茶道用語

木地物(きじもの)
何も塗らない白木のままの器物をいう。清涼感や質素な感覚が喜ばれ、炉縁水指建水など種々の茶器に使われる。材料も檜・杉・松・桐などさまざまである。木地物には、板の組み合わせによって作る指物木地、側面の板を円形や楕円形などに曲げて作る曲物木地、轆轤で円形に削って作る挽物木地、ノミや小鉋などで自由な形を刳り出して作る刳物木地などがある。

黄瀬戸(きせと)
安土桃山時代に美濃で焼かれた瀬戸系の陶器。淡黄色の釉(うわぐすり)をかけたもの。黄瀬戸は大別して二つに分けることができる。
ひとつは、釉肌が、ざらっとした手触りの柚子肌で一見油揚げを思わせる色のものを「油揚げ手」と呼び、光沢が鈍く釉薬が素地に浸透しているのが特徴。多くの場合、菊や桜や桐の印花が押されていたり、菖蒲、梅、秋草、大根などの線彫り文様が施されており、この作風の代表的な作品「菖蒲文輪花鉢」にちなんで「あやめ手」とも呼ばれる。胆礬(タンパン;硫酸銅の釉で、緑色になる)、鉄釉の焦げ色のあるものが理想的とされ、とりわけ肉薄のためにタンパンの緑色が裏に抜けたものは「抜けタンパン」と呼ばれて珍重されている。
もうひとつが、明るい光沢のある黄釉で文様がないもので、「油揚げ手」に比べると、肉厚で文様のないものが多く、菊型や菊花文の小皿に優れたものが多かったことから「菊皿手」、六角形のぐい呑みが茶人に好まれたことから「ぐい呑み手」などと呼ばれる。この手の釉には細かい貫入(釉に出る網目のようなひび)が入っている。
桃山期の黄瀬戸は、当時珍重されていた交趾(ベトナム北部や中国南部の古称)のやきものの影響が大きいと言われている。16世紀後半から17世紀初期(天正期から慶長期初期)にかけて、大萱(現在の可児市)の窯下窯で優れた黄瀬戸が作られていたといわれ、利休好みとされている黄瀬戸の多くはここで焼かれたのではないかと考えられている。

煙管(きせる)
莨盆の中に組み込み、刻みタバコを吸う道具。ふつう竹の管である羅宇(らう)の両端に金属製の雁首(がんくび)・吸口(すいくち)をつけたもの。語源については異説もあるが、カンボジア語で管を意味する「クセル」が、訛ったものとされる。『目ざまし草』に「盆の前に煙管を二本おくは、香箸のかはりなりとぞ。」とあるように、薄茶のとき座布団に続いて、莨盆に煙管を二本添え正客の前に持ち出されるので、正客は邪魔にならぬところに仮置する。吸う場合は、正客は次客にすすめたのち、煙管を取り、莨入から煙草を火皿につめ、火入の火で吸付け、吸い終われば、吸殻を灰吹に落とし、懐紙を出して吸口、雁首を清める。次客も正客のすすめに従いもう一本の煙管に煙草をつめ同様にし、煙管二本を元のように莨盆にのせ、三客、四客へ送るという。『倭訓栞』に「きせる 煙管又烟吹をいふは蛮語也といへり。京にきせろ、伊勢にきせりとも云。其初は紙を巻て、たばこをもりて吹ける。次で葭・葦・細竹等をそぎて用ふ。羅山文集にも侘波古ハ草名、採之乾暴、剜其葉、而貼于紙、捲之吹火、吸其烟と見えたり。其端盛烟酒者稱雁頸、其所啣稱吸口。種が島には、えんつうといふ。烟笛なるべし。烟笛も漢稱也。蝦夷島にては、せろんぽといふ。おらんだぎせるは全體数奇屋の物也。」、「らう 煙管竹をいふは、もと南天の国の名にして、羅烏とかけり。しゃむに近し、黒班竹を産す。烟管によろし、よて此名を得たりといへり。豊後竹、箱根竹なども此類也。」とある。

北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)
天正15年(1587)10月1日、豊臣秀吉が京都北野神社の境内と松原において開催した茶会。天正15年(1587)7月14日九州平定を終え大阪に凱旋した秀吉が、北野天満宮の松原で大茶会を催すことになり、洛中をはじめ畿内一円に高札を立てて参加者を募った。
『北野大茶湯記』に「七月廿八日 於京都御高札之面」として「定御茶湯の事  一、北野の森におひて、十月朔日より十日の間に天気次第、大茶湯御沙汰なさるるに付て、御名物共不残御そろへなされ、執心之者ニ可被拝見ために可被御催候事  一、茶湯於執心者、又、若党・町人・百姓以下ニよらず、一釜、一つるべ、一のミ物、茶こがしにても不苦候条、ひつさげ来、仕かくべき事。  一、座敷之儀ハ松原にて候条、たたミ二畳、ただし、わび茶ハとぢつけにても、いなはきにても、くるしかるまじき事。  一、日本之儀ハ不及申ニ、から国の者までも、数奇心がけ在之者ハ可罷出事付所の儀ハ次第不同たるべき事  一、遠国の者まで見セらるべきため、十月朔日まで日限被成御延事。  一、如此被仰出候儀者、わび者を不便ニ被思召ての儀ニ候条、此度、不罷出者ハ、於向後こがしをもたて候事、無用との御異見候、不出者の所へ参候者も同前、ぬるものたるべき事。  一、わび者においてハ、誰々遠国によらず、御手前にて御茶可被下之旨、被仰出候事。  以上」とある。
当日は、北野神社の拝殿内部に3席を設け、中央には黄金の茶室を置き、秀吉が収集した名物茶道具を陳列し、拝殿の周りに特設された4つの茶席では、秀吉、利休津田宗及今井宗久の4人が茶頭として参会者に茶をふるまった。遠く博多の茶人神谷宗湛をはじめ全国から人が集まり、『多聞院日記』に「茶屋千五六百ト云々」とあるように沿道に茶屋が軒を連ねて並んだ。当初は10日間の予定だった大茶会は、佐々成政の新領国肥後に内乱との報で1日だけで取りやめとなった。

北向道陳(きたむきどうちん)
永正元年(1504)〜永祿5年(1562)。本姓は荒木。堺の舳松(へのまつ)に住む茶人で利休の初期の師匠。北向きの家に住したので北向と称したという。利休がまだ与四郎と名乗っていた頃に武野紹鴎に引き合わせた。本職は医師であろうとされる。八代将軍足利義政の同朋 能阿弥の弟子空海から能阿弥流の茶法を授かり、唐物の目利きに優れた。
南方録』に「宗易の物語に、珠光の弟子宗陳、宗悟と云人あり。紹鴎ハ此二人に茶湯稽古修行ありしなり。宗易の師匠ハ紹鴎一人にてハなし。能阿彌の小姓に右京と云し者、壮年の時能阿彌に茶の指南を得たりしが、後ハ世を捨人になりて堺に住居し、空海と申ける。同所に道陳とて隠者あり。常々心安く語りて、茶道を委しく道陳傳授ありしとなり。又、道陳と紹鴎と別而間よかりけれハ、互に茶の吟味ともありしとなり。宗易ハ與四郎とて、十七歳の時より専茶を好み、かの道陳に稽古せらる。道陳の引合にて紹鴎の弟子になられしなり。臺子、書院なとハ大方道陳に聞れしなり。」とあり、『山上宗二記』に「堺北向道陳は、目利。松花・虚堂・きのべ(木辺)肩衝・善好茶碗所持す。」とある。墓は大阪府堺市の妙法寺にある。

吉向焼(きっこうやき)
江戸時代、享和年間(1801〜1804)伊予大洲藩出身の戸田治兵衛(通称亀次)が、京に出て楽家九代了入、初代清水六兵衛、仁阿弥道八、浅井周斎などに作陶を学び、大阪十三村に開窯、「十三軒松月」と号し、始め亀次名にちなんで亀田焼と称したのが起こり。
のち、11代将軍家斉公の太政大臣宣下の慶事に当たって、大阪城代水野忠邦侯の推挙を得て、鶴と亀の食籠を献上し、亀甲、すなわち吉に向うに因んで「吉向」の窯号を賜り、爾来、吉向姓を名乗る。
作品は交趾風を主とするが染付もあり、陶技にすぐれ、近世屈指の名工とされる。郷里の大洲藩に招かれ、藩公の別邸の在った五郎にて、御用窯を仰せつかる。五郎玉川焼と伝えられる窯である。また大和小泉藩片桐石州候に江戸に招かれ、江戸屋敷で窯を築き、止々簷の号を拝領している。周防岩国藩主吉川候、美作津山藩主松平候、信州須坂藩堀直格候からも招かれて御用窯、いわゆるお庭焼を申しつかる。
別号として十三軒・行阿などがあり、吉向・十三軒・出藍・連珠・紅翠軒などの印銘を用いた。文久元年(1861)江戸で没した。
初代治兵衛の江戸の養子が、江戸吉向となり、大坂吉向は亀治によって継がれ、その後五代目のとき二家に分かれ、松月軒吉向と十三軒吉向の二家に分かれた。現在の、東大阪市日下町の十三軒と、枚方市の松月軒とがそれである。なお江戸吉向は、明治に入って廃窯している。

喫茶往来(きっさおうらい)
室町時代初期の茶会及び喫茶の知識を往来(往復書簡)の形式で示した書物。闘茶会とその様子が示され、室町時代初期の茶会の様子を知る上での貴重な資料である。この書は、二組の往復書状からなり、前半は、掃部助(かもんのすけ)氏清から、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)国能に宛てた書状とその返書、後半は、周防守幸村から五十位君源蔵人に宛てた書状とその返書からなっている。玄慧(げんえ)の撰といわれるが確かではない。
『掃部助氏清から弾正少弼国能 宛書状』 「昨日の茶会光臨無きの条、無念の至り、恐恨少なからず。満座の欝望多端。御故障、何事ぞ。そもそも彼の会所の為体、内の客殿には珠簾を懸け、前の大庭には玉沙を舗く。軒には幕を牽き、窓には帷を垂る。好士漸く来り、会衆既に集まるの後、初め水繊酒三献、次いで索麺、茶一返。然る後に、山海珍物を以て飯を勧め、林園の美菓を以て哺を甘す。其の後座を起ち、席を退き、或いは北窓の築山に対し、松柏の陰に避暑し、或いは南軒の飛泉に臨んで、水風の涼に披襟す。ここに奇殿あり。桟敷二階に崎って、眺望は四方にひらく。これすなわち喫茶の亭、対月の砌なり。左は、思恭の彩色の釈迦、霊山説化の粧巍々たり。右は、牧渓の墨画の観音、普陀示現の蕩々たり。普賢・文殊脇絵を為し、寒山・拾得 面貌を為す。前は重陽、後は対月。言わざる丹果の唇吻々たり。瞬無し青蓮の眸妖々たり。卓には金襴を懸け、胡銅の花瓶を置く。机には錦繍を敷き、鍮石の香匙・火箸を立て、嬋娟たる瓶外の花飛び、呉山の千葉の粧を凝す。芬郁たる炉中の香は、海岸の三銖の煙と誤つ。客位の胡床には豹皮を敷き、主位の竹倚は金沙に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝り、四皓は世を商山の月に遁れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山によって眠る。白鷺は蓼花の下に戯れ、紫鴛は柳絮の上に遊ぶ。皆日域の後素に非ず。悉く以て漢朝の丹青。香台は、並びに衝朱・衝紅の香箱。茶壷は各栂尾・高尾の茶袋。西廂の前には一対の飾棚を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物を構う。中に鑵子を立て湯を練り、廻りに飲物を並べて巾を覆う。会衆列座の後、亭主の息男、茶菓を献じ、梅桃の若冠、建盞を通ぐ。左に湯瓶を提げ、右に茶筅を曳き、上位より末座に至り、茶を献じ次第雑乱せず。茶は重請無しと雖も、数返の礼を敬し、酒は順点を用うと雖も、未だ一滴の飲に及ばず。或いは四種十服の勝負、或いは都鄙善悪の批判、ただに当座の興を催すに非ず。将に又生前の活計、何事か之に如かん。盧同云う、茶少なく湯多ければ、則ち雲脚散ず。茶多く湯少なければ、則ち粥面聚まる云云。誠に以て、興有り感有り。誰か之を翫ばざらんや。而して日景漸く傾き、茶礼将に終わらんとす。則ち茶具を退け、美肴を調え、酒を勧め、盃を飛ばす。三遅に先だって戸を論じ、十分に引きて飲を励ます。酔顔は霜葉の紅の如く、狂粧は風樹の動くに似たり。式て歌い式て舞い、一座の興を増す。又絃し又管し、四方の聴を驚かす。夕陽峯に没し、夜陰窓に移る。堂上には紅蝋の燈を挑げ、簾外に紫麝の薫を飛ばす。そうそうの遊宴申し尽くさず。委曲は併面謁を期し候。恐惶頓首。」

喫茶養生記(きっさようじょうき) 
栄西が著した医学の書。上下2巻。上巻では茶について、その名称(表記)・樹形・効能・茶摘・調製を述べている。養生とは、五蔵を健全に維持することだが、五蔵の好む五味(酸・辛・苦・甘・鹹(かん))のなかで、とくに心臓を強くする苦味が摂取しにくいので、苦味を補給する茶を飲むことが必要と説く。下巻では、飲水病・中風・不食病・瘡病・脚気の5種の疾病をあげ、いずれも桑によって治癒させうると説く。桑粥・桑煎湯・桑木の屑を酒に入れ、桑木を口に含むなどの方法である。このため別に「茶桑経」とも呼ばれる。なお、『吾妻鏡』のいう将軍実朝に献じた書が、ただちに『喫茶養生記』とできるかについては議論がある。

砧青磁(きぬたせいじ)
中国の青磁の一種。南宋時代(1127〜1279)に龍泉窯でつくられた青磁のうち粉青色の上手のものを日本では砧手と呼んだ。素地は灰白色で、釉肌は粉青色を呼ばれる鮮やかな青緑色をなし、厚く掛けられている。わが国では、中国青磁を大別して、南宋時代のものを「砧青磁」、元・明時代のものを「天竜寺青磁」、明末時代のものを「七官青磁」と呼び分けている。砧という名称は、砧形の花入に由来すると思われるが、『山上宗二記』に「一、碪花入 青磁也。当世如何。口狭きもの也。拭出しの卓に居わる。松枝隆仙」、『宗湛日記』天正十五年正月十六日朝、松江隆仙会に「きぬた花生は、青磁のいろこくして少ひヾきあり、高七寸、口広一寸九分あり」、『分類草人木』に「一、砧 松枝隆仙所持、天下一也。ひびき有とて砧と名付也。」とあり、『槐記』に「享保十二年三月廿九日、参候、青磁の花生、これも拝見して見をぼゆべし、きぬた青磁の至極也、是は大猷院殿より東福門院へ進ぜられ、東福門院より後西院へ進ぜられ、後西院より此御所へ進ぜられし物也、後西院の勅銘にて千声と号す、擣月千声又万声と申す心にやと申上ぐ、左あるべしとの仰也、是に付て陸奥守にある、利休が所持のきぬたの花生は、前の方にて大にひヾきわれありて、それをかすがいにてとじてあり、利休が物ずきとは云ながら、やきものにかすがいを打こと、心得がたきことなり、景気にてもあるべきか、此われのある故に、利休がきぬたと名付けるとなん、響あると云こヽろ也と仰也」とあり、白居易の『聞夜砧』「誰家思思婦秋擣帛、月苦風凄砧杵悲。八月九月正長夜、千聲萬聲無了時。應到天明頭盡白、一聲添得一莖絲。」(誰が家の思婦か秋に帛を擣つ、月苦え風凄く砧杵悲し。八月九月まさに長夜、千声万声了る時なし。まさに天明に到らば頭ことごとく白かるべし、一声添え得たり一茎の糸)から、重文の青磁鳳凰耳花入「千声」の銘が砧に似た形に由来する(国宝の青磁鳳凰耳花入「万声」も同様)とし、また静嘉堂文庫美術館にある青磁鯱耳花入(千利休、伊達家、岩崎家伝来)の「ひびわれ」を砧を打つ「ひびき」にかけて千利休が名付けたともいう。

木守(きまもり)
木守写

楽家初代長次郎作の楽茶碗長次郎七種の一つ。草間直方(1753〜1931)の『茶器名物図彙』に「利休、赤黒茶碗数々取寄せ、諸侯弟子中に配分せられしに、此赤碗一つ撰り残る、依て木守と号せられたり」とあり、利休長次郎に造らせ七個を選んで六人の門弟達に望みのままに採らせたところ、この一碗が残ったところから、利休はこの茶碗に「木守」と銘うって、ことのほか愛翫したといわれ、利休百会に頻繁に用いられている。木守とは、晩秋の柿の木の枝にただ一つ残された実のこと。
武者小路千家に伝来したが、六代真伯の時に讃岐高松藩松平家に献上された。その後武者小路千家では、家元継承の折には松平家より借用して、その披露を行っている。本歌の「木守」は大正12年(1923)の関東大震災に被災し、現在伝来するのはその破片を入れて新しく焼かれたもの。


鬼面風炉(きめんぶろ)
風炉の一。五徳を使わず直接風炉の口にをかける「切合(きりあわせ)」(「切掛(きりかけ)」)で、乳足、鐶付が鬼の顔のものをさす。唐銅または鉄のものがある。中国より渡来した最も古い形とされ、「不審菴伝来利休所持唐銅皆具」等にみられるように、唐銅の鬼面仕附鐶の風炉は真正の風炉とされ「台子」に用いられる。『和漢茶誌』に「又俗有稱鬼風爐者。或銅鐡爲之。其足如乳故茶人呼乳足。從來人人聞得之。自知爲鬼風爐雅名。語其形則固不異也。三足也。」(また俗に鬼風炉と称する者あり。或は銅、或は鉄で之を為す。其の足乳の如し、故に茶人乳足と呼ぶ。従来人々之を聞得て、自ら知る鬼風炉の雅語なることを。其の形を語すは則ち固より異ならざる也。三つ足也。)とある。

義山(ぎやまん)
ガラス製品のこと。ダイヤモンドを意味するオランダ語のDiamant(ディヤマント)に由来し、ガラスの切削にダイヤモンドを使ったため、ガラスをダイヤモンドでカットして細工したものをギヤマン細工と呼び、おもにカット・ガラスを指す名称として使われた。

久以(きゅうい)
利休時代の指物師。「半入」とともに江戸初期を代表する作者で、木地 炉縁といえば「久以」と「半入」の沢栗材のものが最上とされる。「 久以」の長角の焼印に対して「半入」は丸い焼印を約束としている。『茶湯古事談』に「炉縁の作者は久以と云もの、利休時代の上手にて、今に称し用ゆ、代々同名なり」とある。 木地 炉縁は、洗い縁と呼ばれるように、本来は使うたびに洗っていたようである。今日では古色を尊び、ほとんど洗うことはない。 小間に使われるのが決まりである。

京焼(きょうやき)
江戸初期以降、京都で作られた楽焼以外の陶磁器の総称で、江戸初期すでに粟田口,八坂,音羽,清水,御菩薩(みぞろ),修学院,清閑寺,押小路などに窯があり、唐物や古瀬戸御本(ごほん)呉器伊羅保などの写しを作っていたようである。京焼の名が文献に現れるのは博多の茶人、神谷宗湛(かみやそうたん:1551〜1635)の「宗湛日記」慶長10年(1605)6月15日宗凡会の条に「肩衝 京ヤキ」とあるのが初出とされる。
京焼の存在がおおきくなるのは、京焼の祖といわれる野々村仁清(ののむらにんせい)の御室焼(おむろやき)の出現による。仁清は轆轤の妙による瀟洒な造形と大和絵、狩野派、琳派風などの華麗な色絵賦彩による色絵陶器を焼造した。その作風が粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や、洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯に影響を与え、それまでの「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、数多くの後世「古清水(こきよみず)」と総称される色絵陶器がつくられるようになり、京焼といえば色絵陶器とするイメージが形成された。また、仁清の弟子、尾形乾山は、兄光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し「乾山焼(けんざんやき)」として広く知られた。その後、19世紀初頭の文化・文政期には、奥田穎川よって磁器が焼造され、青花 (染付) 磁器や五彩 (色絵) 磁器が京焼の主流となっていく。穎川の門下には青木木米、仁阿弥道八、 欽古堂亀祐、三文字屋嘉介らがあり、他にも永楽保全、和全の父子や清水六兵衛三浦竹泉等々の名工を輩出した。

経切(きょうぎれ)
経巻の断簡。元来、巻子本などであった仏教経典の写本を、鑑賞用とするため切断し、掛物や手鑑(でかがみ)などに仕立てたものを指す。

清水六兵衛(きよみず ろくべえ)
 
京焼の陶工、清水家の通名。初代から三代までは「古藤」、四代が明治より「清水(しみず)」の姓を名乗り、五代のとき昭和2年(1927)の即位大典に京都御所で清水焼の御染筆に奉仕し「清水(しみず)」を「清水(きよみず)」に改めた。『陶器考』に「六兵衛 愚斎と号す 初海老清に陶を学び、後信楽にても陶を習ふ、六の字あるものヽ内に信楽出来あり、六兵衛は土学に委し、信楽の土最よきゆへ常に是を用ゆ、天竜寺の桂州印をさづく、夫より印を用ゆ、千玄室よりも印をさづくとなん」とあり、初代 六兵衛(1738〜1799)は、摂津国島上郡(大阪府高槻)に古藤家に農業を営む父六左衛門の子として生まれる。幼名栗太郎。愚斎と号す。12〜13才ごろ京へ出て、五条坂の海老屋清兵衛(海老清)に陶技を学んだほか、信楽ほかへも足を運び、明和8年(1771)五条坂建仁寺町に開窯し、六兵衛と改める。その技は茶器、置物、文房具に及び高く評価され、妙法院宮の御庭焼を勤めて、六目印を拝領している。
二代 六兵衛(1790〜1860)静斎と号す。初代六兵衛が没したとき、幼少のため一時休業するが、文化8年(1811)創業する。
三代 六兵衛(1820〜1883)二代六兵衛の次男。幼名は栗太郎、号は祥雲。画は小田海僊に学ぶ。天保9年(1838)三代六兵衛を襲名。染付・青磁・赤絵等の作品が多く、作風は豪快の中に瓢逸性もある。第4回京都博覧会銅牌、第1回内国勧業博覧会鳳紋賞銀牌、シドニー万国博覧会銅牌、アムステルダム万国博覧会銀牌。
四代 六兵衛(1847〜1920)幼名は正次郎。塩川文麟に絵画を学び祥麟と号し、幸野楳嶺、富岡鉄斎などと親交があった。明治16年(1883)四代六兵衛を襲名。明治17年(1884)清水五条坂の陶器組合巽会の創立。明治36年(1903)遊陶園を結成。明治40年(1907)佳都美会を結成。地味で温和な作風を示し、伊賀や信楽、南蛮写や伊羅保、仁清や乾山風の色絵陶、楽焼などの器物を多く手がけ、また彫塑的なものに優れ、とくに蟹の造形の巧みさには一風をなした。大正2年(1913)隠居して六居と号した。
五代 六兵衛(1875〜1963)幼名は栗太郎。号は祥嶺。少年時代より幸野楳嶺に四条派の絵画を学び、京都府立画学校にも学んだ。一方、製陶は祖父三代や父四代に手ほどきを受けた。明治28年(1895)第4回内国勧業博覧会に入選。大正2年(1913)五代六兵衛を襲名。昭和6年(1931)帝国美術院会員。大正青磁と呼ぶ暖か味のある独特の青磁釉や典雅な大礼磁、天目釉など新技法の研究、開発を盛んに試みるとともに仁清風、乾山風の京焼伝統の優雅な色絵陶器をも手がけ、京焼を復興した。
六代 六兵衛(1902〜1980)大正12年(1923)京都市立絵画専門学校を卒業。父五代六兵衛より製陶を習い、大正14年(1925)商工展に入選。昭和2年(1927)帝展に初入選。昭和11年(1936)文展の招待作家、審査員。昭和20年(1945)六代六兵衛を襲名。昭和25年(1950)全国陶芸展で文部大臣奨励賞受賞。昭和31年(1956)日本芸術院賞受賞。昭和33年(1958)日展評議員。昭和34年ベルギー博覧会グランプリ受賞。昭和37年(1962)日本芸術院会員、日展理事。昭和44年(1969)日展常務理事。昭和47年(1972)勲三等旭日中綬章、昭和51年(1976)文化功労者。
七代 六兵衛(1922〜2006)東京芸大在学中に六代清水六兵衛の婿養子となり、陶芸を修業。昭和42年(1967)金属造形に転じ、清水九兵衛の名で彫刻で活躍。昭和50年中原悌二郎賞優秀賞。昭和52年(1977)箱根彫刻の森美術館大賞受賞。六代の死去に伴い昭和56年(1981)七代六兵衞を襲名。京都市立美大(現京都市立芸大)、京都造形芸術大の教授。平成12年(2000)長男に八代六兵衛の名跡を譲る。愛知県出身。旧姓は塚本。本名は広。
八代 六兵衛(1954〜)柾博(まさひろ)。早稲田大学理工学部建築学科卒業。昭和58年(1983)、昭和61年(1986)朝日陶芸展グランプリ受賞、平成4年(1992)第3回「次代を担う作家」展大賞受賞、平成5年(1993)京都府文化賞奨励賞受賞、平成12年(2000)八代六兵衞を襲名。陶による造形作品を多数発表。建築空間や屋外空間への作品を提案し、国内外の美術館にも出品。京都造形芸術大学教授。

金海(きんかい)
高麗茶碗の一種。金海の名は、韓国慶尚南道金海で焼かれ、時に金海、金の文字が彫られているものがあることから。素地は磁器質の堅手の質、作行は薄手で、口縁は桃形が多い。釉は乳白の土見ずの総釉である。胴には「猫掻(ねこがき)」と呼ばれる猫の爪で引っ掻いたような短い櫛目状の刻線があり、高台は切高台。赤みの御本(紅梅が散ったような淡い赤み)が鹿の子に出ているものもある。金海堅手の一種。桃山より江戸期にかけ日本から朝鮮に御手本(切形)を送って焼かせた御本茶碗を「御本金海」といい、御所丸よりは時代が下り江戸初期以降のものと考えられている。

金泥(きんでい)
金箔(きんぱく)をすりつぶし、細かい粉末にしたものを、膠(にかわ)液で練ったもの、絵の具として用いられる。

蒟醤(きんま)
漆芸の加飾技法の一。漆の塗面に剣という特殊な彫刻刀で文様を彫り、その凹みに色漆を埋めて研ぎ出し、磨き仕上げるもので、線刻の美しさが発揮される。本来は、東南アジアで広く嗜好されるキンマを収める漆の入れ物で、竹を巻き上げたり編み上げたりした素地に漆を塗り、その表面に線文様を彫り、朱、緑、黄色等の色を埋め込んで研ぎ出す技法でタイ北部からミャンマーにかけて制作されるもので、中国の古代漆器の線刻技法が東南アジアに伝播し定着したものとみられる。表千家に利休所持の茶箱が伝来しており、桃山期かそれ以前には招来されたとされる。我が国では玉楮象谷により、天保4年(1833)はじめて作られたが、「紅毛彫」とも「金馬」とも書かれていて、嘉永7年(1854)の「蒟醤塗料紙箱並硯箱」において「蒟醤」と書くようになる。玉楮象谷以来、高松で盛んになった。宝永5年(1708)刊の貝原益軒の『大和本草』に「長崎に来る暹羅人などのいへるは、彼国に客あれば先キンマ檳椰を出す。本邦にて煙草を用るが如し。また蚌粉をも少まじえ食すと云。本草にいへる蒟醤によく合へり。交趾東京にも亦如右すと云。今茶人の翫ふ香合にキンマ手と云あり、即異邦にて此物を入たる器なり。」、『茶道筌蹄』に「安南国にてキンマを入る器なりキンマの葉に檳椰子を包み石灰を付て食後に用るよし木地と籠地と二通りあり此器に似よりのをキンマという」とみえ、檳榔樹(びんろうじゅ)の実を薄く切り、鬱金(うこん)の粉や香料と混ぜ合わせ、石灰を塗った蔓草の葉に包んで噛む習慣があり、タイ語のキン(食べる)マーク(檳榔子)で、檳榔子を食べる意のキンマークという語の訛であるといい、日本にはアユタヤとの交易を通じてタイの漆器がもたらされ、そのおりに蒟醤という呼び名が定着したと考えられている。

金襴(きんらん)
撚金糸、または平箔を織り込んだ織物の総称。名物裂では、撚金糸(モール金糸)を用いた織物は「モール」と云い、平箔(平金糸・金箔糸)を用いて文様を織り出したものを金襴と呼ぶ。平箔とは、紙の上に漆を塗り、その上に金箔を置き金箔紙を作り、それを糸状に切ったもの。中国では「織金」という。僧の錦の袈裟(けさ)を金襴衣または金襴袈裟と称し、日本に舶載された金襴衣に金箔糸が織り込んであったところから、この織物を「金襴」と呼ぶようになる。金襴の製造は、宋代に始まり、明代に全盛期を迎える。日本に渡来したのは鎌倉時代とされる。室町・桃山時代に多く舶載され、名物裂として珍重された。

金輪寺(きんりんじ)
薄茶器の一。和物の塗物茶器の初めとされる。胴は寸切りの如く、置蓋で、蓋の甲が丸みをもち、掛かりが少し外に広くなっている。こんりんじ、金林寺とも。小型の経筒を茶器に転用したとも後醍醐天皇が金輪寺で使用した茶器ともいう。『今井宗久茶湯日記書抜』天文24年(1555)4月1日の利休会に「キンリンシ茶入」とあり、江戸時代初期までは濃茶器として用いられたが、のち薄茶器として使用されたとされる。後醍醐天皇が吉野金峯山寺で一字金輪法を修せられたとき僧衆に茶を給うため、山中の蔦の古株で作られたという伝説があり、林宗甫の延宝9年(1681)序『大和名所記(和州旧跡幽考)』に、「実城寺 実城寺又は金輪寺ともいう。後醍醐天皇の皇居にさだめられ、此の御代にこそ北京と南朝とわかたれて、年号なども別にぞ侍る。爰にして新葉和歌集などをえらび給い、又天皇、御手づから茶入れ十二をきざませ給う。或いは廿一ともいう。そのかたち薬器にひとし。世に金輪寺と言うこれなり。漆器と言いながら勅作にて侍れば、盆にのせ、金輪寺あひしらひとて、茶湯前もありとかや。」とあり、『茶道筌蹄』に「金輪寺 蔦大中 木地蔦、外溜、内黒、大は濃茶器、中は啐啄斎薄茶器に用ゆ、元来は吉野山にて、後醍醐帝一字金輪の法を修せられしとき、僧衆に茶を給ふ、其とき山にある蔦を以て茶器を作る、故に金輪寺茶器と云、修法所を金輪寺といひしとぞ、今の蔵王堂の側の実城寺是なり、乾に当る也、三代宗哲の写しは、京寺町大雲院の模形なるよし、大雲院は織田信忠公の菩提所なり、此茶器信長公の伝来七種の一ツなり、底に廿一之内とあり、朱の盆添ふ」とある。足利義政・義昭、織田信長、大雲院と伝来した金輪寺茶器には、蓋裏に「勅」、底に「廿一内」という朱漆書がなされている。この本歌金輪寺茶器は、蔦の老樹を材とした刳物で、蓋の立上がりと底に檜が嵌め込んであり、外側は透漆を薄く掛けた木地溜塗で、内側と糸底は黒漆塗りで、寸法がたいそう大振りで、身が上方に向って末広がりになり、蓋の被りが大きい。勅願の納経筒ではないかともいう。金輪とは天皇をさし、建武3年(1336)8月足利尊氏が北朝光明天皇を践祚すると、「三種の神器をば、新勾当内侍に被持て、童部の蹈開たる築地の崩より、女房の姿にて忍出させ給ふ。」(『太平記』)と京を脱出した後醍醐天皇(1288〜1339)が吉野山に潜幸し吉水院を行在所とし、ついで金峰山寺塔頭寺院中一番広域を占めた実城寺を金輪王院と改号し、吉野朝廷(南朝)を建てた。

  
  
  
  
  
 

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