茶道用語

井尾建二(いお けんじ)
金工作家。昭和20年(1945)香川県高松市に生まれる。昭和39年(1964)香川県立高松工芸高校工芸科卒業。昭和43年(1968)東海大学卒業。同年鞄d通PRセンター入社。昭和44年(1969)退社し父 井尾敏雄(金工家)に師事。昭和50年(1975)第22回日本伝統工芸展に初出品、以降毎年出品。昭和52年(1977)第17回伝統工芸新作展、第7回日本金工展にて奨励賞受賞。昭和58年(1983)第30回日本伝統工芸展にて奨励賞受賞。昭和59年(1984)伝統工芸新作展、日本金工展監査員、以降歴任。昭和61年(1986)第33回日本伝統工芸展監査員(以後5回歴任)。平成6年(1994)第51回日本伝統工芸展にて監審査員(金工部会監査主任)。平成7年(2005)第52回日本伝統工芸展監査員。伝統工芸新作展、日本金工展「特待者」。現在、日本工芸会正会員。武蔵野美術大学講師。青山彫金・金工スクール主宰。

伊賀焼(いがやき)
三重県伊賀地方丸柱付近でつくられる陶器。古くから雑器類が生産されていたことが知られており、丸柱窯は天平宝字年間(757〜764)に興るとする説もある。茶陶としての伊賀焼は、宝暦13年(1763)藤堂家家老の藤堂元甫の『三国地誌』に「瓷器、丸柱村製、按ずるに伊賀焼云是なり。古へ本邑と槙山村より出ず。茶壷、水指、茶入、茶碗、花瓶、酒瓶の類なり。茶道を嗜む者愛玩す。又槙山釜と称する者あり。又山手道と云ものあり。筒井定次の時焼、又あした焼と云ものあり。是等を皆古伊賀と称す。大抵江州信楽焼に類す。云々」とあり、天正12 年(1584)古田織部の弟子であった筒井定次(つつい さだつぐ)が伊賀領主となったとき、槙山窯と丸柱窯、上野城内の御用窯などで茶陶を焼かせたとされ、これを「筒井伊賀」と呼ぶ。慶長13 年(1608)筒井定次が改易となり、藤堂高虎が伊賀国主となる。二代藤堂高次のとき「大通院(高次)様御代、寛永十二年乙亥の春、伊州丸柱村の水指、御物好にて焼せられ、京三条の陶工孫兵衛伝蔵、両人雇ひ呼寄、所の者火加減を習ひ候由、其節凡百三十三出来して東府へ送る」とあり、寛永12年(1635)京都から陶工を招き茶陶を焼かせ、これを「藤堂伊賀」と呼ぶ。今日「古伊賀」は筒井伊賀と藤堂伊賀を称する。なお、寛永年間(1624〜1644)藤堂高虎の娘婿の小堀遠州が指導して製作したものを「遠州伊賀」といい「筒井伊賀」とは対称的に瀟洒な茶器である。古伊賀は、俗に「伊賀に耳あり、信楽に耳なし」といわれるように、耳が付き、箆目が立ち、また一旦整った形を崩した破調の美が特徴とされる。無釉で耐火度が高い長石の混じった土を高温で焼成するため、土の成分が融け出た所に松の灰がかかり自然釉(ビロード釉)や、強く艶のある「火色」、灰が積もり燻って褐色になった「焦げ」が出現する。しかし「寛文九己酉年七月十二日伊賀国丸柱白土山・・・丸柱古窯の土を以て水指等御焼せ遊ばされ、御蔵に右の土をも御貯蔵され候て、右の山、留山に仰付けられ候」と、寛文9年(1669)「御留山の制」が設けられ、このため陶工は信楽に去り、伊賀焼は衰退した。その後七代高豊の宝暦年間(1751〜1764)に丸柱窯が再興され、これを「再興伊賀」と呼ぶ。「再興伊賀」以降は茶陶は殆ど焼かれなくなり、古伊賀と異なり殆どが施釉で日用食器が中心となっている。

池田瓢阿(いけだ ひょうあ)
明治期よりの竹芸家。初代は、益田鈍翁や高橋箒庵とも親交が厚く、2代は本名池田英之助。大正3年大阪生まれ。昭和8年に2代目瓢阿を襲名。28年竹芸教室「竹楽会」を設立。本業の竹芸のほか茶陶も制作、著書に『瑞籬の香木』『風流遍歴』『竹芸遍歴』『風流紳士録』など。晩年は瓢翁を名乗る。当代は3代。昭和26年(1951)二代池田瓢阿の次男として東京に生まれる。本名潔。兄は漆芸家の池田巖。武蔵野美術大学卒業後、竹芸の道に進む。昭和63年(1988)第1回個展を日本橋三越本店にて開催。以降定期的に個展を開催。平成5年(1993)3代池田瓢阿を襲名。「竹楽会」主宰。淡交カルチャー教室講師、淡交会巡回講師、NHK文化センター講師、高崎芸術短期大学講師、創造芸術学部客員教授などを務める。主著に『茶の竹芸 籠花入と竹花入 その用と美』『茶の湯 手づくりBOOK』『趣向の茶事』など。

異制庭訓往来(いせいていきんおうらい) 
東福寺十五世の虎関師錬(こかんしれん;1278〜1346)の室町初期の作と伝えられる。異称『〈虎関和尚〉異制庭訓往来』『百舌(鳥)往来』『新撰之消息』『新撰消息往来』『冷水往来』『十二月往来』ほか。
南北朝時代、延文〜応安(1358〜1372)の頃に作られた古往来(往復書簡)で、各月往返2通、1年24通で構成され、各手紙文中に、撰作当時の社会生活に必要とされた類別単語集団を含むのが特徴。単語は、仏教(122語)、漢文・文学・教養(461語)、人倫・職分職業(32語)、衣食住(222語)、武具(77語)、雑(24語)、計938語に及ぶ。

伊勢崎 紳 (いせざき しん)
備前焼作家。昭和40年(1965)伊勢崎満の次男として生まれる。大阪芸術大美術学部で陶芸を専攻し卒業後は父に学ぶ。平成10年独立。田部美術館茶の湯造形展奨励賞、日本伝統工芸展日本工芸会奨励賞ほか多数。日本工芸会正会員。備前焼の伝統と技術は守りながら、特徴や素材に備前焼の美の可能性を追求している作家。

伊勢崎 滿(いせざき みつる)
備前焼作家。岡山県重要無形文化財作家 伊勢崎陽山の長男として生まれ、父陽山にその陶技を習得。自身も岡山県重要無形文化財に認定され、完璧な轆轤成形による美しい形に繊細な箆使いを合わせた作品と評される。2004年「人間国宝」に認定された実弟伊勢崎淳と兄弟で穴窯の復元と焼成に成功し、それぞれの子息も備前焼の道に進んでいる。

板起(いたおこし)
轆轤で成形した器物を轆轤台から離すときに、糸切を用いず、轆轤の回転を止めて竹べらなどで起こすように底部を離し取る手法。箆起(へらおこし)ともいう。糸切の跡がない。

一行物(いちぎょうもの)
茶席での掛物の一種。古くは「ひとくだりもの」とも称した。条幅の一紙に、中国の漢籍、あるいは祖師や高僧の禅語の中から、佳句をえらんで一行に大書した墨跡のこと。一行書ともいう。字句が縦に書かれたものを「竪一行」、横に書かれたものを「横一行」という。墨跡は桃山時代頃までは法語・偈頌・書簡など大幅のものであったが、『長闇堂記』に「墨蹟に古溪和尚。則利休の参徒なり。懸物はゞひろきは富貴なりとて。一尺二三寸有。大文字も二行とあれば。見下して又見上あしゝとて。一行物はやれり。表具も光かゞやくはとうときとて。皆紙表具或はほけんと云ものにてする也。萬事手軽くさびたるを本とせらるゝ也」とあり利休が好み、江戸時代にはいると、大徳寺派の禅僧の筆になる一行物が多く使用されるようになった。

一重切(いちじゅうぎり)
園城寺
竹花入の一。筒形の竹花入の前面に花を生ける窓がひとつ切られた形をいう。上端が輪になっていて、水溜の上の後方におぜを取り、釘穴があけてある。『茶話指月集』に「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり。」とあり、利休が天正18年(1590)の小田原攻の折、箱根湯本で伊豆韮山の竹を取り寄せて「園城寺」(おんじょうじ)を作ったのが一重切の始めと云う。近松茂矩(1697〜1778)の『茶窓陂b』に「はじめ秀吉公の投捨給ひし竹は、前栽の石にあたりて、ひびき入りしが、利休拾ひて少庵へみやげとす。或時是を床にかけ、花を挿しに、其水のしたたりて、畳のぬれけるを見ていかにといひければ、此漏こそ命なれといひし、三井寺の鐘のひびきを思いて、園城寺と名づけ。即筒に園城寺少庵とばかり書付あり。後は金粉にてとめてあり。後金屋宗貞が許にありしを、京の家原自仙八百両にもとめ置し。或時尾州の野村宗二、京都に遊び帰るとて、自仙へいとま乞ひに行しに、来年の口切りの比には、必ずのぼられよ、園城寺いまだ茶に出さぬが、来年は、はじめて出さんといひしかば、宗二もそればかりに、又上京ありしに、彼園城寺を出し、口切りせしに、新たにかこひを立しが、其あたり見る処に、竹一本もおかざりし、是園城寺の竹に憚しいよし京中の茶人称美せし。」とあり、竹に正面に割れ目があるのを、三井寺(園城寺)の弁慶の割れ鐘に思い合わせて「園城寺」と銘したと云う。「園城寺」は、高さ33.4cm、太さ10.5 cm、真直ぐで肉厚の真竹で、やや裾広がりの底から直ぐに節があり、筒の中程に一節あり、上の輪の天辺は次の節の近くで刈られているためかすかに広がっている。伝来は、少庵宗旦、冬木家、不昧。東京博物館蔵。「武蔵鐙の文」が添う。『当世垣のぞき』に「竹の一重切を獅子口といへるは、千家に限りたる事なり、古事有りての事也と、池の坊家にては鰐口とも云、外茶家にては一重切といふなり、すべて獅子口々々々といへる故事も知らぬ人、千家にあらざる人はいわぬはづ也、わけも知らで獅子口と云は、未練の事也と」とある。

一瀬小兵衞(いちせ こへい)
京の指物師。通称「指小」(さしこ)。初代一瀬小兵衞(生没年不詳)文化8年(1811)本願寺出入方指物師七代木屋七兵衛の養子となり八代木屋七兵衛を名乗る。明治になり一瀬姓となり、小兵衞を名乗り、茶の湯の指物師となり、楽家の慶入・弘入の箱を作る。二代小兵衞(生没年不詳)幼名七兵衛。三代小兵衞、明治4年(1871)〜昭和13年(1938)。四代小兵衞、明治36年(1903)〜平成元年(1989)。五代小兵衞、昭和6年(1931)〜。

一入(いちにゅう)
楽家4代。寛永17年(1640)〜元禄9年(1696)。3代道入の長男。元禄4年(1691)剃髪し隠居後、一入と号す。茶碗は一体に小ぶりで、高台も小さく引き締まり、腰以下にまるみのある姿が特色。俗に「一入の朱釉(しゅぐすり)」といわれる黒釉のなかに朱色の釉が様々に混ざりあう鮮やかな釉を得意としている。総釉が多く、したがって無印が多い。一入以来、楽家ではほとんどの茶碗に茶溜と茶筅ずれを作るようになる。共箱はこの人より始まる。印は、楽の中央が白で、その両側の糸の上の部分の字が「ノム」となっている。

一文字椀(いちもんじわん)
懐石家具の塗椀の一。蓋の甲と身の底が一文字になった椀。飯椀と汁椀は落込み蓋、坪椀と平皿は被せ蓋で胴に一筋紐が廻る。上り子椀と同様に江戸時代には非常に一般的になっていた椀。元禄4年(1691)刊『茶道要録』の「利休形諸道具之代付」には載っておらず、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「黒塗一文字椀 坪平付、大小とも利休形。」、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』に「椀のふちにひも有之、香台の外指かヽりのやうしゃくみあり、内の形は外に順ず」とある。

一路庵禅海(いちろあん ぜんかい)
室町時代の隠者。村田珠光の弟子というが出典未見。洛西仁和寺の門主であったが和泉堺に隠棲し、応仁の乱をさけて堺にきた一休宗純と交友があったという。
貞享元年(1684)刊『堺鑑』に「一路居士 一路は一休と同時の人也、或時一休和尚一路に問曰、万法有路如何是一路、一路答曰、万事皆可休如何是一休、一路は作詩詠歌真の隠逸也、狂歌に、手捕めよおのれはくちがさしでたぞ ぞうすいたくと人にかたるな、今、石津の上市村の辺、一路庵の跡有、世の人堺の内と思るによりて爰に載侍、泉州の事跡は事多ければ略しぬ、後人和泉一州の事を記し侍人もや有らん、手捕とは手捕鍋と云、釜一つを楽、此所に居住して人の往来を絶し、一の簀を下て志有人に食物を受け朝暮送りしとぞ、或時童共馬糞馬の沓鞋など入て置ければ、其を見て最早世は末に成たるとて、其より断食して終られけるとぞ申伝、品は替共真の隠者也、伯夷叔斎ともいひつべし、其誰の氏の子と云事を知ぬぞ怨く、其身はかく有しかども其名は今に留りて其所を一路山と名付て世の人普不知と云事なし、手捕鍋今は細川殿に有由申伝り、昔作る詩に曰、節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇 萬年峯頂新長老 咲下禅牀對布衣、其此の五山の名僧達各贈答の詩有」、寛政8年(1796)刊『和泉名所図会』に「一路山禅海寺 石津の上方市村にあり、禅宗、京師大徳寺の末派也。 開基一路居士 原洛西仁和寺一代の御門主たり、世を遁れてこゝに幽棲し、詩歌を吟し、清貧を楽しむ。月やみん月には見へすなからへてうき世をめくる影もはつかし 一路居士、世をしのふいほりの朽ぬればいきても苔の下にこそすめ 同。一休同時の人也、ある時、一休和尚、一路に問曰、万法有道如何是一路、答曰、万事可休如何是一休。一路居士 つねに半升鐺内に菜蔬を煮て、范冉が釜魚を楽めり、其狂歌に曰、手とり鍋おのれは口がさしでたぞ雑炊焼と人にかたるな。此鍋、細川の重器となつて、今にあり、又ある時、詩を賦して曰、節後黄花吹不飛 籬根臥雨似薔薇 萬年峯頂新長老 咲下禅牀對布衣。畚懸松 当寺にあり、一路居士、此所に閑居して、人の往来を絶し、一ッの畚を此松枝より下し、志ある人に食物を受て、露命をつなぎ給ひける、或る時、里の童ども、馬糞、牛の鞋など入れて置けれは、居士、それを見て、最早、我が糧尽たりとて、是より、断食して終り給ひける也、真に大隠にして、観念の窓には空門を守り、看経の臺には明月を照し、履は階前の草を帯、衣は戸外の塵なし、晋の恵遠法師、三十餘年山を出ず。俗塵に交る事を禁しけるも、同日の論也。」とある。

一閑人(いっかんじん)
器の口縁に小さな人形が一つついたもの。閑人(ひまじん)が井戸を覗いているようなので別名「井戸覗き」ともいう。蓋置・皿・鉢・盃などにみられる。蓋置においては七種蓋置の一つ。両側に人形があるものは二閑人、井戸枠だけで人形のないものを無閑人という。変形としては人形のかわりに蛙・獅子・龍などがついているものもある。

一閑人蓋置(いっかんじん ふたおき)
七種蓋置の一。井筒形の側に井戸を覗き込むような姿の人形がついた蓋置。置きつけるときは、のほうへ人形の頭が向くように(の場合は左、風炉の場合は右へ)横に倒して用いる。棚に飾るときは人形と亭主が向き合う形に飾る。『茶道望月集』に「惻隠の蓋置は、一閑人共云、是を棚に置時は、人形を前へ見て置、堵炉の時は人形を向へ見也、又風炉の時炉にても向点の時は、人形を前へ見て柄杓を掛る、釜の蓋を置時は、柄杓を取左へ渡し、右手にて横になして、人形の面を我左の方へ会釈置、夫へ蓋を置事能、幾度も柄杓置時は堅に取直し置、蓋は兎角横になして置也」とみえる。

一閑張(いっかんばり)
飛来一閑が始めたとされる漆器のひとつ。器の木型などに和紙を糊で貼り重ねて形を作り、後で型を抜いて素地とし、漆を塗ったもの。また木や竹などに紙を糊で張り重ね漆をほどこしたものもある。、長板、盆、炭取り、香合などに用いられる。

一休 宗純(いっきゅう そうじゅん)
室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧。応永元年(1394)〜文明13年(1481)。後小松天皇の落胤とされており、幼名は千菊丸。狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。一休は号、宗純は諱で、宗順とも書く。6歳で京都の安国寺の像外集鑑に入門、周建と名付けられる。応永17年(1410)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり、名を宗純と改める。応永21年(14141)謙翁宗為が急死すると石山寺で7日間参籠したあと大津の瀬田川で入水自殺を図る。応永22年(1415)大徳寺の華叟宗曇(かそう そうどん)の弟子となり、応永25年(1418)「洞山三頓の棒」の公案に対し「うろじより むろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かる。応永27年(1420)闇夜に鴉(からす)が鳴くのを聞いて大悟したといわれる。自ら「狂雲」と号し、木刀を差して町を歩き「今諸方贋知識似此木剣」と云い、「風狂狂客起狂風 来往婬坊酒肆中 具眼衲僧誰一拶 画南画北画西東」と云い、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送る。応仁の乱後の文明6年(1474)大徳寺伽藍再興のために後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられるが、入山と同時に退山。88歳で酬恩庵で入寂。臨終の言葉は「死にとうない」と伝わる。著書に『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。村田珠光の参禅の師で、「趙州喫茶去」の公案を与えられた珠光は、この公案により悟りを得、圜悟墨跡を印可の証として与えられたとされる。

糸切(いときり)
轆轤で成形した器物を轆轤台から撚糸を使って切り離した際に、切った痕が底に渦状の細い線で残ったものをいう。轆轤の回る方向によって渦の向きが異なり、右廻り(時計回り)の轆轤では糸切の痕の中心が右に寄り右糸切(順糸切)と称され、左廻りの轆轤では中心が左に寄り左糸切(逆糸切)と称される。『茶器弁玉集』に「絲切之次第」として「一 丸絲切 此絲切上作物に有轆轤目幽に見ゆる也。一 絲切 是は右廻也瀬戸焼の絲切は如此に造る物也。一 唐物絲切 是は左廻也、唐物の手癖也、外の茶入に無事也。一 箆起底 此通に拵へたる底を箆起とも板起とも云、茶入の下地を造立引起手上に置故手筋板目必見る物也。一   渦糸切 如此通に太くふかく渦に切物也、是の狼手茶入の手癖引掛也、外茶入に無之、自然手のしれさる茶入有之稀也。一 束土 固土と云は茶入の底を丸くつくねたるを云り又つまみ底と云有、右同通に底を細く拵たるを云り」とあるように、茶入の場合、和物は右糸切、唐物は左糸切とされた。また、本来の糸切以外の同心円状の「丸糸切」、箆で切り離した「箆起(板起)」、箆などで渦巻きをつけた「渦糸切」、「束土」も糸切として分類しており、本来は糸切の施された底を「糸底」というが、転じて糸切の有無に関係なく器の底を「糸底」あるいは「糸尻」と称している。

井戸茶碗(いどちゃわん)
高麗茶碗の一種。李朝初期の16世紀以来朝鮮で焼かれたとされ、日用雑器として作られたものが室町末頃から日本に渡り、『山上宗二記』に「一 井戸茶碗 是れ天下一の高麗茶碗 山上宗二見出して、名物二十、関白様に在り」とあるように、高麗茶碗の中で最も珍重された。深い碗形で、素地は鉄分の多い赤褐色の土で、枇杷色の釉が高台まで全体にかかり、やや厚手で、高台は大きく高く、器を重ねて焼いた跡である目跡(めあと)が茶だまりに見え、井戸四段・五段などと呼ばれる轆轤目、高台脇の釉薬がちぢれた梅花皮(かいらぎ)、高台の脇を箆などで削り取る脇取(わきどり)により高台が竹の節に似た竹節高台(たけのふしこうだい)などが約束事とされる。大井戸、小井戸(古井戸)、青井戸、井戸脇などに分類されている。井戸の名の由来は、朝鮮南部の古地名の韋登で産した、井戸若狭守覚弘がもたらした、奈良の井戸村にあったものを筒井順慶が掘り出したなど諸説あるが明らかでない。大徳寺孤蓬庵の「喜左衛門」(国宝)や根津美術館の「柴田」(重文)が代表的なもの。

糸目(いとめ)
器物に細い筋を刻みつける加飾技法。糸目筋。木工芸においては、糸目挽きと称し、轆轤により糸状の筋といわれる並行した溝を彫りつけてゆく。金工においては、鋳型に絵杖や箆などを使って薄く横線を付けたり、鏨により金属表面に彫りこんでいく。いずれにしても高度な技術を必要とするとされる。陶磁器にもある。

井戸脇(いどわき)
高麗茶碗の一種。作ゆきが井戸茶碗に似ているため、井戸ではないが井戸の脇におかれるべきものとの意味から名付けられた、また井戸に似てやや時代の下がったものをいうともされる。本来の井戸茶碗ではなく、寸法・形姿はさまざまだが、だいたい井戸より薄手で、ロクロもあまりきわ立たず、すらりとした、やや軽い趣の茶碗が多く、約束事が少しずつ甘いもの。古い伝来をもたず江戸初期ぐらいからの伝来で、いつから井戸脇と呼ばれたのか古い記録はない。

今井宗久(いまい そうきゅう)
永正17年(1520)〜文禄2年(1593)。戦国時代の堺の茶人、商人。屋号は「納屋(なや)」。名は彦右衛門兼員、久胤。昨夢斎と号す。武野紹鴎に茶を学び、女婿となる。大徳寺に参じて寿林宗久・昨夢齋の号を授かる。『信長公記』に「今井宗久、是れ又、隠れなき名物松島の壺、并に紹鴎茄子を進献。」とあるように永禄11年(1568)信長が上洛すると名物茶器を献上し積極的に接近する。信長が堺に矢銭2万貫を課し、会合衆がこれを拒否し抗戦のかまえをすると津田宗及と共に講和派として働き、会合衆が詫びを入れると、堺五ヶ庄の代官に任じられ、信長の庇護の下でさまざまな権益を得る。我孫子に河内鋳物師を移住させ鉄砲製造や火薬類を信長に供給し巨富を築く。利休津田宗及とともに信長の茶頭になり、豊臣秀吉にも仕え、天正十五(1587)年の北野大茶湯の茶頭を務める。のち、次第に秀吉に疎んぜられる。飯後の茶事の創始者でもあり八十数回の茶会を催す。著に『今井宗久茶湯日記書抜』『今井宗久日記』など。

今井宗久茶湯書抜(いまいそうきゅう ちゃのゆ ぬきがき)
今井宗久(1520-1593)の茶会記。天文23年(1554)から天正17年(1588)に至る自他八十一会を収録し、信長、秀吉の大茶会や、紹鴎利休茶会も記録されている。

今尾景年(いまお けいねん)
弘化2年(1845)京都,友禅の染屋の家に生まれる。幼名は猪三郎、のち永勧。字は子裕。聊自楽居、養素斎。安政2年(1855)浮世絵師梅川東居に師事。安政5年(1859)鈴木百年に四条円山派を学ぶ。明治13年(1880)京都府画学校出仕。明治16年(1893)シカゴ万国博覧会に「鷲猿図」「鯉群」出品。明治18年(1895)内国勧業博覧会に「耶馬渓」。明治21年(1888)京都府画学校嘱託教授。明治23年(1900)パリ万国博覧会に「朧月夜鴨」銀牌。明治27年(1904)セントルイス博覧会に「四季花鳥」金牌。帝室技芸員となる。明治40年(1907)文展審査員就任。明治44年(1911)ローマ万国博覧会に「寒月群鴨」出品。大正8年(1919)帝国美術院会員となる。大正13年(1924)歿、享年80歳。写実的な花鳥画を得意とする。

伊万里焼(いまりやき)
肥前の伊万里港から積み出された磁器の総称。主に有田焼をいうが、三川内焼、波佐見焼なども含む。『伊萬里陶器傳』に「諸州数品有中にも、肥前国伊万里焼と云を本朝第一とす、此窯凡十八ヶ所を上場とす、大河内山 三河内山 和泉山 上幸平 本幸平 大樽 中樽 白川 稗古場 赤絵町 中野原 岩屋 中原 南河原(上下二所) 外尾 黒牟田 広瀬 一ノ瀬 応法山 此内大河内は鍋島の御用、山三河は平戸之御用山にして、他に貨売する事を禁ず、伊万里は商人の輻輳せる津にて、焼造るの場には非ず、凡松浦郡有田之内にして、其内中尾、三つの股、稗古場は同国の領違ひ、又広瀬杯は青磁物多くして上品なし、都合廿四五所には成共、十八ヶ所は泉山の脇にありて、是土の出る山也」とあるように、江戸時代に有田を中心とした地域で焼かれた磁器が、伊万里港から積み出され、国内・海外に流通したため、「伊万里焼」あるいは「伊万里」と呼ばれた。伊万里の大川内山の御用窯で焼かれていた「鍋島焼」は「伊万里焼」とは区別されている。この江戸時代に作られた伊万里焼を、現在は一般的には「古伊万里」と呼ぶ。明治以降、やきものを産地名で呼ぶことが一般的になり、有田で焼かれた磁器を「有田焼」、伊万里で焼かれた磁器を「伊万里焼」と呼び分けるようになる。通説では、元和2年(1616)金ヶ江三兵衛(李参平)が有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに天狗谷窯を開き、日本ではじめて磁器の製作に成功したことに始まり、江戸後期になり文化4年(1807)瀬戸の陶工加藤民吉(かとうたみきち)が有田から磁器の製法を盗み出して瀬戸で磁器が焼かれるまで、日本で唯一の磁器の産地とされる。いわゆる「古伊万里」は、現在のところ「初期伊万里」、「古九谷様式」、「柿右衛門様式」、「金襴手様式(古伊万里様式)」の様式に分類されている。「鍋島焼」を「鍋島様式」として含める者や、元禄時代から始まる金襴手様式のみを指して「古伊万里」とする者もある。

芋頭(いもがしら)
器物の形状の一。口がすぼみ、肩がなく、胴の中程から胴裾にかけて膨らんだ形の器物。「芋頭」は里芋の根茎のことをいい、里芋の形に似ていることからの名称。茶入水指などに見られ、古染付三島、南蛮などの水指に名品がある。『山上宗二記』の名物の水指に「紹鴎芋頭、関白様に在り。此の外、芋頭方々に在り」、「宗及芋頭、人に依りてすくべし。」とみえる。『今井宗久茶湯日記書抜』に「 天文二十四年(1555)十月二日 紹鴎老御会 宗久 宗二イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、一  定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、一槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、一 円座カタツキ水サシ イモカシラ 一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」と、紹鴎が始めて掛物に定家色紙を懸けたとされる茶会にも芋頭水指がみえる。『茶湯古事談』に「芋頭の水指といふは、形いもかしらに似しゆへにいふ也、南蛮の焼物にて、古へは甚稀にて宗及と利休二人ならては所持せさりし、宗及かいもかしらは秀吉公へ召上られしか、大坂落城の日焼失し、利休か芋頭は織田有楽の許に有しを京極安知ひたすら所望ありてもらはれし、返礼太刀馬代黄金十枚賜られしなんとなん」とある。

伊羅保(いらぼ)
高麗茶碗の一種。伊羅保の名は、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところからという。作行はやや厚めで、形は深め、腰から口まで延び、口は大きく開いている。素地は鉄分が多い褐色の砂まじりの土で、石灰の多い伊羅保釉を薄く総掛けしてある。「古伊羅保(こいらぼ)」「黄伊羅保(きいらぼ)」「釘彫伊羅保(くぎぼりいらぼ)」「片身替(かたみがわり)」などがある。「古伊羅保」は、大振りで、口縁には形成のとき土が不足して別の土を付け足した「べべら」があり、口縁の切り回しがある。高台は竹の節、時には小石も混じって「石はぜ」が出たものもある。見込みに白刷毛目(内刷毛)が一回りあり「伊羅保の内ばけ」といって約束になっている。「黄伊羅保」は、黄釉の掛かったもの。「釘彫伊羅保」は、高台内に釘で彫ったような巴状の彫がある。口縁は切り廻しないが山道になりべべらあり。高台は竹の節でなく兜巾なし。「片身替」は、失透の井戸釉と伊羅保釉が掛け分けになったもの。高台は竹の節、兜巾は丸く大きい。たいてい「べべら」や「石はぜ」があり、見込みは刷毛目が半回りして(井刷毛)必ず刷毛先を見るのが約束になっている。李朝後期、日本からの注文で作られたと考えられている。

入子調(いれこしらべ)
点前の形式の一。小習の一。「茶入」「茶碗」「茶杓」のいずれかが、 由来のあるものの場合の点前。茶入を茶碗に入れて飾り、茶巾茶筅茶杓は、水指の上に仕組んでおく。濃茶平点前と同様に点茶するが、 亭主に茶碗が戻った時、正客は「茶碗に何か由来でもおありですか・・・」と尋ねる。主役がお茶碗でない場合、拝見に出すときに、茶入の場合は普通に出し、茶杓の場合は櫂先を仕服の上中心に載せ、斜めに出す。

印金(いんきん)
文様を型紙に彫り抜き、生地の上に当て、漆または膠などの接着剤で刷り、乾かないうちに金箔を押し当て、軽く圧し、乾いた後に不用の箔を掃き落とし文様をあらわしたもの。生地に文様が金で現される。多くは書画の表装裂に使用される。

伊部(いんべ)

備前国(岡山県)和気郡伊部町のb器で鎌倉時代から伊部付近で焼かれているところから伊部焼といい、一般的に総称して備前焼をいう。
備前焼が衰退した江戸中後期、福の神や人物、狛犬、鳥獣など、置物、香炉などの「細工物」、顔彩や岩絵の具をほどこした「彩色備前」、備前の土で白いものを作ろうとした「白備前」、食塩を使って発色させる「青備前」などとともに、新時代にあわせて作り出された備前焼のひとつで、水簸された細かい土で作陶され、器物の表面に泥奨(でいしょう)を塗りつけて焼くことで、肌がきめ細やかで滑らかで、黒褐色や紫蘇色、黄褐色等の光沢を出したものを、特に「伊部手(いんべで)」「伊部焼」という。


  
  
  
  
  
 

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