茶席の禅語

                           

梅花帶月一枝新(ばいか つきをおびて いっし あらたなり)
南北朝時代の臨済宗の僧で臨済宗永源寺派の開祖、寂室元光(じゃくしつ げんこう:1290〜1367)の「不求名利不憂貧。隱處山深遠俗塵。歳晩天寒誰是友。梅花帶月一枝新。」(名利を求めず貧を憂えず。隠処山深うして俗塵を遠ざく。歳晩天寒くして誰れか是れ友なる。梅花月を帯びて一枝新たなり。)の一節。

梅花和雪香(ばいか ゆきに わして かんばし)
禅林句集』七言に「一枝梅花和雪香」(一枝の梅花 雪に和して香ばし)、下注に「梅雪中發暗香故也」(梅は雪中に暗香を発する故なり)とあり、出典は未記載。『錦江禪燈』に「不是一番寒徹骨。爭得梅花破雪香。」(これ一番 寒骨に徹せずんば、いかでか梅花の雪を破りて香ばしきを得ん。)とみえる。

白隠慧鶴(はくいん えかく)
江戸時代中期の臨済宗の禅僧で、近世臨済禅中興の祖とされる。貞享2年(1686)〜明和5年(1769)。道号は白隠、法名は慧鶴。別号は鵠林。駿河駿東郡原宿の長沢家の三男として生まれる。1699年(元禄12)同地「松蔭寺」の單嶺祖伝について出家。各地の禅匠に歴参。1708年 越後高田の英巌寺性徹のもとで「趙州無字」の公案によって開悟するも満足せず、宝永5年(1708)信儂飯山の正受庵主道鏡慧端(正受老人)のもとで大悟し、印可を受けた。享保2年(1717)「松蔭寺」に住し、翌年「妙心寺」首座となり白隠と号した。以後自坊「松蔭寺」において大勢の参徒を指導、弟子を育成するとともに、請に応じて各地に仏経・祖録を講じ布教につとめ、曹洞宗・黄檗宗に比して衰退していた臨済宗を復興させ「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と歌われた。宝暦13年(1763)三島(静岡県)の竜沢寺を中興開山。明和5年(1768)松蔭寺で示寂。明和6年(1769)後桜町天皇より神機独妙禅師の諡号を、また明治17年(1884)明治天皇から正宗国師の諡号を賜る。『槐安国語』『息耕録開筵普説』『荊叢毒蘂』など漢文体の語録と『夜船閑話』『壁生草』『薮柑子』『遠羅天釜』『おたふく女郎粉引歌』『大道ちょぼくれ』などの仮名法語がある。会下に東嶺円慈、遂翁元盧、峨山慈棹、葦津慧隆など多数の禅傑を輩出、鵠林派(こうりんは)ともよばれその厳しい公案禅は臨済宗を席捲し法流を独占するにいたる。明治以降、白隠の名はその墨蹟・禅画に対する興味が先行してひろく知られるようになり、臨済宗十四派は全て白隠を中興とし「白隠禅師坐禅和讃」を坐禅の折に読誦するが、没後100年にはすでに「中興の祖」とする認識が定着し「坐禅和讃」が日課として誦まれるようになっている。

白雲自去來(はくうん おのずから きょらいす)
禅林句集』 にある五言対句 「青山元不動。白雲自去來。」(青山もと不動。白雲自ら去来す。)の一句で、白雲は妄想や煩悩などの例えで、雲が次から次へと湧き起こり去来しても、山は元の姿のままそこにあるように、人間は本来の仏性があり、これに気づくなら煩悩や妄想の雲に惑わされることはないとのこと。『景徳伝燈録』に「時有僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲飛去來。」(時に僧問う有り、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲飛去来。)とあり、『五燈會元』に「僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲任去來。」(僧問う、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲去来に任す。 )とある。『祖堂集』には「白雲聴〓(イ尓)白雲」(白雲はなんじの白雲たるにまかす。)、 白雲は白雲の好きなように、とある。

白雲片片嶺上飛(はくうん へんぺん れいじょうに とぶ)
禅林句集』七言に「白雲片片嶺上飛。」(白雲片片嶺上に飛ぶ。)とある。『五燈會元』巻第十二「慧覺廣照禪師」に「上堂。天高莫測。地厚寧知。白雲片片嶺頭飛。告潺潺澗下急。東湧西沒一句即不問。〓(イ尓)生前殺後一句作麼生道。良久曰。時寒喫茶去。」とあり、『續燈録』同師に「上堂云。天高莫測。地厚寧知。白雲片片嶺頭飛。緑水潺潺澗下急。東涌西沒一句即不問爾。生前殺後一句作麼生道。良久云。時寒。喫茶去。」(上堂。云う、天高くして測るなし、地厚くしていずくんぞ知るや。白雲片片嶺頭に飛び、緑水は潺潺として澗下に急なり。東涌西沒の一句は即ち問わず。生前殺後の一句は作麼生道う。良久して云う、時寒、喫茶去)とある。潺潺(せんせん);水のさらさらの流れるさま。また、その音。澗下(かんか);谷川の下。東涌西没(とうゆさいもつ);東からのぼり西に没すること。

白雲起峰頂(はくうん ほうちょうに おこる)
『潭州道吾真禪師語要』に「上堂。問。如何是奪人不奪境。師云。庵中闡ナ坐。白雲起峰頂。如何是奪境不奪人。師云。閃爍紅霞散。天童指路親。如何是人境兩倶奪。師云。剛骨盡隨紅影沒。〓(上廾下召)苗總逐白雲消。如何是人境倶不奪。師云。久旱逢初雨。他郷遇舊知。」(上堂。問う、如何なるか是れ奪人不奪境。師云く、庵中間打坐、白雲峰頂に起こる。如何なるか是れ奪境不奪人。師云く、閃爍紅霞を散らし、天童路を指すに親なり。如何なるか是れ人境両倶奪。師云く、剛骨尽く紅影に隨いて没し、(上廾下召)苗総て白雲を逐いて消す。如何なるか是れ人境倶不奪。師云く、久旱初雨に逢い、他郷旧知に遇う。)とある。奪人不奪境(だつじんふだつきょう);人(にん)は人間・主観、境(きょう)は世界・客観を示す。『臨濟録』に「師晩參示衆云。有時奪人不奪境。有時奪境不奪人。有時人境倶奪。有時人境倶不奪。」(師、晩参、衆に示して云く、有る時は人を奪って境を奪わず。有る時は境を奪って人を奪わず。有る時は人と境と倶に奪う。有る時は人と境と倶に奪わず。)とあり、世界のみがあって自己がない「奪人不奪境」、自己のみがあって世界がない「奪境不奪人」、自己と世界の別がない「人境両倶奪」、自己も世界もそのままにあるがままの「人境不倶奪」の、いわゆる臨済の四料簡(しりょうけん)のこと。

白雲抱幽石(はくうん ゆうせきを いだく)
南朝宋の謝靈運(384〜433)の詩「過始寧墅」に「白雲抱幽石、克ツ媚清漣。」(白雲、幽石を抱く、克ツ清漣に媚ぶ。)とあり、これをそのまま引いて『寒山詩』に「重巌我卜居、鳥道絶人迹。庭際何所有、白雲抱幽石。住茲凡幾年、屡見春冬易。寄語鐘鼎家、虚名定無益。」(重巌に我れト居す、鳥道人跡を絶す。庭際何んの有る所ぞ、白雲幽石を抱く。ここに住むことおよそ幾年、しばしば春冬のかわるを見る。語を寄す鐘鼎の家、虚名定まらず益無し。)とある。重巌(ちょうがん)は、巌が重なる山。卜居(ぼっきょ)は、うらなって住居を決めること。転じて、住居を定めること。鳥道(ちょうどう)は、鳥が飛べるほどの狭い道。庭際(ていさい)は、庭の際。幽石(ゆうせき)は、幽寂な石。鐘鼎(しょうてい:釣鐘と鼎)の家は、富貴の家。巌が重なる山に私は居を定めた。鳥だけが通う険しい人跡の絶えたところ。庭先に何があるかというと。白雲が苔むした岩を包み込んでいる。ここに住むこと幾数年。春冬の季節の移り変わりを見てきた。栄華を誇る人々に一言いわせてもらえば、それは空虚なもので意味のないものだ。陶弘景(456〜536)の詩「詔問山中何所有賦詩以答」(山中に何の有る所ぞと詔問せられ、詩を賦して以って答う)に「山中何所有、嶺上多白雲。只可自怡悦、不堪持寄君」(山中何の有る所ぞ、嶺上に白雲多し。只だ自ら怡悦すべきのみ、持して君に寄するに堪えず。)とあるを踏まえたものという。

白的的(はくてきてき)
禅林句集』に「明皎皎白的的」(皎皎ハ月ノ明ナル皃的的ハ分明也)、「清寥寥白的的(大慧録八楚石十ノ十七丁)」と載る。「明皎皎白的的」の出典は不詳。『大慧普覺禪師語録』巻八には「示衆。舉龐居士云。心如境亦如。無實亦無虚。有亦不管。無亦不拘。不是聖賢了事凡夫。師云。白的的清寥寥。水不能濡火不能燒。是箇甚麼。切不得問著。問著則瞎却爾眼。以拄杖撃香臺一下。」とある。『碧巖録』第三十四則に「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐コ宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。コ宗甚欽嘆之。似這般清寥寥白的的。不受人處分。直是把得定。如生鐵鑄就相似。只如善道和尚。遭沙汰後。更不復作僧。人呼為石室行者。」(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐のコ、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。コ宗、甚だ之を欽嘆す。這般の清寥寥、白的的に似たらば、人の処分を受けず。直に是れ把得定して、生鐵鑄就すが如くに相似ん。只善道和尚の如きは、沙汰に遭うて後、更に復僧と作らず。人呼んで石室行者と為す。)とみえる。

馬祖(ばそ)
馬祖道一(ばそどういつ)。中国唐代の禅僧(709〜788)。漢州(四川省)の人。勅号、大寂禅師。慧能門下の南岳懐譲(なんがくえじよう)の法を嗣ぎ、江西省で禅宗を広め、弟子に百丈懐海らがいる。

白珪尚可磨(はっけい なお みがくべし)
『文選』の「初發石首城」(初めて石首城を発す)に「白珪尚可磨、斯言易為緇。」(白珪なお磨く可し、この言は緇を為し易し。)、白い玉はまた磨けばいいが、言葉は黒く汚れ易い、とある。『詩經』大雅の抑の篇に「白圭之〓(王占)、尚可磨也、斯言之〓(王占)、不可為也。」(白圭の(王占)けたるは、なお磨くべし、この言の(王占)けたるは、為(おさ)むべからず。)、白い玉の欠けたのは、また磨けばいいが、言葉を誤ると改めようがない、とあるを引く。珪(けい);圭の古字。玉。〓(王占)(てん);欠ける。玉のきず。緇(し);。黒色。黒く染まる。『從容録』に「丹霞淳和尚道。水澄月滿道人愁。冰盤秋露泣。戀著即不堪也。大荒經。崑崙丘上。有琅〓(王干)玉樹。結子如珠而小也。玄中銘。靈木迢然鳳無依倚。與鶴不停機。皆不許守戀坐著也。鳥寒而凄。不欲落他根株枝葉也。詩抑篇。白珪之〓(王占)尚可磨也。玉内病曰瑕。體破也。外病曰〓(王占)。色汚也。此頌。仰山貴白珪無〓(王占)。不落第二頭。如何是第一頭。大悟後方知不是。」(丹霞淳和尚道う、水澄み月満ち道人愁い、冰盤秋露泣き、恋著即ち堪えざるなり。大荒経、崑崙丘の上に、琅(王干)玉の樹あり、結子珠の如くして小なり。玄中銘、靈木迢然として鳳依倚するなし、与に鶴停機せず。皆な坐著に守恋するを許さざるなり。鳥寒うして而して凄じ。根株枝葉、他に落ちるを欲せざるなり。詩の抑篇に、白珪の(王占)なお磨くべし也。玉内の病を瑕と曰い、体破れるなり。外の病を〓(王占)と曰い、色汚れるなり。此の頌。仰山白珪の(王占)なきを貴ぶ。第二頭に落ちず。如何なるか是れ第一頭。大悟の後まさに不是を知るべし。)とある。

花閑鳥自啼(はなしずかにして とりおのずからなく)
唐の詩人、皇甫曾(こうほそう:721〜785)の『題贈呉門〓(上巛下邑)上人』に「春山唯一室、獨坐草萋萋。身寂心成道、花閑鳥自啼。細泉松徑裏、返景竹林西。晩與門人別、依依出虎溪。」(春山ただ一室、独り坐すに草萋萋たり。身寂、心成道、花閑にして鳥自ら啼く。細泉、松徑裏、返景、竹林の西。晩に門人と別る、依依たり出虎の溪。)とある。萋萋(せいせい);草木の盛んに茂るさま。身寂;「身寂者、身依七支坐法、使脈結解開、以淨氣息灌注菩提甘露、易生輕安喜樂、顯現明體、或足相架、身支隨其自然。」とある。返景(へんけい);夕日の照り返し。「初學記」に「日西落、光反照於東、謂之反景」(日西に落ち、光東に返り照る。之を反(返)景と謂う)とある。依依(いい);枝や葉の茂っているさま。

春來草自生(はる きたらば くさ おのずから しょうず)
廣燈録』に「進云。如何是向上事。師云。秋到黄葉落。春來草自生。」(進云う、如何ならん是れ向上の事。師云く、秋到たらば黄葉落ち、春来たらば草おのずから生ず。)とある。

春入千林處々花(はるはせんりんにいるしょしょのはな)
「春入千林處々花 秋沈満水家々月」 (春は千林に入る処々の花、秋は万水(ばんすい)に沈む家々(かか)の月)と『禅林句集』にみえるというが未見。『北澗居簡禪師語録』の偈頌には「秋澄萬水家家月。春入千林處處花。為問大悲千手眼。不知明月落誰家。」(秋は万水に澄む家々の月、春は千林に入る処々の花。為に問う、大悲千手眼。知らず、明月誰が家にか落つ。)とみえる。春にはどこの林や野にも草木が芽吹き花が咲き、秋にはどこの家にも月は輝き、どこの水にも月は宿る。このように、目の前の森羅万象すべてに平等に仏の世界(法性)が行き渡り、人という人みな仏性のない人はいない、とのこと。千宗旦の書に、この前半句の「花」を「鶯」に置き換え 「春入千林處々鴬」 (春は千林に入る処々の鴬) としたものがあり、表千家では初釜の床に掛けられる慣わしという。

萬歳萬歳萬々歳(ばんぜい ばんぜい ばんばんぜい)
祖庭事苑』卷五に「萬歳 呼萬歳、自古至周、未有此禮。按春秋後語、趙惠王得楚和氏璧、秦昭王聞之、遺五書、願以十五城易之。趙遣藺相如奉璧入秦、秦王見相如奉璧、大喜、左右呼萬歳。又田單守即墨、使老弱女子乘城上、偽約降、燕軍皆呼萬歳。馮〓(王爰)之薛、召諸民債者合券、券既合、〓(王爰)乃矯孟嘗君之命、所債賜諸民、因燒其券、民皆呼萬歳。至秦始皇、殿上上壽、群臣皆呼萬歳、見優孟傳。蓋七國之時、衆所喜慶於君、皆呼萬歳。自漢已後、臣下對見於君、及拜恩慶賀、以爲常制。又謂山呼者、漢武帝至中嶽、翌日親登崇高、御史乘屬在廟旁、吏卒盛聞呼萬歳者三。山呼萬歳者、自漢武始也。」(万歳:万歳を呼ぶ、古より周に至るまで此の礼を有せず。春秋後語を按ずるに、趙の惠王、楚の和氏の璧(かしのへき)を得る。秦の昭王これを聞き、五書を遣わし、十五城を以って之に易えんと願う。趙、藺相如(りんしょうじょ)を遣わし、璧を奉じて秦に入る。秦王、相如の奉ずる璧を見、大いに喜ぶ。左右、万歳を呼ぶ。また、田單(でんたん)、即墨(そくぼく)を守るに、老弱女子をして城上に乗らしめ、偽りて降るを約す。燕の軍、皆な万歳と呼ぶ。馮〓(王爰)(ふうかん)の薛(せつ)。諸民の債者を召し券を合わす。券すでに合う。〓(王爰)すなわち孟嘗君(もうしょうくん)の命といつわり、債するところを諸民に賜い、よってその券を焼く。民、皆な万歳を呼ぶ。秦の始皇に至り殿上の上寿に、群臣、皆な万歳を呼ぶ。優孟伝に見る。蓋し七国の時、衆、君における喜慶の所、皆な万歳を呼ぶ。漢より已後。臣下の君に對見し、拜恩慶賀に及び、以って常の制と為す。また、山呼というは、漢の武帝、中嶽に到る。翌日、親しく嵩高に登る、御史乗属、廟の旁に在る吏卒の咸、萬歳を呼ぶ者の三なるを聞く。山呼萬歳は、漢の武より始まるなり。)とある。中国、前漢の時代、元封元年(BC110)正月元日、武帝(BC141〜BC87)が天子自ら嵩高(河南省登封県北五嶽のひとつ嵩山)に登り、国家鎮護を祈ると、臣民たちが喊声をあげ、それが五岳の山々に三度こだまして「万歳万歳万々歳」と聞こえたといわれる。

萬法帰一(ばんぽういつにきす)
傳燈録』に「僧問。萬法歸一一歸何所。師云。老僧在青州作得一領布衫重七斤。」(僧問う。万法一に帰す、一何れの所にか帰す。師云く。老僧青州に在って、一領の布衫を作る、重きこと七斤。)とあり、これが『碧巌録』第四十五則に「舉。僧問趙州。萬法歸一。一歸何處。州云。我在青州。作一領布衫。重七斤。」(舉す。僧、趙州に問う。万法一に帰す。一何れの処にか帰す。州云く、我青州に在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤。)と、取り上げられている。ある僧が趙州に、すべてのものは一に帰るというが、その一はどこに帰るのか、と問うた。すると趙州は、わしが青州におったとき、一枚の布衫を作ったが、その重さが七斤あった、と答えた。『圜悟録』には「舉。僧問趙州。萬法歸一。一歸何處。州云。我在青州作一領布衫。重七斤。師拈云。摩醯三眼。一句洞明。似海朝宗。千途共轍。雖然如是。更有一著在。忽有問蒋山。萬法歸一一歸何處。只對他道。饑來喫飯困來眠。」(舉す。僧、趙州に問う。万法一に帰す、一何れの処にか帰す。州云く、我青州に在って、一領の布衫を作る。重きこと七斤。師拈じて云く。摩醯三眼。一句洞明。海朝宗に似る。千途共轍。然も是の如くなりと雖も、更に一著を有すること在り。忽ち蒋山に問う有り。万法一に帰す、一何れの処にか帰す。只だ他に対して道うべし。飢来たれば飯を喫し、困み来たれば眠る)とある。すべてのものは一に帰るというが、その一はどこに帰るのか。ただ、その者に対して言おう。腹が減ったら飯を喰い、疲れたら眠るだけのことだ。○布衫(ふさん):麻などで作った単衣の着物。○斤(きん):一斤160匁=600g。

萬里一條鐵(ばんり いちじょうの てつ)
傳燈録』襄州鳳凰山石門寺獻禪師章に「問如何是石門境。師曰。烏鳶飛叫頻。曰如何是境中人。師曰。風射舊簾〓(木龍)。因般若寺遭焚。有人問曰。既是般若為什麼被火燒。師曰。萬里一條鐵。」(問う、如何なるか是れ石門の境。師曰く、烏鳶飛叫頻りなり。曰く、如何なるか是れ境中の人。師曰く、風、旧簾槞を射し、因りて般若寺焚に遭う。人ありて問うて曰く、既に是れ般若什麼の為に火焼を被る。師曰く、万里一條の鉄。)とある。『禅林句集』の注に「天人眼目巻上東山外上」とあり、『人天眼目』に「第一訣。針頭削鐵。穿耳胡人。面門齒缺。第二訣。殺人見血。唖子忍痛。無處分雪。第三訣。陽春白雪。水底桃花。山頭明月。如何是第一訣。古コ云。珊瑚枝枝〓著月。如何是第二訣。古コ云。萬里一條銕。如何是第三訣。古コ云。百草頭邊倶漏泄。」(第一訣。針頭に鉄を削り、胡人穿耳し、面門に歯欠す。第二訣。殺人は血を見、唖子は痛を忍び、雪を分かつ処なし。第三訣。陽春の白雪、水底の桃花、山頭の明月。如何なるか是れ第一訣。古コ云く、珊瑚は枝枝に月を〓著(ささ)う。如何なるか是れ第二訣。古コ云く、万里一條の鉄。如何なるか是れ第三訣。古コ云く、百草頭辺に漏泄を倶にす。)とある。『正法眼蔵』に「菩薩の壽命いまに連綿とあるにあらず、佛壽命の過去に布遍せるにあらず。いまいふ上數は、全所成なり。いひきたる今猶は、全壽命なり。我本行たとひ萬里一條鐵なりとも、百年抛却任縱横なり。」とある。

萬里無片雲(ばんりへんうんなし)
傳燈録』に「問萬里無片雲時如何。師曰。青天亦須喫棒。」(問う、万里片雲なき時、如何。師曰く、青天また須く棒を喫すべし。)とある。『續燈録』に「僧曰。如何是向上事。師云。萬里無片雲。」(僧曰く、如何なるか是れ向上の事。師云く、万里片雲なし。)とある。『禅林句集』は『禪林類聚』を出典にあげ「正覺逸云。倒一説。清人骨。萬里無片雲。放下一團雪。別別。老大禪翁甘滅舌。」(正覚逸云く、倒一説。清人骨。万里片雲なし。放下す一団の雪。別別。老大禅翁甘滅舌。)とある。萬里は、万里の天。片雲は、一片の浮き雲。雲は妄想や煩悩などの例えで、心の隅々まで妄想や煩悩がない状態をいうという。

微風吹幽松 近聴声愈好(びふう ゆうしょうを ふく。ちかくきけば こえ いよいよ よし)
寒山詩』の一節「欲得安身處。寒山可長保。微風吹幽松。近聽聲愈好。下有斑白人。喃喃讀黄老。十年歸不得。忘却來時道。」(安身の処を得んと欲せば。寒山(かんざん)長(とこしなえ)に保つべし。微風幽松(ゆうしょう)を吹く。近く聴けば声愈(いよいよ)好し。下に班白の人有り。喃喃(なんなん)として黄老(こうろう)を読む。十年帰る事を得れざれば。来時の道を忘却す。)から。「平安の境地を得たければ、寒山にずっといなさい。幽松に微風が吹いて、近づいて聴けばその声はますますすばらしい。松の木陰には白髪交じりの老人がぶつぶつと黄帝や老子を読んでいる。十年もここにいると、来た道さえもすっかり忘れ去ってしまう。」というもので、一切の計らいを捨てきって、自然の声を聴き(近聴)、あるがままを好し(愈好)とし、世の中のことや自分のことも忘れ去り、悟りのことさえ忘れ去ったところに絶対の境地があるとの意味という。これは 『寒山詩』 の中の圧巻とされ、ことに「微風吹幽松、近聴声愈好」の二句は甚深の意ありと古来やかましく言われているという。 愈好斎宗匠の名の出典。

百丈(ひゃくじょう)
百丈懐海(ひゃくじょう えかい)。中国唐代の禅僧(749〜814)。俗姓は王、名は懐海、福州長楽県(福建省)の人。西山(広東省潮安県)慧照和尚の下で出家し、衡山(湖南省)法朝律師の下で受具した。次いで廬江(安徽省)の浮槎寺で大蔵経を閲していたとき、馬祖道一が南康(江西省)で盛んに宣布しているのを聞き師事し、その法を嗣ぐ。その寂後、その墓守りをしていたが、檀越の請により、江西省南昌府奉新県の大雄山(百丈山)に住して法を宣揚し、禅門の規範「百丈清規(しんぎ)」を定めて自給自足の体制を確立した。門下に黄檗希運・〓(シ為)山霊祐などがいる。

百花春至為誰開(ひゃっか はるいたって たがためにか ひらく)
碧巌録』第五則「雪峰盡大地」の「頌」に「牛頭沒。馬頭回。曹溪鏡裏絶塵埃。打鼓看來君不見。百花春至為誰開。」(牛頭没し。馬頭回る。曹溪鏡裏塵埃を絶す。鼓を打って看せしめ来たれども君見ず。百花春至って誰が為にか開く。)とある。「牛頭(ごず)」と「馬頭(めず)」は地獄で亡者達を責めさいなむ獄卒鬼。「曹溪(そうけい)」は、曹渓山六祖大鑑慧能禅師。牛頭は没し、馬頭は帰って行った。曹渓の鏡には塵一つ無い。鼓を打って人を集め開眼させようとするけれど君は悟ろうとしない。百花は春になって誰のために咲くのか。誰の為でもなく、何の為でもなく、そうした計らいなく、ただ咲いているだけである。

平常心是道(びょうじょうしん これ どう)
無門関』の「平常是道」に「南泉因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道。州云。還可趣向否。泉云。擬向即乖。州云。不擬爭知是道。泉云。道不屬知。不屬不知。知是妄覺。不知是無記。若真達不擬之道。猶如太虚廓然洞豁。豈可強是非也。州於言下頓悟。」(南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道、州云く、還って趣向すべきや否や。泉云く、向わんと擬すれば即ちそむく。州云く、擬せずんばいかでか是れ道なることを知らん。泉云く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不擬の道に達せば、なお太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈に強いて是非すべけんや。州、言下に於て頓悟す。)とある。趙州が道とはどういうものかと問うと、ふだんの心が道だと南泉が云う。では何を目標に修行すべきかと趙州が云うと、こうありたいと思えば離れてしまうと南泉が云う。修行しないとこれが道だとわからないと趙州が云うと、道は知っているとか知らないとかではない、分かったというのは自分が勝手に納得しているだけで、分からないのは何も無いことだ、もし真の道に達すれば、あたかも大空のようになにもなくなるなる。是だの非だのと分別を入れる余地などないと南泉が云った。趙州はこの言葉を聞いてたちまち悟りを開いた。

福聚海無量(ふくじゅかい むりょう)
『妙法蓮華經』觀世音菩薩普門品第二十五「觀音經」に「觀世音淨聖、於苦惱死厄、能為作依怙、具一切功コ、慈眼視?生、福聚海無量、是故應頂禮。」(観世音浄聖、苦悩死厄に於いて、能く為に依怙と作れり。一切の功徳を具し、慈眼、衆生を視る。福聚の海は無量なり、是の故に応に頂礼すべし。)とある。観世音菩薩は清浄な聖者で、苦悩と死と災いにおいて、よく人々の拠り所となる。あらゆる功徳を具え、すべての人間を慈悲の眼で眺めている。その福徳は大海のように無量であり、だからこそつつしんで礼拝すべきだ。「福壽海無量」は「聚」を「壽」に替えたもの。

福富雪底(ふくとみ せってい)
臨済宗大徳寺派第14代管長。大徳寺520世。大正10年(1921)新潟県に生まれる。東京上野広徳寺にて福富以清氏について得度。大正大学在学中に学徒動員。九州久留米の梅林僧堂に掛搭、東海玄照老師に参ずる。広徳寺住職。昭和58年(1983)臨済宗大徳寺派管長となり以後平成15年(2003)まで4期20年間在職。平成17年(2005)10月4日歿。享年84。

無事(ぶじ)
臨済宗の開祖である唐の臨済義玄(りんざい ぎげん)の言行を弟子の三聖慧然が編集したとされる『臨濟録』で説かれる語。何ものにもとらわれない、計らいの無い、あるがままの状態を言う。 なかでも「無事是貴人」がよく知られる。
「道流、設解得百本經論、不如一箇無事底阿師。爾解得、即輕蔑他人。勝負修羅、人我無明、長地獄業。」(道流、たとい百本の經論を解得するも、一箇無事底の阿師にはしかじ。解得すれば、即ち他人を軽蔑し、勝負の修羅、人我の無明、地獄の業を長ず。):おまえたちが、たとい百部の経典を解き明かすことができても、ひとりの何ものにもとらわれない阿師(大馬鹿者)の足元にも及ばない。おれは利口者だと思うと他人を軽蔑する。人と優劣を争い、ますます迷いを深め、地獄の業を増長する。
「求佛求法、即是造地獄業。求菩薩、亦是造業。看經看教、亦是造業。佛與祖師、是無事人。」(仏を求め法を求む、これすなわち造地獄の業。菩薩を求むるもまたこれ造業。看經看教もまたこれ造業。仏と祖師とはこれ無事の人なり。):仏を求め法を求めるのも地獄へおちる業。菩薩になろうとするのも、また経論を学んだりするのもすべて悪行を作るのだ。仏や祖師とはそんなことのない無事の人である。

無事是貴人(ぶじこれきにん)
臨濟録』に「無事是貴人。但莫造作、祇是平常。爾擬向外傍家求過、覓脚手。錯了也。」(無事これ貴人。ただ造作することなかれ。ただこれ平常なり。外に向かって傍家に求過して、脚手にもとめんと擬す。錯りおわれり。)とある。無事であることが貴いのだ、計らいをしてはならない、ただ、あるがままがよい。とかく外に向かって何かを求め手懸りとしようとする。それが誤りであるとする。

佛祖統紀(ぶっそとうき)
南宋の僧志磐の撰した史伝。全54巻。咸淳五年(1269)に成る。釈迦牟尼仏より宋代に至る高僧の業績とその足跡を中国のいわゆる正史の体裁に従って紀伝体で列記したもの。釈迦より北宋の第3代真宗のころの法智に至る29祖を本紀としてまず記載し、それらの諸祖の傍出の僧を世家としてまとめ、続いて列伝・雑伝・未詳承嗣伝を置き、歴代伝教表・山家教典・浄土立教・諸宗立教・三世出興・世界名体・法門先光顕・法運通塞・名文光教・歴代会要などの志の項目がある。

不東(ふとう)
三蔵法師・玄奘(げんじょう)の、インドへ達せずば東へ戻らず、という気概を示した言葉。『大唐大慈恩寺三藏法師傳』に、玉門関の手前、瓜州(甘粛省安西県)を発ち草原に入ったときに年老いた胡人に西域行きを止められたときの「貧道爲求大法。發趣西方。若不至婆羅門國。終不東歸。縱死中途。非所悔也。」(私は大法を求めんがために西方に発とうとしているのです。もしバラモン国に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ中途で死んでも悔いはありません)。また、玄奘が玉門関の外に五つある烽(狼煙台・要塞)の第一烽で捕まった時に校尉(指揮官)王祥に言った「誓往西方。遵求遺法。檀越不相勵勉。專勸退還。豈謂同厭塵勞。共樹涅槃之因也。必欲拘留。任即刑罰。奘終不東移一歩以負先心。」(西方に赴いて遺法を尋ね求めようと誓ったのです。それなのに貴方は励ますことなく専ら退き返すことを勧めるのですか。苦労を嫌ってどうして共に涅槃の因を植えるといえましょう。どうしても私を拘留しようとするなら、すぐに刑罰につかせて下さい。私はどんなことがあっても東へは一歩も歩みません)。さらに、砂漠で水の入った皮袋を落として水を失い、やむなく十里ほど戻ったときの「自念我先發願。若不至天竺。終不東歸一歩。今何故來。寧可就西而死。豈歸東而生。」(自分は先に願をたてて若しインドに至らなければ一歩も東に帰るまいとした。今なぜ引き返しているのか。むしろ西に向かって死ぬべきだ。どうして東に帰って生きられよう)の三箇所に見える。玄奘は、仁寿2年(602)〜麟徳元年(664)中国唐代の僧。法相宗の開祖。洛州陳留(河南省偃師県)の人。俗姓陳氏。13歳で得度。洛陽の浄土寺で勉学したのち武徳5年(622)に具足戒をうけ、成都から草州、相州、趙州をへて長安に戻り、大覚寺に住んで道岳、法常、僧辨といった学僧から倶舎論や摂大乗論の教義を受けたが、多くの疑義を解決することができず、国禁を犯して貞観3年(629)インドへ出発。中央アジア・カシミール経由でマガダ国に入りナーランダ学院にて戒賢に師事。大乗の唯識学(瑜伽論)を中心に仏教論理学や文法学などを広く研究し、貞観19年(645)帰朝後、没するまで『大般若経』『解深密経』『成唯識論』など総計76部1347巻に及ぶ訳業を完成した。これにより唐初の仏教界に法相宗が生まれ,日本の奈良にも伝えられた。弟子弁機は『大唐西域記』を撰し,慧立に『大唐大慈恩寺三藏法師傳』がある。なお小説『西遊記』は『大唐西域記』や『三藏法師傳』の話にもとづき、明の呉承恩が隆慶4年(1570)ごろ撰したもの。

普燈録(ふとうろく)
嘉泰普燈録(かたいふとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。雷庵正受(1146-1208)の編。『傳燈録』 『廣燈録』 『續燈録』の後を承けて、その欠けたるを増補した禅宗史伝の書の一つ。嘉泰四年(1204)に成り、南宋の第四代皇帝・寧宗に上進して入蔵を勅許された。前三書が出家沙門の事に偏しているのを改め、広く王公・居士・尼僧等の機縁を集める。

碧巌録(へきがんろく)
佛果圜悟禪師碧巖録(ぶっか えんご ぜんじ へきがんろく)。『圜悟禪師評唱雪竇和尚頌古碧巌録(えんごぜんじ ひょうしょう せっちょう おしょう じゅこ へきがんろく) 』ともいうように、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん;980〜1052)が、『景徳伝燈録』千七百則の中から選んだ百則に頌古(じゅこ)を加えた『雪竇頌古百則』に、圜悟が垂示(すいじ)・著語(じゃくご)及び評唱(ひょうしょう)を加えたもので、圜悟の在世中から刊行された。圜悟の弟子大慧宗杲(だいえ そうこう;1089〜1163)は、修行僧が参禅実習をおろそかにするとして『碧巖録』を焼き棄てた。元の大徳年間、杭州の張明遠が成都大聖慈寺にあった版本を見いだし校勘を加え「宗門第一書」と冠し大徳4年(1300)出版。以後禅宗第一の典拠となる。「碧巌」の名は圜悟が住した夾山の方丈の扁額「碧巌」を取り、その由来は夾山の開祖善会の「猿抱子歸青嶂後、鳥銜華落碧巖前」から来た。

別無工夫(べつにくふうなし)
羅湖野録』に「建州開善謙禪師。平居不倦誨人。而形於尺素。尤為曲折。有曰。時光易過。且緊緊做工夫。別無工夫。但放下便是。只將心識上所有底一時放下。此是真正徑截工夫。若別有工夫。盡是癡狂外邊走。山僧尋常道行住坐臥決定不是。見聞覺知決定不是。思量分別決定不是。語言問答決定不是。試絶却此四箇路頭看。若不絶。決定不悟此四箇路頭。若絶。」(建州開善謙禅師。平居人に誨えて倦まず。而も尺素を形し、尤も曲折を為す。有るに曰く、時光過し易く、まさに緊緊に工夫を做さんとす。別に工夫なし、但だ放下すれば便ち是なり。ただ将に心識上の所有底を一時に放下す。此れは是れ真正経截の工夫なり。若し別の工夫あらば、尽く是れ痴狂の外辺を走る。山僧尋常に道う、行住坐臥の決定は是ならず、見聞覚知の決定は是ならず、思量分別の決定は是ならず、語言問答の決定は是ならず、試しに此の四箇の路頭の看を絶却せよ、若し絶せずば、決定は不悟、此の四箇の路頭、若絶せよ。)とある。決定(けつじょう);決まって動かないこと。また、信じて疑わないこと。室町時代の僧、夢窓疎石(むそうそせき:1275〜1351)の『夢中問答』に「古人云はく、一切の善悪すべて思量することなかれ、又云はく、直に無上菩提におもむきて、一切の是非管することなかれ、又云はく、別に工夫なし。放下すれば便ち是なりと云云。」とあり有名。

龐居士(ほう こじ)
中国唐代の代表的な居士。諱は蘊、字は道玄。初め儒学を修め、のち禅門に帰依し、石頭希遷禅師に参じ、のち馬祖道一禅師に参じ、ついにその法を嗣ぐ。生涯出家せず、妻子とともに竹漉を製して業としたという。傅大士と双んで唐土の維摩とよばれる。

方谷 浩明(ほうたに こうめい)
臨済宗の僧。大徳寺512世。大徳寺12代管長。大正2年(1913)〜平成7年(1995)。道号は浩明、法諱は宗然。室号桃源室。俗姓浜、のち方谷。福岡県姪浜市出身。昭和3年、崇福寺の小南老師と法縁を結ぶ。翌年、福岡県糸島郡安養寺の方谷貫道について得度。同9年、大学在学中に、久松真一教授に師る。同12年卒業後、九州に帰り心宗庵、崇福寺に寄宿し大学に研究生として通う。同14年相国僧堂に掛搭。山崎大津櫪堂両老師に参じ、櫪堂老師に嗣法する。この間、同年、僧堂在錫のまま安養寺住職を拝命。同23年花園大学講師。同27年5月、崇福僧堂師家、同41年には大徳寺派管長に就任。横嶽の古跡瑞雲寺の復興に尽力、同55年、師家退任後は瑞雲寺に閑栖する。平成7年1月30日遷化。世寿82。

北風吹白雲(ほくふう はくうんをふく)
唐の蘇頲の五言絶句「汾上驚秋」(汾上秋に驚く)に「北風吹白雲、萬里渡河汾。心緒逢搖落、秋聲不可聞。」(北風白雲を吹き、万里河汾(かふん)を渡る。心緒(しんしょ)搖落(ようらく)に逢い、秋声聞く可(べ)からず。)とある。冬の北風が白雲を吹き流し、万里のかなたから旅をして、今、汾河を渡る。私の心は、ひらひらと散る落ち葉に遭い、秋の声を聞くに堪えない。蘇頲(そてい)。670〜727。字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)進士に及第。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任。玄宗がその文を愛し、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜらる。

歩歩是道場(ほぼこれどうじょう)
『古尊宿語録』趙州真際禪師語録之餘に「師問座主。所習何業。云。講維摩經。師云。維摩經歩歩是道場。座主在什麼處。主無對。」(師、座主に問う。所習何業。云く、維摩経を講ず。師云く、維摩経、歩歩是れ道場なるに、座主、什麼の処に在る。主、対えるなし。)とある。『明覺禪師語録』に「師問云。維摩老云。歩歩是道場。這裏何似山裏。衆下語師皆不諾。師代云。只恐和尚不肯。」(師、問うて云く、維摩老云く、歩歩是れ道場。這裏は山裏に何れぞ。衆、語を下すも、師、皆な諾さず。師、代わりて云く、ただ和尚肯せざるを恐れるのみ。)とある。這裏(はうり);この場所。『維摩經』に「直心是道場無虚假故。發行是道場能〓(辛方辛)事故。深心是道場揄v功コ故。菩提心是道場無錯謬故。布施是道場不望報故。(下略)」(直心は是れ道場、虚仮なき故に。発行は是れ道場、能く事故を弁ず故に。深心は是れ道場、功コを揄vする故に。菩提心は是れ道場、錯謬なき故に。布施は是れ道場、報を望まざる故に。)云々とある。至るところすべて修行の場であるとの意。

本來無一物(ほんらいむいちぶつ)
『六祖壇經』にある中国禅宗の第六祖慧能の「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)の一句。
聯燈會要』に「有居士盧惠能。來參。師問。汝自何來。云嶺南。師云。欲求何事。云唯求作佛。師云。嶺南人無佛性。若為得佛。云人有南北。佛性豈然。祖默異之。乃呵云。著槽廠去。入碓坊。腰石舂米。供衆。師將付法。命門人呈。見性者付焉。有上首神秀大師。作一。書于廊壁間云。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。師嘆云。若依此修行。亦得勝果。衆皆誦之。聞。乃問云。誦者是何章句。同學具述其事。云。美則美矣。了則未了。同學呵云。庸流何知。發此狂言。能云。若不信。願以一和之。同學相顧而笑。至深夜。自執燭。倩一童子。於秀之側。書一云。菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何處惹塵埃。」(居士あり、盧惠能。来たりて参ず。師問う、汝はいずこより来るや。云う、嶺南。師云く、何事をか求めんと欲す。云う、唯だ作仏せんことを求む。師云く、嶺南の人に仏性なし、若為ぞ仏を得ん。云う、人には南北あるも、仏性には豈に然らんや。祖、默しこれを異とす。乃ち呵して云く、槽廠に著き去れと。、碓坊に入りて、石を腰きて米を舂き、衆に供す。師、将に付法せんと、門人にを呈するを命ず。見性者付す。上首神秀大師あり。一偈を作る。廊壁の間に書きて云う。身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時時に払拭に勤めよ。何れの処にか塵埃を惹かん。師、嘆じて云く。若し此に依りて修行せば、また勝果を得ん。衆皆な之を誦す。、聞く。乃ち問うて云く、誦するは是れ何の章句ぞ。同学、其事を具述す。、云う、美なることは則ち美なり。了ずることは則ち未だ了ぜず。同学、呵して云く、庸流、何をか知らん、此の狂言を発す。、云く、若し信ぜずば、願くは一を以て之を和せん。同学答えず、相顧て笑う。、深夜に至り、自ら燭を執りて、一童子を倩し、秀のの側に、一を書きて云く。菩提もと樹に非ず、明鏡もまた台に非ず。本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。)とある。
初祖達磨(だるま)大師より第五祖の弘忍(ぐにん)が法嗣を決定するため、悟りの境地を示した詩偈を作れと弟子達に命じた。学徳に優れ信望厚く、六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)がこの詩偈を廊壁に書いた。寺男として米搗きをしていた慧能がこれを聞き、綺麗だが未だ至っていないと、無学文盲のため童子に頼み「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)と壁書した。菩提というのは樹ではなく、明鏡もまた台ではない。もともと何もないではないか、どこに塵埃がつくと言うのか、と言う意味である。これを聞いた五祖弘忍は夜になって慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、伝法が済んだ今、ここにいては危ういから一刻も早く立ち去るがよいと、密かに逃がし、別れに臨んで「法縁熟するまで身を隠して聖胎長養し、市塵へ出るな」と忠告したという。

 
  
  
  
  
  
 

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