茶道用語

楽茶碗(らくちゃわん)
楽家歴代によって造られた茶碗、これを本窯物と呼び、楽家以外の脇窯物といわれる、楽家四代楽一入の子、彌兵衛が玉水に開窯した玉水焼茶碗楽一入の門人であった長左衛門が金沢の大樋村に開窯した大樋焼茶碗楽家の窯で焼かれた茶人の手捏ね茶碗をいう。楽茶碗は轆轤を用いず、手捏ねにより形成され、内窯と呼ばれる家屋内の小規模な窯で焼かれる。釉薬の色から、赤楽・黒楽・白楽などの種類がある。楽茶碗の初見は、『松屋会記』天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン、吸茶、三畳」とされる。ただ、『天王寺屋他会記』の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二 茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易 茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正七年(1579)、天正八年(1580)を楽焼の創始期とする説がある。いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、『山上宗二記』に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。

楽家(らくけ)
樂焼の創始者長次郎を祖とする樂焼本窯の家系で、千家十職のひとつ。楽茶碗を中心に茶の湯の道具のみを焼く。『本阿弥行状記』に「楽焼の事、飴屋長次郎が親は中華の人なり。長次郎陶物を焼はじめし故、飴屋焼きと申せしを、天正十二年豊臣殿下樂といふ字の印を遣わされしより、則これを姓として、楽焼と始(初)めて申せしとぞ。今の吉兵衛(道入)は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に薬等の伝も譲りを得て慰みにやく事なり、後代、吉兵衛が作は重宝すべし。しかれども当代は先代より不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし。」、『茶道筌蹄』楽焼歴代に「飴也 朝鮮の人也、或説にあめやは朝鮮の地名、大永の頃日本へ渡り、後弥吉と云ふ、長次郎まで四代あるとぞ」「尼焼 日本人貞林と云ふ、飴屋の妻也」「長次郎 飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」、文政13年(1830)序の『嬉遊笑覧』には「豊臣太閤聚楽にて朝鮮の陶師をめし利休に其法式を命じて茶碗を焼せらる、是を楽焼といふ、聚楽の字を分て印となす、その陶師を朝次郎と称するは朝鮮の一字を取たる也、その子孫今に栄ふ」、天保8年(1837)『茶器名形篇』に「楽焼家系譜 飴也。朝鮮人来朝して楽焼の祖となる。妻は日本人飴也。没後長次郎幼少に依て母の剃髪後茶器を造て焼たる尼焼と云。母迄は楽焼とは不言。住所上長者町西洞院東え入北側。」とある。初代長次郎以来15代を数える。 初代・長次郎。 二代・常慶。三代・道入。別名ノンコウ。四代・一入。五代・宗入。六代・左入。七代・長入。八代・得入。九代・了入。十代・旦入。十一代・慶入。十二・弘入。十三代・惺入。十四代・覚入。当代十五代吉左衛門(1949〜)は、覚入の長男。昭和48年(1973)東京芸術大学彫刻科卒業。昭和56年(1981)15代吉左衛門を襲名。覚入が隠居後の印として用意していた大燈国師筆の樂字印を用いる。

楽焼(らくやき)

長次郎を祖とする楽家代々の作品をいい、轆轤(ろくろ)を使わず手びねりで成形し、低火度で焼成した軟質陶器で、茶碗を中心に茶の湯の道具のみが焼かれる。また、手捏ねの軟陶の総称としても楽焼の名が使われる。瓦職人であった長次郎利休に見出され、聚楽第内で利休好みの茶碗を焼成し、はじめ「今焼」とよばれ、聚楽第で製陶したことから「聚楽焼」と呼ばれ、秀吉より「樂」の印字を賜り、以後家号として「樂」を用い、樂焼の名で呼ばれるようになる。楽焼の基本的技法は、長次郎作と伝える三彩瓜文鉢などからして交趾系のものとされ、伝存する「天正二春 依命 長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦の土や釉が赤楽茶碗「無一物」や「白鷺」などと極めて類似しているところから、天正二年(1574)には楽焼が作られる条件や可能性があったとされる。楽茶碗の初見は、『松屋会記』天正十四年十月十三日朝、中ノ坊井上源吾茶会の「宗易形ノ茶ワン」とされるが、『天王寺屋他会記』の天正七年(1579)十月十七日の山上宗二 茶会の「赤色之茶碗」を赤楽、または天正八年十二月九日の宗易 茶会に「ハタノソリタル茶碗」を長次郎の道成寺とし、天正7年(1579)、天正8年(1580)頃に作り始められ、当初は専ら赤楽が作られたが、天正14・5年頃から美濃で焼成される引き出し黒の技法が導入され黒楽が作られたと推測されている。いずれにしても天正十四年十月十三日の「宗易形ノ茶ワン」以後、茶会記に、俄かに「今ヤキ茶碗」または「ヤキ茶碗」「やき茶碗」という呼称が記載されるようになり、『山上宗二記』に「惣別茶碗ノ事、唐茶碗ハ捨タリタル也、当世ハ高麗茶碗、今焼茶碗、瀬戸茶碗以下迄也、頃サヘ能ク候ヘハ数奇道具二作也」とされるまでになる。おもに京都の聚楽土を用い、手捏ねで成形したあと、鉄や竹のへら、小刀で削って形をととのえ、素焼する。黒楽は、素焼きした素地に加茂川黒石を使った釉をかけ乾燥させることを繰り返し、匣鉢(さや)に入れて1000〜1250度の温度の窯で焼成し、窯から鉄鋏で挟み出し急冷する。そのため黒楽は鋏痕がついている。赤楽は、唐土(とうのつち 鉛釉)に長石分を混ぜた半透明の白釉を赤い聚楽土の上にかけ、800〜1000度くらいの低温で短時間で焼成する。赤楽には見込みに目がある。最近のものでは白素地に黄土で化粧がけした上に透明な楽釉をかける。


螺鈿(らでん)
漆工芸の技法の一。鮑貝、青貝、夜光貝、白蝶貝、阿古屋貝などの貝殻の内側、虹色光沢を持った真珠質の部分を薄く研磨したものを、さまざまな模様の形に切り、漆地や木地の彫刻された表面に嵌め込んだり、貼り付けたりする技法。「螺」は螺旋状の貝殻の意で、「鈿」は広義に貝殻を嵌めこむ意。嵌め込んだ後の貝片に更に彫刻を施す場合もある。中国唐代に発達、日本へは奈良時代に伝来し、平安時代には盛んに蒔絵に併用された。薄貝を用いたものは特に青貝ともいう。『貞丈雑記』に「螺鈿の事、螺は青貝、鈿は切金也。又青貝ばかりをも螺鈿と云なり。又古書に貝を摺るとあるも螺鈿の事也。金貝と云も螺鈿の俗称也。金貝鞍、太平記、建武式目追加、室町記等に見たり。金貝とて、別にはあらざるべし。切金と青貝にて飾りたるなるべし。山岡浚明が名物考に云、螺鈿今俗に云青貝の事にて、古き物には、貝すつたる鞍などいへり。鈿は飾也と云り。されど螺鈿の本儀は青貝と切金也。壺井義知云、螺鈿、本儀は金と貝にてあるべけれども、皆貝斗を用て螺鈿と云例也云々。鈿は玉篇に曰、徒練切、金花也。又鈿、字彙云、金華飾、又螺鈿云々。」とある。

  
  
  
  
  
 

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