茶道用語

九谷焼(くたにやき)
石川県九谷で焼かれた磁器。江戸初期に焼かれた「古九谷(こくたに)」と江戸後期の再興九谷、明治初期以降の近・現代の九谷焼に大別できる。
加賀藩の支藩である大聖寺藩初代藩主前田利治(1618〜1660)が、後藤才次郎に肥前有田で製陶の修行をさせ、その技術を導入し、陶工を連れて帰って明暦元年(1655)頃に加賀国江沼郡 九谷村 (石川県江沼郡山中町九谷)で開窯し、田村権左衛門を指導して色絵磁器を焼いたのが始まりとされる。紫・緑・黄を主調とし、補色として紺青・赤で彩色した五彩手や 花鳥、山水、風物、文様と言った意匠を大胆に配した構図は、狩野派の狩野探幽四天王の一人・久隅守景(くすみもりかげ)の指導を受けたとも伝えられる。宝永7年(1710)頃、窯は突然閉鎖されるが、原因はわかっていない。『本朝陶器攷證』には「明暦元年六月二十六日、加州江沼郡久谷村にて始て焼出す。大聖寺二代飛騨守様之御時、楽焼御好にて御手製あそばされ候、其頃御近臣之内、後藤三次郎と申仁、至て功者にて、御手伝いたし居られ候所、御前より仰付られ候には、其方高麗に罷こし伝授を得、三年之内に罷帰り候様仰付られ、夫より慶安三年、かの地へ罷越し候得ども、中々以伝授をゆるさず候故、色々思案いたし、先其国の住人と心を落つけ、婿入いたし候所、程なく一子出生致し候につき、漸伝授いたし候、夫より本国へ逃げ帰り候所、最早年数も六年相立、其上殿様にも御逝去に相成、既に御臨終の時、三次郎と申者、此後罷帰り候とも、用事無之者の候得ば、左やう相心得候様、御家老始夫々へ仰付られおかせられ候ゆゑ、右三次郎帰国いたし候所、御暇之身と相成候得ども、かの地にて自分も相好、骨折稽古いたし、私の長逗留にもこれなき事故、御評定之上、聊之御扶持下され、山籠り仰付られ候よし、夫より三次郎、并田村権右衛門と申者と両人、九谷にて焼始候所、其頃画工狩野守景、絵修行にあるき候よしにて九谷へ参り、下絵をかき候との事、後藤一代にて休窯に相成候」とある。同書に「一、文政七年申年、再び九谷に窯所を設、七月七日焼はじめ候所、一ヶ年にて相止み候、一、窯元は大聖寺吉田屋傳右衛門、職人は木越八兵衛と申者、一、文政八年酉年、同郡山代新村領、字ハ越中谷と云所に窯をこしらへ焼出し申候、尤窯元は大聖寺宮本利八、職人は木越八兵衛、画工は飯田八郎と申者にて候、只今は九谷高麗と相唱申候」とあるように、江戸後期に九谷焼は再興される。これより後の九谷焼を「再興九谷」と呼ぶ。1800年に京都の青木木米を指導者に招き、加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯されたことを機に、大聖寺藩内でも九谷焼再興の動きが起こり、大聖寺の豪商豊田伝右衛門が古九谷再興をめざし古九谷窯跡地に開いた「吉田屋窯(1824〜31)」、有田で陶画を学んだ木崎卜什が築いた「木崎窯(1831〜70)」、宮本屋宇右衛門が休窯した吉田屋窯を買収し再興させた「宮本屋窯(1832〜59)」、大聖寺藩が山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に築かせた「松山窯(1848〜72)」などが築かれた。大聖寺藩は、万延元年(1860)物産役所を設置。続いて宮本屋窯を買収し「九谷本窯」と称し、山代の三藤文次郎と藤懸八十城の二人に資金を貸与し陶業復興に取り組ませ、慶応元年(1865)京都の名工永楽和全を招聘し、九谷陶業は活況を見せたが、明治新政府の発足により大聖寺藩がなくなり再び困難を迎える。明治4年(1871)九谷本窯は、塚谷竹軒の手に移るが振るわず、明治12年(1879)石川県令千坂高雅の肝煎りで旧藩士飛鳥井清が九谷陶器会社を設立、九谷本窯を譲り受けたが明治24年(1891)解散。翌年、社名を九谷陶器本社と改めて再出発したが、これも明治33年(1900)には大蔵寅吉に譲渡された。明治37年(1904)の日露戦争による陶業の一時停滞を契機に、実力ある陶工たちが独立し個人を主体とした九谷焼となる。
再興九谷には窯ごとに特徴ある技法・画風があり、次のように呼ばれる。五彩手や緑を主体に紫・黄・紺青で全面を塗りつぶした青手の「古九谷風」。青木木米の指導により全面に赤をほどこし、五彩を用いて中国風の人物画を描く「木米風」。赤を使わず四彩で、模様のほかに小紋を地模様風にして全面を塗りこめた青手古九谷の「塗埋手」を再興し、一見青く見えるので「青九谷」と呼ばれる「吉田屋風」。赤絵による細密な絵柄で、全体を埋め尽くし金彩を加えた「飯田屋風」。全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した金襴手の「永楽風」。古九谷、吉田屋、赤絵、金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ、洋絵具等も駆使した彩色金襴手で明治以降の産業九谷の主流となった作風の「庄三風」。

口緒(くちお)
茶壷ののどを口覆の上から結ぶ紐で、四つ打になっている。

口覆(くちおおい)
茶壷の蓋の上に被せる四方形の布。金襴緞子などの上質で厚みのある裂の裏に塩瀬がついている。四方の丸みを持った角を剣先と称し、茶壷の四つの乳と乳の間に剣先を向けるように菱なりに覆う。『正伝集』に「壷装束の掛様は、口覆を掛け長緒を両わなに結留候也。但し口覆の先は乳の間々に成様になし、偖わなに結びたる余り、壷の中程より少し上にて、二筋余し候也。長緒を両方にわなを結下る也。但し結様は直伝に有。」、『茶道望月集』に「此壷を飾置合る時、装束をば金襴にて口覆する事也。仕立は海気茶宇片色の類にて裡を附。四方を剣先の如くひだを折附て、其壷の口形に丸く仕立て着せ置事なり。大サは壷相応にて不定。大方は乳に掛る程成が能。偖着せ様は、四方の剣先、一ツは壷の表の方へ成様にきせる能。外の剣先は間々に成也。」、『長闇堂記』に「葉茶壷の口覆い、昔はすみきらすして、口の緒も長きを、利休すみ丸く、口の緒短くせり」とある。

口切(くちきり)
茶壷の口封を切ること。また、その葉茶を臼で挽いて点てて出す茶事。陰暦五月に新茶を詰めた茶壷に桐材の盛蓋をして口封紙を巻いて封印したものを、陰暦十月の開炉とともに壺飾をして封を切る。口切の茶事は、茶人の正月ともいわれて、茶事の中でも最も改まった式正のものとされており、『茶式花月集』に「樋或は戸押縁など、所々見合青竹に改る。ちり箸、さい箸、蓋置、灰吹、青竹に改る。所々戸溜り青竹に改る。路地に松葉を敷。但ししきやう前に記。手水鉢柄杓、内外とも新に改る。路地水を打、塵穴に青葉を入、竹箸(青竹に改る)付置。」とあるように、門口や露地の樋や垣を青竹にあらため、また炉壇を塗り替えたり畳を替えたり障子を張り替えたりする。今日ではによる正午の茶事として、初座席入から茶壷の拝見、口切、その後初炭懐石となり、懐石の間に水屋にて茶臼で茶が挽かれる。中立を経て、後座濃茶後炭薄茶の順に進められる。菓子も祝儀の意を表すため小豆を使った善哉亥子餅が使われる。そのなかでの口切は、茶壷拝見のあと、亭主が畳紙を広げ、茶壷をのせ、口覆を取り、茶壷の横に口切箱を置き、挽木箱を点前座左隅に置く。口切箱より小刀を取出し、茶壷を寝かせ、回しながら口封紙に切れ目を入れ、続いて竹刀で切ってから、詰茶がこぼれないよう茶壷を立て、蓋を開け封紙が切れているか確かめてから、茶壷の左横に挽木箱を置き、杉箸と羽箒を口切箱の方に移し、挽木箱より袋箱を取出し、夫々の箱を口切箱の手前に置く。茶壷を傾け、杉箸で詰茶を少しかき出し、濃茶を詰めた茶袋が見えたら杉箸で取出し、客の所望の茶を正面を向けて客に見せ、その茶を袋箱へ入れ、残りの袋を茶壷へ戻し蓋をする。羽箒で詰茶を挽木箱へ掃き集めて茶壷に戻し、畳紙の上に残った詰茶を羽箒で掃いてまとめ、挽木箱袋箱、杉箸、羽箒を点前座左隅に戻す。口切箱から印と印泥を取出し、糊板の上に置き、口封用の和紙を取出し、茶壷の口に当て寸法を計って切り、口封紙に糊をつけ、茶壷の蓋の合口に貼って封をし、最後に亭主の印を押す。口切箱を元のようにしまい、挽木箱の隣に置き、茶壷を点前座に戻し、口覆をする。畳紙をたたみ、茶壷の前に置き、その上に口切箱、挽木箱を並べ、それぞれを水屋に引き、茶壷を持って水屋に下る。『南方録』には「書院に、床、違棚の下などに壷かざりて口切のことあり。椀飯已前に取をろして口を切なり。装束はづしたるとき、客所望して壷を見る。茶師の印判を心付て見るなり。亭主請取て勝手へ持入て口切もあり。また客前にて、小刀を以て切もあり。切はなしにくきものなり。刀目を入るまでにてよし。前の方の印は切残すこと口伝なり。さまざま仕方あり。書付がたし。草庵ていの口切は火相心得べし。火をつよくすべし。客座入あらば、亭主出て一礼すみ早々挨拶して壷をさばき、壷を客より請て見ること勿論なり。口切の時は、大方はだか壷に口緒口をゝいまで然るべし。口緒も半切のたやすきがよきなり。手早にさばくこと本意なり。見物すみて道具だゝみになをし、封をさらりと、しるしばかりに切て勝手へ持入、壷家のふたを出して見することもあり。凡はそれにも及ばず、香炉など出し、待遠になきはたらきすべし。主は茶才判してひかする。さて程を見合炭をして、懐石を出すなり。中立等別義なし。」とある。

口切箱(くちきりばこ)
口切に使う道具を収める箱。桐の二重箱で、革紐が付いている。中に、小刀・竹刀・印・印泥などを入れておく。『茶式湖月抄』に「壷之口切筥 長七寸 横五寸 惣高四寸六分 板厚二分 上ノ重一寸四分 下ノ重三寸 蓋マハリザシ 革緒ノ巾七分 但シ 二尺四方紙 小刀一本入ルナリ」とある。

熊谷保興(くまがえ やすおき)
上野焼の作家。熊谷本窯窯元。昭和15年(1940)熊谷紅陽の長男として生れる。昭和37年(1962)金沢美術工芸大学彫刻科卒業。辻清明に師事。昭和45年(1970)日本伝統工芸展入選。昭和48年(1973)日本工芸会正会員。昭和50年(1975)上野焼熊谷本窯第16代を襲名。昭和59年(1984)国指定伝統工芸士認定。熊谷本窯は、明治35年(1902)熊谷九八郎(1856〜1923)が地方産業奨励の補助金を受け上野焼を再興、熊谷本窯を創立し、上野焼12代半七より代を襲名し上野焼13代を称する。14代龍峰(1888〜1972)、15代紅陽(1912〜1992)、当代16代保興。

熊野懐紙(くまのかいし)
鎌倉初期、後鳥羽上皇(1180〜1239)の熊野行幸の途次に催された歌会の懐紙。後鳥羽上皇は、譲位の後、二八回熊野に参詣するが、その途上、所々の王子社において供奉の廷臣らと歌会を催した。歌会に会した人々が自詠の歌を書いて差出した和歌懐紙で、三十数枚が残存する。西本願寺に現存する十一枚は巻子装となっており、歌題は「遠山落葉、海辺晩望」で、後鳥羽上皇右近衛大将通親、参議左近衛中将公経、春宮亮藤原範光五位下上総介藤原朝臣家隆、侍従藤原雅経、沙弥寂蓮、能登守源具親、散位藤原隆実、散位源家長、右衛門少尉源季景の十一葉で、巻末に「切目王子歌会正治二年十二月三日」と後烏羽上皇宸翰の付札が添えられている。しかし他は一枚ずつはずされ掛軸に仕立て上げられているものが多い。熊野御幸の時ではなく、同様な形式で書いているものを「熊野類懐紙」と呼んでいる。

九輪釜(くりんがま)
茶湯釜の一。寺の塔の頂上を飾る相輪の部分である九輪の形を模した。全体の形姿は筒形で、深い筒底、皆口で胴上部左右に短冊形の鐶付が左右に出ている。筒型の胴を九輪の中央を貫く心棒の部分である刹管(さつかん)に、左右に突き出た鐶付を宝輪(ほうりん)に見立てたもの。

九朗焼(くろうやき)
尾張藩士 平沢九朗の焼いた陶器。『瓢翁夜話』に「文化文政の頃、名古屋藩士に平沢九郎といふ数寄者あり、仕官の余暇、茶碗茶入香合花きなどの類を焼しが、自ら俗気を脱して一種の雅致ありしかバ、人々これを九郎焼と呼て愛玩せしとぞ、されど一代にして其業を子孫に伝へず、又工人の伝習してこれを製するものなし」とある。『名古屋市史』によると、初代平沢九朗(ひらさわくろう;1772〜1840)は、 天保年間の尾張藩士。志野・織部などを写す。 「名は一貞、通称は清九朗、九朗と号す。只右衛門の子なり。寛政三年、藩主宗睦の側小姓と為り。切米五十石・扶持五口を給せらる。八年、小納戸に徒りて奥番を兼ぬ。十一年、父の遺跡を継いで禄四百石を食む。翌年、目付に進む。享和元年、高須の用人を命ぜられ弾正少弼勝当に附属す。文化六年、同家番頭と為る。用人故の如し。十一年、病に依りて退隠し、家を長男一胤に譲る。乃ち養老園を城東清水坂下に設けて茶事を娯とし、製陶を以て身を終ふ。天保十一年六月二十三日没す。享年七十。法号を一貞院貫誉九朗と曰ふ。九朗陶を以て世に知られ、其製する所頗る雅趣あり。茶友に小堀宗中・松尾宗五等ありて、茶室を今昔庵と号す。」、二代 平沢陶斎(ひらさわとうさい;〜1841)は、初代平沢九朗の長男。 「名は一胤、通称は只右衛門、白駒又は陶斎と号す。一貞の長子なり。文化十一年、家を継ぐ。文政八年、病に依りて職を辞し、家を弟住胤に護り、清水坂下の別墅養老園に移りて風流を事とす。少時父の傍に在りて茶事故に陶法を熟知し・共に得る所あり。其製する所の茶器雅趣権溢し、頗る父の作品に髣髴たり。而かも其製品多からず。好事者遇々之を獲るあれば珍玩して秘蔵す。天保十二年十二月二十九日卒す。仙峯院陶斎一胤と諡す。」、三代 平沢松柏(ひらさわしょうはく;〜1865)は、初代平沢九朗の次男。平沢陶斎の養子。 「名は住胤、九朗は共通称、松柏と号す。兄陶斎の嗣と為り、文政八年、家を嗣ぎ、禄四百石を食む。小納戸・書院番に歴仕し、文久二年退老す。慶応元年三月五日没す。法号を然明院浄斎九朗と曰ふ。男九朗亦父に次いで製陶の妙を極む。」とある。

黒田正玄(くろだ しょうげん)
千家十職の柄杓師。竹細工全般を作製する。初代正玄(1578〜1653)七郎左衛門。越前黒田郡の出。はじめ丹羽氏に仕えるが関ヶ原後剃髪して正玄と改め、秀吉から天下一の称号を賜った柄杓師 一阿弥に師事し、江州大津で竹細工を業とする。のち京に移り小堀遠州に茶湯を学び、その推挙で将軍家御用柄杓師となる。茶湯を学ぶため遠州のもとに日参したので日参正玄の異名を得る。初代より八代まで将軍家に仕えた。三代より千家御用を務め、茶杓以外も手がけるようになる。2代正玄(宗正)貞享4年没 62才。3代正玄(弥助)享保2年没 62才。4代正玄(弥吉)享保16年没40才。5代正玄(才次郎)安永7年没71才。6代正玄(弥吉)文化11年没68才。7代正玄(弥吉)文政2年没 52才。8代正玄(称吉)明治2年没 61才。9代正玄(弥吉)安政6年没 23才。10代正玄(利助)明治33年没76才。11代正玄(熊吉)明治44年没43才。12代正玄(久満吉)。13代当代正玄

黒田泰蔵 (くろだ たいぞう)
陶芸家。無釉の焼締め白磁で独自の作風を確立する。1946年生。1966年カナダの陶芸家ゲータン・ボーダンのもとで陶器造りを始める。その間、益子の陶芸家・島岡達三のもとで勉強。1975年カナダの製陶会社SIALにデザイナーとして勤務。1978年カナダのケベック州セイント・ガブリエルに築窯。1981年伊豆松崎町に築窯。1991年伊豆伊東市に築窯。各地で個展開催多数。無所属。

黒文字(くろもじ)
主菓子に添えて出される楊枝。クスノキ科の落葉低木クロモジ(黒文字)の枝を削って作る。長さは6寸(約18cm)のものを用いる。黒文字は、一客一本使用するのが原則で、銘々皿には一本、縁高には人数分の本数を添える。ただし食籠や盛込鉢には二本添え、客はそれを一膳の箸のように扱って各自の懐紙に菓子を取り、再び菓子器に戻して、次の客へ回す。また、善哉のように黒文字一本ではいただきにくい菓子の場合は、黒文字とは別に杉楊枝を添える。元来は亭主が茶事の直前に自ら削って作るもので、客は使用後、自分の分を懐紙にくるんで持ち帰る。『茶湯一会集』に「一期一会の茶の湯、また再ひは遇ひかたき事也。然はいつまでも此一会をしたひ、且は証拠となり残るものハ楊枝一本はかり也。故ニ大切に懐中し持かへりて、直様楊枝のうらニ年号月日何会何某亭と認メ、取かた付置もの也、亭主も其心得ニて是非手おぼへ有べき筈之事ニ而、仕入レ之楊枝なとミたりニ遣ふものニあらす」とある。

君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)
 茶湯棚飾
室町中期の座敷飾りに関する秘伝書。中国画家についての説明、座敷飾りの方式、道具類について記す。能阿弥によって整備され、相阿弥によって完成されたと考えられている。将軍の御座所を意味する台観に君を冠して敬称し、その左右を飾る品々の帳記という主旨の題名で、永禄年間(1555〜1570)にはすでにそう呼ばれていたという。前半は「繪之筆者上中下」として、呉・晋・陳、唐・宋・元の画家を上中下に三品等別して列記し、後半部は「座敷飾」として、画幅と諸道具の坐敷飾の方法を文と図で説明し、末尾に「抹茶壺図形」として茶壷の図説、「土物類」として天目茶碗、その他、漆器・硯石・銅器の名称の解説と形を記している。

  
  
  
  
  
 

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