茶道用語

風通(ふうつう)
表と裏と二重織りの絹物で、表と裏にそれぞれ異なる色糸を用い、紋様に従い表裏を反対に入れ替えて織ったもの。表も裏も同じ柄に織りあがって模様の色が表裏逆になる。表裏の間に、袋状のすき間ができることから風通の名があるという。

帛紗(ふくさ)
茶の湯で、点前の際に茶器を拭いたり、拝見の折に器物の下に敷いたりする方形の布。服紗、袱紗などとも書く。袱紗物(ふくさもの)とも。大きさは8寸8分×9寸3分(曲尺)が利休形とされる。仕立て方は三方縫いで縫い目のない折りめの一辺をわさという。使い帛紗と出し帛紗があり、使い帛紗は、点前のときに、茶器や茶杓を拭き清め、の蓋などの熱いものを取り扱う時に使い、用いる裂地は主に塩瀬(畝のある羽二重)で、男は紫色、女は朱色、老人は黄を基本とし、染柄も趣向で用いられる。出し帛紗は濃茶のとき茶碗に添えて出す帛紗で、用いられる裂地は名物裂など。大きさは同じ。小帛紗は武者小路千家では使わないが、裏千家では出し帛紗には主に古帛紗(寸法が5寸2分×5寸で出帛紗より小さい)を使うという。『逢源斎書』に「ふくさきぬの事、休、被成候も、ちいさく角をこし二つけ申候、小田原陣二休御越之時、そうおん、ふくさきぬ大キぬい候て、薬つゝミニと御申候て被進候、休、御らん候て、此かつかう一段よく候、これよりも此様二ふくさきぬハいたし候へと御申候、ふくさ物と申事あしく候、ふくさきぬよく候 大キサ十七め、十九め尤二候」とあり、『不白斎聞書』に「寸法は畳の目十九ト貮拾壹目也、此寸法は利休妻宗音より、利休戦場江御供之時、服紗に薬を包被贈、此ふくさ寸法能候、今日より是を可用とて、此寸法に極候也」とあり、帛紗の寸法は、千利休の妻・宗恩の作意によるものとされている。木津松斎の一啜斎の聞書に「一 色は紅・黄・紫三色なり。近年一啜斎にて、栗かわ茶出来申候。紅は十五歳巳下と、古稀以上の人用ゆるなり。寸法ハ九寸五分ニ八寸五分なり。是ハ真伯時代ニ、三家共申合、此寸法ニ極め、其時より一文字屋三右衛門方ニ而申付る。則ふくさ上つつみの紙の書付ハ、如心斎筆跡なり。右寸法相極候より前ハ、少し大きく而、とくときまりし事も無之由に御座候。濃茶之節、茶碗江ふくさを添而出し候事ハ、茶碗あつき斗ニあらず。本焼の茶碗をおもんじての事なり。依而楽茶碗ハ草なるもの故に、ふくさハ添不申候。楽ハわびもの故、草なり。」(起風2008-1)とあり、三千家申合せで寸法を定めたことがあるという。武者小路千家では現在は畳目20目×19目。『茶湯古事談』に「南浦和尚、嘉元三年の秋後伏見院へ召れ参内有しに、奏答御旨にかなひ叡慮殊にうるはしかりし、此時和尚茶を献せられしに、召上られし余りを其儘和尚へ給りしかは、和尚懐中より幅紗を出して、御茶盌をうけのせて頂戴有し、是茶に幅紗を用るはしめならんとなん。ふくさを製するは洛陽塩瀬か製を極品とす、彼か先祖は宋朝の者にて、林浄因と云、かの林和請か末裔と称す、建仁寺第二世龍山禅師、至正二年日本へかへられし時にしたかひ来りて、塩瀬を商号とし南都に住し、後京都へ移り烏丸に住す、但し浄因日本にて子を設け、是を置て、其身は帰朝せしともいへり」とある。

富士形釜(ふじがたがま)
茶湯釜の一。口が小さく、肩から胴にかけて裾が広がり富士山に似た形の。大西浄雪の 『名物釜記』に姥口で撮み鐶付芦屋釜が記載されている。天正(1573〜1591)から慶長(1596〜1615)にかけて筑前芦屋や博多芦屋で鋳造されており、霰や霙が施されているものが多く、龍目・雁・兎などの地紋のものもある。鐶付は兎・茄子・鉦鼓など和様のものが多い。天命釜では、室町末期の作に、鬼面の鐶付をつけた富士形釜がある。京釜では桜川地紋を鋳出した道仁の作、牡丹紋をあらわした五郎左衛門の作などがある。記録としては『天王寺屋会記』天正19年(1591)2月21日田嶋勘解由左衛門会に「一 ふじなり釜」とあるのが最も古いものという。

藤田喬平(ふじた きょうへい)
ガラス工芸家。大正10年(1921)〜平成16年(2004)。我が国のガラス工芸美術の先駆者。現在の東京都新宿区百人町に生まれる。東京美術学校工芸科彫金部卒業。昭和21年(1946)第1回 日展入選 彫金作品「波」。昭和22年(1947)岩田硝子工芸に入社。昭和24年(1949)岩田硝子工芸を退社しガラス作家として独立。昭和51年(1976)日本ガラス工芸協会会長就任。昭和52年(1977)よりヴェネチア・ムラノ島にてガラス製作を始める(以後毎年継続)。平成元年(1989)恩賜賞・日本芸術院賞受賞。日本芸術院会員。平成9年(1997)文化功労者。紺綬褒章受賞。平成10年(1998)G.A.S(グラス・アート・ソサエティー)よりライフタイム・アチーブメント・アワードを受賞。平成14年(2002)文化勲章・文化功労者受章。

不時の茶事(ふじのちゃじ)
案内をして、あらかじめ決められた茶事ではなく、不意に来訪した客をもてなす茶事。臨時の茶事。定方がなく、亭主の働きの見せどころの多い茶事。『南方録』に「朝昼夜三時の外を不時と云、朝飯後にても門前を通掛に云入て、一服と所望の事あり、是急接也、露地は手水鉢の水改むるまでにて、早く案内をすべし、中立前露地内外雪隠等、水たふたふと打べし、床台目共に薄茶の棗抔、棚にありの儘にて呼入、炭加へて濡釜に改、あぶり昆布水栗の類茶請に出し、引合たる濃茶あらば濃茶にすべし、さなくば薄茶を真にはたらきてよし、炭の時棚の棗茶は取入べし、後座掛物巻て客へ花所望すべし、又は初座花ならば取入て、秘蔵掛物抔外題をかざりてもよし、ケ様の事時宜に寄べし、必と云にはあらず、急接の時、にしめの類茶請に出す事ひが事也、我食事の残の様にて悪し、利休壮年、奈良住人宗泉と云者、不図不時に一服所望しけるに、煮染の茶請出され、後悔のよし、度々門弟子に語られしとかや、又は前日前々日にても、朝飯後何時比御茶被下候へと申入、又は主よりも不時に一服と約諾したるは、露地数奇屋のもうけ常の会同前也、少宛の心持は、主の作用分に寄べし、勿論煮染の類、又は吸物にて一献、何にても茶菓子心次第也、不時の会いかにも秘蔵の道具抔、一色も二色も出し、所作真にすべし、心は草がよし」、『三斎伝』に「不時の客来候はヾ先如何様の体にても不苦、露地の水打にも不構、客の迎に出るが吉、但手水は入させて出べし、客手水遣ふ故也、釜を掛置不申ば火を持出、炭を置、釜を掛申中に、露地に水打たせ、花抔客に所望致べし、花被入候はヾ其中に身拵して罷出花可見、客は不入も能、主客時の様子に依べし、不時は亭主の所作多ければ、余り時宜に不及、花を入るも、亭主方の仕能き物なり、其中に湯沸候はば、先薄く可参哉と尋望みの由に候はヾ薄く点べし、其間に懐石にても茶菓子にても急き出すべし、尤俄に出来不申ものは、仮令有合候共不可出、茶抔も座敷へ聞え候所にて曳きたるが能、前の火弱く成候はヾ中立前又炭置べし、火加減能は中立させべし、座敷に釜掛ある時、不時の客来候はヾ、客座敷へ入られ、則炭斗持出し炭置、釜を勝手へ持入、湯を明て水を替釜を掛る仕方有、是も客亭主に依事なり」、『和泉草』に「朝昼晩三度の会に似ぬ様に、諸事仕成事肝要也、料理置合等の上も其心得有べし、茶道前勿論なり」、『茶譜』に「利休流不時の茶湯と云は、兼て約束無之茶を呑に尋行を云也、其行く時刻、或は朝の七つ半時に行て、茶を呑未明に帰り、又は朝飯後に行て吉、飯後は常の飯過て菓子を出す程の時刻を考、座敷に入程に行て吉、或は又晩の七つ過時分に行も吉。不時に茶を呑みに他所へ尋ね行共、右の時刻の外は無用、朝飯後は六つ半より五つ迄の間也、夕飯後は晩の八つ前より八つ過迄の間也、何方にても、其時分は飯後なるべし、又晩の七つ過に尋行は、夜分の心也、灯を見て帰る程なる吉、利休流は晩の七つ半より、石灯籠に灯を灯す事習也、依之七つ半よりは夜の茶湯也、亭主も其時刻々々を考へて、常の路地も座中も其心得して嗜むもの也、之れを不知者は、我が機嫌次第何時の差別無之尋行事不案内故の誤也」とある。

富士見西行(ふじみさいぎょう)
西行法師が富士山を仰ぎ見る図柄。巨大な富士山が描かれ、富士山を仰ぎ見る西行を豆粒のように描いた図柄で、西行を墨染の衣に笈を負い笠を阿弥陀にした後姿で表したもの。その成立過程は必ずしもはっきりしていないが、西行の遊行伝説と『新古今集』の「風になびく富士のけふりの空にきえて行ゑもしらぬわかおもひかな」の歌からという。文人画や浮世絵で好まれ、刀の鍔や、包丁のハガネの紋にも用いられている。西行(さいぎょう:1118〜1190)は、平安時代末から鎌倉時代初頭の歌人。鎮守府将軍藤原秀郷(俵藤太)の 9代目の子孫で、曾祖父の代から佐藤氏と称した。父は左衛門尉康清、母は監物源清経の娘。俗名を佐藤義清(のりきよ)憲清・則清・範清とも。出家して円位、また西行、大本房、大宝房、大法房と称した。鳥羽院に北面の武士として仕えたが、23歳で出家。草庵に住み、諸国を行脚して歌を詠んだ。家集に『山家集』。『新古今集』には94首が載っている。

蓋置(ふたおき)
の蓋をのせたり、柄杓の「合(ごう)」をのせる道具。金属、陶磁器類、木、竹などがある。竹の蓋置は風炉の別があり、陶磁器の蓋置は風炉とも使う。ただし、絵柄がある物はその時期に合ったつかい方をする。種類は数多くあり、中でも有名なものとして千利休が選んだとされる7種類の「火舎」「五徳」「三葉」「一閑人」「栄螺」「三人形」「」の蓋置がある。「七種蓋置」といい特別な扱いがある。棚を使った場合、蓋置は点前の終わりに柄杓と共に棚の上に飾られるが、竹製のものは特別の物以外は飾らない。竹の蓋置は引切(ひききり)ともいい、運び点前または小間用で、普通は青竹で、逆竹(さかたけ)を用い、風炉用は「天節(てんぶし)」といい上端に節があり、用は「中節(なかぶし)」といい節が真中よりすこし上にある。『山上宗二記』に、「釣瓶・面桶・竹蓋置、此の三色、紹鴎好み出されたり」、『貞要集』に「竹輪は紹鴎作にて、茶屋に置合申候を、利休小座鋪に用来り申候。」、『茶道筌蹄』に「紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、中節と上節とを製して、道安と少庵両人へ贈らる。上に節あるを少庵に送り、中に節あるを道安取られしなり、是よりして席に用ひ来る。炉には中節、風炉には上節と定む。」とあり、武野紹鴎が1寸3分に切って水屋に使っていたものを、利休が1寸8分に改めて茶席に使用したという。

縁高(ふちだか)
菓子器の一。縁高折敷の略。縁高重ともいう。菓子椀に代わる正式な主菓子器。利休形と呼ばれる真塗縁高が基本とされ、通常五つ重ねにして総蓋が添うもの。一重に一つずつ菓子を入れ客数だけ重ね、一番上に蓋をし黒文字を載せてすすめる。昔は料理の一部として、現代の会席料理の口取にあたるようなものや果実を、菓子として縁高に盛った。江戸中期の百科事典『類聚名物考』に「縁高折敷 ふちだかのおしき 今俗には縁高とのみいふ。古は折敷に縁高と、さもなきつねの物有りし故、わかちていひしなり」、伊勢貞丈(1717〜1784)の『貞丈雑記』に「ふち高は、ふち高の折敷と云物也。折敷のふちを高くすえたる物也。菓子などをもる為に、ふちを高くする也。大きさ五寸四方計。ふち高さ一寸五分ばかり、角切角(すみきりかく)也。廻りに桂を入る也。」、『嬉遊笑覧』に「按るに今縁高といふものは、足付の折敷(木具とも八寸ともいふなり)の縁の高きものなり。折敷に足付たるは縁高といふへからず。縁高きは物を盛るによければ、櫃のごとく用ひ、蓋をも作りたる也。膳に用ひざれば異ものヽ如くなれり。」とある。

船徳利(ふなどっくり)
船の中で使っても倒れないよう底が平たく広がっている徳利のこと。漁師が沖に出魚するときに酒を入れていったといわれる。
備前のそれが特に名高く、他に丹波等がある。

船橋 玄悦(ふなばし げんえつ)
対馬藩の茶頭。寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯「和館茶碗窯」に燔師(はんし)としておもむき、朝鮮陶工を指導して御本茶碗を焼いた。いわゆる「玄悦茶碗」は見込みの深い丈高の器形で、やや外開きで高めの高台の内側に、大きく釘彫りが渦巻き状にえぐられ、さらに高台から胴にかけてまでこの彫り筋がめぐり、土は粗めで、鹿の子の窯変がでているものが多く、ところどころに噛んでいる小石が景色となっている。

雪吹(ふぶき)
薄茶器の一。蓋の肩と身の裾の両方を面取りしたもの。『茶道筌蹄』に「大小共黒は利休形、タメは元伯、金のヒナタにて菊桐を甲に書たるは大小ともに原叟このみ、跡先分ちかたきゆへ雪吹と云ふ」とあり、真塗利休形、溜塗宗旦好みと云い、上下同じ形をしており天地の判別が付け難いところからの名で、文字まで後先を転じたものと云う。

振出(ふりだし)
菓子器の一。茶箱に仕組んで、金平糖や甘納豆など小粒の菓子を入れる小形の菓子器。振り出して用いることからその名がある。また寄付の汲出し盆に、香煎を入れて用意するのにも用いられる。陶磁器が多く、とりわけ染付物が好まれる。形は口細のラッキョウ形や瓢箪形などがあり、口の栓に菅の蓋が用いられる。右手で振出を取り、左手に持たせ、菅蓋を取り懐紙の右上に置き、容器を両手で回しながら中の菓子を出す。

古田織部(ふるた おりべ)
利休なきあと茶の湯名人として織部流の武家茶道を確立した安土・桃山時代から江戸時代前期にかけての茶人・大名。天文13年(1544)〜元和元年(1615)。通称は左介、景安、諱は重然(しげなり)、号は印斎、法名は金甫宗室。美濃国本巣郡の山口城主の弟・古田重定の子。永禄9年(1567)の織田信長の美濃平定のときに父重定とともに信長に従い、信長の死後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)秀吉が関白になると、織部も従五位下織部正に任ぜられ、山城国西岡城主として三万五千石を与えられ、織部と称す。茶湯を千利休に学んで利休七哲の一人とされ、『烈公間話』に「細川三斎利休ニ問テ曰、貴老五百八十年後被果候以後天下ノ茶湯指南誰ニテ可有、利休答テ曰、世倅道庵事ハタラキタル茶湯也、然トモ人柄悪シ、天下ノ指南成間敷、古田織部杯ニテモヤ可有ト申候由」とある。天正19年(1591)秀吉の勘気を受けて堺に下る利休を淀の渡しで細川忠興と二人だけで見送る。『古田家譜』に、利休の死後、秀吉が織部に「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、その旨を考へ茶法を改め定むべし」とあり、武家茶道を確立し、茶の湯名人として一家を成す。慶長3年(1598)秀吉が死ぬと家督を長男の山城守嗣子重広に譲り隠居したが、関ケ原合戦で徳川方に属し七千石加増され隠居料三千石を合わせて一万石となる。慶長15年(1610)二代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授し、「天下一の茶人」と称された。元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣方に内通したとの嫌疑をうけ自刃させられた。織部の弟子としては、小堀遠州、本阿弥光悦らがいる。織部が瀬戸で造らせた茶陶を織部焼という。

風炉(ふろ)
火を入れてを掛ける器物。風炉の語は『茶経』卷中四之器に「風爐:以銅、鐵鑄之、如古鼎形。」と見える。村田珠光が四畳半に初めてを切り、武野紹鴎千利休の点前を定めるまでは、茶の湯は四季を問わず風炉を用いていたが、現在では夏の風炉、冬のと使い分け、風炉は大体5月初旬、立夏(5月5日頃)前後から11月初旬、立冬(11月8日頃)前後まで、冬でものないところでは風炉を用いる。 鎌倉初期に南浦紹明(なんぽじょうみょう;1235〜1308)が、仏具である台子などと共に中国から持ち帰ったと伝えられる。風炉は、材質から「土風炉」「唐銅風炉」「鉄風炉」「板風炉」などがある。使用の別では、五徳を使わず直接風炉の肩に釜をかける「切掛(きりかけ)風炉」(切合風炉)、火鉢形で透木(うすき)を用いて釜をかける「透木風炉」、風炉の中に五徳を据えてに掛ける風炉に分かれる。また、風炉の各部により「火口」には木瓜(もつこう)・丸・三角・四角・菱・扇面・団扇・松皮菱・香炉・末広など、「鐶付(かんつき)」には鬼面・獅子面・竜・象・賽・はじき・遠山・松笠・法螺貝・兎・蝙蝠・蝶など、「足」には乳足・軸足・象足・鬼面足・獅子面足・蝶足・唐子足・丸足などがある。
風炉の種類によって灰型を使い分け、火口を引きしるための装飾と点前座のほうへ火気が発散しないように前土器(まえかわらけ)を用いる。また、台子長板、半板、 自在棚以外で風炉を据えるときは、必ず敷板の上に据える。『茶湯古事談』に「風炉は古より南都西の京より焼出せし也、紹鴎の比は、西の京の惣四郎とて上手あり、利休の時にも其子を又惣四郎と云て、是も上手也、秀吉公より天下一号の御朱印を下されしに、利休筆者にて代本銭一貫文と有しか、中比焼失て今はなし、されと今に子孫は相続して惣四郎と云、又利休時代に西の京に善五郎と云上手有、其子も又善五郎と云て、さのみ惣四郎におとらぬ上手也、此末今の京はのほり四条に住となん」とある。

風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)
点前のときに道具を置く道具畳の向こうに立てる二枚折りの屏風。ふつう「風炉先」と呼ぶ。四畳半以上の広間に用いられる。道具畳としてのけじめをつけ、部屋を引き締め、道具を引き立てる。風炉先は、室町時代に台子が使用されるようになった時から使われたという。利休形という高さ2尺4寸、横3尺5分、厚み五分、鳥の子白張り、蝋色縁付(ろいろふちつき)のものを基本とし、各流派や好みによって多種多様なものがある。風炉の季節には、腰張りのものや、腰板に透かしをいれたり葭(よし)を張ったものを使ったりもする。

文琳(ぶんりん)
丸形の茶入。林檎(りんご)の形に似ていることに由来する名称。文琳は林檎の雅称。中国唐の第三代皇帝高宗の時、李謹という者が見事なりんごを帝に献じたところ、帝は喜んで李謹を文琳郎の官に任命したという故事による。唐物茶入の代表的な形で、甑が低く、肩から胴へと張りだした美しい形状の小壷。古来、唐物 茶入の中で茄子と文琳はその最上位にあるといわれ、名物も多い。伝存する代表的なものに、珠光・本能寺・羽室・筑紫などがある。 『茶道秘録』に「文琳の茶入は、壷の作丸くして、口隘く捻返あり清香の如くにて、如何にも形美敷を文琳と云。又何れ共形の知れずして、口に捻返なく、口作を諸そぎ片そぎと云也。口の内外よりそぎたるもあり、又片方よりそぎたるもあり、昔より諸そぎを上とする也。兎角形の知れざる物をも文琳と云習す也。右の通文琳と云来るに二種あり、其内に捻返有て丸く形美しく乳なめらかなる是本意也。」

分類草人木(ぶんるいそうじんぼく)
利休時代の茶書。「永禄7年(1564)甲子季春初吉 真松斎春溪(しんしょうさいしゅんけい)」の奥書がある。名物茶器や目利のことについて解説した茶書。真松斎春溪は、武野紹鴎の門下で、堺春慶塗の祖ともいわれるが定かでない。題名の「分類」は内容が「客人類、掛物類、花瓶類、葉茶壷 附 茶、小壷類、台子長板・小板・屏風、風炉囲炉裏類、天目茶碗 附 茶立様・茶筅茶巾柄杓茶杓、香炉類、座席」に分類記述しているのにより、「草人木」は茶の字を艸、人、木に分けて析字として名づけたもの。

  
  
  
  
  
 

inserted by FC2 system