茶道用語

火入(ひいれ)
莨盆の中に組み込み、煙草につける火種を入れておく器。火入に灰を入れ、熾した切炭を中央に埋め、喫煙の際の火種とする。火入の灰にあらかじめ炭火を入れて灰を温めてから、炭火を取り出して火箸で灰をならし、その中央に、客が煙草をつかうときに上部が燃えて灰とならないよう、切炭を黒い部分を残して熾し、熾きた方を下に黒いほうを上にしてして、煙管で吸い付けやすいよう正面から見てやや斜めに頭が少し出るように埋め、灰押で灰を押さえ、火箸で筋を入れる。灰形は放射状に筋を入れたものが多く用いられるが、流儀、火入により異なるものもあるという。『目ざまし草』に「芬盤といふものは、(ある説に、志野家の人、某の侯と謀て、香具をとりあはせたりといへり。)香具を取りあはせて用ひしとなり。盆は即ち香盆、火入は香炉、唾壷は炷燼壷、煙包は銀葉匣、盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。」とあるように、香炉の小振りな物や向付を見立てで使用したのが始まりで、かつて南京赤絵や染付など、やや大振りのものが使われていたが、今日では志野や綾部、唐津などの筒向付が使われることも多い。

干菓子(ひがし)
水分が少なく乾いた菓子のこと。有平糖、煎餅、打物、押物などがある。有平糖は、南蛮菓子として室町時代に渡来した菓子で、砂糖を煮詰め冷やして棒状にしてから細工をほどこしたもの。煎餅は、小麦粉や米の粉に砂糖などを加えて種を作り焼いた菓子。打物は、粉に砂糖を加えてしっとりさせ、木型に詰めて形成したのち打ち出し、表面に軽く蒸気をあて、乾燥して仕上げるもの。打菓子とも呼ばれ、落雁もこの一種。押物は、もち米や豆などの粉に砂糖やみじん粉などを混ぜあわせ、木枠などに型くずれしない程度に押し付けて成形し仕上げるもので、打物より水分が多いので口溶けがよい。
干菓子の盛り込みは、一種類のこともあるが、二種盛り、三種盛りなどがあり、秋の「吹き寄せ」など箕や篭に盛り込むこともある。落雁の類は「真」、有平糖の類は「草」で、「真」の品はできるだけ正しく盛り「草」のものは無造作に盛り付けるが、客数より少し多めに盛る。客は、干菓子を右手で取り、懐紙の上に置く。干菓子が二種盛られている場合は一種ずつ取る。

東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)
幕末・維新の公卿。天保4年(1834)〜明治45年(1912)。正五位下 東久世通徳(みちなる)の子。幼名は保丸、字は煕卿、竹亭・古帆軒と号した。文久2年(1862)国事御用掛、文久3年(1863)国事参政に補せられ、尊皇攘夷を唱えたが、文久3年(1863)八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移ると朝譴を蒙り、長州藩兵とともに長州へ逃れた「七卿落ち」の一人。慶応元年(1865)に九州太宰府に移り、慶応3年(1867)王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、その後は外国事務総督・神奈川府知事・開拓使長官・侍従長などを歴任。明治4年(1871)岩倉具視を全権とする岩倉使節団に随行。明治15年(1882)元老院副議長。華族令施行に伴い明治17年(1884)伯爵に叙される。明治21年(1888)枢密顧問官。明治23年(1890)貴族院副議長。明治25年(1892)枢密院副議長。

東山御物(ひがしやま ごもつ)
東山殿と呼ばれた足利八代将軍 義政が所蔵した美術工芸品全般をいう。内容的には宋・元の名画や茶器を収集した三代将軍 義満以来の所蔵品と義政自身の収集品とからなる。同時代の道具については、『室町殿行幸御飾記』『君台観左右帳記』『山上宗二記』などに見える。

飛来一閑(ひきいっかん)
千家十職一閑張師。 初代一閑(1578〜1657)は、明代末に中国浙江省杭州の西湖畔の飛来峰の山裾に生まれ、飛来峰の古刹・雲隠寺に帰依していたといわれる。明末の動乱を避け、寛永年間(1624〜43)大徳寺清巌宗渭を頼り日本に亡命し、京小川頭に住み、飛来の姓を名乗る。清巌和尚の共をして宗旦と知り合い、手すさびで自ら木地や張抜などの器物を作り茶を楽しんだといい、その作品の雅味を愛した千宗旦が好み物として用い、名が知られるようになった。木型に和紙を張り重ね、型から抜き取った張抜に漆を塗ったもの、また板物素地に紙をのりで張り重ね漆をほどこすという紙の風合を生かした塗物で、世にこれを一閑張と称した。また書画にも才能を発揮した。茶事を催す折にはいつも懐石なしの「飯後の御入来」と案内したところから、宗旦より「飯後軒」の軒号を与えられたと言う。
初代一閑(1578〜1657)朝雪斎。2代一閑(〜1683)才右衛門、厳雪。3代一閑(〜1715)宗信。4代一閑(〜1733)義空。5代来一閑(〜1741)才右衛門、信受。6代来一閑(〜1746)信禾。7代一閑(〜1750)才右衛門、涼月。8代一閑(〜1753)才右衛門、夏月。9代来一閑(〜1788)浄正。10代一閑(〜1830)才右衛門。11代一閑(〜1856)才右衛門、有隣斎。12代一閑(〜1897)才右衛門、任有斎、徹々斎。13代一閑(〜1913)才右衛門、有水。14代一閑(〜1977)駒太郎。15代一閑(〜1981)才右衛門、禎治。16代当代一閑、敏子。

挽木箱(ひきぎばこ)
茶道筌蹄』に「茶臼挽木箱 和漢ともに用ゆ。挽木箱は桐さし込み蓋にす。」、『茶道宝鑑』に「利休 挽木筥 桐 外法リ 長サ八寸一分半 横三寸九分 高サ三寸二分 板厚サ三分二厘 三ツホソサシ釘ツキトメ 横カワ前向ヒキク 底ノ釘長三本横二本」とある。

引出黒(ひきだしぐろ)
鉄釉を施し、釉薬が溶けている途中で窯内から引き出し、急冷させて釉薬中に含まれる鉄分を黒色化して漆黒色としたもの。文様などの装飾を施さず、器種は茶碗に限定される。天正年間(1573〜1592)に主に焼かれたため「天正黒」とも呼ばれる。本来は、天目茶碗の釉薬の熔け具合を見る色見用の茶碗からという。大窯の後半に始まり、瀬戸黒などの黒茶碗の代名詞として使われる。広義では、織部黒や黒織部も含まれるが、織部黒や黒織部には器形が同じでも鉄釉の上に長石釉を二重に掛けることで黒色に発色させ、引き出しされていないものもある。引出黒の名称は『陶器考』附録に「瀬戸黒織部黒と云来る二品を尾州にては引出し黒といふ。焼かけんをみて取出す故なり。やきすきる時は赤き色に変する故なり」とあるのが初出という。

挽家(ひきや)
主に仕服に入れた茶入を保存する為に木材を轆轤で挽いて作った挽物の容器。ひきえ。鉄刀木、欅、花櫚、桑、黒柿、沢栗、柚等の木地のものや、塗物、蒔絵、独楽、竹など様々ある。挽家は挽家袋に入れ、に納められる。形は、肩衝中次形、文琳茄子形、丸壺は丸形、瓢形は瓢形など中身の形に準ずるが、例外も少なくない。蓋の甲に茶入の銘が字形または額彫(字の輪郭を彫り込んで、これに胡粉や緑青を擦り込む)で記され、まれに銘に因んだ絵が彫られたりもする。銘書が歌銘や詩銘ならば胴側に銘書されている。『源流茶話』に「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」とあり、挽家が薄茶器となったとする。

瓢籠(ひさごかご)
籠花入の一。瓢箪の形をした籠花入紹鴎所持の「唐物瓢籠花入」が始まりという。本歌は、民具を見立てたもののようで、紙縒り細工で出来ており、全面に漆を施し、背面に紹鴎の花押が漆書きされている。朝鮮よりもたらされたという説もあると云う。遠州蔵帳所載の「唐物瓢籠(瓢箪)花入」は藤材で編まれ、背に鐶が付き、銅製の受け筒が添う。益田鈍翁旧蔵で、池田瓢阿が鈍翁の依頼で写しを製作したところから瓢の一字を入れた号を鈍翁から与えられた。

久田家(ひさだけ)
茶家の一。三千家の縁戚として表千家の茶を業とする高倉久田家と、江戸中期から分家し久田流を称する両替町久田家とがある。菅茶山の安政3年(1856)刊『筆のすさび』に「茶人の名家たる久田宗全は、雛屋勘兵衛と云て、一條新町に居住す、江岑宗左の弟子なり、宗全先祖は久田刑部と云て、江州佐々木牢人なり、刑部妻は千利休の妹なり、刑部の男を久田新八と云、入道して宗栄と号す、宗栄の子を久田理兵衛と云、入道して宗理と号す、此人宗旦の弟子にて、江岑宗左の妹おくれを妻とす、理兵衛実弟を源兵衛と云、藤村宗徳の養子となる、宗理の嫡男宗全なり、宗全の弟も亦江岑宗左の養子と成る、随流斉宗佐是なり、宗全の嫡男も亦千家の養子となり、原叟宗左是なり、藤村宗徳も佐々木牢人にて、江州藤村の人なり、藤村は藤堂邑の隣村なり、故に高虎朝臣、後に宗徳を御伽に被召て五十人扶持を下し賜はる、宗徳実子なくして、久田理兵衛が弟源兵衛を養子とす、源兵衛も亦宗旦の弟子にて、後に反古庵庸軒と号せし人是なり」とあり、久田家の祖は、姓は岸下と称し、近江国蒲生郡久田村に住し久田を名乗り、佐々木義実の家臣で久田刑部少輔実房が祖とされる。実房は、京都に移り本間または雛屋を称し、千利休の妹宗円を娶ったと伝えられる。このとき利休は茶杓を削って「大振袖」と名づけ「婦人シツケ点前一巻」と共に宗円に与えたという。この婦人点前が今日久田流に伝わる女点前の源流であるとされている。実房の子は房政といい剃髪して宗栄と名乗り、これを久田家の初代としている。四代不及斎の時、次男の宗悦が半床庵を継嗣し、長男の宗玄は両替町に移り両替町久田家を起こし、久田流を称して主に尾張・三河・美濃に広まる。
初代 宗栄(1559〜1624)近江蒲生生。父は久田実房、母は田中了専の娘で千利休の妹。名は房政、通称は新八、別号に宗玄・生々斎。
二代 宗利(1610〜1685)通称は本間利兵衛、号は受得斉。千宗旦の娘クレを娶り、二男二女をもうけ、二男は表千家4世江岑宗左の養子となった随流斉宗佐。弟の清兵衛当直は藤村庸軒とされる。
三代 宗全(1647〜1707)二世宗利の子。通称は本間勘兵衛また雛屋という。号は徳誉斎・半床庵。千宗旦のもとに茶を学ぶ。籠組物などの手工に秀で「宗全籠」の名が知られている。表千家六世原叟宗左(覚々斎)の実父。
四代 宗也(1681〜1744)三代宗全の弟市三郎の子。幼名は弥二郎、号は不及斎・半床庵。表千家六世覚々斎に師事。
五代 宗悦(1715〜1768)四代不及斎宗也の次男。幼名は弥四郎。涼滴齋、海音楼。
六代 宗渓(1742〜1785)宗慶とも。五代涼滴齋宗悦の長男。弥次郎、号を挹泉斎、磻翁。長男の貞蔵は表千家八世啐啄斎の娘さわ(たく)の婿として養子となった表千家九世曠叔宗左(了々斎)。
七代 宗也(1767〜1819)六代宗渓の次男。号を維妙、皓々斎。表千家八世啐啄斎の四女きく(きと)を娶る。長男勘太郎は若死。次男達蔵が表千家の養子となった十世祥翁宗左(吸江斎)。
八代 宗利(〜1844)養子。幼名は秀次郎。元は関宗厳と称したが文政3年(1820)入家し宗利と改名。
九代 宗与(〜1862)幼名は岩之介。如心斎内室の実家の住山家八代云々斎楊甫の孫。
十代 宗悦(1856〜1895)玄乗斎。表千家十世吸江斎の子で皓々斎の孫。武者小路千家十世一指斎の異母弟。武者小路千家十一世愈好斎の実父。
十一代 守一宗也(1884〜1946)十代玄乗斎宗悦の長男。無適斎。武者小路千家十一世愈好斎の兄。
十二代 宗也(1925〜)尋牛斎。当代。名は和彦、号は半床庵・尋牛斎。無適斎宗也の長男。京大史学科卒。表千家十三世即中斎に師事。財団法人不審菴理事。
両替町久田家。五世 宗玄。厚比斎。不及斎の長男。両替町竹屋町上ル西側に住み分家を立てる。六世 宗参(1765〜1814)高倉久田家五代宗悦の子。号は松園・追遠・関斎。七世 耕甫(1752〜1820)宗参の子友之助早世のため筑田家より養子となる。八世 慶三。三谷宗珍の子。九世 宗員(1789〜1866)辻川喜右衛門の子。十世 無尽宗有。田代宗筌の子で裏千家十一代玄々斎の甥。十一世 宗円。十二世 宗栄。
また、他に尾州久田流があり、大高(現名古屋市緑区)の下村実栗(天保四年九月四日〜大正五年十月十六日卒)が久田流六世宗参の弟子の栄甫から久田流を習得した後、独自発案を含めて創流したもの。

柄杓(ひしゃく)
湯や水を汲み取るための柄のついた容器。点前に用いるものは竹製で、湯水を汲む円筒状の容器の部分を「合(ごう)」といい、合に長い柄を取り付けてある。この柄を取り付けた部分が月形になっている「月形(つきがた)」と、柄が合の中まで突き通しになっている「指通(さしとうし)」がある。月形は、一般の点前に用い、風炉用と用がある。風炉用は、合が小さく、柄の端の部分である「切止(きりどめ)」の身の方を斜めに削いである。用は、合が大きく、切止の皮目の方を斜めに削いである。指通は、特殊な点前に用い普通は用いない。柄杓の扱いでは、には合を伏せて釜にかけ、風炉には合を仰向けてにかける。風炉の場合には、柄杓を置く時の扱いが、茶碗を洗うための湯を汲んだ後の「切柄杓」、茶を点てるための湯を汲んだ後の「置柄杓」、水を汲んだ後の「引柄杓」の三通りある。『茶湯古事談』に「柄杓の作者は、禅徳(東山殿の時代)、声阿弥(其次)、恵美須堂(紹鴎の比)、養仙坊(利休の頃堺法花寺の僧)、尼阿(養仙坊の弟子)、仙三郎(養仙坊の小姓)、一阿弥(京醒ヶ井の水守也)、此者は秀吉公より天下一の御朱印を下されし也、近代にては宗玄上手也となん」とある。

備前焼(びぜんやき)
備前から産する陶器の総称。岡山県備前市伊部周辺で作られる伊部(いんべ)焼が代表的で、無釉(むゆう)と、長時間の焼き締めによる変化に富んだ器肌が特色。日本国の六古窯(瀬戸、常滑、信楽、越前、丹波、備前)といわれるなかで最も古い窯で、平安時代に作られた須恵器に源があるといわれるが、今の岡山県備前市伊部周辺に窯が築かれたのは鎌倉時代。
村田珠光に、和物の代表として「ひせん物」「しからき物」として取り上げられ、戦国時代末、他の古窯に先駆けて、茶碗花入水指などの茶陶づくりが始まり、桃山期から江戸初期、最盛期を迎える。しかし、朝鮮出兵後の日本各地の窯業は磁器と釉薬陶の時代を迎え「きれい寂び」の時代が到来すると、備前は泥臭い「下手物」として扱われるようになり低迷していった。昭和に入り、金重陶陽(人間国宝)が桃山時代の美を現在によみがえらせ、備前が活気づき、その後、藤原啓、山本陶秀、藤原雄と人間国宝が輩出し、現在は400人近い窯元や陶芸家が作陶して活況を呈している。
備前焼は窯変(ようへん)で知られ、窯変による主なものは「緋襷(ひだすき)」「桟切(さんぎり)」「胡麻(ごま)」「牡丹餅(ぼたもち)」「青備前(あおびぜん)」「榎肌(えのきはだ)」などがある。

緋襷(ひだすき)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。窯詰めの際に器物同士がつかないように巻いた藁(わら)のアルカリ分と土の鉄分が化学反応して緋色に発色する。緋色の襷をかけたように見えるので緋襷と呼ばれる。

一重口(ひとえぐち)
器物の口造りの形状の一種。器物の口が、内側に折れ曲がったり、外側へ反り返ったりせずに、まっすぐな切り立てのままの造りをいう。水指に多い。

火箸(ひばし)
炭斗から風炉に炭を入れるのに使う金属製の箸。砂張、真鍮、鉄などがあり、多くは鉄製で、細工の方法としては打ちのべ、素張り(空打ち、巣打ち)、鋳ぬきの三種類があり、象眼などで模様を入れたものもある。『南方録』に「炉には桑の柄を用ひ、風炉にはかねの火箸よし」とあるように、用と風炉用とに大別され、用は木の柄がつき、普通は桑柄が最も多く、利休形でほかに唐木、黒柿、桜皮巻などがある。風炉用は全部金属製。台子長板の柄杓立に、柄杓に添えて立てる火箸を、飾り火箸といい、これは必ず総金属製で、頭に飾りのある真の位の火箸。ほかに水屋用に、長火箸といい、鉄製で柄のところを竹皮巻きにし麻糸で巻いて留めたものがある。『茶湯古事談』に「いにしへは共柄の火箸のみなりし、利休か比より桑柄の火箸出来しとなん」とある。

瓢花入(ひょうはないれ)
花入の一。ひさごはないれ。自然の瓢箪の芯をくりぬいて花入に仕立てたもの。『茶話指月集』に「瓢箪 名顔回 此瓢箪むかし巡礼が腰に附たるを休所望して花入となし愛玩せらる」、『茶湯古事談』に「ふくへの花生ハ水筒にて、順礼か腰に付て通りしを、利休道中にて見付、もらひて花生とし、名を顔回と付たりし、是より世人ふくへの花生を好ミしとなん」、『古今茶之湯諸抄大成』に「瓢の花入 瓢は冬の物也、釘掛は金物或は緒にてもよし、くり穴はよろしからず、瓢の花入は利休の物数寄なり、利休所持の顔回といふ花入、細川家にあり」、『茶道筌蹄』に「瓢 懸は利休。置は元伯、窗切也。仙叟このみは底へ板を入、後如心斎写す。数の物なり。」とあり、利休が瓢箪の上部を切りとり背に鐶を取りつけ掛花入とし「顔回」と名付けたものが始めと云う。「顔回」の銘は『論語』の「子曰、賢哉囘也、一箪食、一瓢飲、在陋巷、人不堪其憂、囘也不改其樂、賢哉囘也」から名付けられ、『隋流斎延紙』に「一、顔回瓢花入、肥後の家老に有るよし」とあり、元文3年(1738)細川家の家老松井豊之から五代藩主細川宗孝に献上され、利休自筆の添状とともに伝来し、現在永青文庫蔵。

平皿(ひらざら)
懐石家具の一。平盤、平椀とも云う。浅めの大振りな椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施される。煮物などが盛られる。伊勢貞丈(1717〜1784)の故実書『四季草』に「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼるヽゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり。」とある。

平瀬露香(ひらせ ろこう)
明治時代の数寄者。天保10年(1839)大坂の両替商千草屋に生まれる。名は亀之輔、春愛(春兄とも)、別に同学斎・一方庵・宗十・独楽庵・宗超などと号した。第三十二銀行を設立、保険会社や阪神電鉄を組織し、大阪貯蓄銀行取締役、日本火災保険社長、大阪博物場長となるが、自身は経営には携わらず、茶湯、和歌・書芸・歌舞伎などの31にものぼる趣味に没頭していたといわれ「蝙蝠大尽」と綽名された。茶の湯には最も熱をいれ、木津宗詮から武者小路千家流を学び奥義に達し、年少の愈好斎が成人するまで武者小路千家の奥義を守る。松平不昧に私淑し、不昧の大崎別邸にあった独楽庵の扁額を手に入れ、同名の茶室を作ったことで知られる。後に日清戦争後の不況での平瀬家の零落による道具売立ての際には、戸田弥七・春海藤次郎・山中吉郎兵衛が札元となり、益田鈍翁・根津甚一郎・藤田香雪らが参加し、一万円を越える道具が三点も出て財政危機を乗り切った。その時も千草伊羅保茶碗と長崎井戸脇茶碗は手放さなかったという。明治41年(1908)没。

天鵞絨(びろうど)
ビロード。経(縦方向)または緯(横方向)に針金を織り込み、織上がった後にその針金を引抜き、輪奈(わな:ループ)にしたり、輪奈を断ち切り毛羽を出したりした、滑らかで光沢のある織物。絹製のものを本天という。正徳2年(1712)頃に成った寺島良安の『和漢三才図会』に「天鵞絨は阿蘭陀・広東・東京・福建、皆之を出す。蓋し絨(音は戎)は練り熟たる絲なり。純黒、純白、柳条筋、その美、光沢、天鵞(はくちょう)の翼に似たる故に名く。」とある。ビロードは13世紀イタリアの発祥とされ、日本には南蛮貿易でポルトガルから伝来し、語音はポルトガル語の「veludo」からとされる。

広口釜(ひろくちがま)
茶湯釜の一。の形態からの名称で、炉釜の口径が大きなものをいう。1月から2月の寒い時季、立ち上る湯気で暖かさを感じさせるよう広口のを用いる。野溝釜や大講堂釜などは形態上からは広口釜となる。野溝釜(のみぞがま)とは、かつて野溝家が所持したために生まれた呼称で、樹上の猿が水面に映じる三日月に手を差し延べている「猿猴捉月図」を鋳出したもの。大講堂釜(だいこうどうがま)は、比叡山延暦寺の大講堂の香炉を釜に写したとされ、胴の上部と中程に筋目をつけ、その間に「大講堂」の三文字を陽鋳したもの。

  
  
  
  
  
 

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