茶道用語

栄西(えいさい)
永治元年(1141)〜建保3年(1215)。栄西は諱で道号は明庵(みんなん)。建仁寺の開山。葉上(ようじょう)房,千光法師とも称した。永治元年備中吉備津宮の神主・賀陽(かや)氏に生まれ、11歳で中吉備の安養寺静心に学び、14歳で得度、18歳で叡山の有弁のもとで天台を学び、ついで伯耆の大山で密教を学び、仁安2年(1167年)4月に宋に渡り、天台山・阿育王山を訪ね、南宋禅にも触れて同年9月帰朝,天台の新註解書60巻を招来した。室町時代の辞書『運歩色葉集』に「榮西(ヱイサイ)。栄西(ヤウサイ) 京建仁寺開山之名也。引木時勅弟子音頭令呼具名。今世習之。四月九日」(京都の建仁寺開山の名なり。木を引く時、弟子に勅し、音頭してその名を呼ばしむ。今の世、これに習う。四月九日にす。)とあり、榮西(えいさい)。栄西(ようさい)の二つを掲載している。
文治3年(1187)再度入宋,臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえしょう)に参じてその法を嗣ぎ、建久2年(1191)帰朝。このとき、茶の種を求め、まず肥前国霊千寺石上坊に植え、のち背振山に移植し、栽培を奨励した。 建文6年(1195年)に博多に、我国最古の禅寺である聖福(しょうふく)寺を創建し、北九州に禅宗を拡めた。比叡山の訴えにより、朝廷は建久5年(1194)禅宗を禁じ、そのため上京した栄西は建久9年(1198年)『興禅護国論』3巻を著して反論したが,叡山側の迫害を避けて鎌倉に下り,将軍源頼家や北条政子の帰依を得て寿福寺を建立、ついで建仁2年(1202)に頼家の本願によって京都に建仁寺を創建したが、叡山を憚りその末寺とし、かつ台密禅三学兼修の寺とした。建永2年(1207)茶種を栂尾の明恵上人高辧に送る。建保2年(1214)鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が二日酔いに 悩んでいた折に一杯の茶を進め、 その折に『喫茶養生記』 も献じられたという。建保3年(1215年)6月5日示寂。 

詠草(えいそう)
和歌や俳諧の書式の一。本来は、詠歌の草稿のことであるが、転じて和歌書式の一となる。俳諧でも詠草の称が用いられる。詠進をするときなどの公式の「竪詠草」と、添削を請うときなどの「折詠草」とがある。「竪詠草」では、料紙は小奉書・杉原などで、まず紙を縦に二つ折りし、これを五分して、一行目の下部に名、二行目の中間に題、三行目に初句、二句、三句を書き、四行目に四句、五句を書く、五行目と裏面は空白とする。墨継は初句・三句・五句。通常は歌一首を書くが、二首書く場合もあり、その場合は三行目に二列に一種、四行目に二列に他の一首を書き、五行目は同様に空けておく。「詠進竪詠草」の場合は美濃紙を用い、名の下に「上」の一字を書き添える。「折詠草」では、杉原、美濃紙、略式では半紙を横に二つ折りし、それを縦に四つ折し、一折目中央に題を書き、右端下部に名を書き「上」の一字を添える。二折目に歌一首を三行に書く、三折目に「かえ歌」として一首を同様に書く。別の題の歌を書く場合は、四折目の一行に題を書き、二行目に初句・二句、・三行目に三句・四句を書き、結句の一行を裏面に書く。料紙を三つ折にする書式もある。

永楽善五郎(えいらくぜんごろう)

千家十職。土風炉・焼物師。
始祖は南部西京西村に住した宗印と言い、春日大社の供御器など製していたが晩年は土風炉を作るようになった。初代宗禅より11代保全までは、代々西村善五郎を名乗る。二代宗善のとき泉州堺へ移り住み土風炉制作を専業とする。三代西村宗全、堺から京都へ移住。のち小堀遠州の用命をうけ「宗全」の銅印を賜る。以後九代まで風炉底に宗全印を捺用。10代了全の時代に陶磁器の制作をはじめ、その養子の11代保全とともに、中国や朝鮮の陶磁器、さらには南蛮物や仁清などの茶陶の写し物を精力的に制作するようになる。11代保全は青木木米、仁阿弥道八とともに、幕末の京焼の名工の一人といわれ今日の永楽焼の家祖。永楽を名乗るようになるのは、保全が文政10年(1827)に、紀州徳川家10代藩主徳川治宝(はるとみ)の別邸西浜御殿のお庭焼開窯(偕楽園焼)に招かれ、その製陶の労が賞されて「河濱支流(かひんしりゅう)」の金印「永楽」の銀印を拝領したことによる。12代和全が明治元年に西村を改め永楽を姓とした。
14代得全の妻、妙全は女性のため代の中には入っていないが名を「悠」といい、作品に「善五郎」と記し朱で「悠」の字を押印す。俗に「お悠さんの朱印」と云い、親しまれている。
初代宗禅(〜1558)。2代宗善(〜1594)。3代宗全(〜1623)。4代宗雲(〜1654,)。5代宗筌(〜1697)。6代宗貞(〜1741)。7代宗順(〜1744)。8代宗円(〜1769)。9代宗巖(〜1779)。10代了全(〜1841)。11代保全(1795〜1855)。12代和全(1822〜1896)。13代回全・曲全。14代得全(1852〜1909)。15代正全(1879〜1932)。16代即全(1917〜1998)。17代当代善五郎。


絵唐津(えがらつ)
初期の唐津焼を代表する装飾技法で、素地(きじ)に鬼板とよばれる鉄釉で絵を描き、長石釉や木灰釉を施釉したもの。絵の文様は草、木、花、鳥、人物など多様で素朴なものが多く、赤褐色か黒の発色となる。茶碗、鉢、皿、向付などに絵を描いたものが多い。 また、碗・皿の縁にぐるっと鉄絵具を塗りめぐらしたものを、とくに「皮鯨(かわくじら)」と称する。慶長元和以降は鉄絵が急速に減少し、かわりに白化粧土を用いた刷毛目や、象嵌によるいわゆる三島手、緑・褐色顔料で彩色した二彩手など新しい技法が出現する。

絵高麗(えこうらい)
朝鮮から渡来した焼き物を高麗と呼び、そのなかで鉄絵のある磁器の日本における呼び名。絵高麗の名がいつ始まったかは定かではないが、桃山時代以後の茶人の命名であることは確かである。文禄・慶長の役(1592〜98)以後,茶事に高麗ものが流行し,渡来したやや粗い白化粧の陶胎の土に,鉄描の黒い絵のあるものを絵高麗と称した。朝鮮高麗中期の「青磁鉄絵」に似ているところから「絵高麗」として呼び慣わしていたものは、中国の磁州窯系の「白地黒花」という技法のもので、灰白色の器胎に白絵土という泥漿をかけ白下地を作り、その上に鉄絵具と筆をもって文様を描き、透明釉をかけて焼成する「白地鉄絵」と、白下地の上にさらに鉄泥漿〔黒釉〕を上掛けし、文様の輪郭線を錐状のもので彫刻したのち鉄泥の文様部分を残し、余白にあたる鉄泥を削ぎ落とし、元の白下地を浮き上がらせ、再び透明釉をかけて焼成する「掻落し手」とがある。

絵御本(えごほん)
御本手の一。釉下に鉄泥や呉須で絵付けしてあるもの。ときには文字入りもある。

越中瀬戸焼(えっちゅうせとやき)

富山県立山町瀬戸地区にて焼かれる陶器。『越中陶磁考草』に「瑞龍公、加賀藩二代諱利長、文禄二年、彦右衛門なる者に命じて、越中の国に於て、尾張瀬戸焼に類似の土を見立、陶業を営ませらるゝこと、越中上新川郡古文書に見えたり。上瀬戸村七兵衛所蔵 越中於国中瀬戸焼之類、何方にても見立次第、其所にて可焼候者也 文禄二年四月朔日(花押) せとやき 彦右衛門」とあり、文禄2年(1593)加賀2代目藩主前田利長が、尾張の国のすえもの師彦右衛門を招き、陶器製作の下知状を授け、越中新川郡瀬戸村(富山県立山町)に窯を築かせ陶器を作ったのが始まりとされる。一説には、天正16年(1588)、利長の伯父前田安勝が故郷の尾張から陶工の小二郎なる者を招き、上末(かみすえ)の地に住まわせて瀬戸焼を作らせたとも。以降、加賀藩の御用釜として前田家の保護の下、茶道具を中心に製陶する。瀬戸焼や美濃焼の影響を強く受けている。しかし、明治維新になり、藩の支援がなくなると衰退し、加えて鉄道の開通によって瀬戸や有田から安価な陶器が流入したことにより、大正年間に遂に廃絶された。だが昭和12年になり地元の有志らの手により廃窯となっていた窯場を研究、昭和22年に釈永庄二郎が庄楽窯を開窯し再興した。現在、吉野正次(香岳)が昭和32年に開窯した千寿窯、加藤宣明が昭和35年に開窯した宣明窯、加藤四佐吉が昭和51年に開窯した四郎八窯を加え4つの窯元がある。

榎肌(えのきはだ)
備前焼の窯変(ようへん)のひとつ。器物の表面が炭化したように灰がつき、黒や灰色にぶつぶつと盛り上がり榎の木肌のようになったものをいう。

餌畚(えふご)

器物の形状の一。餌籮とも。鷹匠が持ち歩く餌袋の形を餌畚(餌籮、餌袋)といい、この餌畚に似た形状のものをいう。建水茶入水指などに餌畚と称するものがある。 餌畚建水は、袋形で上部が開いた建水で、 七種建水の一。 官休庵伝来形の餌畚建水は、千利休所持の「唐金餌畚建水」で武者小路千家に代々伝わるもので、簡素な姿ながら最も機能的な建水。『茶道筌蹄』に「餌籮 鳥獣の餌を入るヽ籠の形なり」とある。一謳軒宗全の天文甲寅年(1554)跋『茶具備討集』には「餌蕢、漁人具、以竹組、口開頸細腹大而円者、佳士謂之篠、野人謂之蕢也、舩以小魚蕢為取魚之餌、故曰餌蕢、南蛮水差似之、故水差名餌蕢、鷹奨之具名餌袋非」(餌蕢、漁人の具、竹を以って組む、口開き、頸細く、腹大にて円き者、佳士之を篠(あじか)と謂う、野人は之を蕢(ぶご)と謂う也、舩小魚を以って蕢に魚を取る之餌と為す、故に餌蕢と曰う、南蛮水差之に似たり、故に水差を餌蕢と名つく、鷹奨之具餌袋と名づくるは非なり)とある。


烏帽子棚(えぼしだな)
利休袋棚の右側をもとにした二重棚の一。一啜斎好み。中棚が三角形に切ってあり、この中棚の三角形を烏帽子に見立てて、この名がある。中棚が三角形になっているため、両器拝見のとき中棚になにも載っていないと軽すぎて不安定な感じになるのを避けて、中棚に帛紗烏帽子折にして飾る。これを烏帽子飾という。風炉にのみ用いる。初飾りには、地板に水指、中棚に茶器を飾る。後飾りには、柄杓を柱に立てかけ、地板に蓋置を、中棚に茶器を飾る方法。天板に柄杓蓋置を、中棚に茶器を飾る方法。中棚に柄杓蓋置を飾る方法がある。木津松斎の一啜斎からの聞書に「松平讃岐守様より風呂に用る棚好様依命一啜斎好」とあり、松平讃岐守の命により風炉に用いるとして好んだもので、本歌は市郎兵衛が作り、のち駒沢利斎に依頼して組み立て式に改められたという。

圜悟(えんご)
圜悟克勤(えんごこくごん;1063-1135)。中国・北宋時代の禅僧。姓は駱、名は克勤、字は無著。四川省の人。生前に北宋の徽宗(きそう)皇帝から「仏果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を賜い、諡号を「真覚禅師」。『碧巌録(へきがんろく)』の著者として名高い。

遠州緞子(えんしゅう どんす)
別名「花七宝入り石畳文様緞子」。小堀遠州が所持したと伝える。市松模様の各々の枡の中に七宝と二種の花柄を互の目に配し、地を五枚繻子とし、文を緯五枚綾としているのと、逆に地を緯綾とし、文を繻子組織としたものとを上下左右交互になるように配置している。更に、緯に白茶と浅葱(あさぎ)の二色を用い、白茶二段、浅葱一段の繰り返しとして色調に変化をつけている。

遠州七窯(えんしゅうなながま)
小堀遠州の好みの茶器を焼いたとされる七つの窯。遠江(静岡県)の志戸呂(しとろ)、近江(滋賀県)の膳所(ぜぜ)、山城(京都府)宇治の朝日、大和(奈良県)の赤膚(あかはだ)、摂津(大阪府)の古曾部(こそべ)、筑前(福岡県)の高取(たかとり)、豊前(福岡県)の上野(あがの) の七窯をいう。遠州七窯ということは江戸後期ごろ道具商によりいわれたといい、初出は嘉永7年(1854)田内梅軒(米三郎)の『陶器考』(同附録・安政2年・京都 西村九郎右衛門 明治16年刊行)とされる。ただ、赤膚古曾部は、遠州在世中には焼き物を焼いていない。また、明治25年(1891)今泉雄作の『本邦陶説』では古曾部を除いて伊賀を加えている。

  
  
  
  
  
 

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