茶道用語

青海盆(せいかいぼん)
砂張南鐐唐銅等の丸い盆で、打ち出した鎚目が、半円形を同心円状に重ねた鱗状の青海波紋に似ているところからの名か。ササン朝ペルシアの銀皿にも見られるという。「青海波(せいかいは)」は、新井白石の正徳元年(1711)『楽考』に「唐の世青海舞あり、統秋云、此曲序四遍を輪台といひ、破七遍を青海波と云、按ずるに青海波は則青海破なるべし」、狛近真(1177〜1242)の天福元年(1233)『教訓抄』に「大唐楽云々、作者酒錐之云、つまびらかならず、古老伝云、輪台国名也、其国の人蒼海波の衣を著して舞たりしゆへに、やがて付其国名云々、青海波は龍宮の楽也、昔天竺に被舞儀。青波の浪上にうかむ、浪下に楽音あり、羅路波羅門之伝、漢の帝都見之伝舞曲云々」、「青海波 有甲、別装束、舞輪台不肩袒、青海波片肩袒」とあり、「青波海(せいがいは)」という舞楽で、昔天竺で波の上に浮かぶ舞と波の下に奏でられる竜宮の楽をバラモン僧正が漢に伝え、更にそれが舞曲に整えられたもので、舞人は青海波の模様のついた袍の片肩を脱いで袖の振りで波の寄せ返す様子を表すが、この演目の「青海波」が文様の名前となったという。

清巌(せいがん)
清巌宗渭(せいがんそうい;1588〜1661)。 安土桃山・江戸前期の臨済宗の僧。大徳寺第170世住持。近江(滋賀県)の人。姓は奥村、法諱宗渭、道号清巌、自笑子・嫉陋子と号す。9歳で玉甫紹jについて得度し、玉甫の寂後、兄弟子の賢谷宗良に参じて悟道し玉穂の法嗣となる。南宗寺塔頭徳泉庵・臨江庵、東海寺塔頭清光院、伊賀の龍王寺・妙華寺・玉龍寺、 豊後の円福寺、豊前の祥雲寺、肥後の泰雲寺を開創。京都の禅華庵・慈眼庵を中興。書は張即之の影響を強く受け、その墨跡は茶掛として珍重される。
千宗旦参禅の師で、宗旦が隠居するにあたって茶席を建て清巌和尚を招いた時、和尚は約束の時間に遅れたので、宗旦は「明日に来てください」と言いおいて外出した。遅れてきた清巌和尚は茶席の板張りに「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」と書きおいて帰ってしまう。帰宅した宗旦はこれを見て、清巌に「今日今日といひてその日をくらしぬる あすのいのちは兎にも角にも」という一首を献じて詫びたという。裏千家の茶室「今日庵」の名はこの一事によるもの。寛文元年(1661)寂、74歳。謚号は清浄方然禅師。

青磁(せいじ)
磁器の一種。釉薬の中に少量(2%前後)含まれる鉄分が、還元炎焼成されて酸化第一鉄となり青緑色に発色した磁器。鉄分が少ないと青白磁となり、さらに少なければ白磁となる。また釉薬中の鉄分が多いと黄色から褐色、さらに黒色となる。 古く中国の殷・周時代に始まり、戦国(BC403〜BC221)から前漢時代(BC206〜8)に一般に使用されるようになった灰釉陶が青磁の始源と考えられている。三国・六朝時代(220〜589)になると、古越磁(こえつじ)といわれる青磁が越州窯でつくられた。唐代(618〜907)になると、『書言字考節用集』に「青磁 唐越州所出之磁器、源氏所謂秘色是矣」とあるように、越窯の中心地域である上林湖(じょうりんこ)で「秘色」と呼ばれる青磁を生産し宮廷にも納められ、『源氏物語』にも見える「秘色」の語は、『河海抄』に「秘色は磁器也、越州よりたてまつる物也、その色翠青にして、殊にすぐれたり、仍是を秘蔵して、尋常に不要之、故号秘色云々」とあり、唐の陸亀蒙(りくきもう)が『秘色越器詩』の中で「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来」(九秋風露越窯開く、奪って得る千峰の翠色の来たるを)とある。江戸中期の百科事典『類聚名物考』に「青瓷 せいじ この瓷の青色なるを、古へことにもてあそびし事にて、秘色の盃などいひしはこの物也、今は音にせいじといへり、賞鑑家に七種の品ありて、時代をわかつ事也、七官、きぬた、天竜寺などの類なり、唐の時に、茶碗にもこの色をこのみしと見えて、茶経にも出せり」とあり、茶経に「若刑瓷類銀、越瓷類玉、刑不如越一也。若刑瓷類雪、則越瓷類冰、刑不如越二也。刑瓷白而茶色丹、越瓷青而茶色香A刑不如越三也。」(もし刑瓷を銀に類すなら、越瓷は玉に類す。刑の越に及ばざる一の理由なり。もし刑瓷を雪に類せば、越瓷は氷に類す。刑の及ばざる二なり。刑瓷は白にして茶の色は丹となり、越瓷は青にして茶の色は緑となる。刑の越にしかざる三なり。)とみえる。北宋(960〜1127)になると華北の汝窯や官憲でつくられたが、南宋(1127〜1279) になると修内司官窯・郊壇官憲や民窯では龍泉窯で優れた青磁がつくられた。日本ではその時代と色によって、南宋代の粉青色を呼ばれる鮮やかな青緑色の砧手(きぬたで)、元代(1271〜1368) から明代(1368〜1644) にかけてのやや黄色味を帶びた緑色の天龍寺手(てんりゅうじで)、明代後期の透明性のある淡い翠青色で貫入があるのが特徴とされる七官手(しちかんで)と呼び分けてきた。
高麗時代の初期になると朝鮮に伝えられ,いわゆる高麗青磁がつくられるようになった。10〜13世紀にはヴェトナムに,13世紀にはタイにも伝えられた。日本では江戸時代になってから青磁がつくられ,佐賀県有田の伊万里青磁・鍋島青磁などが有名である。

青漆(せいしつ)
青緑色の漆。石黄(黄色の顔料、硫化砒素)とベレンス(青色の顔料)と透漆を混合するか、黄漆と黒漆を混合して作る。

惺入(せいにゅう)
楽家13代。明治20年(1887)〜昭和19年(1944)57歳。12代弘入の長男。大正8年(1919)13代吉左衛門を襲名。硬さの残る謹厳な作風。織部志野備前唐津などを取り入れている。釉薬については各地の様々な鉱石を採取し釉約に使用すべく研究をかさねた。鉱石釉、蛇褐釉など独特のものがある。例年の干支、お題の茶碗などはこの人から作り始めた。印は、草書の楽字印。「一三代喜英」の角印。

席入(せきいり)
茶会のとき、客が茶席に入ること。またその作法。初座では、亭主の迎え付けのあと、蹲踞(つくばい)にて手を洗い口をすすいで、出入り口へ進み、手がかりが切ってある戸に手をかけ開け、扇子を前において軽く頭を下げ、席中をうかがい、、手前座の位置を見定め、にじって席に入り、草履の裏を合わせ、壁と沓脱石の間に立てかける。床前に進み掛物を拝見し、続いて茶道口近くの踏込み畳まで進んでから道具畳に進み、器物の飾附とと爐とを拝見して、正客は次客以下の席入の妨げとならない場所(仮座)に着く。次客は正客が仮座に着いたら、軽く一礼してにじり入り、草履を同様に扱ってから座して正客に一礼し、正客の通り拝見し、正客の下座へ順々に座る。詰(末客)は、先客がを拝見し立ち上がったときににじり入り、沓脱石の上の自分の草履の向きを置き変え、出入り口の戸を軽く音をたてて閉め、全員の席入りが終ったことを亭主に知らせる。詰がを拝見し立ち上がったころ、正客は仮座から本来の座に着き、次客以下同様にし、詰は拝見が終わったら本座に着く。客一同が席に着くと、亭主が茶道口を開け挨拶に出る。挨拶が終れば、正客より掛物等について尋ね、問答がある。その後、亭主は炭を直す旨を告げて引き下がり、茶道口を閉める。後座銅鑼の合図のあと同様に席入をする。

尺牘(せきとく)
漢文体の手紙のこと。尺は一尺、牘は文字を書いた方形の木札のことを指し、一尺ほどの木簡または竹簡に手紙を書いたことから手紙の意で使われるようになり、漢代には書簡一般を指すものとなっていた。手紙。書簡。文書。しゃくどく。せきどく。

膳所焼(ぜぜやき)
滋賀県大津市膳所の陶器。遠州七窯の一つ。通説では、元和7年(1621)膳所城主の菅沼織部定芳が御用窯として始めたといわれる。寛永11年(1634)菅沼定芳が丹波亀山藩へ移封され、石川忠総(1582〜1650)が下総国佐倉藩より7万石で入封、小堀遠州の弟子でもあり、遠州指導のもとに大江の地に窯を築き、茶壺や茶入水指などの茶陶のみを焼かせ、遠州七窯としての膳所焼はこの大江窯のこととされ、特に茶入に優れ中興名物の耳付「大江」茶入などがあり、茶入の名手として陶工太郎右衛門の名が記録にある。慶安4年(1651)忠総の嗣子石川憲之が襲封すると伊勢亀山藩に移封、本多俊次が入封、膳所窯は延宝年間(1673〜1681)まで焼成されたとされるが、『閑友記事』に「膳所焼、宗甫様ごろに候。焼き手は一人一代なり」、稲垣休叟(1770〜1819) の文化13年(1816)『茶道筌蹄 (さどうせんてい)』に「膳所、近江、遠州時代なり。いまは窯なし。遠州公の好みにて焼きしなり。宗旦時代よりも古し」、『工芸志料』に「寛永年間膳所の城主石川忠総、点茶の宗匠小堀政一の教示に随いて工人に命じて茶壷を造らしむ。其の質茶褐色にして黒釉を施す。或は高取焼丹波焼等に似たるあり。但し土質の重濃なると釉水の精製なるとを以って異なりとす。其の製する所の器は独り茶器に止まる。忠総卒して後窯廃す。」とあり、遠州好の茶陶は忠総一代だけという。また、御用窯による焼物が始まる以前にも既に桃山時代の末期より「勢多焼」と呼ばれたものがあり、『松屋会記』元和八年(1622)に瀬田焼の名がみえるのがこれとする。天明年間に小田原屋という商人が「梅林焼」と云う交趾風の陶器を初めたが間もなく中絶し、その後幕末にも「雀ヶ谷焼」が興ったが、明治維新とともに中絶した。大正8年(1919)膳所の人岩崎健三が膳所焼の廃窯を惜しみ、友人である日本画家、山元春挙とはかり、別邸の敷地内に登り窯を築いて再興、これを復興膳所焼といい現在は二代目岩崎新定が窯を引き継いでいる。いまではこれら含む諸窯の総称として膳所焼の名を使うようになっている。

瀬戸唐津(せとからつ)
唐津名物のひとつ。瀬戸の上釉を用いて焼成したために、また素地や釉薬が瀬戸に酷似している唐津であるためにこの名があるという。寛永頃と考えられているが詳細は不明。長石を主とした白色釉を施し亀甲形の釉ひびがある。本手瀬戸唐津といわれる深手の碗形茶碗もある。

瀬戸黒(せとぐろ)
美濃国で天正(1573〜1592)ごろに焼かれた黒無地の茶碗。筒形のものが多い。初め轆轤成形と削り出し高台で端整なものから、のち胴の箆削り、底部が平坦に削ぎ出され歪んだ低い高台になるなど作意が加わる。鉄釉が溶けている途中で窯内から引き出し、急冷させて釉薬中に含まれる鉄分を黒色化して漆黒色とするため「引出黒」の名もある。桃山時代の会記にある「クロヤキ茶碗」「クロ茶碗」との関係は不明で、瀬戸黒の名称が確定するのは、伝世品の箱書から宝暦年間(1751〜1764)頃と推定され、文献としては『陶器考』附録に「瀬戸黒織部黒と云来る二品を尾州にては引出し黒といふ。焼かけんをみて取出す故なり。やきすきる時は赤き色に変する故なり」とあるのが初出という。また「天正黒」という呼称は大正末期ないし昭和初期からの呼び名という。

瀬戸焼(せとやき)
愛知県瀬戸市並びにその周辺で作られる陶磁器の総称。六古窯(ろっこよう)の一つで成立は古く平安中期の灰釉陶器にまで遡る。鎌倉時代の初めから室町時代の中頃瀬戸窯では、中国や朝鮮から輸入された陶磁器を模倣し、釉薬を器面全体に施したやきものが製作され、この日本の中世唯一の施釉陶器を「古瀬戸」と呼ぶ。加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)が貞応2年(1223)に僧道元(どうげん)に従って入宋し、陶法を修業して帰国し、仁治3年(1242)瀬戸において窯を築いたのが瀬戸焼の始まりとする陶祖藤四郎(とうそとうしろう)伝説が古くから伝えられる。
灰釉のみが使用された前期(12世紀末〜13世紀後葉)、鉄釉が開発され印花(いんか)・画花(かっか)・貼花(ちょうか)など文様の最盛期である中期(13世紀末〜14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉〜15世紀後葉)の三時期の区分がされている。戦国時代になると、大窯により天目茶碗、中国明代の青磁染付を模倣した供膳具が生産される。
桃山期になると美濃地方を含めた地域で「黄瀬戸」「瀬戸黒(せとぐろ)」「志野(しの)」、さらに17世紀初頭には連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)の導入とともに「織部(おりべ)」といった桃山茶陶(ちゃとう)の生産が全盛期を迎える。
江戸時代中期になると名工達による一品物の制作が盛んに行われ、瀬戸村の春琳(しゅんりん)・春暁(しゅんぎょう)・春宇(しゅんう)・春丹(しゅんたん)・善治(ぜんじ)、赤津村(あかづむら)では春岱(しゅんたい)・寿斎(じゅさい)・春悦(しゅんえつ)、下品野村では定蔵(ていぞう)・品吉(しなきち)・春花(しゅんか)らの名工が幕末期にかけて活躍する。
江戸後期になって、文化4年(1807)加藤民吉(かとうたみきち)により有田から染付磁器の製法が伝えられてからは、染付磁器が主流となる。現在、加藤民吉は瀬戸の磁祖(じそ)として窯神神社(かまがみじんじゃ)に祀られ9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されている。

千家十職(せんけじゅっしょく)
千家の家元宗匠の好みや工夫で、諸道具を調製する十人の職方。これらの職方を「職家」とよびならわす。 大正4年(1915)松阪屋百貨店で展示会がおこなわれたとき、はじめて「千家十職」の呼称が用いられ、以来、職家の通称となった。
塗師:中村宗哲、表具師:奥村吉兵衛、焼物師:永楽善五郎、金物師:中川浄益、釜師:大西清右衛門、竹細工・柄杓師:黒田正玄、袋師:土田友湖、茶碗師:楽吉左衛門、一閑張細工師:飛来一閑、指物師:駒沢利斎

千 少庵(せん しょうあん)
安土桃山時代の茶人。天文15年(1546)〜慶長19年(1614)。利休の後妻となった宗恩(しゅうおん)実名おりき(〜1600)の連れ子。宗旦の父。幼名を猪之助、後に吉兵衛、四郎左衛門と称し、始め宗淳、後に少庵と号す。父は宮王三郎三入という鼓打といわれる。天正6年(1578)母宗恩が利休の後妻となったのを機に利休の養子となる。天正19年(1591)利休切腹のおりには、『千利休由緒書』に「利休御成敗已後、嫡子道安ハ飛騨へ立除、金森中務法印ヲ頼、かくれ罷有候。二男少庵ハ蒲生氏郷へ御あづけ、奥州へ流罪ニて候。」とあるように、会津の蒲生氏郷の許に預けられたとされ、会津若松には少庵が氏郷のために建てた「麟閣」という三畳台目の茶室が残る。利休切腹から3年後の文禄3年(1594)には、蒲生氏郷、徳川家康らの取り成しで豊臣秀吉の勘気もとけ「少庵召出状」により京に戻ることを許され、本法寺前に地所を与えられ、大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移す。『千利休由緒書』には「小庵ハ、旧宅本誓願寺下町、葭屋町の宅ハ、公儀へ被召上候。帰洛ノ時ニ、旧宅ヲ払ヒ、本法寺前ニ宅ヲ引テ、構ヘ罷有候。旧宅ヲこぼち取リ、此方へ建申候故、屋敷ハかわり申候へ共、家宅ハ秀吉公家康公御成ノ座敷ニテ御座候。」とある。その後、宗旦に家督を譲り、家康から新知五百石で迎えられるが、これを辞退したといい、西山の西芳寺に「湘南亭」を建てて隠居。慶長19年(1614)9月7日、69歳で亡くなる。

千 澄子(せん すみこ)
大正9年(1920)〜平成16年(2004)。武者小路千家 第14世家元 不徹斎宗守宗匠のご母堂。大正9年10月愈好斎宗守の長女として出生、昭和16年有隣斎宗守と結婚、茶道の普及に尽力され、昭和26年に、千クッキングスクールを開設し、茶懐石料理に一早く取り組み懐石料理研究家として活躍、また、アメリカ、スイス、オランダ等で国際親善を図るなど日本文化高揚に貢献され平成10年11月文化庁長官表彰を受賞。「日本料理」「家庭でつくる懐石料理」「京のたべごろ」「千澄子の京懐石」「やさしい懐石料理 風炉編」「やさしい懐石料理(炉編)」「千澄子の懐石」「京のお番菜」など著書多数。

千 宗旦(せん そうたん)
天正6年〜万治元年(1578〜1658)江戸前期の茶人。千利休の孫。利休の後妻の連れ子千少庵の子(利休の実子千道安の子という説もある)。宗旦流の祖。幼名を修理(すり)といい10歳の頃から大徳寺三玄院に喝食(かっしき;見習いの僧)として、春屋宗園のもとで修業していたが、天正19年(1591) 14才の時、祖父利休の死にあい、文禄三年(1594)頃父少庵が京都に帰り家を再興すると、宗旦も家に戻り,利休道具も千家に戻る。慶長5年(1600)頃、少庵が隠居し家督を継ぎ、慶長6年(1601)春屋宗園より「元叔」の号を授けられる。宗旦は、先妻との間に長男の閑翁宗拙(1592〜1652)、次男の一翁宗守(1593〜1675)、後妻との間に三男の江岑宗左(1613〜1672)、娘くれ(久田宗全の母)、四男の仙叟宗室(1622〜1697)をもうける。 宗旦は市井の茶匠として、仕官の誘いには応ぜず、侘び茶の宗家としての生涯を送った。ただ、経済的には不如意だったようで「乞食宗旦」と呼ばれた。 しかし、自身では仕官することを拒んだ宗旦は、子供たちの仕官のためには奔走し、寛永19年(1642)、三男の江岑宗左が、紀州徳川家に茶堂として召し抱えられると、正保3年(1646)、家督を江岑宗左に譲り、その屋敷の北裏に別に隠居屋敷と今日庵を建て、四男の玄室を連れて移る。次男宗守が武者小路千家、三男宗左が表千家、四男宗室が裏千家を興こした。

千 道安(せんどうあん)
安土桃山・江戸前期の茶人。千利休の長男。道安(1546〜1607)は、利休の先妻 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ;〜1577)との子として生まれ、初めは紹安(じょうあん)と称し、のち道安と改め、不休斎(ふきゅうさい)、眠翁(みんおう)と号す。道安が記録に現れるのは永禄9年(1566)12月8日の津田宗及会を初見とする。『山上宗二記』には、「関白様へ 召し置かるる当代の茶の湯者 田中宗易(千利休) 今井宗久 津田宗及 山上宗二 重宗甫 住吉屋宗無 万代屋宗安 田中紹安(千道安)」とあり、天正12年(1584)頃には利休とともに豊臣秀吉の御茶頭八人衆の一人となる。また、同書に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、休(利休)のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、安(道安)、金にして柄を付けたり。休(利休)、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、利休も道安の創意を認め、「秀吉公、宗易(利休)へ、大仏の内陣をかこいて茶の湯すべき者は誰ぞ、と御尋ねありしに、易(宗易)、しばらく思案して、道安が仕るべきよし、申し上ぐる。」とあり、利休が道安を高く評価していたことが窺える。『武辺咄聞書』に、「利休か嫡子 道庵は飛騨へ逃隠れ、鵙屋後家も行方なく成ぬ。少庵は京都に残候を、大政所殿御詫言 にて命御助け屋舗迄被下ける。」とあり、利休自刃後はひそかに堺を逃れて飛騨の金森長近の許に身を寄せたとされるが不明である。『茶話指月集』には、「権現様(徳川家康)・利家公(前田利家)、兼ねて宗易の事不便(不憫)がらせ給いて、よきおりとおぼし召し、少庵・道庵御免の御取成あそばされ下され、早速御ゆるし蒙り、その後、道庵を御前へめし、四畳半にて茶をたてさせ、上覧ありて、宗易が手前によく似たる、と御感に預かる。」とあり、文録年間(1592〜96)には赦されて再び秀吉の茶道となる。慶長3年(1598)に秀吉が没すると、名を道安と改め堺に戻り利休の家を継ぐ。慶長6年(1601)に細川家の茶頭として宇佐郡水崎村で知行三百石を与えられ、慶長12年(1607)62歳で豊前の地で亡くなる。茶席の道安囲でも知られる。

千 利休(せん りきゅう)
戦国・安土桃山時代の茶人。大永2年(1522)〜天正19年(1591)。名は與四郎、法名を宗易、抛筌斎と号す。居士号を利休。堺の納屋衆である魚屋(ととや)田中与兵衛の長男として生まれ、与四郎と称した。家名の「千」は足利義政・義尚に同朋として仕えた祖父の田中千阿弥(せんなみ)からとったとされる。幼少のころから茶湯を好み、はじめ北向道陳について東山流の茶を学び、つぎに道陳の紹介で武野紹鴎に学び、また堺南宗寺、大徳寺において大林笑嶺古溪の3和尚に参禅。初め織田信長に仕え、元亀元年(1570)4月2日49歳の時、信長の茶会において薄茶を点てたのが信長との交渉の初見。信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、秀吉には知行3千石を与えられ、さらに居士号を得た。秀吉が関白となってからは、天下一の茶湯者と評され、大名から僧侶・町人にいたるまで門下に加わった。政治や外交問題にも参画するなど隠然たる勢力を誇ったが、大徳寺山門上に寄進した金毛閣(きんもうかく)に自像を安置したことや、自作の茶道具を高価で売ったことなどを口実に、秀吉に処罰され、切腹した。利休の茶道は、子孫である千家によって代々受け継がれ、本流には表千家(不審庵)、裏千家(今日庵)、武者小路千家(官休庵)の三千家があり、傍系はすこぶる多い。

千利休由緒書(せんりきゅう ゆいしょがき)
承応2年(1653)、徳川家康の伝記編纂のために行われていた史料蒐集の一環として、紀州徳川家の儒臣李一陽(梅渓)・宇佐美彦四郎(佐助)の二人が、寛永19年(1642)に紀州徳川頼宣に召し出され茶頭であった千宗旦の三男、表千家江岑宗左に、利休のことを尋ねた聞書き。利休の先祖、利休と信長・秀吉の関係、切腹の原因などについて記されている。

千 和加子(せん わかこ)
武者小路千家家元 不徹斎宗守夫人。昭和23年(1948)23代田部長右衛門の四女として島根県に生まれる。日本女子大学文学部国文科卒業。昭和48年(1973)武者小路千家 第14世家元 不徹斎宗守宗匠と結婚。千茶道文化学院で千澄子夫人を補佐(懐石料理担当)。平成11年(1999)財団法人官休庵常任理事就任。和菓子、料理、着物に関する新聞、雑誌、書籍の執筆などで活躍中。

 
  
  
  
  
  
 

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