事。時外れの茶事。食後の時刻に案内し、菓子ばかりで濃茶薄茶を差し上げるところから、菓子の茶事ともいう。正午の茶事などのように形式は定まっておらず、菓子だけの場合も、吸物、八寸、酒などを出す場合もある。ふつう炉ならば初炭、小吸物、八寸、酒、菓子中立濃茶薄茶となるが、中立なしに床は諸飾とし、初炭菓子濃茶薄茶とし、その後軽い点心を出すこともあり、濃茶の後で点心を出し薄茶を最後にするなど、順番が入れ替わったり、略されたり、時により、主客の都合により、どのようにも変化できる茶事。『茶道筌蹄』に「飯後 菓子茶ともいふ 朝飯後は五ツ半時、昼飯後は九ツ半どき、いづれも菓子の茶也、朝飯後は正午の茶会の邪魔にならぬやう、昼飯後は夜ばなしの邪魔にならぬやうに、客の心得第一也」、『和泉草』に「菓子の茶湯は、不時之茶湯の又軽き物なり、常の茶之湯の格に替て、面白仕成専一也」、『南方録』に「是も不時会也、いとまなき人は、わび数寄の饗応をはぶきて、菓子にて可参と云、菓子にて一服可進といふたぐい也、案内有ての不時と心得べし」、『茶道望月集』に「朝飯後にても夕飯後にても、菓子にて茶事催との事ならば、朝飯後ならば、辰の刻支度して辰の過に路次入すべし、夕飯後ならば、未の刻夕飯の支度して、未の過に路次入すべし。朝にても夕にても、本式は吸物酒抔出し、其後菓子を出し茶を点る也、勿論炭は客座敷に入て、追附する事也。床は必掛物と花と両飾なる事也。菓子の器等取込、亭主は最早御手洗には及間敷と云心にて、早水指を持出置合仕形もあり、客は夫共一寸手洗に出候半とて出る能、亭主も其様子ならば差控る事也。腰掛へ行て煙草一服宛呑、最早後入の案内を受るに不及、大方座敷の仕廻あらんと思ふ時分を考、手洗を遣ふて段々如常座入する事也。又侘は吸物酒なしに、菓子計にてする事も可有也、何れも本式茶事に対しては略の事也、炉風炉共同じ心得と可知也。」とある。

半使(はんす)
高麗茶碗の一種。判司・判事とも書く。『茶道筌蹄』に「判事 舩中印章を掌る人の役名也、この人の持渡りたる物也」とあり、半使の名は「判司」(朝鮮の役官、あるいは通辞という。判司は、判司訳院事の語が見えるが、『大典会通』に「凡職銜先階次司。宗親儀賓及忠勲府堂上官不称司。次職。如称領事之類則領字在司上。」とあるところから、司訳院の役名か。司訳院は朝鮮の太祖2年(1393)設置された通訳官養成所。)に宛てた字で、判司が日本に来た時この手の茶碗を持参したことによるという。形は呉器風が多い。薄く、やや堅く、半透明の白釉がかかり、焼き上がりが概して青みがかっている。釉に赤い斑が美しく出ているものを「紅葉(もみじ)半使」という。

半練(はんねら)
南蛮物の一。無釉の土師質の軟陶器。叩き文が施され、褐色の器胎に炭素を吸着させ黒班を呈したものが多い。江戸時代に多く渡来し、素朴な趣が好まれ、形状により水指花入建水灰器などに見立てられた。また、蓋だけを水指の替蓋として用いることもある。水をしっかりと染み込ませ、色合いが変化することを以って良しとする。名前の由来は定かでない。ハンネラ。

万宝全書(ばんぽうぜんしょ)
古今和漢萬寳全書。江戸時代の美術工芸等の百科事典。13巻13冊。元禄7年(1694)に上梓されて以来、数度にわたり版行された。巻1、2、3「本朝画印伝」、巻4「唐絵画印伝」、巻5「和漢墨蹟印尽」「本朝古今名公古筆諸流」「古来流行御手鑑目録」、巻6、7「和漢名物茶入肩衝目録」、巻8「和漢諸道具見知抄」、巻9「和漢古今宝銭図」、巻10、11、12「古今銘尽合類大全」、巻13「彫物目利彩金抄」からなる。「和漢名物茶入肩衝目録」は寛文12年(1672)刊の『茶器弁玉集』を踏襲、加筆したもの。「和漢諸道具見知抄」は、茶道具一般にわたる事典となっている。享保3年(1718)版行本には徳川家康、秀忠、家光の筆跡を載せたため幕府から絶版を命ぜられたが、宝暦5年(1755)に3人の筆跡を削った改正版が版行され、明和7年(1770)再版されている。

  
  
  
  
  
  
  
  
  
 

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