茶道用語

利休形(りきゅうがた)
利休の当時に用いられていた器物などから利休が採りあげたとされるもの。利休によって意匠された「利休好み」と分けて理解されている。

利休間道(りきゅうかんとう)
名物裂の一。縹と浅葱の細かな千鳥格子。利休が大名物「松屋肩衝茶入」に贈った仕覆裂を本歌とする。元来は白と紺の格子縞であるが、白糸が時代を帯び、全体に萌黄調になったという。一般には、経緯共に木綿糸を用い、二本引きそろえた斜子糸使いで平織にしたもの。紹鴎 間道によく似ているが紹鴎 間道は経緯共に細い絹糸を使用している。紹鴎所持の裂を利休仕覆に好んだと見る向きもある。地風が素朴で、色調・格子柄もいかにも質素で侘びた紬風な間道で「木綿間道」の名もある。大名物「松屋肩衝茶入」は、通説では松本珠報が足利義政に献じ、村田珠光が拝領し、弟子の古市播磨に伝え、その後奈良の塗師松屋源三郎の所有となったとされるもので、珠光が唐草と竜の竜三爪緞子を添え、利休が木綿風の間道織部が青海波に梅鉢紋散しの波梅鉢緞子遠州が唐草に捻梅の捻有縁唐草緞子仕覆を贈っている。

利休梅(りきゅうばい)
利休が愛用した黒棗の仕覆に使用された名物裂利休緞子」に表された梅模様。円を中心に、それより少し大きい円を5個ならべた「星梅鉢(ほしうめばち)」を線で結んだもの。 本歌利休緞子は、薄縹色の五枚儒子地に梅鉢紋を黄茶色の糸で規則正しく織り並べた緞子で、天啓(1621〜1627)頃の染付磁器や椎朱盆に盛んに梅花紋散らしがもちいられていることから、明末清初の製で、利休好みの表具にも使用された形跡が無く、『古今名物類聚』にも『和漢錦繍一覧』にも見当たらないという。利休四百年忌に三千家家元好として利休梅絵の中村宗哲により造られた。

利休袋棚(りきゅうふくろだな)
桐木地の大棚で、左に地袋、右に違棚風に棚板があり、脇板は香狭間透(こうざますかし)となっている。香道の志野宗信(しのそうしん)が、文房具や化粧道具を置くために平安時代以来用いられていた厨子棚(ずしだな)をもとにして、香道具を飾るために作った志野棚を、利休がお茶用に改造したと伝えられる。の天板の上には茶道具を飾らない。ただ花入が床の間に置けない時ににあわせて小ぶりの花入を飾るとか、硯箱などの文房具を飾るかするのが習い。
利休袋棚は、その間口がの幅と同程度のいわゆる大棚だが、これから変化した小棚には、利休袋棚の右側だけを独立させて棚にした二重棚、利休袋棚の左側だけを独立させてにした小袋棚、利休袋棚の中央の部分を横に取った 自在棚がある。

利休遺偈(りきゅうゆいげ)
千利休が自刃するに際し、天正19年(1591)2月25日にしたためた辞世の偈。
人世七十力〓(口の中にカ)希
咄 吾這寳劒祖仏
共殺
 提ル我得具足の
 一太刀今此時そ
 天に抛
 天正十九仲春
 廿五日 利休宗易居士   花押
じんせいしちじゅうりきいく
とつわがこのほうけんそぶつ
ぐせつす
 ひっさぐるわがえぐそくの
 ひとたちいまこのときそ
 てんになげうつ
 てんしょう19ちゅうしゅん
 25にち りきゅうそうえきこじ  かおう
表千家5代随流斎(1650〜1691)の『延紙ノ書』に「万代屋宗貫、今日にて茶の湯可仕候由にて、利休遺偈を借り、それより返し不申候」とあり、万代屋宗貫(利休の女婿、万代屋宗安の子)が、京で茶の湯をするのでと借用し、その後行方知れずとなっていたが、7代如心斎(1705〜1751)の時、江戸深川の豪商・冬木家 上田小平治が所持していることがわかり、寛延4年(1751)6月千家に戻った。千家からは長次郎作「北野黒」の茶碗利休織部消息「武蔵鐙の文」がおくられたという。宗旦の写には、「人生七十 力囲希咄 吾這寳劒 祖仏共殺 提ル我得具足の一ツ太刀今此時そ天に抛」とあり、「世」が「生」、「〓(口の中にカ)」が「囲」となっている。「囲」は「圍」の俗字。「圍」は略して「口」と書かれることもあり、「圍」であることを明示する場合に「韋」の上の「カ」を口の中に書くことがあったという。(以下囗カと記す。)愈好斎宗匠は、その著で宗旦がその字句を正したとする。「力〓(口カ)」について本来は、雲門禅師の『雲門匡真禪師廣録』に「咄咄咄。力口希。禪子訝。中眉垂」(力韋希とするものもある)と見えるように、字数を調えるため「〓(口カ)」の字を分解し「力口」と使ったものを、利休が誤って「力〓(口カ)」と書いたとする。また元の廬山東林寺の普度が1305年に著した『廬山蓮宗寶鑑』巻十の「辯關閉諸惡趣門開示涅槃正路」にある「諸惡趣門者。乃身口意三業也。所謂身殺盜婬。口妄言綺語惡口兩舌。意貪瞋癡。修淨業人正心向道。截斷已上十不善行。則不入惡道。謂之關閉諸惡趣門也。開示者指出也。涅槃者不生不滅也。正者不偏路。即西方之道也。今有愚人指口為諸惡門。鼻為涅槃路。教人臨終時緊閉其口。令氣從鼻出。謂之出門一歩。又妄將〓(囗カ)字以為公案。教人口裏著力忍了氣透這一關。或云。〓(囗カ)字四圍是酒色財氣。或言。地水火風。或言。生老病死等。皆是卜度妄計曲説。嗟乎這一箇〓(囗カ)字瞞盡多少人。殊不知此字。玉篇明載戸臥切。即阿字去聲呼也。此箇〓(囗カ)字一切世人。口中未嘗不説。喩如失物人忽然尋見。不覺發此一聲是〓(囗カ)字也。宗門多言此字者。蓋尋師訪道之人。參究三二十年。忽然心花發現。會得此事。不覺〓(囗カ)地一聲。如失物得見。慶快平生。是其字義也。如是則念佛之人。但於念念中。仔細究竟本性彌陀。忽然親悟親見真實。到〓(囗カ)地一聲處。自然明徹矣。故智覺壽禪師云。心外求法。望石女而生兒。意上起思。邀空花而結果。本非有作。性自無為。智者莫能運其意像者。何以状其儀。言語道亡。是得路指歸之日。心行處滅。當放身捨命之時。可謂唯此一事實餘二即非真」 をもって(囗カ)の明瞭な義解とする。なお、近重物安が、美濃の大仙寺の活山和尚のの書き記したものを妙心寺塔頭霊雲寺の老師が書き抜いたものとして、蜀の成都の人、幹利休の偈頌「人生七十力口希 肉痩骨枯気未微 這裏咄提王宝剣 露呈仏祖殺機」を紹介し、利休号と偈を用いたのではないかと指摘している。 幹利休については未詳。

陸羽(りくう)
中国、唐の文人で『茶經』を著し、茶祖・茶神として仰がれる。開元21年(733)?〜貞元20年(804)。字は鴻漸、名は疾。季疵。桑苧翁と号す。復州竟陵(湖北省天門市)の人。捨て子だったといわれ、3歳の時に競陵龍盖寺の智積褝師に拾われ、占で「漸」の卦を得、卦辭に「鴻漸於陸,其羽可用為儀。」とあるところから姓を「陸」、名を「羽」、字を「鴻漸」とつけたという。寺の茶会の段取りの良さと点茶に秀で師の茶淹を任されていたという。天宝4載(745)寺を逃げ出し、劇団に入るが、風采が上がらず吃音(どもり)のため醜角(三枚目)ばかりであったが、「詼諧(かいかい)」(おどけ歌)数千言をつくり、都から左遷され競陵に来た競陵太守 李斉物に認められ、太守手ずから詩を教え、火門山の鄒夫子に師事させる。天宝11載(752)左遷された元の礼部郎中 崔國輔と知り合い文人としての付き合いをする。至徳元年(756)安史之乱が起き、乱を避けるため、故郷を離れ江南地区に渡り、乾元元年(758)升州(江蘇南京)の棲霞寺に寄居し茶事を研鑽し、上元元年(760)霞山麓の〓溪(浙江省湖州)の山間に隠棲し門を閉じて『茶經』を著述する。広徳2年(764)『茶經』の初稿が出来上がり、世人は競って抄を伝えたという。大暦10年(775)左遷され湖州刺史として来ていた顏真卿は百科事典『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』の編纂に陸羽を参加させ、浩然の妙喜寺に「三癸亭」という居を建て住まわせた。建中元年(780)『茶經』が正式に出版された。「東官府」の「太子文学」に任命されたが、任官せず処子のままで過ごした。宋代の陳師道(1053〜1101)が『茶經序』に「夫茶之著書、自羽始、其用於世、亦自羽始。羽誠有功於茶者也。」(茶について本を著すのは陸羽から始まる。茶が世に使われるのも陸羽から始まる。陸羽は誠に茶の功労者だ)とあるように「茶聖」「茶神」と尊ばれるようになる。

理平焼(りへいやき)
理平焼(理兵衛焼)は、讃岐高松藩の藩祖松平ョ重が、京都粟田口の陶工、森島作兵衛重利を招いて焼かせた御庭焼。別名に、高松焼または御林焼、利兵衛焼、石清尾焼、稲荷山焼などが知られる。明治初期の田内梅軒の『陶器考』に「高松焼 利兵衛と云もの仁清に陶法を習ふ、是を利兵衛焼と云、作ぶり仁清に似て厚し、安南を写たる茶碗、朝鮮を写たる茶碗など有、土白、薄赤、黄、浅黄。薬白、浅黄」とあるように、その作風は京焼との見分けが困難である。「紀太家由緒書」では作兵衛の父、森島半弥重芳を初代とする。初代半弥は豊臣秀頼に仕え千三百石を領していたが、大坂の役後故郷の信楽に閑居し雲林院某に製陶を習い焼物を業としたという。その子森島作兵衛が京都三條粟田口に野居して作陶を継いだが、正保4年(1647)松平頼重から10人扶持、切米15石とお林庭に屋敷を与えられ、名を紀太理兵衛重利と改め(松浦文庫「松平頼重年譜」)、紫峰と号し、高松藩別邸栗林荘の北に窯を築く。理兵衛重利を古理兵衛あるいは高松仁清と呼ぶ。以後、高松藩の御庭焼として紀太家子孫が代々「理兵衛」を襲名。3代理兵衛重治以降は、破風「高」の印を押すようになる。一説によると高松藩の高の字を拝領されたともいわれる。9代理兵衛の時、明治維新で廃藩置県となったため、11代が京都に出て高橋道八に学び、名も紀太理平と改め、明治33年に現在地の栗林公園北門前に理平焼として再興し、現在14代紀太理平まで続く。初代 森島半弥重芳。2代 紀太理兵衛重利(初代理平)。3代 重治。4代 行高。5代 惟久。6代 惟清。7代 惟持。8代 惟晴。9代 惟貞。10代 惟道。11代 紀太理平林蔵(以下代々「理平」を名乗る)。12代 福寿。13代 克美。14代 洋子(当代)。平成6年(1994)松平頼武より「理平」の字を賜り、14代より「理平」の印も用いる。世代については、12代 福寿が、陶業については森島半弥重芳を初代とし、理平については2代 作兵衛重利を初代とするとし「十二代理平」を名乗ったためこれに従うとある。

立鼓(りゅうご)
器物の形状の一種。上下が開き、中央がくびれたもの。鼓を立てた形に似ているところからの名称。花入、水指、蓋置などに見られる。千切(ちぎり。手でちぎったような形または、契り=約束の意にかけて使うことも)ともいう。 『貞丈雑記』 に「りうごは立鼓と書くなり。鼓はつづみなり。つづみを立れば中ほどくびれたる形なり。これに依り中のくびれたる物をゆうごと云。」とある。

立礼(りゅうれい)

椅子に腰掛けて行う点前。明治五年(1872)第一回京都博覧会において、京都府参事槇村正直から外人も楽しめるような茶席がほしいと依頼され、建仁寺正伝院の茶席をもった前田瑞雪(1833〜1914)に相談された裏千家十一代玄々斎宗室が、椅子と卓による点前を考案したもの。会場には「囲い点(かこいだて)」と「椅子点」の 席が設けられ、数奇屋大工二代目木村清兵衛が造った台子を点茶卓に利用し、天板に風炉 を据え、皆具を飾り、椅子に腰掛けて点前をしたという。現在裏千家で「点茶盤(てんちゃばん)」と称されるものが、このときの点茶台を基に考案されたもので、卓子(テーブル)に風炉 水指などを置き、亭主は円椅(椅子)に腰掛け点前を行い、客は喫架(客用机)、円椅(客用椅子)を用いる。現在ではこの椅子式の点前が各流儀においても取り入れられ、各種の立礼棚、立礼卓(りゅうれいじょく)が造られている。


了入(りょうにゅう)
楽家9代。宝暦6年(1756)〜天保5年(1834)78歳。7代長入の次男。8代得入の弟。得入が25歳で隠居したため明和7年(1770)14歳で9代吉左衛門を襲名。文政8年(1825)剃髪隠居して了入と号す。文政二年(1819)には紀州家御庭焼にも参加している。楽家中興の名人といわれ、薄作り、箆削りを強調した作品を残している。黒釉はつやがあり、赤釉も鮮明で、釉のかけ分け、二つ以上の印を捺した数印の茶碗も試みている。寛政元年(1789)長次郎二百回忌のときにつくった赤茶碗二百個に使用した草樂印を「寛政判」または「茶の子判」という。天明8年(1788)の大火で焼けるまでの印を、「火前印」といい、楽字の白が自になっているが、その自の横棒3本が右下がりになっている。 大火後、隠居するまでの印を「中印」といい、自楽印の自の横棒3本は、水平である。隠居してからは草書の楽字印を使い、これを「草楽印」又は「隠居印」という。文政元年(1818)表千家了々斎から「翫土軒」の額を貰ってからは、「翫土老人」と陽刻した印も使う。


両椀(りょうわん)
懐石家具のうち、飯椀と汁椀とをいう。一般的には利休形小丸椀が用いられている。利休形小丸椀は、黒漆塗が多く、入子になっていて、飯椀が汁椀より少し大きく、身の方を重ね、蓋をその中へ重ねると四つ重ねに収まる。『茶道筌蹄』に「利休までは尽く朱椀也、利休より黒椀を用ゆ、朱椀も兼用」、「黒塗丸椀 坪平付、大小とも利休」、『嬉遊笑覧』に「黒漆の椀は賤きものにて、田舎にのみ用ひたりしを、宗易(千家)好事に、茶席に用ひたりしより、会席椀と称するものを、ことさらに作ることヽはなれり」とある。

輪花(りんか)
碗・皿・盤などの口縁に一定の規律で刻みを付けたり、胴に縦筋をつけ、花弁のような形にした装飾の形。

 
  
  
  
  
 

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