茶道用語

西行(さいぎょう)
院政期から鎌倉時代初期にかけての歌人。元永元年(1118)〜文治6年(1190)。俗名を佐藤義清(さとう のりきよ)。藤原秀郷(俵藤太)の流れをくむ父 左衛門尉 佐藤康清と母 源清経女の嫡子として生まれる。保延元年(1135)に兵衛尉に任ぜられ、同三年(1137)鳥羽院の北面の武士であった。その翌年23歳で妻子を残し出家して円位を名のり、のち西行とも称した。各地を漂泊、多くの和歌を残した。勅撰集では詞花集に初出。千載集に18首、新古今集に94首をはじめとして二十一代集に計265首が収められる。家集に『山家集』『山家心中集』『聞書集』がある。後鳥羽上皇の歌論書『後鳥羽院御口伝』に「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」とある。

菜籠(さいろう)
竹を編んでつくった籠炭斗の総称。元来は野菜などを入れるために作られた籠に、内張りや漆塗りを施し、炭斗に取りあげたもの。和物・唐物があり、四季を通じて用いる。扁平なものを平菜籠(ひらさいろう)、手のついたものを手菜籠(てさいろう)という。

坂倉新兵衛(さかくらしんべえ)
萩焼の深川窯窯元。萩焼の創始者 季勺光の孫、山村平四郎光俊が三之瀬焼物所惣都合〆となり大津郡深川村ふかわ三ノ瀬に明暦3年(1657)「三ノ瀬焼物所」を開設、これを深川焼あるいは三ノ瀬焼と呼ぶ。深川では御用窯ながら自家販売が認められ、元禄6年(1693)には庄屋の支配に変わり民窯としての性格が強くなる。六代藤左衛門の時に坂倉と改姓。十二代新兵衛は人間国宝。初代 李勺光、2代 山村新兵衛光政号正庵(〜1658)、3代 平四郎光俊 (〜1709)、4代 弥兵衛光信 (〜1724)、5代 源次郎光長 (〜1760)、6代 坂倉藤左衛門 (〜1770)、7代 五郎右衛門(〜1792)、8代 半平(〜1822)、9代 平助(〜1850)、10代 九郎右衛門(〜1857)、11代 新兵衛多吉(〜1897)、12代 新兵衛(1881〜1960)、13代 新兵衛光太郎(〜1945)、14代 新兵衛宗治(1916〜1975)、当代15代 新兵衛正治(1949〜)

酒津焼(さかづやき)
岡山県倉敷市で焼かれる陶器。明治2年(1869)倉敷新田の豪商であった岡本末吉(1833〜1908)が倉敷市鶴形山の麓に窯を築き阿知窯と名付けて趣味的な陶作をはじめたが、明治9年(1876)倉敷市酒津の兜山(酒津山)の土が陶土として良質であることを知り、この山の麓に窯を移した。これが当時、加武登焼、甲山焼ともよばれた酒津焼きはじまりで、当初は食器など日用雑器を焼き、明治後半から大正にかけて、末吉の長男の二代岡本喜蔵(1858〜1920)の時最盛期を迎え、岡山県から香川県高松の周辺まで出荷されていたという。しかし、大正末期から不況の波が押し寄せ、有田や瀬戸の安価な磁器に押され、経営は悪化の一途をたどった。しかし昭和7年から昭和12年にかけて、倉敷紡績の設立者で民芸運動の後援者でもあった大原孫三郎と交友のあった、柳宗悦、浜田庄司、河井寛次朗、バーナード・リーチ、富本憲吉など、民芸運動の指導者達が相次いで訪れ指導し、花器や茶器などの民芸陶器が主流となる。鉄分の多いざっくりとした陶土を用い、厚手の作りで、灰釉を主として、鉄釉、海鼠釉などの皿、徳利、茶器などを焼成している。

相良間道(さがらかんとう)
名物裂の一。相良間道と称する裂は二種類に大別され、一つは黄と紺の太縞に梅鉢紋を、赤と白の太縞には丸と菱紋または唐草紋を浮かせ、それぞれの太縞の間を白・青・黄などの組縞が十二、三本を一組として区切ったもの。もう一つは縹・浅葱・白・黄・赤などの大小縦縞の間に唐草文様のあるもので、唐草文様は経の浮糸により織り出された経浮織。『古今名物類聚』に「はしり井 袋二 一 表さから廣東 裏海黄 緒つかり紫」とあり中興名物「走井(はしりい)茶入」の仕覆として用いられている。『古今名物類聚』にみえるのは、縹・萌黄・黄・白の細縞の間に赤地に黄の唐草文。名称の由来は不詳だが、平将門追討に功のあった藤原為憲の後裔が遠江国榛原郡相良庄に住み相良を称し、源頼朝に肥後球磨郡人吉庄の地頭職に補任されて以来の名族で肥後人吉城主2万2千石の相良氏に由来するともいう。

砂金袋(さきんぶくろ)
首がくびれ、胴から尻部分にかけて下膨れになった形状の器物。砂金を入れる袋に見立てて呼んだもの。香合水指に見られ、花入建水などにもある。祥瑞砂金袋水指が著名。

佐久間将監(さくま しょうげん)
江戸前期の武人・茶人。元亀元年(1570)〜寛永19年(1642)佐久間河内守政実の長子。名は実勝・直勝。号は寸松庵。河内守、伊予守あるいは将監とも称された。初め秀吉の小姓を務め、後に徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた。慶長9年(1608)従五位下伊予守に叙任。 後に御使番に列せられ、寛永9年(1632)作事奉行となり、同10年(1633)に2000石を賜る。茶は古田織部に学んだといわれる。晩年は大徳寺龍光院内に寸松庵を建てて隠居所とした。堺・南宗寺より手に入れ寸松庵で愛蔵した紀貫之筆と伝えられる十二枚の色紙は寸松庵色紙と称され名高い。

栄螺蓋置(さざえ ふたおき)
七種蓋置の一。栄螺の形をした蓋置。栄螺貝の内部に金箔を押したものを使ったのが最初と言われる。のちにこれに似せて、唐銅や陶磁器でつくたものを用いるようになった。置きつけるときは口を上に向けて用い、飾るときは口を下に向けて飾る。『茶道筌蹄』に「栄螺 大は真鍮、千家にては用ひず、小は唐金、利休所持」とある。

差替(さしかえ)
建水の一。利休所持。楽焼で、一重口の筒形で捻貫建水大脇指と同形で小振りのもの。本歌長次郎作といわれ、底裏に宗旦の直書、内箱に直斎の「利休さし替水こほし長次郎造」の書付、外箱に碌々斎の書付がある。『茶道筌蹄』に「利休所持さしかへは捻貫也 加州公御所持」、『千家茶事不白斎聞書』に「水こぼし利休銘大脇指、黄瀬戸百会茶に出る名物也、楽焼に写」、『茶道望月集』に「楽焼に利休の大脇指とて、真録にツヽ立て、ひとへ口にて、ロクロメ有建水、長次郎に始て好にて器にして焼かせたると也、本歌は黒楽と也、小形成を小脇指とて用るは後世の事也、名は黒楽にてロクロメあれば、脇指の割さやに似たる故の名ぞと也」とある。

茶通箱(さつうばこ)
茶道具の一種。水屋の棚の上に置いておく桐の箱。予備の茶入などを入れる。もとは抹茶を持ち運ぶ通い箱。現在では二種の濃茶を客にもてなす時の点前に用いる箱。また、珍しい茶や、客から茶を貰った時に、亭主が用意の茶と客から到来の茶との二種類の濃茶を点てる点前をいい、棚を用いる。利休形茶通箱は、用材が桐で寸法は大小伝えられているが、いずれも薬籠蓋になっている。『源流茶話』に「茶通箱に大小の茶桶を取組、大津袋をかけ、両種だて致され候ハ利休作意にて候」とある。『南方録』に「人の方へ茶を贈る時、持参することもあり、先だつて持せつかはすこともあり。濃茶 うす茶両種も、また濃茶一種も、また濃茶ばかり二種も、それぞれの心持しだいなり。薄茶中次の類なり。箱は桐にて、蓋はさん打なり。緒は付けず、白き紙よりにて真中をくヽりて封をする。封の三刀と云こと、秘事なり。大小は茶入に依て違べし。」、稲垣休叟(1770〜1819)の『茶道筌蹄』に「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、『茶式花月集』に「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」とある。

薩摩焼(さつまやき)
薩摩藩領内で朝鮮陶工の焼いた陶磁器の総称。文禄・慶長の役(1592〜98)に出陣した島津義弘(しまづ よしひろ:1535〜1619)が朝鮮から連れ帰った陶工たちに開窯させたことに始まる。薩摩の鉄分の多い土と釉薬を使い茶褐色に焼きあがる日用雑器の「黒薩摩」(黒もん)と、朝鮮から携えた白土と釉薬を用いた「火計り(ひばかり)」(火だけが薩摩の意)に始まり、のち領内に発見された白土を用い藩主専用品であった「白薩摩」(白もん)の二系統がある。朝鮮陶工たちは、慶長3(1598)年に串木野島平、市木神之川、鹿児島前之浜に上陸したとされる。串木野上陸の朴平意(ぼくへいい)が慶長4年(1599)串木野で最初の窯を開き、慶長8年(1603)市来に移り苗代川窯を開き、黒もんを焼いたが寛永元年(1624)白土が発見されると白もんも焼く。神之川上陸の金海(星山仲次)は義弘の居地帖佐(ちょうさ)に召出され慶長6年(1601)宇都(うと)窯を築き、慶長12年に義弘の加治木移住に同行し御里窯を、義弘の死後18代を継いだ家久(忠恒:1576〜1638)に召出され鹿児島の竪野に冷水窯を開き、島津家の官窯となり、慶安元年(1648)有村碗右衛門が上洛し仁清の御室窯で錦手を学び、文政10年(1827)重久元阿彌が京都の仁阿彌道八のもとで赤絵の具の上に金彩を焼き付ける手法を習い色絵に金彩が加わった薩摩錦手が確立し、慶応3(1867)年のパリ万国博覧会において注目された。

茶道筌蹄(さどうせんてい)
江戸時代の茶書。文化13年(1816)稲垣休叟の著。弘化4年(1847)刊。五巻。巻一:和漢の茶の起源。茶会、点前、茶室、水屋道具、棚物、七亊、釜師など十八項。巻二:掛物、茶人、僧侶、大徳寺世代、和漢画家、連歌師など八項。巻三:細工師、好み物など二十一項。巻四:水指、茶入など十項。巻五:茶碗、茶杓など十一項。別に「後編聞書」として川上不白の「如心斎口授」に休叟が傍注をほどこした甲乙二巻を加え七巻とする。稲垣休叟(いながき きゅうそう)は、江戸後期の大坂の茶人。明和7年(1770)〜文政2年(1819)。号は竹浪庵・黙々齋等。表千家八世 卒啄斎の弟子。著書に『松風雑話』『茶祖的伝』等がある。

佐藤和子(さとう わこ)
美濃の陶芸家。昭和19年(1944)福島県いわき市に生まれる。昭和37年(1962)鎌倉小竹雅山に師事。昭和39年(1964)瀬戸窯業指導所入所。昭和40年(1965)岐阜県無形文化財 加藤十右衛門・加藤芳右衛門に師事。昭和43年(1968)尾張一宮に不二窯を築窯。昭和46年(1971)美濃柿野に不二窯を築窯。平成10年(1998)ダライラマに夢の字銀彩茶碗を献納。ローマ法王パウロ二世に黄瀬戸聖杯を献納。平成16年(2004)佐藤和子より皇游(こうゆう)和子と改める。

砂張(さはり)
金工で用いられる銅と錫の合金。佐波理。たたくと良い音がすることから響銅とも書く。金属鋳物の中でも最も高度な技術が必要であるとされる。語源は朝鮮半島にあるといわれ、「沙布羅(さふら)」という新羅語の転訛したもの、この合金で作られた碗形の食器「砂鉢(さばる)」 から出たという説などがあり、「佐波理」「紗波理」「砂張」等様々な字が当てられている。日本では奈良時代にこの合金の食器があり、正倉院宝庫に砂張製の水瓶・皿・匙など多数の僧具・食器がある。奈良時代の砂張は黄白色であり、現在は鉛白色である。安土桃山時代以後、茶の湯で花入水指建水などに用いられ、音色が良く余韻の長い砂張製の銅鑼は茶事などで使用されることが多い。。『嬉遊笑覧』には、「東雅に和名抄に唐韻を引て〓(金少)鑼銅器なり、〓(金少)鑼音与沙羅同、俗云沙布羅、今按、或説言新羅金椀、出新羅国、後人謂之雑羅者、新之訛也、正説未詳と注せり。さふらとはもとこれ新羅の方言なり、即〓(金少)鑼なり雑羅の儀にはあらず、即今も朝鮮より此器を出せり、俗にサハリといふはさふらの音の転じたる也といへり。」とある。

茶話指月集(さわしげつしゅう)
利休の孫である千宗旦(1578−1658)が、その高弟「宗旦四天王」の一人、藤村庸軒(ふじむらようけん;1613〜99)に伝えた逸話を、庸軒の門人で女婿の久須見疎安(くずみそあん;1636〜1728)が筆録、編集したもので、庸軒没後の元禄14年(1701)に板行された茶書。

左入(さにゅう)
楽家6代。貞享2年(1685)〜元文4年(1739)。大和屋嘉兵衛の子として生まれ、のち宗入の婿養子となる。宝永5年(1708)6代吉左衛門を襲名。亨保13年(1728)剃髪隠居して左入と号す。概して作りが丁寧で、口作りは変化が少なく、茶溜りは円に近く浅い。黒楽には宗入のカセ釉風のものがあり、赤樂では白い釉の混じったものや貫入のある釉などがある。長次郎道入、光悦などの写しものにも優れる。表千家七代如心斎銘の左入二百の茶碗が有名。印は、輪郭いっぱいに楽字が書かれている。

更紗(さらさ)
文様染めの布地のこと。通常は木綿布に手描き、木版染、銅版染、蝋防染などで模様を染めつけたものだが絹やその他の布のものもある。砂室染、暹羅染、沙羅染、沙羅陀、更多、佐羅佐、華布などの字が当てられる。起源はインドにあるといわれ、更紗の語はポルトガル語で木綿布を意味する「saraca」に由来するという。南蛮船により印度(インド)、波斯(ペルシア)、暹羅(シャム)、爪哇(ジャワ)などから舶載された。印度更紗には手の込んだ上等なものが多く「古渡り更紗」と呼ばれ名物裂として珍重される。

算木釜(さんぎがま)
茶湯釜の一。胴に太い横棒紋を鋳出したもので、紋様が易に使われる算木に似ているところからの呼称。「算木手」ともいわれる。
一翁好みの算木紋の四方釜。武者小路千家に伝来する、辻与次郎作の大振りな尾垂釜で、大きな口の撫肩の四方釜。一翁忌に、道爺破風炉に取り合わせられることが多い。

桟切(さんぎり)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。器物が窯の中で薪の灰に埋もれて直接炎に当たらなかったために、その部分が燻された状態になり、還元炎焼成となって灰青色、暗灰色になるもの。窯の部屋の間の桟に置かれた器物に多く取れたので桟切と呼ばれる。

三彩(さんさい)
基本的には素地の白、緑釉、褐釉の三色をいうが,ほかに藍色や黄色の色釉をほどこし、800℃前後の低火度で焼きつけた軟質鉛釉陶器の総称。 実際にもちいられる色数は2色から数色まであり、三彩の語は3色を表す意味ではなく多彩釉のものを指す用語として用いられた。2色のものをとくに二彩とよぶこともある。さらに藍色が加わると、藍彩とも呼ばれる。
一般的に緑は銅、黄や褐色は鉄、藍はコバルトなどを呈色剤とする鉛釉系統の色釉がもちいられる。
三彩の技法は中国で発達し、先駆的な鉛釉陶器は後漢時代で、最初は単色の「緑釉」「褐釉」であった。これが六朝時代には、「黄釉」が生まれ隋〜唐時代にかけて、釉中の鉄分を除去できるようになり、白釉が生まれた。飛躍的に発達するのは唐代(618〜907年)で、後世「唐三彩」とよばれる、白(黄)・緑・褐の釉薬を掛け合わせた華麗な焼物が作られるようになる。唐三彩は,主に明器(墳墓に納める副葬品)としてつくられ,三彩馬や三彩駱駝・人物をかたどった涌(よう)など芸術性の高い作品がみられる。唐の都であった長安(今の西安)および東都であった洛陽の墓中より多数出土しており,また河南省鞏(きょう)県に唐三彩を焼いた古窯址が確認されている。唐三彩は、7世紀末から8世紀中葉の盛唐期に最盛期を迎え、安史の乱(755 〜763)を境に急速に衰微するが、契丹族統治の遼時代に焼かれた遼三彩、女真族統治の金時代から蒙古族統治の元時代に焼かれた宋三彩(金三彩)へと伝わり、明時代中期以降には景徳鎮窯でも三彩器が焼かれるようになる。 また、三彩技法は中国から周辺諸国に広まり、東では渤海(ぼっかい)三彩、新羅(しらぎ)三彩などを生み、日本でも奈良三彩(正倉院三彩)がつくられた。西ではイスラム世界のペルシア三彩、ビザンティン三彩などにまでおよんでいる。

桟蓋(さんぶた)
器物の蓋の形態の一。器物の蓋が一枚板で、その裏に身の内に収まる桟を取り付け、蓋が身の口の上に載る形のもの。蓋の裏側に2本の桟を取り付けた「二方桟蓋」、蓋の裏側に4本の桟を取り付けた「四方桟蓋」がある。

  
  
  
  
  
 

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