茶道用語

能阿弥(のうあみ)
応永4年(1397)〜文明3年(1471)越前朝倉家の家臣、中尾真能(さねよし)。法名は真能、号は鴎斎、または春鴎斎。東山流書院茶儀の開祖。周文について水墨画を学び阿弥派の祖。。応仁2年(1468)に息子周健の冥福のために描いた「白衣観音図」が唯一の実作として伝わる。また和歌にも優れ連歌もたしなみ、飯尾宗祗(いいおそうぎ;1421〜1502)が連歌の名手7人の秀逸句を集成した『竹林抄(ちくりんしょう)』(1476)の宗祇七賢の一人としてあげられ172句が、また『新撰菟玖波集』にも「公方同朋能阿法師四十三」とあり、43句が収められている。将軍家の同朋衆として足利義政に仕え、唐物奉行として舶来品の鑑定・管理・蒐集を行い「東山御物」を選定する。さらに茶道にも通じ、書院飾や台子飾の法式、茶器の扱い方、置き合わせの寸法である曲尺割(かねわり)も能阿弥にはじまり、点茶の際の所作においても、小笠原流の礼法を取り入れ、柄杓の扱いに弓の操方を、能の仕舞(しまい)の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れるなど書院茶の作法を完成させたという。また『御物御画目録』 『室町殿行幸御飾記』 『君台観左右帳記』の撰述者に擬せられているが異説あり。『山上宗二記』に「南都称名寺に珠光と申すもの御座候。」と足利義政に茶の宗匠として村田珠光を推したとある。子の芸阿弥(名は真芸,1431〜85)・孫の相阿弥(名は真相,1472〜1525)とともに三阿弥と呼ばれる。

ノンコウ(のんこう)
楽家3代 道入の別名。慶長4(1599)楽家2代 常慶の長男として生まれる。名は吉兵衛、のち吉左衛門、剃髪して道入、別名「ノンカウ」。明暦2年(1656)没。5代宗入の『宗入文書』に「此時宗旦の花入ニのんかうと云銘有以此吉左衛門ヲのんかうと云」と「ノンカウ」の名の由来が見え、千宗旦が伊勢参宮の途中、能古茶屋(のんこ茶屋)近辺でこの竹を見つけ二重切花入を作り「ノンカウ」と銘をつけ吉兵衛に贈り、吉兵衛は毎日これに花を生けたので吉兵衛のことを「のんかう」と呼ぶようになったと伝えられる。存命中より「樂の名手」と称えられ、楽家歴代随一の名工とされる。本阿弥光悦の『本阿弥行状記』には「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり。我等は吉兵衛に樂等の伝を譲り得て、慰に焼く事なり。後代吉兵衛が作は重宝すべし、しかれど当代は先代よりも不如意の様子也。惣て名人は皆貧なるものぞかし」とある。長次郎常慶の古楽の作風から脱し、釉や窯の改良により、釉薬がよく溶け光沢のある優雅な楽茶碗を完成させた。薄手の口づくりや大きな見込みにも特色がある。薄い胎土に何度も黒釉をかけ、釉が厚くなって垂れ下がり、幕が垂れ下がったように見えるところからノンカウの幕釉(まくぐすり)と呼ばれる。銘印は大小二種あり「樂」の字の中の「白」が「自」となっていて「自樂印」と称される。

  
  
  
  
  
 

inserted by FC2 system