茶道用語

逢源斎書(ほうげんさいしょ)
表千家四代 逢源斎江岑宗左の茶書。上・下二冊。江岑宗左がおもに父の宗旦から聞いた話を書き留めた聞書きで、千家の茶の湯の伝承が一つ書きの形で記されている。巻末に「宗巴一覧之為書申候」とあり、幼少の表千家五代 随流斎良休宗佐のために覚え書きを残したものとされるとされる。江岑自筆の茶書『江岑夏書』と内容が殆ど同じだが、一つ書きの順番を入れかえたり、部分的に書き直した箇所などがあり、『夏書』が反古紙に書かれているのに対して、薄手の楮紙に丁寧な字体で記されており、『江岑夏書』の清書本と考えられている。

帽子茶器(ぼうしちゃき)
薄茶器の一。帽子棗。撫肩でやや裾の張った鐘形の身に、被せ蓋のついたもの。蓋の形が帽子に似ているところからの名。烏帽子棗ともいう。紹鴎好、利休好、宗旦好などあるが、形が少しずつ異なり、最も古格な作に相阿弥在銘品がある。この茶器の原型は、明国から請来した煎茶の葉茶入の金属器の形を写したものではないかという。

棒の先(ぼうのさき)
建水の一。担い棒の先につけられた金具に似ているからの名称とされる。七種建水の一。円筒形で底にやや丸みがある。『茶器名物図彙』に「昔より俗説に唐玄宗皇帝之乗輿の先き之かなものといへり、大中小ありて大中ハ水さしに用ゆ、小ハ水翻に用ゆ」、『茶道望月集』に「棒の先きといふ物有。名物も有と云。碁笥の大さにて、高三寸五分、或は四寸程にして、真録にツツ立タル物也。棒の先に似たる故と云。又底の角にメンの取たるも有。唐物にてはなしと也」とある。

墨蹟(ぼくせき)
禅宗の僧侶が毛筆で書いた字。本来は墨筆で書いた筆跡のことを云うが、特に日本では禅僧の書跡を指す。村田珠光大徳寺一休宗純に参禅して、印可の証明として授けられた圜悟の墨蹟を茶席に掛けたのがはじまりとされる。『南方録』に「掛物ほど第一の道具はなし。客亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とす。其の文句の心をうやまい、筆者・道人・祖師の徳を賞玩する也。」とあるように重んじられた。この時代までの墨跡は、宋、元の中国僧、鎌倉、室町初期の禅僧の物を指したが、利休が自らの師「春屋宗園」の一行書を掛けてから、在世の和尚の掛物を掛けるようになったとされる。 書蹟としての書法や書格よりは、禅僧の気合が表され、その風格や格外の趣きが珍重される。墨蹟の内容は,偈頌・法語・疏・榜・像賛・問答語・印可状・道号・大字・安名・遺誡・祭文・願文・説文などがある。

細川三斎(ほそかわ さんさい)
安土桃山・江戸前期の大名・茶人。永禄6年(1563)〜正保2年(1646)。足利義昭に仕えた幕臣・細川藤孝(幽斎)の嫡男。名は忠興(ただおき)、幼名を熊千代。通称は与一郎、号は三斎、法名は宗立。妻は明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)。天正5年(1578)15歳で明智光秀の娘の玉を妻とし、大和片岡城攻撃で戦功をあげ信長から自筆の感状を賜る。織田信忠より「忠」の一字を賜り「忠興」と名乗る。天正6年(1578)越中守。天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀の要請を断り剃髪し幽斎と号した父に代わり家督を相続。羽柴秀吉に与する。天正12年(1584)小牧の役で織田信雄を破り、天正13年(1585)従四位下侍従、羽柴の姓を授けられる。天正16年(1588)左近衛権少将。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵などに参陣。慶長元年(1596)従三位参議。秀吉の死後、石田三成と対立して家康に接近。慶長5年(1600)三男忠利を質として江戸へ送り、豊後速見郡杵築6万石を加増、家康の上杉攻めに従軍、三成が挙兵した時、夫人ガラシャは大坂で人質になるのを拒否して自害する。関ヶ原戦後は豊前宮津39万9000石を領した。元和6年(1620)三男忠利に家督を譲り、三斎宗立と号した。和歌、連歌、狂歌、画技、有識故実、その他広くの芸道に通じた。中でも茶の湯は父の幽斎、利休に学び、利休の没後には、その長男道安を助けて豊前で300石の知行を与え、また千家再興にもあずかって、利休七哲の一に数えられている。

牡丹餅(ぼたもち)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。作品を重ねて置いた部分が、そこだけ火と灰が直接あたらないため、のせた器の形に赤く模様ができたもの。あたかも牡丹餅を置いたように見るところからついた。「饅頭抜け」ともいう。

火舎蓋置(ほやふたおき)
七種蓋置の一。火舎香炉。火舎のついた小さな香炉を蓋置に見立てたもの。火舎とは、香炉・手焙・火入などの上におおう蓋のことで、蓋のついた香炉のことを火舎香炉と呼ぶ。火舎の部分が取り外せるようになっており、蓋置を右手で取って左掌にのせ、火舎の部分を取り、右手で左から右へ打ち返し、香炉の上に裏返して重ねて用いる。に飾る時は逆の手順で元に戻して飾る。『源流茶話』に「ほや香炉と申候ハ、いにしへ唐物宝形つくりえ香炉のふたを翻し、釜のふた置ニ見たて、袋をかけ、真の具に被定候、ほやとハ蓋宝形つくりなれは也」とあり、七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われ、主に長板台子で総飾りをするときに用いる。火屋・穂屋とも書く。『茶道筌蹄』に「火屋 ホヤ香爐をかり用ゆ」、『南方録』に「穂屋 天子四方拝の時、用玉ふ香爐といへり、さまによりて蓋置に用る時も、殊外賞翫の一ツ物なり、草庵に用たる例なし、袋棚以上に用、手前の時、賞翫の置所等秘事口傳」とある。

本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)
永禄元年(1558)〜寛永14年(1637)2月3日。名は二郎三郎。自得斎・徳友斎・太虚庵などと号す。室町時代、足利将軍に同朋衆として仕え、刀剣の鑑定、研磨、浄拭を家職とする京都の本阿弥家に、片岡家より入婿した「刀脇指の目利細工並もなき名人」光二と本阿弥光心の長女妙秀の長子として生まれる。近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」と称され「光悦様」といわれる独自の書風を完成した能筆家として名高い。元和元年(1615)徳川家康より洛北鷹峰の地を拝領し、洛中小川通り今出川上の地より一門と家職に連なる人々を引き連れ移住し、書画・造本・陶芸・蒔絵・螺鈿・象牙・作庭など多方面にその芸術的才能を発揮し、「不二山」と名付られた楽茶碗は、光悦作陶の最高傑作として高く評価され、三代将軍徳川家光をして「天下の重宝」と言わしめる。

本歌(ほんか)
元来は歌道用語で、古歌をもとに歌を作ったときの、その元歌をいうが、転じて茶道具などで同形同系統の原品または起源・基準となる作をいう。また、模して作ったものを、本歌に対して「写」(うつし)という。

本庄 巌(ほんじょう いわお)
昭和10年(1935)北九州市生まれ。昭和36年(1961)京都大学医学部卒業。小倉記念病院でインターンを勤める傍ら、上野焼研究家 美和弥之助に焼物の手解きを受ける。京大病院耳鼻咽喉科助手、関西医大助教授、ドイツのヴュルツブルグ大学に留学。帰国後作陶を始める。高知医大教授。高知県展陶芸部門入選。昭和59年(1984)京都大学医学部教授、平成11年(1999)京都大学退官。京都大学医学部名誉教授。唐津や伊万里風の作品が多い。著書「やきものと私達

本朝陶器攷證(ほんちょうとうきこうしょう)

金森得水(かなもり とくすい)著の日本陶磁器の解説書。安政4年(1857)跋の木版本全6冊。我が国初の本格的な陶磁器解説書で、窯の成立については古文書の紹介があるが、『陶器考』など同時代の同種の陶書からの抄出転載も多い。明治27年京都文泉堂林芳兵衛蔵板により広く流布したという。金森得水(1786〜1865)は、江戸後期の茶人。伊勢田丸藩家老。名は長興、通称は仲、別号に琴屋叟・玄甲舎。文武両道に通じ、茶は初め表千家了々斎、弘化2年(1845)吸江斎より皆伝を受ける。陶器の鑑定にも定評があった。著書に『古今茶話五十巻』『習事十三ヶ条』などがある。


盆点(ぼんてん)
茶の湯の点前の形式の一。伝授物の一。「ぼんだて」とも。唐物茶入・拝領茶入を盆にのせて扱う点前。象牙茶杓または真の茶杓を用いる。『茶之湯六宗匠伝記』に「世に名之為知茶入は名物と云物也、何れも茶之湯時は、必盆點也、取あつかひも大事にかくべし」、『槐記』に「今の世には唐物とさへいへば、盆にのせて盆だてにする、なきことなり。唐物にて盆點にする物は、文琳、丸壷、肩衝、小壷、此四ッのみ也。其外の唐物は、盆に不載、唐物點にする也。」、『茶窓陂b』に「瀬戸の茶入、其外本邦にて焼く所の茶入は、いかようの名物にても盆立にせぬといふ人あれども、休師も瀬戸の肩衝を一両度も盆立にせられし事あれば、苦しからぬにや、殊に貴人より拝領の茶入は、今焼にても盆立にすべしとぞ、一概に思ふべからず」、『茶道筌蹄』に「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」、『茶式花月集』に「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」とある。

  
  
  
  
  
 

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