茶道用語

乳緒(ちお)
壷飾の際に、茶壷の乳(耳)に通す緒。乳縄(ちなわ)とも。『茶道望月集』に「乳緒と云物は其乳の数幾ツ有ても表を前になして置、其左右に成たる乳二ツ計に附る事と可知。乳毎に悉く附るにてはなし。是を元結とも云也。是も色は紫か赤か。口覆の長緒とは色の替りたる能。此太サは口覆の長緒の太サとは一倍太きが能。組様は四ツ打にして、其打留を六分計切残して、総の如にして留る能。掛様は其乳へ通し二ツに折て、其一方の緒を一重わなにして、一方の緒を其わなへ通して、結び締て下げおく也。悉く筆に及難し。其結び締る所は、上より其長サの三分一程の所にて結び留る能。下へ下るは三分二也。偖此乳緒の用は、此緒を取添て、壷を扱ふ為の用と可知。依て取緒とも云。然共必是を持て、扱ふと云にてもなし先は飾也。」とあり、元来壷を持つために掛けるものという。

千鳥の盃(ちどりのさかずき)
懐石で、八寸のときに行われる主客が盃を応酬する盃事。同じ盃で亭主と客一同とが交互に盃を交わしていくところから「千鳥」と称する。懐石で、食事の段に続き、客が箸洗いを終わったころ、亭主が左手に八寸、右手に銚子を持って出て、正客の前に座り、酒を注ぎ、吸物椀の蓋裏に、八寸の海のもの一種を付け、客は受けた酒と肴を頂く。次客以下も同様にし末客まで一巡したら、亭主は、再び八寸銚子を持って正客の前に座り、八寸を正客の前に置く。正客は、亭主に盃の持ち出しをすすめ、亭主は「お流れを」と答え、 正客は盃を懐紙で拭いて、盃台に載せ、亭主に差し出す。亭主が盃を取ると、次客が酌をし、亭主はそれを飲み、飲み終わった盃を懐紙で拭い盃台に載せ、正客の吸物椀の蓋裏に八寸の山のもの一種を付け、正客に「暫時拝借」と挨拶をして、正客の盃を借り、次客に渡して酌をし、肴を次客に付け、次客が盃を空けると、亭主は次客から盃を受け、三客から酒を注いでもらって飲みというように、詰まで、ひとりずつ肴を付けながら、献酬して回る。これを「千鳥の盃」という。詰との献酬が終わると、左手に八寸を、右手に銚子を持って正客の前に戻り、盃を借りた礼をいい、正客に盃を返して、酌をする。 正客は、ころあいを見て、亭主に酒を注ぎ、納盃の挨拶をし、八寸の盃事は終わり、亭主は八寸銚子を持って給仕口に戻る。

茶入(ちゃいれ)

点前に使用するための、濃茶を入れる陶製の容器。茶壷を「大壷」と呼ぶのに対し「小壷」という。通常は、象牙製の蓋をし、仕服(しふく)を着せる。薄茶の容器のことは薄茶器茶器という。京都建仁寺の開山栄西禅師が宋から帰朝した際に、洛西栂尾の明恵上人に茶の種を贈るのに用いた漢柿蔕(あやのかきべた)の茶壷が始まりといわれる。元々は薬味入・香料入などに使用されていた容器を転用したもの。『古今名物類聚』に「小壷を焼ことは元祖藤四郎をもつて鼻祖とする。藤四郎本名加藤四郎左衛門といふ。藤四郎は上下をはぶきて呼たるなるべし。後堀河帝貞応二年、永平寺の開山道元禅師に随て入唐し、唐土に在る事五年、陶器の法を伝得て、安貞元年八月帰朝す。唐土の土と薬と携帰りて、初て尾州瓶子窯にて焼たるを唐物と称す。倭土和薬にてやきたるを古瀬戸といふ。古瀬戸は総名なり。大形に出来たるを大瀬戸と云なり。此手小瀬戸に異なり、小瀬戸といふは小形に出来たるをいふ。此手大瀬戸に異なり、入唐以前やきたるを、口兀、厚手、掘出し手といふ。大名物は古瀬戸唐物なり。誠に唐土より渡たるものをばといふ。これは重宝せぬものなり、唐物と混ずべからず。掘出し手といふは、出来悪敷とて、一窯土中に埋みたりしを後に掘出したりとなり。一説には小堀公時代に掘出したるともいふ。総て入唐以前の作は、出来は田夫にて下作に見ゆるなり。古瀬戸煎餅手といふあり、これは何れの窯よりもいづる。窯のうちにて火気つよくあたり、上薬かせ、地土ふくれ出来たるものなり。後唐の土すくなく成たるによりて、和の土を合てやきたるを春慶といふ。春慶は藤四郎が法名なり。二代目の藤四郎作を真中古といふ。藤四郎作と唱るは二代めをさす也。元祖を古瀬戸と称し、二代目を藤四郎と称するは、同名二人つづきたる故、混ぜざるために唱分たるなり。藤四郎春慶も二代めなり。三代め藤次郎、是を中古物といふ。金華山窯の作者なり。四代め藤三郎、是をも中古物といふ。破風窯の作者なり。黄薬といふも破風窯より出たるものなり。正信春慶といふものあり、正信は何人なる事を詳にせず。又後時代春慶と称するは、堺春慶、吉野春慶なり。後窯と称するは、坊主手宗伯正意山道茶臼屋源十郎利休鳴見捻貫八ツ橋伊勢手萬右衛門等なり。又遠州公時代に、新兵衛江存茂右衛門吉兵衛等あり。其外国焼と唱るものは、薩摩、高取、肥後、丹波、膳所、唐津、備前、伊賀、信楽、御室なり。祖母懐は美濃の国焼なり。大窯物といふは瀬戸なれども、至て後のものにて、漸百年余りになるもの也。右後窯以下国焼にも遠州名物数多し。」とあり、到来物の茶壷を漢作唐物茶入と称し、瀬戸の加藤四郎左衛門景正が唐から持ち帰った土と薬で瀬戸瓶子窯で焼いたものを唐物としている。ただ、『茶道筌蹄』にも「藤四郎入唐後を唐物といふ説あれども甚疑はし」あるように伝説にすぎないとの説もある。大別して漢作唐物・唐物・和物・島物に分類されており、漢作唐物・唐物の分類は曖昧で主に伝来に依っているが、漢作唐物は型造りで胴継ぎしたところに継目を押さえた箆跡が胴紐となって残っているものが多く見立によるもの、唐物は轆轤仕上で中国へ注文して作らせたものとする説もある。和物では、藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類し、藤四郎が焼いたものを「古瀬戸」または彼の法号をとり「春慶」と称し、二代目が焼いたものを藤四郎窯、真中古(まちゅうこ)、三代目が焼いたとされる金華山窯、四代目が焼いたとされる破風窯を中古物と称する。利休の頃の破風窯以後の瀬戸、美濃、京都などで焼かれたものを後窯(のちがま)と称し、「利休」「織部」「宗伯」「鳴海」「正意」など指導したとされる人物の名を取ったものがある。その他は国焼(くにやき)の名称のもとで、各々その産地を冠して呼び名としている。島物は、南蛮貿易などにより、東南アジア、南中国、ルソン、琉球などからもたらされた容器を茶入として採り上げたものをいう。 『茶道筌蹄』に「唐物 往古は唐物のみを用ゆ。其内茄子を上品とす。肩衝、文林、是に次ぐ。此三品を盆點に用ゆ。其後品少く成し故、丸肩衝まで用ゆ。」とあり、茶入の姿から、肩の張った物を「肩衝」、林檎に似た形の「文琳」、茄子に似た形の「茄子」、文琳と茄子の合の子のような「文茄(ぶんな)」「鶴首(つるくび)」「丸壺(まるつぼ)」「大海」「尻膨(しりぶくら)」など名付けられ分類されている。


茶会(ちゃかい)
客を招き、抹茶を点ててもてなす集り。本来は茶事をいう。明治28年(1895)益田鈍翁(1847〜1938)が近代の大寄せ茶会の先駆け「大師会」を催して以来、多くの客を一同に招き菓子薄茶(あるいは濃茶)のみをもてなす「大寄せ」が次第に盛んになり、近年はほとんど大寄せ茶会が一般的となったため、茶会というと「大寄せ」をさすことが多くなり、本来の意味を表すためには「茶事」の語を使う事が多い。

茶会記(ちゃかいき)
茶会の道具などを記録したもの。「会記」ともいう。招かれた客がその茶会の記録を記す「他会記」と、亭主が自分の茶会を記録する「自会記」がある。今の茶会記につながる最も古い会記は、天文2年(1533)3月22日に始まる『久政会記』(松屋会記)とされ、利休時代の『松屋会記』『天王寺屋会記』『今井宗久茶湯日記抜書』『宗湛日記』を「四大茶会記」といい、当時の茶の湯を知るのみならず、歴史上、美術史上の史料として高く評価されている。今日の茶会記の大体の形式は、「」として掛物の筆者、種類・内容、箱書・伝来などを記し、次に「花入」、続いて「」「香合」「水指」「茶入」「茶碗」「茶杓」、次に「蓋置」「建水」を一段下げ、続いて「御茶」のみ「御」の字をつけて記し、「菓子」一段下げて「器(菓子器)」と記す。「花入」「」「茶入」に付随する、「」、「風炉」「板(敷板)」「縁(炉縁)」、「袋(仕服)」はそれぞれの次に一段下げて記す。炭点前があれば「香合」の次に一字下げて「炭斗」「羽箒」などと列記する。続き薄茶があれば「茶入」「」の次に「茶器(薄茶器)」を記し「替茶碗」が加われば「茶碗」の次に一時下げて記す。改めて薄茶席がある場合は、濃茶のあとにまとめて記す。「花入」「」「水指」「茶入」などは産地を先に記し、形の特徴をこれに添える。「茶杓」は作者、筒、箱などを記す。正式の茶事の場合は、日付、場所、亭主、参会者、茶事の様式なども記す。各流派、好みや状況に応じて、必ずしも一定のものではない。

茶経(ちゃきょう)
中国唐代に陸羽(733?〜803)が著した世界最古の茶書。唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめたもの。建中元年(780)刊。「さけい」ともいう。三巻十章よりなり、一之源(茶樹の原産地、特徴、名称、自然条件と茶の品質との関係、茶の効用など)、二之具(茶摘みと製茶道具及び使用方法)、三之造(茶摘みと製茶法、及び品質鑑別の方法)、四之器(茶道具の種類と用途)、五之煮(茶の煎じ方と水質)、六之飲(飲茶の方法、意義と歴史の沿革)、七之事(古代から唐代までの茶事に関する記載)、八之出(全国名茶の産地と優劣)、九之略(一定の条件で、茶摘み道具と飲茶道具で省略することが出来るもの)、十之図(以上それぞれの図)に分かれ、唐代までの茶の歴史、産地、効果、栽培、採取、製茶、煎茶、飲用についての知識と技術を論じたもの。

茶巾(ちゃきん)
茶碗をふくのに使う布。奈良晒(ならざらし)など麻布が多く用いられ、流儀や用途により大きさが異なる。茶布巾。鯨尺で8寸(30.3cm)幅の麻の布を、3寸3分(12.5cm)の長さに裁ち、両端の裁ち目を、片面に縫目、片面には折り込んだ縫代が見えるよう反対にかがり縫いにし、裏表がないようにできている。『分類草人木』に「一、茶巾は、切り口を縫うべし。宗悟は、縫わぬも苦しからずと。」とあり、『南方録』に「惣て端ぬはずにたゝみたるが、茶巾の真なり。名物天目または茶碗も、秘蔵の物に真にすげし。端ぬいして、しぼりふくためたる類は、草の茶巾なり。取りちがへて心得る人あり。」と、端を縫わないのが真の茶巾とする。

茶事(ちゃじ)
茶の湯において懐石濃茶薄茶をもてなす正式な茶会。古くは広く茶の湯全般を意味する言葉として使われたが、明治28年(1895)益田鈍翁(1847〜1938)が近代の大寄せ茶会の先駆け「大師会」を催して以来、多くの客を一同に招く「大寄せ」が次第に盛んになり、近年の茶会はほとんどこの大寄せ茶会が一般的となったため、これと区別するために使われる。季節や時間、趣向によってさまざまな茶事がある。そのなかで茶事の形態により一定の形式化がされており、「正午の茶事」(昼会)が一番規格の正しい茶事という扱いになっており、これに対し「朝茶」(朝会)、「夜咄」(夜会)があり、「正午」は正午頃を席入とする茶事で一年を通じて行われるが、「朝茶」は主に夏の早朝、「夜咄」は主に冬の日没後の茶事とされ、あわせて「三時の茶」と呼ばれる。これに加え、厳寒の暁天には「暁の茶事」(夜込)が行われる。他に、午前でも午後でも食後に招くものを「飯後の茶事」(菓子会)、貴人などを案内した茶事の道具をそのまま使って参会できなかった客から所望されて催す「跡見の茶事」、突然の客などをもてなす「不時の茶事」(臨時)がある。これら「正午」「朝茶」「夜咄」「」「飯後」「不時」「跡見」の茶事を総称し茶事七式という。正午の茶事では、茶会の招きを受けると、「前礼」といい招かれた相手先に挨拶し、当日は「寄付」に集り、客が揃うと案内をうけ「外待合」に通り、亭主の「迎付」を受け「蹲踞」で手水をつかい席入したあと、ならば初炭懐石風炉なら懐石初炭と続き、そのあと菓子が出て初座は終わり、中立となり、銅鑼の合図で再び席入(後入)し、濃茶後炭と続き、そのあと薄茶が出て後座は終り、客は退出するという、二刻(4時間)にわたる茶事である。

茶式花月集(ちゃしきかげつしゅう)
江戸時代の茶書。2編4冊。編者不詳。大徳寺宙寶宗宇の題言がある。前編四巻二冊は天保8年(1837)、後編二冊天保10年(1839)に一楽斎の蔵板を新刻。前編は系図、棚の扱い、炉点前、茶事の順序を記す。後編は一般に「千家寸法」と称される道具寸法書を採録したもの。

茶式湖月抄(ちゃしきこげつしょう)
江戸時代の茶書。湖月老隠著。五編十巻。嘉永4年(1851)刊。初編は、茶史・千家系図・棚物・茶事など。二編は、茶箱・炭斗・莨盆。三篇は、風炉・棗・香合・椀など。四篇は、釜・掛物・花入・茶室。五編は、書院飾・台子飾五十箇条・交会主客大意などを、道具については図入りで納める。

茶室(ちゃしつ)
茶の湯のための室。また、その室に付属する建築を含めてもいう。四畳半以下の席を「小間(こま)」、四畳半以上を「広間(ひろま)」といい、『南方録』に「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、杉板のふちなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。」とあるように、四畳半は珠光の創意で、小間としても広間としても用いられる。「茶室」の語は、一般的には近代になって用いられるようになり、室町時代には「喫茶之亭」「会所」「茶湯座敷」「数寄座敷」「茶湯間」「茶礼席」「茶屋」などと見え、桃山時代には「小座敷」「座敷」「囲(かこい)」「数寄屋」などとある。『茶道筌蹄』に「四畳半已下を小座敷といふ。(中略)圍の始りは、珠光東山殿正寝十八畳の間を四ッ一ト分かこひたるが濫觴なり。」、『逢源斎書』に「数寄屋と申事 きゝにくしとて小座敷と古より申候 数寄事をよけ申也」、『茶譜』に「利休流に数奇屋と云事無之、小座敷と云。此小座敷は棟を別に上て、路地よりくぐりを付て客の出入するを云なり。又圍と云は、書院より襖障子など立て茶を立る座敷を圍と云なり。之は床を入てもくぐりを付ても、中柱を立ても、或は突上窓、或は勝手口、通口有之とも、広座敷の内に間仕切て、茶を立るやうに造るゆえ圍なり。右当代は数奇屋とならでは不云。又書院の脇に襖障子を立て、或は三畳、或は四畳半、或は六畳敷にして小座敷のごとくなれば、之も数奇屋と云、又小座敷別に棟を上て、書院と離たも圍と云、何れも誤なり。」とあり、「小座敷」は今日でいう「小間」を指し、「座敷」が一般的な茶室の称で、建物の一部を仕切って作られた茶席を「囲(かこい)」、独立した茶の建物を「数寄屋」という場合が多い。『南方録』に「宗易はまた草茨の小座敷を専にし、わびを致されし故、紹鴎の座敷も、書院と小座敷の間の物に成しなり。」とあるように、利休は草庵の小間を好み、草庵を茶の湯の主流と位置づけ、「備前宰相殿、浅野殿、宗及へ相談のよしにて、鎖の間とて別段に座敷を作事あり。毎々小座敷すみて、またこの座にて会あり。この事を宗易伝へ聞給ひ。これ後世に侘茶湯のすたるべきもとゐなりとて、わさと御両所へまいり、御異見申されしなり。この後は御成の時も、小座敷なれば小座敷、書院なれば書院、とかく一日に座をかへてのかざり所作、御断申されしなり。」とあるように、特別の場合の外は、別の間を用いることはないが、利休の死後、『古田家譜』に「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、その旨を考へ茶法を改め定むべし」とあるように、利休の茶は堺の町人の茶で武家にふさわしくないから、武家流に改革せよと秀吉が古田織部に命じ、改定したものが「式正の茶」で、侘茶に対し、儀礼の茶で、茶室も草庵でなく「座敷」に隣接し相伴席が付けられ、畳廊下で「書院」が連なる設えとなり、これが小堀遠州に受継がれ、伏見奉行屋敷の「長四畳台目」となる。四畳を横に細長く並べ、その中央側面に台目構えの点前座を配し、躙口を中ほどに造ることにより、左方に床と貴人座、右方に相伴席とし一室の中に取り込み、『松屋会記』寛永18年(1641)正月10日に「通口ヨリ鎖ノ間ヘ出候、并書院、亭へ出候」とあるように「数寄屋」に「鎖の間」「書院」が連なり、「直心ノ交」を求め小間の茶室の独立性を重視した利休とは対照的な構成が現れる。

茶杓(ちゃしゃく)
茶入薄茶器の中の抹茶を掬って茶碗に移す匙。竹材がほとんどで、他に象牙・木地・塗物・鼈甲・銀・砂張・陶器などのものがある。始めは、金、銀、砂張、鼈甲、象牙などでできた薬匙(やくじ)とされ、茶匙(ちゃひ)といった。村田珠光は、高価な象牙の代わりに竹を用い漆を拭いた茶杓を作ったとされ、薬匙の姿をとどめた珠光作の竹茶杓「茶瓢(ちゃひょう)」(宗旦追銘)が伝わる。以降、素材はほぼ竹と象牙となるが、形は一定していないが、ほとんどに漆が拭いている。武野紹鴎は、切留(きりどめ)に節を残した留節(とめぶし)や、切留近くに節がある下がり節の茶杓を作った。桃山以降は殆どが茶杓の真中に竹の節がくる中節(なかぶし)となり、千利休により茶杓の定型となったという。また利休織部の頃までは漆を拭いたが、宗旦遠州から漆を拭かず木地のままの茶杓が定型となった。象牙・節無しの竹を真の茶杓、桑または節が切留の竹を行の茶杓、中節の竹、桑以外の木製のものを草の茶杓とする。『山上宗二記』に「一 茶杓 珠徳象牙。昔、紹鴎所持、茄子の茶杓なり。口伝。関白様に在り。 一 竹茶杓 珠徳作あさじ。代千貫。惣見殿(織田信長)の御代、火に入りて失す。 此の外の珠徳茶杓、かず在るべし。次に、はねふち(羽淵)も茶杓けずり也。右両作、当世はすたりたるか。此(このごろ)は慶首座(南坊宗啓)折ためよし。口伝。」、『茶譜』に「宗旦曰く、昔の茶杓削人は、春渓、周徳、羽淵、宗温、右の三人上手と云ふ、利休時代には慶首座と云ふ出家に上手有之、利休も下削は、此慶首座に削らせしと云ふ、古田織部時代は甫竹と云ふ者上手にて、織部も下削させしと也、小堀遠州時代は一斎と云ふ茶道坊主に下削させしと也。或書に云ふ、珠光は周徳に下削させしと有之。」とあるように、茶杓師として、珠光の珠徳(しゅとく)、紹鴎の窓栖(そうせい)・羽淵宗印(はねぶち そういん)、利休の慶主座(けいしゅざ)と甫竹(ほちく)、古田織部の甫竹、遠州の早見頓斎(とんさい)と村田一斎が知られる。
千利休までの竹茶杓は一会限りの消耗品として扱われており、他に贈るときにはに入れ、利休作の「タヽイヘ様参」の送り筒のものがある。利休以降作者への敬慕からに入れて保存するようになり、秀吉に切腹を命ぜられた利休が自から削り最後の茶会に用いた茶杓「泪(なみだ)」を与えられた織部は四角く窓をくり抜いた総黒漆塗りのを作り位牌代わりに拝んだという。利休の頃から銘がつけられるようになり、宗旦遠州のころに共筒、自筆銘が多くなる。寛永以降共箱が現われ、茶杓、筒書付、銘、と一つの形が形成され、千家名物や中興名物に茶杓が取り上げられるようになり道具としての価値をたかめていった。
茶湯古事談』に「茶杓の名所、先のとかりを露といふ、其留りをは刃先といふ、茶をすくふ所を惣名花形といふ、又かひさきともいふ、真中に一筋落入たる樋の有をうは樋といふ、真中に高き筋有て両方に落入たる樋の有を両樋といふ、節・柄の留、うら、おもて、又ふしなしの茶杓も有、柄のはつれに節のあるも二代の宗左の作なとにわあり。茶杓の作者、守徳(東山時代)、羽淵(守徳か次)、塩瀬(はねふちか次)、此三人は南都の住人なり、宗清、これも南都にて紹鴎の頃の者にてかくれもなき侘すきの名有て茶杓けつる事上手也、慶首座、堺南宗寺の僧にて利休時代に茶名も有、茶杓もよくけつれり、甫竹、利休時代より堺に居て能けつれり、其子も甫竹といふ、利休及ひ宗匠達の茶杓にまきれる物多し、石川六左衛門、尾州に有て茶杓けつるに妙を得たる故に、領分の内いつかたの藪にても竹を切取不苦の命をうけて、よき竹を見立て古作の茶杓を手本としてけつれるに、二本よせては真贋わかち難かりしとなん。代々の宗匠達いつれも茶杓作れり、就中涕の茶杓、内くもりの茶杓は利休作にて名高し、内くもりの内には紹巴の記有となん。」とある。

茶筅(ちゃせん)
茶碗に抹茶と湯を入れ、それを撹拌するために用いる竹製の具。10センチほどの竹筒の先半分以上を細かく裂いて糸で編んだもの。その形は流儀や用途によってさまざまである。普通、表千家では煤竹、裏千家はじめほとんどの流派では白竹(淡竹)、武者小路千家では紫竹(黒竹)が使われ、穂先の形状もそれぞれ異なるが、流儀では穂先が真直ぐになっている。ささら状で軟らかい「数穂」が薄茶用で、数穂の半数くらいの穂の数で堅くしっかりした穂先の「荒穂」が濃茶用。他に天目茶碗に使う「天目茶筅」、筒茶碗に使う「長茶筅」などがある。茶筅の語は、北宋徽宗皇帝の『大観茶論』(1107)に、「筅、茶筅以筋竹老者為之。身欲厚重,筅欲疏勁、本欲壯而未必眇、當如劍瘠之状。蓋身厚重、則操之有力而易於運用。筅疎勁如劍瘠、則撃拂雖過而浮沫不生。」(筅、茶筅は、筋竹の老いたもので作る。身は厚くて重く、筅は疏くて勁いのがよい。筅の本は壮く、末は眇くなければならない。そして剣脊状にすべきである。実が厚く重いと、操るときに力が入って運用いやすく、筅が疎くて勁く剣脊のようであれば、撃払がすぎても浮沫が生じないからである。)とあるのが初出とされるが、中国では15世紀明代に抹茶の衰退とともに茶筅も消滅してしまう。南宋の『茶具図賛』(1269)に「竺副帥」として載る茶筅の絵は、長くて外穂・内穂の別がないササラ状で、愛媛県のボテ茶、島根県のボテボテ茶、富山県のバタバタ茶、沖縄県のブクブク茶、鹿児島県のフィ茶など各地に残る茶漬けの一種「振り茶(桶茶)」で使用されるのものに相似する。現在のような、外穂・内穂に分けられた茶筅は、山名弾正家の家臣で北野連歌会所宗匠でもあった、高山宗砌(そうぜい:〜1455)が、近くに住む称名寺の住職であった村田珠光の依頼で開発したといわれている。『茶湯古事談』に「茶筌は紹鴎の比は蓬莱の甚四郎と云者作りぬ、大和の住人にて利休か比まて居し、代々天下一をゆるされし、又高山甚左も利休時代の上手にて是も秀吉公より天下一号の御朱印を下されし、子孫も甚之丞といふ、今も和州高山より茶筌を作り出せり、又玉林といふ茶筌作りの上手有、利休時代の者にて高山より堺へうつりて住ぬ、此子は甫竹といふて茶杓けつりに成しとなん。茶筌の名所、穂さき、編目、節、本の止、柄。」、武者小路千家蔵本『茶湯秘録全』に「紹鴎時分より、和州室木之甚四郎上手也、玉林是も和州高山之者也、宗易時分之上手也、宗易堺江と呼寄也、今之茶杓削甫竹か為には祖父也」とある。外穂の先端を内に曲げる形状のものは、裏千家流で先端を曲げたことが始まりらしく、利休以降に出現したとおもわれる。官休庵流は利休形に最も近い形をしている。

楪子(ちゃつ)
懐石家具の一。端反りの浅い木皿にやや高い足台をつけたもの。菓子や菜を盛った。現在では、精進椀に付随する。『禅林象器箋』器物門に「楪子。浅而底平。環足。便于累畳也」(楪子、浅くして底は平、環足あり、累畳に便なり)、『和漢三才図会』に「按楪子浅盤而有高台。豆子者壺盤之小者楪子與此漆器僧家多用之盛調菜蓋祭祀器有俎豆二物豆子即豆之畧制矣。」(按ずるに楪子は浅き盤にして高台有り。豆子は壺盤の小者なり、楪子と此と漆器、僧家に多く之を用いて調菜を盛る。蓋し祭祀の器に俎豆の二物あり、豆子は即ち豆の畧制か。)とある。

茶壷(ちゃつぼ)
抹茶になる前の葉茶「碾茶」を入れる壺。葉茶壺。高さは小は20cm、大は50cmに及ぶものがあるが、多くは30cm内外で、首が立ち上がり、肩に2〜6個の耳(乳という)が付くが、多くは四耳である。茶壷の中には紙袋に入れた幾種類かの濃茶用の碾茶を収め、その周りに「詰め茶」といわれる薄茶用の碾茶を入れ、木製の蓋をし三重に和紙で包み貼りし封印をする。詰め茶は濃茶の保護と断熱のためのものだが、薄茶として飲用に用いるもの。装束(付属品)として口覆口緒・網・長緒・乳緒がある。茶入を「小壷」と呼ぶのに対し「大壷」という。茶壷の語の初出は、南北朝時代の『師守記』興国元年・暦応3年(1340)正月三日条に葉茶を引出物とした旨の記があるという。室町時代初期の『喫茶往来』には「茶壷は各栂尾・高尾の茶袋。」とあり、喫茶の亭に茶壷を飾ったことが見える。『茶道筌蹄』に「呂宋 むかしは是非真壷へ茶を貯へしなり。夫ゆへに壷なき者は口切の茶の湯をなさざりしとなり。尤呂宋を上品とす。豊太閤の時代、真壷をもてはやしたるゆへ、世間に少く不足なるに依て、左海の納屋助左衛門、太閤の命をうけて呂宋へわたり、壷五十をとり来る。利休是が品を定め、諸侯へわかちしなり。蓮花王 呂宋の上品、かたに蓮花の上に王の文字あり。清香 是も呂宋の上品なり、清香の文字あり。瀬戸 信楽 千家にては、此三品 呂宋、瀬戸、信楽、を用ゆ。」とあるように、いわゆる呂宋壺を最上とし、瀬戸信楽丹波備前などでつくられた。呂宋壺の名で総称される壺は、多くは広東省を中心に中国南部で雑器として大量に焼かれたもので、酒、香料、薬草などを入れルソン島を始めとする東南アジア各地に売られたものが、彼の地でさまざまに利用されてきたものを、桃山時代末期にルソン島から大量に輸入されたのに由来するが、これ以前に同種の壺は請来されており、『君台観左右帳記』には「真壷は口肩うつくしく、肩にろくろめ二あり。又ろくろめのなきもあり。そうのなり、すそまでむくむくとなりよく候。土薬は清香とさのみかはり候はず候。清香は口よりなで肩にして、肩にろくろめおほく候はず候。すそすはりにて細長くなりわろく、土薬は真壷にまぎれ候也。よきは真壷にもをとらず候。」とある。一般的には、「真壷」は銘印も文様ももたない四耳壷とされ、「清香」は模様の様な印の押してあるもので、清香とか洞香とか呼び分けられていたが「清香」の文字の印が最も多いため、しだいに、文字のいかんを問わず印のある壷をすべて「清香壷」と呼ぶようになったという。「蓮華王」(蓮華の模様と王の文字)は、天文23年(1554)『茶具備討集』に初出で、この印も各種ある。『君台観左右帳記』では床飾りには茶壷は用いられていないが、信長・秀吉の時代に書院の飾り道具に用いたことにより、諸大名もこれに倣い争って茶壺を求め、茶器の中でも筆頭道具として位置づけられることになる。

茶道望月集(ちゃどうぼうげつしゅう)
江戸時代の茶書。全四十三巻。久保風後庵又夢著。享保8年(1723)成立。「もちづきしゅう」とも。風後庵又夢久保可季が、師の鳩庵横井等甫から伝授された「庸軒流茶法」四十巻百八十段と「七ヶ条極秘切紙」三巻よりなり、茶事を中心に庸軒流茶法を詳述したもの。

茶湯古事談(ちゃのゆこじだん)
近松茂矩の編になる茶の湯の逸話集。全7巻。本書には享保16年(1731)8月の京都小林質操の序文と元文4年(1739)5月の自身の題言があり、巻末に元文5年(1740)の正六位上源敬忠の跋文がある。第1巻53条、第2巻35条、第3巻43条、第4巻63条、第5巻56条、第6巻26条、第7巻29条の総計305条の逸話が収められている。内容には『茶話指月集』からの引用が随分ある。『茶湯古事談』は、享和4年(1804)に『茶湯古事談』305条の逸話から132条を書き抜き『茶窓陂b』三巻四冊として出版された。近松茂矩(ちかまつしげのり)は、元禄10年(1697) 尾張藩士孫兵衛茂清の子として生れる。通称は彦之進。南海、嚢玄子と号す。正徳二年、十六歳で通番となり、翌年江戸詰となって尾張四代藩主吉通の側小姓として仕えた。片山流居合、貴直流兵法、心念流棒術等を修得し、その技量をもってもっぱら奥詰となった。六代藩主継友の代に、馬廻組となり尾張へ帰る。佐枝系長沼流兵学を学び、のち稲富流など数流の砲術を導入して、単騎の伝を輯録して全流錬兵伝(のちに一全流と改称)と号する一派を開き教授した。一方、神道を吉見幸和に受け、歌を観景窓長雄に学び、俳詣では東花坊支考に習って丁牧と号し、また幼少より千家茶道の余流を学び茶道にも通じた。

茶花(ちゃばな)
茶席に生けた草花。茶室においては掛物と花を同時に飾らないのが正式で、両方一緒に飾るのを「双飾り(もろかざり)」といい略式の扱いで、掛物が長い場合は花入は床柱の釘に掛け、横物の場合には花入は下に置く。 花の入れ方としては、『南方録』に利休の言葉として「花は野にあるやうに」とあり、同じく『南方録』に「小座敷の花は、かならず一色を一枝か二枝、かろくいけたるがよし。勿論、花によりてふわふわといけたるもよけれど、本意は景気をのみ好む心いや也。四畳半にも成りては、花により二色もゆるすべしとぞ。」とあるように「一種二枝」というぎりぎりまで絞り込んだ花を、作為的なものを排しながらも、人手を加えることにより、「花入に入れた花としての自然」を生み、そこに野に咲く花の本質を表現することにより、かえって自然の花の美しさを際立たせるのを本意とする。その利休の花の逸話として『茶話指月集』に「春のころ、秀吉公、大きなる金の鉢に水を入れて床になおさせ、傍に紅梅一えだ置かせられ、宗易に花つこうまつれと仰らる。御近習の人々、難題かなと囁かれけるを、宗易、紅梅の枝さか手にとり、水鉢にさらりとこき入れたれば、開きたると蕾とうちまじり、水上に浮みたるが、えもいわぬ風流にてぞ有りける。公、何にとぞして、利休めをこまらしようとすれども、こまらぬやつじゃ、との上意、御感斜ならず。」、また「宗易庭に牽牛(あさがお)花みごとにさきたるよし、太閤へ申し上ぐる人あり。さらば御覧ぜんとて、朝の茶の湯に渡御ありしに、朝がお、庭に一枝もなし。尤も無興におぼしめす。扨て、小座敷へ御入りあれば、色あざやかなる一輪、床にいけたり。太閤はじめ、召しつれられし人々、目さむる心ちし給い、はなはだ御褒美にあずかる。是を世に利休があさがおの茶の湯と申し伝う。」

茶袋入(ちゃぶくろいれ)
葉茶を入れた紙袋「茶袋」を入れる箱。『茶道宝鑑』に「茶袋入 桐 長五寸 横二寸二分 高サ二寸二分 板厚サ二分 木口サシ蓋向トメ サシ込 蓋横カワ前向トモヒキク」とある。

茶碗(ちゃわん)
茶を飲むための容器。日本の窯で焼かれた「和物(わもの)」と和物以外の「唐物(からもの)」に大別し、和物は「楽焼」と楽焼以外の「国焼」に分け、唐物は朝鮮で焼かれた「高麗(こうらい)」とその他に別けられる。高麗には、井戸熊川呉器半使御本御所丸金海堅手粉引玉子手雲鶴三島伊羅保蕎麦斗々屋柿の蔕絵高麗などがあり、その他唐物には中国の天目青磁・白磁などがある。国焼には、文禄慶長の役の時連れ帰った朝鮮陶工が起こした唐津上野高取薩摩などの窯と、信楽備前丹波瀬戸志野京焼などがある。茶の湯の初期の茶碗は唐物だったが、『山上宗二記』に「惣テ茶碗ハ唐茶碗スタリ、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形(なり)サヘ能候ヘハ数奇道具也」とあるように利休の時代には高麗・国焼が盛んになる。『君台観左右帳記』では、「曜変」「油滴」「建盞」「烏盞」「鼈盞」「能皮盞」「灰潜」「黄天目」「只天目」「天目」「茶碗」などと分けられており、「茶碗。青をば青磁の物と云。白をば白磁の物と云也」とあり、茶碗の語は磁器のものをさしていた事がわかる。『工芸志料』には「時人因りて支那舶来の陶器を名つけて知也和旡(ちやわん)という。又知也宇和旡(ちやうわん)という、既にして又本邦に於いて製する所の陶器の、茶を盛るにあらざるも亦、知也和旡といい知也宇和旡と称す。」とある。

中興名物(ちゅうこうめいぶつ)
茶道具の格付け分類名称。松平不昧の『古今名物類聚』の序に「一 凡名物と称するは。慈照相公茶道翫器にすかせ給ひ。東山の別業に茶会をまうけ。古今の名画。妙墨。珍器。宝壺の類を聚め給ひ。なを当時の数寄者。能阿弥。相阿弥に仰せありて。彼此にもとめさせられ。各其器の名と値とを定めしめ給ふ次て。信長。秀吉の二公も。亦此道に好せ給ひ。利休。宗及に仰せて。名を命し値をも定めしめらる。後世是等の器を称して名物といふ。其後小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」とあるのに始まる。千利休の時代以前の名品を「大名物」とし、小堀遠州の選定によるものを「中興名物」とした。その後、茶入以外の名物道具にも及び、茶入が最も多く、次いで茶碗茶杓花入掛物となる。

宙寶宗宇(ちゅうほう しゅうう)
大徳寺四百十八世 宝暦10年(1760)〜天保9年(1838)。京都の人。則道宗軌に師事。文化4年(1807)請受開堂。大徳寺塔頭芳春院第13世住職。文化5年(1808)品川東海寺輪番後、晩年は山内の塔頭芳春院内に私寮松月庵を営み、茶の湯を楽しんだ。詩偈、書に優れ、歴代住持中の名筆と称された。号に洛陽人、松月老人、松月叟、破睡など。

長闇堂記(ちょうあんどうき)
奈良春日大社の禰宜で茶人 久保利世(くぼ としよ)の随筆。寛永17年(1640)の成立。山上宗二に関する逸話など他書に見られぬものがある。久保利世(1571〜1640)は、通称権太夫。長闇子と号す。幼いとき北野大茶湯を見物し茶の湯に志し、利休の弟子の本住坊から学んだといわれる。同書に「然に小遠州殿或時爰にましませしに。此事を語額一ッ書て給はり候へと申せば。打笑給ひ。さらばとて長闇堂二字を書付給へり。いかなる儀にて有ぞと問申せば。昔の長明は物しりにして智明らか成故明の文字叶へり。其方は物しらず智くらふして。しかも方丈を好めるによりて。長の字をとり闇は其心也と笑給へり。去程に七尺の堂をさして長闇堂と名付。長闇子を我表徳号となせり。」とあるように、東大寺を再建した俊乗房重源の影堂の遺構を屋敷内に茶室としたのを、小堀遠州が長闇堂と命名し、自ら長闇子と号した。

銚子(ちょうし)
酒器の一。酒を入れて杯につぐための器。「銚」は「鍋」のことで、源順(911〜983)の『倭名類聚抄』に「銚子 四聲字苑云、銚、徒弔反、辧色立成云、銚子、佐之奈閇、俗云佐須奈閇。燒器似〓(金烏)ラ、而上有鐶也、唐韵云、〓(金烏)ラ、烏育二音、漢語抄云和名同上、温器也。」、『万葉集』に「刺名倍爾、湯和可世子等(さしなべに、ゆわかせこども)」とあるように「さしなべ」俗に「さすなべ」と云い、注口のある鍋に弦(つる)をつけたもので、湯を沸かしたり酒を温めるのに用いた。柄のついた銚子ができると、弦をつけたものは「提子(ひさげ)」(偏提)と呼ばれた。『和漢三才圖繪』に「按、銚子有両口及柄、官家醋酬必用之、如禮式則用長柄銚子、又以偏提加酌之」とあるように、長柄の銚子が式正の器とされるようになると、提子は銚子に酒の減った時に注ぎ加えるのに用いるものとなる。『貞守漫稿』に「江戸近年式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ、燗して其儘宴席に出すを専とす、此陶形近年の製にて、口を大にし、大徳利より移し易きに備ふ、銅鐡器を用ひざる故に味美也、又不移故に冷えず。式正にも初めの間銚子を用ひ、一順或は三献等の後は専ら徳利を用ふ」とあるように、江戸後期には徳利が流行し、のち徳利をも銚子と通称するようになる。

長次郎(ちょうじろう)

安土桃山時代の楽焼の陶工で、楽家初代。永正13年(1516)〜天正17年(1589)。没年は『宗入文書』に「長次郎 但戌辰年迄に百年計成」とあり、元禄元年戌辰(1688)より100年前の天正17年(1589)を比定したとされ、楽十三代惺入は、過去帳及び墓石より文禄元年(1592)辰年、九月七日没、享年七十七才としたという。唐人・阿米也(あめや)の子と伝えられる。もとは阿米也と共に装飾瓦を焼く工人で「天正二春 依命 長次良造之」の刻銘の赤楽獅子留蓋瓦が伝存する。利休の指導で茶碗をつくり、楽焼を始めたとされ、豊臣秀吉から楽字の金印を拝領して「楽」を称した。黒赤二種の釉薬を用いる。『宗入文書』によると、初期の楽焼は長次郎の他に田中宗慶(そうけい)その子の庄左衛門・宗味(そうみ)と弟の吉左衛門・常慶らの手により作られたとされる。『茶道筌蹄』に「長次郎 飴也の子なり、利休千氏に変し旧姓を長次郎へ譲る、それより今に田中を氏とす、文禄元壬辰九月七日卒す、行年不詳」とある。現在長次郎作とされる楽茶碗には作行きの異なるものが数種類認められる。初期のものとされる「一文字」「大黒」などは利休の切形に従ったと考えられ形姿の基本は半筒形で端然とした姿である。また「俊寛」「杵ヲレ」などは胴にくびれが付き口を内に抱え込むやや作為的な趣がある。ほかに「道成寺」や「勾当」のように口の開いた熊川を想わせる姿のものもあるが、利休の好みによるのか、作風の変化か、異なる作り手の手癖かについては明確となっていない。「道成寺」以外はすべて総釉で、印のあるものは伝えられていない。高台には三〜五個の目跡のあるものがある。利休の選んだ七碗(利休七種)として、赤楽の「検校(けんぎょう)」「早船(はやふね)」「木守(きまもり)」「臨済(りんざい)」、黒楽の「大黒(おおぐろ)」「東陽坊(とうようぼう)」「鉢開(はちひらき)」があり、別に外七種として、赤楽の「一文字(いちもんじ)」「太郎坊(たろうぼう)」「聖(ひじり)」「横雲(よこぐも)」、黒楽の「雁取(がんとり)」「閑居(かんきょ)」「小黒(こぐろ)」がある。


長次郎七種(ちょうじろう しちしゅ)
楽家初代 長次郎 作の楽茶碗から利休が特に好み銘を付けた七碗と伝えられるもので、「利休七種」ともいう。黒茶碗が『大黒(おおぐろ)』『鉢開(はちひらき)』『東陽坊(とうようぼう)』、赤茶碗が『早船(はやふね)』『検校(けんぎょう)』『臨済(りんざい)』『木守(きまもり)』をいう。すべて長次郎の作かについては異説もある。

朝鮮唐津(ちょうせんからつ)
唐津焼の技法のひとつ。鉄釉と藁灰釉(わらばいゆう)をかけ分けたもの。黒や飴色の鉄釉をかけた上から白色の藁灰釉を流し、景色をつける。黒と白のコントラストや、その境界に生まれる青や紫、黄色などの微妙な変化も見所となる。

朝鮮風炉(ちょうせんぶろ)
風炉の一種。五徳を使わず直接風炉の口にをかける「切合(きりあわせ)」(「切掛(きりかけ)」)で足が3本ある三つ足、そのうち1本を正面に向けて置く。唐銅製で、鐶がなく、腰が張り、足が高く、前後に格狭間(こうざま)の窓があり、上部の立ち上がりにも透紋がある。格は行で、真形釜を合わせる。灰は一文字に作る。敷板真塗または掻合を使う。真夏の風炉として使う。

長入(ちょうにゅう)
楽家7代。正徳4年(1714)〜明和7年(1770)。6代左入の長男。亨保13年(1728)7代吉左衛門を襲名。宝暦12年(1762)剃髪隠居して長入と号す。丸みのある大振りなおとなしい作行きのものが多い。厚作りで胴に箆使いがあり、必ず茶溜りがあり、多くは渦巻型である。黒楽は光沢があり、赤楽は深みのある色合いでこまかく貫入が入る。表千家七代如心斎好み「玉の絵茶碗」が著名。細工物にも長じていた。三島、交趾、織部などの写し物もつくっている。正月に使われる大小二つの茶碗を重ねる「島台茶碗」は長入から始まる。印は、楽字の彫りが深く、輪郭の中央に収まっていて、周囲の余白が多い。

  
  
  
  
  
 

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