茶席の禅語

                           

風定花猶落(かぜさだまりてはななおおつ)
宋の王安石(1021〜1086)の集句詩に「風定花猶落、鳥啼山更幽」(風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か)とある。宋の沈括(しんかつ:1031〜1095)の『夢溪筆談』(むけいひつだん)に「古人詩有、風定花猶落之句、以謂無人能對。王荊公以對、鳥鳴山更幽。鳥鳴山更幽、本宋王籍詩、元對、蝉噪林逾靜、鳥鳴山更幽、上下句只是一意、風定花猶落、鳥鳴山更幽、則上句乃靜中有動、下句動中有靜。荊公始為集句詩、多者至百韻、皆集合前人之句、語意對偶,往往親切、過於本詩。后人稍稍有效而為者。」(古人の詩に、風定まりて花なお落つ、の句あり、以って能く対する人なしと謂う。王荊公以って、鳥鳴きて山さらに幽か、と対す。鳥鳴きて山さらに幽か、もと宋の王籍の詩、もと、蝉噪ぎて林いよいよ静か、鳥鳴きて山さらに幽か、の対にして、上下句だだこれ一意。風定まりて花なお落ち、鳥鳴きて山さらに幽か、すなわち上句すなわち静中に動あり、下句、動中に静あり。荊公、始めて集句詩を為し、多なるものは百韻に至る、みな前人の句を集合し、語意を対偶するに、往往にして親切、本詩に過ぐる。后人稍稍效いて為す者あり。)とある。集句詩(しゅうくし);古人の詩を寄せ集めて、新しい一編の作品に作り上げたもの。對偶(たいぐう);対句。稍稍(しょうしょう);すこし。やや。少々。『北澗居簡禪師語録』に「上堂。舉玄沙問小塘長老。昨日一場鬧。向甚麼處去。小塘提起袈裟角。玄沙云。料掉沒交渉。師拈云。二大老。只知今日明日。不覺前秋後秋。北澗則不然。今日靜悄悄。昨日鬧啾啾。風定花猶落。鳥啼山更幽。」(上堂。挙す、玄沙、小塘長老に問う、昨日一場の鬧(さわ)ぎ、甚麼の処に向ってか去るや。小塘袈裟角を提起す。玄沙云う、料掉没交渉。師、拈じて云く、二大老、ただ今日明日を知り、前秋後秋を覚えず。北澗すなわち然らず。今日、静悄悄。昨日、鬧啾啾。風定まりて花なお落つ、鳥鳴きて山さらに幽か。)とある。

吟風一様松(かぜにぎんず いちようのまつ)
寒山詩』に「可笑寒山道、而無車馬蹤。聯溪難記曲、疊嶂不知重。泣露千般草、吟風一樣松。此時迷徑處、形問影何從。」(笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと。)とある。聯谿(れんけい);連なった谷。畳嶂(ちょうしょう);重なった高く険しい山峰。

風吹不動天邊月(かぜふけども どうぜず てんぺんの つき)
普燈録』温州龍翔竹庵士珪禪師章に「上堂曰。萬年一念。一念萬年。和衣泥裏〓(車昆)。洗脚上床眠。歴劫來事。只在如今。大海波濤湧。小人方寸深。拈起拄杖曰。汝等諸人。未得箇入頭。須得箇入頭。既得箇入頭。須有出身一路始得。大衆。且作麼生是出身一路。良久。曰。雪壓難摧澗底松。風吹不動天邊月。」(上堂して曰く、万年一念。一念万年。和衣泥裏に転がり、脚を洗い上床し眠る。歴劫来の事は、只だ如今に在り。大海波濤湧き、小人方寸深し。拄杖を拈起し曰く、汝等諸人、未だ箇入頭を得ず。須らく箇入頭を得るべし。既に箇入頭を得らば、須らく出身一路の始得あるべし。大衆、且に作麼生か是れ出身一路す。良久して、曰く、雪圧せども摧け難し澗底の松。風吹けども動ぜず天辺の月。)とある。『禅林句集』七言対には「風吹不動天邊月。雪壓難摧澗底松。」とあり、注に「普燈十六ノ十二葉。會元廿共句上下。」とある。風が吹いても、天上に輝く月は少しも動じることはない。

看脚下(かんきゃっか)
碧巌録』第二二則の頌に「象骨巖高人不到。到者須是弄蛇手。稜師備師不奈何。喪身失命有多少。韶陽知。重撥草。南北東西無處討。忽然突出拄杖杖頭。〓(才尢力)對雪峰大張口。大張口兮同閃電。剔起眉毛還不見。如今藏在乳峰前。來者一一看方便。師高聲喝云。看脚下。」(象骨は巌高くして人到らず、到る者はすべからく是れ蛇を弄する手なるべし。稜師、備師、いかんともせず。喪身失命多少かある。韶陽知って、重ねて草を撥う。南北東西討ぬるに処なし。忽然として拄杖頭を突き出し、雪峰に放対して大いに口を張る。大いに口を張るや閃電に同じ、眉毛を剔起るも還た見えず。如今、蔵して乳峰の前に在り、来る者は一一方便するを看よ。師、高声に喝して云く、脚下を看よ。)とある。象骨(ぞうこつ);福州(福建省)象骨山。『祖庭事苑』に「象骨、即雪峰之別山、以形似而稱。」(象骨、すなわち雪峰の別山、形似るを以って称す。)とある。稜師(りょうし);中国唐五代の禅僧・長慶慧稜(ちょうけいえりょう:854〜932)。備師(びし);中国唐五代の禅僧・玄沙師備(げんしゃしび:835〜908)。韶陽;雲門のこと。雲門大師が韶州雲門山に住するによる。剔起眉毛(てつきびもう);目を見開くこと。乳峰(にゅうほう);雪竇山のこと。『五燈會元』の五祖法演禪師章に「三佛侍師於一亭上夜話。及歸燈已滅。師於暗中曰。各人下一轉語。佛鑑曰。彩鳳舞丹霄。佛眼曰。鐵蛇古路。佛果曰。看脚下。師曰。滅吾宗者。乃克勤爾。」(三仏、師に侍し一亭上に夜話す。帰るに及び灯已滅す。師、暗中に曰く、各人一転語を下せと。仏鑑曰く、彩鳳、丹霄に舞う。仏眼曰く、鉄蛇、古路に横たわる。仏果曰く、脚下を看よ。師曰く、吾宗を滅する者は、すなわち克勤のみ。)とあり、圜悟克勤がその師五祖法演に示したところから特に喧伝されるようになる。三佛;五祖法演の弟子で「五祖下三佛」といわれる、佛果克勤、佛鑑慧懃、佛眼清遠の三人。「演門二勤一遠」ともいう。

寒山詩(かんざんし)
浙江省天台山の寒山、拾得(じゅっとく)、豊干(ぶかん)の詩集。『三隠集』ともいう。唐末五代にその一部が知られ、宋代に入ってほぼ現形となる。その詩の流行とともに、三隠の伝説もまたしだいに発展した。『大平広記』五十五や『宋高僧伝』十九、『伝灯録』二十七『天台山国清寺三隠集記』、閭丘胤撰する『寒山詩集序』などがある。今日世間に流布されている「寒山詩」は、寒山の詩三百十一首、拾得の詩七十首と、豊干の詩五首を加えたもの。寒山は天台山の寒巌の幽洞に住んでいたことから、拾得は天台山国清寺の僧の豊干に路で拾われたことにその名は由来する。両人ともに氏姓も郷里も生没年も明らかでない。拾得は国清寺で厨房の下働きをしており、寒山は国清寺に来て拾得から竹筒に入れておいた残飯を貰っていたが、大声で騒いだりするので寺僧が追い払うと、大笑して警句などをはいたりして去ったという。拾得も寺の護伽藍神廟に供えた食物が鳥にあらされるのを見て食物さえ守れないお前に伽藍が守れるかと神像を殴り倒したりする奇行で衆僧を驚かせていた。あるとき台州刺吏・閭丘胤(りょ きゅういん)が頭痛に苦しみ、豊干の治療を受けた時に、豊干から「天台山に寒山文殊、拾得晋賢なる賢者あり」と聞き、みずから登山して国清寺に至り、寺の台所でかまどの火に向って大笑している二人を見て礼拝した。寒山・拾得は手をとりあって「豊干がしゃべったな」と笑い叫びながら走り去り寒巌の隙間穴に入ってしまったという。

喫茶去(きっさこ)
中国唐末の禅僧・趙州の言葉で「趙州喫茶去」と呼ばれる『趙州録』所載の禅の公案。「師問二新到。上座曾到此間否。云不曾到。師云。喫茶去。又問。那一人曾到此間否。云曾到。師云。喫茶去。院主問。和尚不曾到教伊喫茶去即且置。曾到為什麼教伊喫茶去。師云院主。院主應諾。師云。喫茶去。」(師、二新到に問う、上座、曾て此間に到るや否や。云く、曾て到らず。師云く。喫茶去。又、那の一人に問う、曾て此間に到るや否や。云く、曾て到る。師云く。喫茶去。院主問う。和尚、曾て到らず、彼をして喫茶し去らしむるは且らく置く。曾て到る、什麼としてか彼をして喫茶し去らしむ。師云く、院主よ。院主応諾す。師云く。喫茶去。)。「喫茶去」の「去」は命令形の助辞で、単に意味を強める助字と見て「お茶をおあがり」という意味に解する説と、臨濟録の「且座喫茶とは異なり、「茶を飲んでこい」あるいは「茶を飲みにいけ」で、茶を飲んでから出直してこいと相手を叱咤する語であるとする説とがある。趙州が三者に対し一様に「喫茶去」と言ったのについては色々な解釈がある。道元禅師は「いはゆる此間は、頂〓にあらず、鼻孔にあらず、趙州にあらず。此間を跳脱するゆゑに曾到此間なり、不曾到此間なり。遮裏是甚麼處在、祗管道曾到不曾到なり。このゆゑに、先師いはく、誰在畫樓沽酒處、相邀來喫趙州茶(誰か畫樓沽酒の處に在つて、相邀へ來つて趙州の茶を喫せん)。しかあれば、佛祖の家常は喫茶喫飯のみなり。」という。

虚堂録(きどうろく)
虚堂和尚語録(きどうおしょうごろく)。南宋末の虚堂智愚(1185〜1269)の語録。参学妙源の編。前録七巻に嘉興府興聖禅寺より径山万寿寺に至る十会の上堂と、法語、序跋、真讚、普説、頌古、代別、仏祖讚、偈頌等を収め、続輯三巻に後録を補遺し、咸淳五年(1269)に福州鼓山で刊行したもの。

舊年寒苦梅 得雨一時開(きゅうねんかんくのうめ あめをえていちじにひらく)
白隠禅師と弟子の東嶺禅師による般若心経の註『毒語注心経』にある語。白隠69歳の著。「是無等等咒」の條に「話作兩橛。那一橛著何處。誰道上下四維無等匹。七花八裂。コ雲間古錐幾下妙峯頂。傭他癡聖人。擔雪共填井。」(話(わ)両橛(りょうけつ)と作(な)る。那(な)の一橛(いっけつ)何れの処にか著(つけ)ん。誰か道(い)う上下四維等匹(とうひつ)無しと。七花八裂。徳雲の間古錐幾か妙峯頂を下る。他の癡聖人(ちせいじん)を傭(やとっ)て。雪を擔て共に井を填む)、「舊年寒苦梅。得雨一時開。疎影月移去。暗香風送来。昨是埋雪樹。今復帯花枝。喫困寒多少。可貴百卉魁。」(旧年寒苦の梅、雨を得て一時に開く。疎影(そえい)月を移し去り、暗香(あんこう)風を送り来る。昨は是れ雪に埋む樹、今は復た花を帯る枝。困寒を喫すること多少ぞ、貴ぶべし百卉の魁。)とある。百花魁(ひゃっかのさきがけ)とは、百花に先立って花開く梅を古人が呼んだもの。

雲收山岳青(くも おさまりて さんがく あおし)
『古尊宿語録』に「進云。大衆側聆。學人未曉。師云。照破萬家門。進云。恁麼則日出乾坤耀。雲收山岳青。師云。驗人端的處。」(進云う、大衆側聆して、学人未だ暁けず。師云く、万家門を照破す。進云う、恁麼ならば則ち、日出でて乾坤輝き、雲収まりて山岳青し。師云く、人を験むる端的の処。)とある。側聆(そくれい);耳をそば立たせる。未曉(みぎょう);悟りに達していない。照破(しょうは);仏が智慧の光で無明の闇を照らし真理をあらわにすること。端的(たんてき);物の本質。真実。 雲が消え去って山並が青々と見える。

雲悠悠 水潺潺(くもゆうゆう みずせんせん)
圜悟録』に「韓觀察請上堂。大衆。日沈沈風颯颯。萬世只如今。雲靉靉水潺潺。當處全體現。」(韓観察上堂を請う。大衆。日は沈沈、風は颯颯。万世ただ今の如し。雲は靉靉、水は潺潺。当処に全て体現す。)、『雪巖祖欽禪師語録』に「雲悠悠水悠悠。」、「天悠悠。雲悠悠。」と見える。悠(ゆう)は『毛註』に「悠悠、遠貌。」(悠悠は遠きなる貌なり。)とあり、悠悠は遥かに遠いさま。また、ゆったりと落ち着いたさま。潺(せん)は『説文』に「水聲。」とあり、潺潺は水がさらさらと流れるさま。靉(あい)は、『正韻』に「雲盛貌。」(雲盛んなる貌なり。)とある。

雲在嶺頭閑不徹(くも れいとうにあって かん ぷてつ)
『洞山良价禪師語録』に「白雲端云。若見得菴主。便見得洞山。若見得洞山。便見得菴主。見洞山則易。見菴主則難。不見道。雲在嶺頭阨s徹。水流澗底太忙生。」(白雲端云く、若し菴主を見得すれば、便ち洞山を見得す。若し洞山を見得すれば、便ち菴主を見得す。見洞山を見るは則ち易く、菴主を見るは則ち難し。道うを見ずや。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。白雲端;白雲守端和尚(1025〜1073)。『禅林句集』七言対句に「雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」とあり、出典に「虚堂一報恩ノ終リ。禪類十二遊山門」を挙げる。『虚堂録』卷第一「嘉興府報恩光孝禪寺語録」に「退院上堂舉。高亭隔江見コ山。便乃趨而去。後來開法。承嗣コ山。師云。高亭只見錐頭利。不見鑿頭方。當時若過江來。豈止住院。有人會得主丈子。兩手分付。不然。雲在嶺頭閑不徹。水流澗底太忙生。」(退院上堂。舉す。高亭、江を隔てて徳山を見る。すなわち趨して去らば、後来開法、徳山に承嗣す。師云く、高亭ただ錐頭の利きを見るのみにして、鑿頭の方なるを見ず。当時もし江を過ぎ来たらば、豈に住院に止まらんや。人あって主丈子に会い得ば、両手に分付せん。然らず、雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。『禪林類聚』卷第十二「遊山」には「佛眼遠頌云。一回思想一傷神。不覺翻然笑轉新。雲在嶺頭閑不徹。水流澗下太忙生。」(仏眼遠、頌して云く、一回思想一神傷。翻然として笑轉た新なるを覚えず。雲は嶺頭に在って閑不徹、水は澗下を流れて太忙生。)とある。

君子千里同風(くんし せんり どうふう)
祖堂集』巻十八に「問、學人去南方、忽然雪峰問趙州意、作摩生祗對。師云、遇冬則寒,遇夏則熱。進曰、究竟趙州意旨如何。師云、親從趙州來、不是傳語人。其僧到雪峰、果如所問、其信一一如上舉對。雪峰曰、君子千里同風。」(問う、学人南方に去る、もし雪峰の趙州の意を問わば、作摩生か祗對せん。師云く、冬に遇わば則ち寒く、夏に遇わば則ち熱し。進んで曰く、究竟じて趙州の意旨如何ん。師云く、親しく趙州より来る、是れ傳語人ならず。其の僧、雪峰に到る。果たして、問う所の如し。其の僧、一一上の如く挙對す。雪峰曰く、君子は千里同風。)とある。また同書巻十二に「因玄沙封白紙送雪峰。雪峰見云、君子千里同風。其僧卻來、舉似玄沙。玄沙云、與摩則何異于孟春猶寒。有人舉似長慶。長慶云、送書底人、還識好惡摩。有人舉似師。師云、送書呈書了退身。」(ちなみに玄沙、白紙を封じて雪峰に送る。雪峰見て云く、君子は千里同風と。其の僧却来して玄沙に挙似す。玄沙曰く、与摩ならば則ち孟春なお寒しに異ならん。人有って長慶に舉似す。長慶云く、送書底の人、また好悪を識るや。人有って師に舉似す。師云く、送書し、書を呈し了る。退身せよ。)とある。『景コ傳燈録』では「師一日遣僧送書上雪峰和尚。雪峰開緘唯白紙三幅。問僧會麼。曰不會。雪峰曰。不見道。君子千里同風。」(師、一日僧を遣し、書上を雪峰和尚に送る。雪峰、開緘すれば唯だ白紙三幅。僧問う、会すや。曰く会せず。雪峰曰く。道うを見ずや。君子は千里同風。)とする。

薫風自南来(くんぷうじなんらい)
『全唐詩』の「夏日聯句」に「人皆苦炎熱、我愛夏日長。熏風自南來、殿閣生微涼。」(人は皆な炎熱に苦しむも、我は夏日の長きを愛す。薫風自南来、殿閣微涼を生ず)とあり、唐の文宗皇帝(808〜840)が「人皆苦炎熱、我愛夏日長」と起床の句を作ったのを承けて、柳公権(りゅうこうけん)が「熏風自南來、殿閣生微涼」と転結の句を作って一篇の詩としたもの。『大慧普覺禪師語録』に「僧問雲門。如何是諸佛出身處。門曰。東山水上行。若是天寧即不然。如何是諸佛出身處。桾落ゥ南來、殿閣生微涼。向這裏忽然前後際斷。譬如一綟亂絲將刀一截截斷相似。當時通身汗出。雖然動相不生。卻坐在淨裸裸處得。一日去入室。」(僧、雲門に問う、如何なるか是れ諸仏出身の処。門曰く、東山水上を行く。是の若し天寧は即ち然らず、如何なるか是れ諸仏出身の処。薫風自南来、殿閣微涼を生ず。)とあり、僧が、仏はどこにいるのかと問うたとき、雲門(864〜948)は東山が水の上を行くと言った。その話は天寧ならこうはならない、仏はどこにいるのかと問うたら、薫風が南から吹いてくる、お寺もこの風で涼しくなると答える、というのを聞いて大慧宗杲(1089〜1163)が悟ったとする。

行雲流水(こううんりゅうすい)
『宋史』列傳第九十七「蘇軾」に「與弟轍、師父洵為文、既而得之於天。嘗自謂、作文如行雲流水、初無定質、但常行於所當行、止於所不可不止。雖嬉笑怒罵之辭、皆可書而誦之。其體渾涵光芒、雄視百代、有文章以來、蓋亦鮮矣。」(、弟の轍と与に、父の洵を師とし文を為す、既にして之を天に得る。嘗みに自ら謂う、作文、行雲流水の如く、初め定質なく、但し常に当行する所を行き、止らざるべからざる所を止まる。嬉笑怒罵の辞と雖も、みな可書にして之を誦す。その体、渾涵光芒、百代に雄視す、文章ありて以来、蓋しまた鮮ならん。)とある。

好事不如無(こうじも なきには しかず)
碧巌録』第八六則に「舉。雲門垂語云。人人盡有光明在。看時不見暗昏昏。作麼生是諸人光明。自代云。厨庫三門。又云。好事不如無。」(挙す。雲門垂語して云く、人人尽く光明の有る在り。看る時見えず暗昏昏。作麼生か是れ諸人の光明。自ら代って云く、厨庫三門。又云く、好事も無きには如かず。)とある。『雲門廣録』には「上堂。良久。云。鈍置殺人。便下座。代云。不獨。因看誌公。問僧。半夜子。心住無生即生死。古人意作麼生。代云。不可總作野狐精見解也。或云。古人道。人人盡有光明在。看時不見暗昏昏。作麼生是光明。代云。廚庫三門。又云。好事不如無。」(上堂。良久して、云く、人を鈍置殺し、便ち下座す。代って云く、独りにはあらず、因みに誌公のを看よ。僧に問う。半夜子、心住無生即生死。古人の意は作麼生。代って云く、総に野狐精の見解を作す可からず也。或は云う、古人道う、人人尽く光明の有る在り。看る時見えず暗昏昏。作麼生か是れ諸人の光明。代って云く、厨庫三門。又云く、好事も無きには如かず。)とある。鈍置殺;馬鹿にする。誌公(しこう);寶誌和尚(418〜514)。半夜子(はんやし);半夜。夜半。子(ね)の刻から丑(うし)の刻まで。『傳燈録』の「寶誌和尚十二時頌」に「半夜子。心住無生即生死。生死何曾屬有無。用時便用勿文字。佛祖言。外邊事。識取起時還不是。作意搜求實總無。生死魔來任相試。」とある。どんなよいことでも、それに捉われの心を起こすようでは、むしろ無いに越したことはないという。

江上数峰青(こうじょう すうほう あおし)
唐の錢起の詩「省試湘靈鼓瑟」(省試湘霊瑟を鼓す)に「善鼓雲和瑟、常聞帝子靈。馮夷空自舞、楚客不堪聽。苦調凄金石、清音入杳冥。蒼梧來怨慕、白〓(上廾下止)動芳馨。流水傳湘浦、悲風過洞庭。曲終人不見、江上數峰青。」(善く雲和の瑟を鼓するは、常に聞く帝子の霊と。馮夷空しく自ら舞い、楚客は聴くに堪えず。苦調金石より凄しく、清音杳冥に入る。蒼梧より来りて怨慕し、白〓(上廾下止)は芳馨を動かす。流水湘浦に伝わり、悲風洞庭を過ぐ。曲終りて人見えず、江上数峰青し)とある。銭起(722〜780)。字は仲文。呉興の人。天宝十載(751)進士に及第。校書郎・藍田尉・考功郎中などを歴任し大暦年間には太清宮使・翰林学士に上る。大暦十才子のひとり。『續燈録』に「問。世尊善説般若。和尚提唱宗風。未審是同是別。師云。皇天無親。唯コ是輔。僧曰。今日得聞於未聞也。師云。聞底事作麼生。僧曰。曲終人不見。江上數峰青。師云。猶較些子。」(問う、世尊は般若を善説し、和尚は宗風を提唱す。未審、是れ同か、是れ別か。師云く、皇天に親なく、ただ徳をこれ輔く。僧曰く、今日未だ聞かざるを聞くを得るなり。師云く、底事ぞ聞く作麼生。僧曰く、曲終りて人見えず、江上数峰青し。師云く、猶お些子を較す。)とみえる。皇天無親唯コ是輔;『書經』蔡仲之命に「皇天無親、惟コ是輔。民心無常、惟惠之懷。」、大いなる天はだれかを親しむということはなく、ただ徳のあるものを助ける。民の心はきまって従うものはなく、ただ惠みあるものになつき従う、とある。皇天;天の尊称。底事;何事。猶較些子;いまひとつ足りない。まあまあのところだ。

好雪片片不落別處(こうせつ へんぺん べっしょに おちず)
碧巌録』第四二則「龐居士好雪片片」に「舉。龐居士辭藥山。山命十人禪客。相送至門首。居士指空中雪云。好雪片片不落別處。時有全禪客云。落在什麼處。士打一掌。全云。居士也不得草草。士云。汝恁麼禪客。閻老子未放汝在。全云。居士 作麼生。士又打一掌。云眼見如盲。口説如唖。雪竇別云。初問處但握雪團便打。」(挙す。龐居士、薬山を辞す。山、十人の禅客に命じ、相送りて門首に至らしむ。居士、空中の雪を指して云く、好雪片片別処に落ちず。時に全禅客ありて云く、什麼の処にか落在す。士打つこと一掌。全云く、居士また草草なることを得ざれ。士云く、汝恁麼禅客と称せば、閻老子いまだ汝を放さざること在らん。全云く、居士 作麼生。士また打つこと一掌、云く、眼は見るも盲の如く、口は説うも唖の如し。雪竇別して云く、初問の処に、ただ雪団を握って便ち打たん。)とある。龐居士が薬山禅師の所を辞すとき、薬山は十人の禅客に見送りを命じ門前に来た時、居士は降る雪を指して好雪片片別処に落ちずと言った。そのとき全という禅客が、ではどこに落ちるのか、と尋ねたら、居士に平手打ちで一発叩かれた。そんなにあわてて叩かないでと全が言うと、居士は、お前はそんなことで禅客などと言っていると閻魔様が許さないぞ、と言うと、全は、では居士ならどう答えますか、と聞いた。居士はまた一発叩いて、眼は見ていても盲同然、口は喋っていても唖同然だ、と言った。雪竇は、好雪片片別処に落ちずと言ったときに、ただ雪団を握ってぶつけてやればよかったのだと評した。見る雪もなく、見られる雪もなく、自らが好雪片々そのもの、天地宇宙に溶け込んでいる境地という。

廣燈録(こうとうろく)
天聖廣燈録(てんしょうこうとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。李遵勗の編。三十巻。天聖中に編集を始め、景祐三年(1036)に完成。『景コ傳燈録』の後を承け、南岳下九世、青原下十二世までを増補した禅宗史伝。完成と同時に朝廷に上進され、北宋の第四代皇帝・仁宗の「御製序」を賜わって入蔵を許されている。

紅爐上一點雪(こうろじょういってんのゆき)
碧巌録』第六十九則に「垂示云。無啗啄處。祖師心印。状似鐵牛之機。透荊棘林。衲僧家。如紅爐上一點雪。平地上七穿八穴則且止。不落〓(上夕下寅)縁。又作麼生。試舉看。」(垂示に云く、啗啄の処なき、祖師の心印、かたち鉄牛の機に似たり。荊棘の林を透る、衲僧家、紅炉上一点の雪の如し。平地上七穿八穴なることは則ちしばらくおく。寅縁に落ちざるは、また作麼生。試みに挙す看よ。)とある。啗啄(たんたく)は、鳥が物を啄ばむこと。鐵牛之機は、夏の禹王が治水のため大鉄牛を鋳て黄河の鎮めとした伝説により、堅固不動の意。寅縁(いんえん)は、連なる縁、連絡、ここでは文字言句をさす。紅炉上一点雪は、紅々と燃える炉のうえに一点の雪が降ってきても一瞬のうちに消えてしまうように、仏心や仏性をもって煩悩や妄想を払いのけることをいう。掛物としては「紅爐一點雪」と書かれることが多い。

孤雲本無心(こうん もと むしん)
『全唐詩』の于〓(由頁)の五言古詩「郡齋臥疾贈晝上人」の一節に「呉山為我高、〓(上雨下言)水為我深。萬景徒有象、孤雲本無心。」(呉山我が為に高く、トウ水我が為に深し。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。『釋門正統』「皎然」章に「有詩楙山集。刺史于〓(由頁)序曰。得詩人之奧旨。傳乃祖之青華。江南詞人莫不模範。極於緑情綺靡。故詞多芳澤。師古典制故律尚清壯。其或發明玄理。則深契真如。又不可得而思議也。贈詩云。呉山為我高。〓(上雨下言)水為我深。萬景徒有象。孤雲本無心。」(詩に楙山集あり。刺史于〓(由頁)序して曰く、詩人の奧旨を得、乃祖の青華を伝う。江南の詞人範に模らざるなし。緑情綺靡を極め、故に詞に芳沢多し。古典を師とし故律を制してなお清壮。其れ或いは玄理を発明し、則ち真如と深契し、また得て思議すべからざるなり。詩を贈りて云く、呉山我が為に高く、トウ水我が為に深し。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。『圜悟録』に「上堂云。葉落知秋動絃別曲。定光招手智者點頭。承當於文彩未生前。相照向是非得失外。不渉廉纖如何通信。萬景徒有象。孤雲本無心。」(上堂して云く、葉落ちて秋を知り、絃動きて曲を別つ。定光招手し、智者点頭す。まさに文彩未だ生ぜざる前に承け、是非得失の外に向かいあい照らす。廉繊に渉らずして如何に信を通ず。万景ただ象あるのみ、孤雲もと無心。)とある。皎然(こうねん);盛唐の詩僧、湖州の人、俗姓は謝、字は晝。廉纖(れんせん);荒っぽいようでいて繊細。

虎渓三笑(こけいさんしょう)
中国宋の陳舜兪が煕寧五年(1072)に著した地誌『廬山記』(ろざんき)巻一に「流泉匝寺下、入虎溪、昔遠師送客過此、虎輙號鳴、故名焉。時陶元亮居栗山、山南陸修靜亦有道之士。遠師嘗送此二人、與語道合、不覺過之、因相與大笑、今世傳三笑圖、蓋起於此。」(流泉寺をめぐりて下り虎溪に入る。昔し遠師客を送りて此を過れば、虎すなわち号鳴す、故に名づく。時に陶元亮(陶淵明)栗里に居す、山南の陸修静も亦た有道の士なり。遠師嘗て此の二人を送りて、與に語て道合う。覚えず之を過ぐ。因りて相與に大に笑う。今の世三笑の図を伝う、蓋し此に起こる。)とある。虎渓(こけい)は、廬山(ろざん)にある谷川の名で、中国浄土教の起こりといわれる白蓮社(びゃくれんしゃ)を主宰した慧遠(えおん:334〜416)が廬山に東林寺(とうりんじ)を建て、寺の下の谷川を越えて下山しないと誓って三十余年間これを守り、招迎懇請されても固辞して下山しなかったが、或る日、儒者の陶淵明(とうえんめい:365〜427)が道士の陸修静(りくしゅうせい:406〜477)と訪問したその帰路、両人を送って出た慧遠は話に夢中になり、虎の鳴声で気付いた時にはすでに谷川を通り過ぎてしまっていたので、三人は思わず顔を見合わせ大笑したというところからこの名がついたといい、昔からよく「虎渓三笑の図」として絵の題材に選ばれている。

五家正宗贊(ごけしょうしゅうさん)
南宋の希叟紹曇の撰。宝祐二年(1254)に成る。初祖菩提達磨より、臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼の五家の各派に至る祖師七十四人の略伝を掲げて、各派の宗風の綱要を明らかにし、四六文による賛頌を付す。わが国に伝えられ、貞和五年(1349)に春屋妙葩が天竜寺の雲居庵で刊行し、五山時代より江戸時代に及ぶ僧徒の詩文の手本とされて多くの注釈書が作られた。

壺中日月長(こちゅう じつげつ ながし)
虚堂録』に「壽崇節上堂。至人垂化。示有形儀。開滿月之奇姿。蘊山天之瑞相。會麼卓主丈。只知池上蟠桃熟。不覺壺中日月長。」(寿崇節上堂。至人、化を垂れ、形儀ありと示す。満月の奇姿を開き、山天の瑞相を蘊む。会すや卓主丈。ただ池上に蟠桃の熟すを知り、壺中日月長きを覚えず。)とある。至人(じじん);道を修めて極に達した人。『莊子』逍遙遊の「至人無己」(至人は己なし)から。『後漢書』巻八十二下「方術列傳」費長房に「費長房者、汝南人也。曾為市掾。市中有老翁賣藥、懸一壺於肆頭、及市罷、輒跳入壺中。市人莫之見、唯長房於樓上見之、異焉、因往再拜奉酒脯。翁知長房之意其神也、謂之曰、子明日可更來。長房旦日復詣翁、翁乃與倶入壺中。唯見玉堂嚴麗、旨酒甘〓(食肴)盈衍其中、共飲畢而出。」(費長房は、汝南人なり。かつて市掾を為す。市中に売薬の老翁あり、肆頭に一壺を懸け、市を罷るに及び、すなわち壺中に跳び入る。市人これを見る莫かれど、ただ長房楼上に於いて之を見る、異ならんや、因りて往きて再拝して酒脯を奉ず。翁、長房の意その神なるを知り、之に謂いて曰く、子、明日更に来るべし。長房、旦日復た翁を詣る、翁すなわちともに壺中に入る。唯だ見る、玉堂厳麗にして、旨酒甘肴、その中に盈衍するを、共飲おわりて出ず。)に始まり、仙術などの指導を受けたりして、現実の世界に帰ってくると、本人は10日ばかりと思っていたのに、十数年も経っていたという仙話が出典。李白の詩「下途歸石門舊居」(下途、石門の旧居に帰る)に「餘嘗學道窮冥筌、夢中往往遊仙山。何當脱〓(尸徒)謝時去、壺中別有日月天。」(余嘗て道を学んで冥筌を窮め、夢中に往往仙山に遊ぶ。いつかまさに脱〓(尸徒)の時を謝し去るべき、壺中別に日月天あり。)とあり、「壺中」とは壺の中の別天地、仙境のことであり、悟りの妙境という。日月長は、悟りの世界には時間がなく悠々としているとのこと。

五燈會元(ごとうえげん)
中国南宋代に成立した禅宗の灯史(禅僧史)。全20巻。中国の宋時代に編まれ皇帝の勅許によって入蔵を認められた「五燈録」と総称される灯史五書を整理要約して一書とした最も総合的な禅宗通史。慧明首座の編。淳祐12年(1252)に成り、翌年に刊行。七仏より宋に至る間の、五家七宗各派の伝灯相承の次第と機縁の語句を宗派別に録している。

五燈録(ごとうろく)
「五燈録」は、中国の宋時代に編まれ皇帝の勅許によって入蔵を認められた、宣慈禅師道原編の『景徳傳燈録』(1004)、李遵勗編の『天聖広燈録』(1036)、仏国惟白編の『建中靖國続燈録』(1101)、晦翁悟明編の『宗門聯燈會要』(1183)、雷庵正受編の 『嘉泰普燈録』(1204)の五書を総称していう。

爲此春酒以介眉壽(このしゅんしゅをつくり、もってびじゅをたすく)
詩經』の、周南・召南・邶・鄘・衛・王・鄭・斉・魏・唐・秦・陳・檜・曹・豳の15の国の民謡を集めた「風(ふう)」即ち15「國風」のうちの「豳風(ひんぷう)」7篇のうち「七月」篇の7章77句のうち1章「六月食鬱及萸、七月亨癸及菽、八月剥棗、十月穫稻、爲此春酒、以介眉壽。七月食瓜、八月斷壺、九月叔苴、采茶薪樗、食我農夫。」の一節。「豳(山+豕豕)(ひん)」は、鄭玄の『詩譜』に「豳は后劉の曾孫公劉なる者、邰より出でて徒りし所の戎狄の地名、今、右扶風〓(木旬)邑に属す。」とあり、『周禮』に「龡章。掌土鼓、豳龡。中春、晝撃土鼓、吹豳詩、以逆暑。中秋、夜迎寒、亦如之。凡國祈年于田祖、吹豳雅、撃土鼓、以樂田o。國祭蜡、則吹豳頌、撃土鼓、以息老物。」とあるのは、この七月篇をいう。「春酒」は、後漢の鄭玄(127〜200)の『毛詩鄭箋』に「春酒、凍醪也」とあり、唐の孔穎達(574〜648)の『毛詩正義』は「醪は是れ酒の別名なり。此の酒は凍時に之を醸す。故に凍醪と称す」と、冬に醸した酒の意。「眉壽」は、『毛詩鄭箋』に「眉壽、豪眉也」とあり、屈萬里は「眉壽は高壽なり。高年なる者は毎に豪眉有り、故に云う」と、長寿の意。

枯木倚寒巖(こぼく かんがんに よる)
聯燈會要』に「昔有婆子。供養一庵主。經二十年。常令一二八女子。送飯給侍。一日令女子。抱定云。正恁麼時如何。主云。枯木倚寒巖。三冬無暖氣。女子舉似婆。婆云。我二十年。只供養得箇俗漢。遂遣出。燒卻庵。」(昔、婆子あり、一庵主を供養し二十年を経たり。常に一の二八女子をして、飯を送りて給持せしむ。一日女子をして抱き定め云わしむ、正に恁麼の時如何と。主云く、枯木寒巌に倚る、三冬暖気無し。女子婆に挙似す。婆云く、我れ二十年、ただ箇の俗漢に供養せしかと。遂に遣出して、庵を焼却す。)とある。昔、婆さんがいて、ひとりの修行僧を二十年世話していた。いつも二十八歳の娘に飯の給仕をさせていた。ある日、娘を抱き付かせて、さあどうするの、と言わせた。僧は、枯木が凍りついた岩に立っているようなものだ。真冬に暖気などない(私には色気など無い)、と言った。娘は婆さんにありのままに伝えた。婆さんは、こんな俗物の世話をしていたのかと言って、その僧を追出して、庵を焼き捨てた。

  
  
  
  
  
 

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