茶道用語

貞丈雑記(ていじょうざっき)
江戸時代の有職故実書。16巻。伊勢流武家故実家の伊勢貞丈(1717〜1784)が、子孫のために書き記した宝暦13年(1763)から天明4年(1784)の雑録を、没後60年の天保14年(1843)に伊勢貞友らが編集刊行したもの。武家の有職に関する事項を36部門に分けて編集されている。

貞要集(ていようしゅう)
江戸中期の茶人 松本見休による有楽流茶法と点前伝授の書。四巻六冊。宝永7年(1710)成立。利休台子の伝者である高橋玄旦が、織田貞置に伝授した台子の法を、貞置から松本見休が直伝を受けて書いたものとされている。第一巻で、風炉台子長板・袋棚・卓・道幸・茶通箱などの点前21種。第二巻は、数奇屋寸法・露地の腰掛・飛石の据え様および風炉の点前。第三巻は、各種道具の扱い、花・灰・炭および道具寸法図。第四巻は、客亭主の露地入の法、数奇屋寸法と指図を解説する。多くの写本が伝世する。

手桶(ておけ)
取手のついた桶。水をくみ置いたり運んだりするときに用いる。 手桶水指は、『草人木』に「是略の三餝也。是珠光の作也、水指は手桶を杉のめのこまかなにて木色にし、わにハと(籐)を上に一ツ、下に二ツつかひて也」とあるように、珠光が杉木地で好み、上下に籐のたがをかけ水指としたと伝える。同書に「ぬり手桶は紹鴎利休已来也」とあり、紹鴎真塗に改めて台子用にしたといい、利休真塗を好んだ。永禄年間(1558〜1570)から天正13年(1585)頃までの間の茶会記に最も多く記載されている。

手塚圭成(てづか けいせい)
人間国宝 角谷一圭の弟子で、流儀社中である釜師。

鉄鉢(てっぱつ)
鉄製の鉢。『和漢三才図会』に「「鉢即鉄鉢也、浮屠毎用乞施、有投米者、則発鉢受之」とあり、僧が托鉢で食物などを受けるのに用いる器。口辺が垂直あるいはやや内側に締まって抱え口となり、底には高台がなくて丸くなった形のもの。また、それに似た形の陶磁器や塗物の鉢をも指す。建水水指向付や菓子器などにある。『百丈清規』に「鉢 梵云鉢多羅此云應量器。今略云鉢。又呼云鉢盂。即華梵兼名。」、『事物紀原』に「本天竺国器也、胡語謂之鉢多羅、漢云応量器、省略彼土言、故名鉢、西国有仏鉢是也」、『釈氏要覧』に「鉢、梵云鉢多羅、此云応器、今略云鉢也、又呼鉢盂、即華梵兼名也」、『和名類聚抄』に「四声字苑云、鉢、(博末反、字亦作盋見唐韻、今案無和名、以音為名)学仏道者食器也、胡人謂之盂也」とあるように、鉢は、梵語のPātra(パートラ)の音訳である鉢多羅(はったら)の略称で、中国では盂、応器または鉢盂、応量器と称した。『四分戒本如釋』に「言鉢多羅者。此是應法之器。謂體色量。三皆應法。體謂鐵瓦。色謂赤K。」とあるように、材質は鉄または土、色は赤黒等が法とされる。

点前(てまえ)
茶を点てたり、炭を置くこと、また客の前で行われるその所作。中国では、北宋徽宗皇帝の『大観茶論』(1107年)に「底深則茶宜立」「蓋撃拂無力、茶不發立」などとあるように、抹茶を茶筅で攪拌して泡立てることを「立茶」といい、これが日本に入り、応永27年(1420)の故実書『海人藻芥』に「建盞ニ茶一服入テ、湯ヲ半計入テ、茶筅ニテタツル時、タダフサト湯ノキコユル様ニタツルナリ」とあるように、茶立、茶を立てるなどと用いられ、さらに「男前」「腕前」「名前」などと同じく接尾語の「前」をつけて『山上宗二記』に「茶の建前は無言」とあるように「茶を立てること」という意味で「たてまへ」(立前・建前)と呼ばれ、その「た」が略され「てまへ」となり「手前」の字が当てられた。現在では「点前」の字を当てている。ただ裏千家では「炭点前」にのみ「手前」の字を使う。「点前」の「点」は「点茶」の点で、中国宋代の蔡襄の『茶録』に「點茶」とあるのが初見となっている。「點」(点)は、『正韻』に「點注也」とあり、液体を容器の中へ少しずつ注(そそ)ぐ意で、転じて茶を点てる意となった。『茶湯古事談』に「利休か手前は少しも目に立つ処なく、たて出しも仕廻も爰そあちしやと見たる事なく、すらりすらりとした事なりし、是そ凡慮をはなれし境ならんかと針屋宗真か常にかたりしとなん」とある。

点心(てんしん)
大寄せの茶会などで、懐石を簡略化した料理や弁当をいう。本来は、定められた食事と食事との間の一時の空腹をいやすための少量の食物のことという。禅家では、昼食の意に用いる。少食を空心(空き腹)に点ずる意とする。間食、軽食、転じて菓子の類も点心と呼ばれる。点心の語は、一般には宋の呉曾の『能改斎漫録』(1141)が初出とされ、宋の王楙の『野客叢書』に「以點心為小食。漫録謂、世俗例以早晨小食為點心、自唐已有此語。」と唐代からこの語があるとある。日本では仁治2年(1241)『正法眼藏』の「心不可得」に、『碧巖録』の「且買點心喫」を引いて、「徳山いはく、もちひをかふて點心にすべし」とあるのが初出とされる。また同書「看經」に「堂裡僧を一日に幾僧と請じて、斎前に點心をおこなふ。あるいは麺一椀、羹一杯を毎僧に行ず。あるいは饅頭六七箇、羹一分、毎僧に行ずるなり。饅頭これも椀にもれり。はしをそへたり、かひをそへず。」とある。室町中期頃の国語辞典『節用集』に「點心(テンジン) 自須達長者始也。」とあり、『庭訓徃來』に「但時點心之作法僧物布施次第無故実候調菜之仁古老之行者等中器用之仁定令存知候歟委細可示給候也」、『庭訓往来註』に「但時点心の作法 須達長者、時(齋)を釈尊に進め、非時を留むることは伽留陀、夕べに鉢を開くに、匹夫の家に至るに、夫は居ざるなり。婦、斗居す、子細を知らず彼の家に入る人、悪みて伽留陀を打擲す。或る夕方に途中に女に會す。彼の女伽留陀を畏る。此の時より非時を禁ずるなり。点心も此の時より始まり佛を請じて餅を進め、伽留陀彼を三ツ受くるなり。」とある。『運歩色葉集』(1548)には「點心(テンシン)」、『籠耳草子』(貞享)に「侍は中食と云ひ、町人は晝食、寺方は點心と云ふ」とあるという。

天王寺屋会記(てんのうじや かいき)
堺の豪商天王寺屋の茶会記。津田宗達(1504〜1566)、子の津田宗及(〜1591)、孫の津田宗凡の3代の茶湯日記(他会記・自会記)の総称。宗達は天文17年(1548)から永禄9年(1566)の『宗達茶湯日記 自会記』『宗達茶湯日記 他会記』。宗及は永禄8年(1565)から天正15年(1587)の『宗及茶湯日記 他会記』、永禄9年(1565)から天正15年(1587)の『宗及茶湯日記 自会記』(他に道具拝見記)、宗凡は天正18年(1590)の『宗凡茶湯日記 他会記』・元和元年(1615)・元和2年(1616)の覚書。津田家は信長、秀吉らと懇意だったこともあり、同政権の茶の湯(特に道具類)に関する記録に詳しく、また関係した諸事件についても明確に記してあり、自会記・他会記がそろっている事など史料的価値が高い。

天命釜(てんみょうがま)

重要文化財
天命極楽律寺尾垂釜
下野国佐野庄天命(栃木県佐野市犬伏町)で作られた茶湯釜の総称。天明、天猫とも書く。鎌倉時代には鋳造が行われていたと考えられており、最古の遺品として「極楽律寺総維坊」「文和元壬辰臘月日(1352)」の銘文のある尾垂(おだれ)釜がある。室町時代以後、筑前芦屋釜と並び称された。作風は大体が厚作で雑器の名残をとどめ、多くは丸形で無地文が多く、鐶付は遠山、鬼面、獅子が多い。芦屋の釜肌が滑らかでいわゆる鯰肌で地紋に重点を置いたのとは対照的に、天命の釜肌は、粒子の粗い川砂を鋳型に打ち重ねた「荒膚」「小荒膚」、手や筆、刷毛で鋳物土を鋳型に直接弾くように付けた「弾膚(はじきはだ)」、型挽きのときあえて挽き目を誇張した「挽膚(ひきはだ)」などの荒々しい肌で、その素朴で侘びた趣が好まれた。桃山時代以前の作を古天命という。小田原でも天命風の釜が作られ古くから天猫と呼ばれたが、天命よりは時代が下り、作風も雑器風のものが多い。

天目(てんもく)
「油滴天目」
中国宋代、浙江省天目山の禅院で使用されていた、福建省建陽県水吉鎮の建窯(けんよう)などで作られた鉄質黒釉の茶碗。鎌倉時代、天目山にある禅刹へ日本から多くの僧が留学し、帰国に際して寺で使われていた建盞を日本に持ち帰り、天目山の茶碗ということで天目茶碗と呼びならわしたことが「天目」という名称のおこりとされる。 特徴は盞形(さんなり)あるいは天目形と呼ばれる形にあり、口が開き底が締まったすり鉢型で、口縁で碗側が一度内に絞ってあり、スッポンの頭の形をしているので鼈口(すっぽんくち)といい、 高台は低く小さい。逆円錐状で高台が小さいため専用の台(天目台あるいは貴人台と呼ばれる)に載せて使う。陶土は鉄分を多く含み、高台を除く全面に艶のある黒釉が厚く掛かっている。この釉面の変化によって多くの種類に分けられ、釉面に大小の結晶が浮かびその回りに虹彩を持つ「曜変(ようへん)天目」、釉面に散る斑文群が水に油の滴が浮いているように見える「油滴(ゆてき)天目」、糸のように細い縦縞の線が(稲穂のように)浮き出た「禾目(のぎめ)天目」などの名をつけられ、のちには西安省吉安の永和鎮の吉州窯で焼かれた「玳玻盞(たいひさん)」はじめ他窯の茶碗にも使われるようになる。 「玳玻盞天目」は「吉安(きちあん)天目」、「吉州(きっしゅう)天目」とも呼ばれ、素地は灰黄色で黒釉に藁灰釉を二重かけし鼈甲(べっこう)状に見えるので「鼈甲盞」「鼈甲天目」などとも呼ばれる。内側に文様型紙を貼って文様をつけたものがあり、文様の種類によって「梅花天目」「龍天目」「文字天目」、型紙の代わりに木の葉を置いて焼いた「木の葉天目」などがある。 ただ、『君台観左右帳記』には、「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」「茶碗」などに区別されており、「曜変。建盞の内の無上也。天下におほからぬ物なり。萬匹のものにてそろ。」、「建盞。ゆてきの次也。これも上々はゆてきにもをとるへからす。三千匹。」、「天目。御物などは一向御座無物也。大名にも外様番所などにもをかるヽ。薬建盞に似たるをば灰かづきと申。上の代五百匹。」(群書類従本)とあり、天目は価値の低いものとされている。『山上宗二記』には、「天目。紹鴎所持一つ。天下三つの内、二つ関白様に在り。引拙の天目、堺油屋に在り。いずれも灰かつぎ也。」、「建盞の内、曜変、油滴、別盞、玳皮盞、此の六種、皆建盞也。代物かろきもの也。」とあり、両書とも天目と他の茶碗について別物との認識ある。しかし、その評価については16世紀の初めと終わりの80年ほどの間に評価が逆転していることが分かる。『山上宗二記』に「惣じて茶碗は、唐茶碗すたり、当世は、高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼の茶碗迄也。」とあるように、侘茶が隆盛して、端正で光り輝く建盞よりも、灰を被ったような翳のある灰かつぎなどの天目に趣を見出し唐物茶碗のうちただ一つ侘び茶にかなうものとして取り上げられ、やがて天目の名が他の黒い唐物茶碗をもさすようになっていったと思われる。 「建盞(けんさん)」(盞とは碗や杯のこと)。

天目台(てんもくだい)
天目茶碗を載せる台。茶碗の載る部分を酸漿(ほおずき)、それを受ける幅の広い皿上の部分を羽、へり、下部を土居、または高台という。鎌倉時代、天目山にある禅刹へ日本から多くの僧が留学し、帰国に際して天目茶碗とともに招来されたという。黒塗、堆朱、倶利、存星、青貝入、蒟醤などがある。天目台の種類には、尼崎台、七つ台、貝の台、輪花台などがある。のちには貴人に茶を供する時に使う木地の台も天目台と称するようになる。これを特に貴人台という。

天龍寺青磁(てんりゅじせいじ)
中国の青磁の一種。元代(1271〜1368)から明代(1368〜1644)初期にかけて龍泉窯で作られた青磁で、釉色が黄味のある沈んだ青緑色のものを呼ぶ。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。元代になると器は総体に大きくなり、劃花や印花、透かし彫り、鉄絵具を上からさす飛青磁(とびせいじ)といった様々な装飾を施したものが登場し、大量生産が行われ、精良な原料の不足から釉色が退化したとされる。天竜寺の名の由来は、南北朝時代、天龍寺造営を名目とする貿易船・天龍寺船によってもたらされたからとも、夢窓国師が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹の香炉からともいわれる。

  
  
  
  
  
 

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