茶道用語

慶入(けいにゅう)
楽家11代。文化14年(1817)〜明治35年(1902)85歳。丹波国の酒造家小川直八の子。のち10代旦入の婿養子となる。弘化2年(1845)11代吉左衛門を襲名。明治4年(1871)剃髪隠居して慶入と号す。作風は道入を慕い、新しい趣向をこらした近世の名工。瀟洒な作風に特色がある。西本願寺のお庭焼露山焼に従事し大谷光尊上人から受けた「雲亭」印を賜る。襲名してから、嘉永7年(1854)に御所炎上の火災で類焼するまで、大徳寺大綱和尚筆の「蜘蛛の巣印(大綱印)を使い、安政元年(1854)から明治4年(1871)に隠居するまでは「董其昌印」を使う。「白楽印」は明治4年の隠居後に使った楽印。他に雲亭印や表千家碌々斎筆の「天下一」印も用いる。

結界(けっかい)
道具畳の向こうに客畳のある広間などで、その仕切りに置くもの。結界の語は、仏教から来たもので、Simabandhaの訳語とされる。sima(シーマー)は境界で、やくざの世界で使う「シマ」(縄張り)の語源とされ、bandha(バンダー)は錠・封の意で、『十誦律』に「僧一布薩共住。隨共住幾許結界内」とあるように、同じ会に属し共同の生活をする僧の住まう地域を区画すること。

賢江祥啓(けんこう しょうけい)
室町時代の禅僧・画僧。号は貧楽斎。字は賢江。祥啓は諱。建長寺の書記を務めたことから啓書記ともよばれる。生没年未詳。下野国の宇都宮氏13代当主 宇都宮持綱の家臣丸良綱武の子で、嘉吉元年(1441)興禅寺に入り得度。長録元年(1457)鎌倉の建長寺に入るという。文明10年(1478)上京し南禅寺に身を寄せ、文明12年(1480)まで三年間、芸阿弥(1431〜1485)に師事、幕府の画庫で唐絵を学ぶ。山水画をよくし、輪郭線の太い簡素な作風で鎌倉水墨画の代表とされる。関東水墨画派(祥啓派)の祖。

剣先梅鉢緞子(けんさきうめばちどんす)
剣先紋を直線で繋いで亀甲形(六角形)を作り、その中に梅鉢紋を配した緞子。亀甲梅鉢紋ともいう。剣先紋は、六角形(亀甲)を山形に三つ組み合わせたもので、仏像の毘沙門天像が着ている甲冑の文様の形に似ているため毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)とも呼ばれる。『古今名物類聚』所載の名物裂に「剣先緞子」がある。

剣先緞子(けんさきどんす)
名物裂の一。萌黄色の経五枚繻子で、剣先紋を織り出した緞子。剣先紋は、六角形(亀甲)を山形に三つ組み合わせたもので、仏像の毘沙門天像が着ている甲冑の文様の形に似ているため毘沙門亀甲(びしゃもんきっこう)とも呼ばれる。『古今名物類聚』に載り、中興名物「走井茶入」(伊部焼)の仕覆裂に用いられている。ほかに色違いで同文の緞子が各種あるが、いずれも明時代中期以降の作。花丸紋または丸龍紋を散らしたものもある。

乾山焼(けんざん やき)
尾形乾山の創窯した乾山窯で焼かれた陶器。京焼のひとつ。意匠性の強い優れた絵付が特徴で、「乾山」の銘がある。乾山の著した『陶工必用』に「愚拙元禄卯之年洛西北泉渓ト申処ニ閑居候処ニテ陶器ヲ製シ始 則京城ノ西北ニ相当リ候地ニ候故陶器ノ銘ヲ乾山ト記シ出申候、其節手前ニ指置候細工人孫兵衛ト申者右押小路寺焼之親戚ニて則弟子ニ候而細工焼方等巧者ニ候故御室仁清嫡男清右衛門ト共ニ手前江相頼ミ置 此両人押小路寺内かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候」とあるように、作品は仁清の長男・清右衛門と押小路寺焼職人の孫兵衛らが施釉、焼窯といった作業のほとんどを行い作品に「乾山」の銘を付けた。多くの字体の異なる乾山銘が存在する。光琳が絵付をし、乾山画賛をした合作の作品も残る。同じく『陶磁製方』に「道具之形模様等ヲ私 其上同名光琳ニ相相談候而最初之絵ハ皆々光琳自筆ニ画申候 爾今絵之風流規模ハ光琳このミ置候通ヲ用又ハ私新意ヲも相交へ」というように光琳風の文様や意匠を施す。器形は型造りが多く、当時輸入されたオランダ染付けや色絵に学び、釉下着彩(色絵下絵)も試みている。絵付を生かし恰も紙や布に絵筆を走らすような味わいを出すため、器の堅牢度をあきらめ、素地の上に白泥を刷毛塗りし、その上に直接銹絵を描き、透明釉を掛けて低火度焼成した白地銹絵(さびえ)と呼ばれる類のものである。乾山江戸下向の後、猪八(いはち)が二代目乾山を名乗り、聖護院窯を構えで乾山焼の業をつづけ、その後も何代かの乾山が出る。江戸入谷においても乾山を名乗るものがある。

源氏車(げんじぐるま)
御所車の車輪が川の水に洗われるさまを描いた文様。武者小路千家の好みもの。平安時代、貴族の用いる牛車を御所車と呼び、その御所車の車輪などは木製で乾燥に弱いために使わないときには川などに入れて乾燥を防いだ。その景物を取り上げ、車輪が水の流れに隠れて半ば見えなくなった状態を図案化したものを「片輪車(かたわぐるま)」といい、直斎が「片輪車」をもとにした「源氏車香合」を好む。「源氏車香合」は、蓋甲に大きく三基の片輪車を鮑貝で表し、波を金蒔絵で描いたもので、四代八郎兵衛宗哲の作。直斎以来、歴代家元が「源氏車」の香合炉縁などを好んでいる。

源氏香(げんじこう)
組香の一。香木5種を各5包ずつ計25包を切り交ぜ、中から任意の5包をとってひとつを炷き、客に香炉を順にまわし、香を聞く。これを5回繰り返し、5つの香りの異同を、まず5本の縦線を紙に書き、右から、同じ香りであったと思うものを横線でつないでいく。この5本の線を組み合わせてできる型は52通りあり、この52通りの図を源氏物語五十四巻のうち桐壷と夢浮橋の巻を除いた五十二巻にあてはめた「源氏香の図」と照合し、源氏物語の該当する巻名を書いて答とするもの。この「源氏香の図」が「源氏香文」と呼ばれるもので、器物の文様とし使われている。

献上唐津(けんじょうからつ)
唐津藩が中里家五代喜平次らに命じ、亨保19年(1734)御用窯「御茶碗窯」を開かせ、将軍家や大名たちに贈るためにつくらせた精巧な作風の唐津焼。白土を水漉しして、さらに鉄分をのぞいて素地を作り、器物が乾かないうちに印家紋、雲鶴文様などをつけ、文様に鬼板を塗り込み、乾燥後、表面を拭き取り、長石釉をかけ焼成すると文様が浮き出てくるもの。又、呉須、鉄絵具などで写実的な文様を描く場合もある。

建水(けんすい)
席中で茶碗をすすいだ湯水を捨て入れるための器。建水は最も格の低い道具として、点前の際は勝手付に置かれ客からは見えにくいところで使われ、会記でも最後尾の一段下げたところに記される。古くは「みずこぼし」といい、水翻、水覆、水建、水下などと書いた。今は建水と書いて「けんすい」と呼ぶ。通称は「こぼし」という。唐銅砂張毛織七宝、鍍金、真鍮(しんちゅう)などの金属や陶磁器、竹木製でつくられ、特に定まった形はないが、昔からのかたちとしては「大脇指」「差替」「棒の先」「槍鞘」「箪瓢」「餌畚」「鉄盥」の建水七種がある。唐物南蛮物は雑器の転用が多く、曲物紹鴎が勝手用に使ったのを利休が席に持ち込んだといわれ、面桶(めんつう)ともいう。木地のままのものが正式なものとされる。『山上宗二記』には「釣瓶(つるべ)・面桶・竹蓋置、此の三色、紹鴎好み出されたり」、『源流茶話』に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候」とある。

源流茶話(げんりゅうちゃわ)
藪内家第五世・藪内竹心(やぶのうち ちくしん:1678〜1745)の著した茶書。著述年代は不明だが『茶話指月集』を批判している箇所があることから、元禄十四年以降享保頃の成立と考えられる。その源流茶話序に「一、茶話全部三巻、上巻一ニ和漢茶之由来、二ニ茶会之濫觴、三ニ中興大成之次第、四ニ諸流之辨、五ニ茶席茶具之説、中巻ニ近世見聞の問答、下巻ニ珠光・紹・利休茶系之略傳并ニ和漢茶事詠略」とあるように、上・中・下の三巻から構成され、上巻は「源流茶話序」と問答形式の54か条が叙述され、2から7までは和漢茶の由来、茶会の濫觴、中興大成の次第、諸流の弁、8以下が「茶具問答」となっている。中巻は45か条で、1から32までは「見聞問答」として問答形式で露地茶事懐石茶室などについて当世流の不審を叙述し、33から45までは「茶人或説」として古人の茶の湯に関する説を紹介する。下巻は「言行部」として、能阿弥から始まり千宗旦まで17名の茶人伝と「詞花」「和漢茶事録」と題して茶の湯史料を、「唐賢茶事詠略」として中国文人の茶を詠んだ漢詩史料を掲載する。

 
  
  
  
  
 

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