茶道用語

堆朱(ついしゅ)
漆芸の加飾技法の一。朱漆を何回も塗り重ねて厚い層を作り、これに文様を彫刻したもの。中国では「剔紅(てっこう)」と称し、唐代に始まったと推測されており、おそくとも宋元には行われ、明以後に盛行した。日本では「剔紅」の和名として用いられたが、のちには漠然と「彫漆」一般を指す語となった。「彫漆」は、漆を数十回から数百回塗り重ねてつくった厚い層に文様を彫刻したもので、朱漆を塗り重ねたものを「堆朱」、黒漆を塗り重ねたものを「堆黒」、黄漆を塗り重ねたものは「堆黄(ついおう)」、二色以上の色漆を塗り重ねた層を彫って朱で花を緑で葉を表現した「紅花緑葉」、渦巻文・蕨手唐草文等の曲線の連続文様をV字型の溝に彫りだした「屈輪(ぐり)」などがある。『君台観左右帳記』に「堆朱。色アカシ。是ハ少シ手アサシ。ホリメニカサネノスジモナク。アカキバカリナリ。コレヲツイ朱と云。本地同前。」とあり、剔紅・堆紅・堆朱・堆漆を区別している。日本には室町時代に伝えられ、足利義詮の家臣長充が正平十五年 延文五年(1360)我が国で初めて堆朱を造ったとされ、中国元代の堆朱の名工、張成・楊茂の名を一字づつ取り楊成と号し、堆朱楊成家が代々、足利家、豊臣秀吉、徳川家に仕えて堆朱師を務めた。彫漆は製作に多大の時間と経費を必要とするため、木彫に塗装して堆朱に似せた村上堆朱、紅花緑葉に似せた鎌倉彫・讃岐彫などがある。

蹲踞(つくばい)
茶事の時、客が席入する前に手を清め、口をすすぐために置かれた手水鉢と役石などを含めた意匠の総称。一般に、「手水鉢」(てみずはち)に、客が手水を使うために乗る「前石」(まえいし)、湯桶を置く「湯桶石」(ゆおけいし)、灯火を置く「手燭石」(てしょくいし)の役石と、「水門」(すいもん)別名「海」(うみ)で構成されている。手水を使うとき「つくばう」ことからその名がある。手水鉢を低く構え、左右に湯桶石・手燭石を配し、前石を据えるのが定式。流儀によって役石の配置は違い、武者小路千家と表千家は左に手燭石、右に湯桶石を配し、裏千家はその逆に配する。亭主の迎付を受けたあと、正客から順に蹲踞に進み、右手で柄杓に手水鉢の水をたっぷり汲み、柄杓半分の水で左手を清め、持ちかえて残りの水で右手を清め、再び右手に柄杓を持ちかえ、水を汲み左手に水を受け、手に受けた水で口をすすぎ、最後に残った水を静かに柄杓を立て流しながら柄杓の柄を清め、元に戻す。宝永七年(1710)『貞要集』に「一 手水鉢の事、内腰懸より躙上りの間に見合居る、臺石を載せ居るなり、地より二尺四五寸迄、前石は景よく大成石を居る、前石の上面より手水鉢の上端迄、一尺より一尺五六寸迄、又前石の前面より手水鉢水溜の口迄、一尺八寸、一尺六七寸迄、柄杓を置見申、遣能程に居申事第一也、水門は両脇景能石を居、松葉をしき、流上に水はぢきの小石、又は小瓦杯置申候、道安流の水門仕様有之候、口伝。一 湯桶石、手水鉢我右の方水門へ掛て居ル。其前に相手の石とて居ル也、是は高貴の相伴のもの、御手水懸申時の為に居る石也。又手水鉢中潜軒下、躙上り軒下に居る、雨降候時の為とて、近代軒下に手水鉢居ル事也。一 手水鉢水溜を掘申寸法は、横六寸八分、竪は一尺一寸、深サ七寸二分、飯櫃に丸ク堀申候、是は大きなる鉢の寸法也、小キ鉢には七八寸九寸丸ク堀り、深サ六七寸程に堀申候、尤見合第一、また丸鉢には水溜角に堀申事も有。」、寛政11年(1799)越一楓『夢窓流治庭』に「蹲踞手水鉢は水袋と前石の間一尺八寸より二尺位明け置よし、尤も石の大小によるべし、前石高さ土より三寸位。手水鉢は前石より六寸計高く居てよし、蹲踞手水鉢は三ツ石也、椽先手水鉢は三石に限らず。片口石は前石より一寸五分高く居へてよし、左右の石の見合也。手燭石は前石より三寸程高く居へてよし、但し左右恰好見合也。」、文化13年(1816)『茶道筌蹄』に「石手水鉢 水溜さし渡し七寸、深サ六寸程、尤石の大小にもよる」とある。『南方録』に「宗易へ茶に参れば、必、手水鉢の水を自身手桶にてはこび入らるヽほどに、子細を問候へば、易のいわく、露地にて亭主の初の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかふ。これ露地草庵の大本なり。この露地に問ひ問はるヽ人。たがひに世塵のけがれをすヽぐ為の手水ばちなり。寒中にはその寒をいとはず汲みはこび、暑気には清涼を催し、ともに皆奔走の一つなり。いつ入れたりともしれぬ水こヽろよからず。客の目の前にていかにもいさ清く入れてよし。但、宗及の手水鉢のごとく、腰掛につきてあらば客来前考へて入べし。常のごとく露地の中にあるか玄関ひさしにつきてあるは、腰かけに客入て後、亭主水をはこび入べし。それゆへにこそ、紹鴎己来手水鉢のためは、小手桶一つの水にて、ぞろりとこぼるヽほどの大さに切たるがよきと申なりと答へられし。」とある。

辻井播磨(つじい はりま)
山城国の土風炉師。生没年不詳。貞享〜享保年間(1684〜1736年)に活躍したと伝えられる。土風炉灰器・手焙・香合などに銘の入った作品が伝世している。陶印は雅号の播磨を用いている。

辻石齋(つじ せきさい)
山中塗の塗師。初代石齋は、江戸時代の木地師。二代石齋は、明治18年(1885)〜昭和48年(1973)、木地師、塗師として北大路魯山人に造形と蒔絵の指導を受け、辻家の工房で競作した『日月椀』などの名品を遺したことでも知られています。三代石齋は、明治48年(1912)〜昭和20(1945)、二代のもと三千家の好み物を制作するも早逝。四代石齋は、昭和13年(1938)〜、三千家の好み物を制作、昭和49年(1974)四代石齋襲名。五代石齋は、昭和38年(1963)〜、四代石齋の長男、本名和成、昭和60年(1985)帝京大学経済学部経営学科卒、平成4年(1992) 山中に戻り父の四代石齋に師事、平成15年(2003)、五代石齋襲名。

辻与次郎(つじ よじろう)
安土桃山時代の釜師。生没年不詳。永禄から寛永18年(1588〜1641)頃の人とされる。近江国辻村の出。名を実久、号は一旦。豊臣秀吉より「天下一」の称号を許された。与次郎在銘や共箱は見出されていないが、京都豊国神社の鉄燈籠に「奉寄進鉄灯籠 慶長五庚子年八月十八日 天下一釜大工与次郎実久鋳之」、出羽国西善寺鋳銅鐘に「山城国愛宕郡 三条釜座鋳物師 天下一辻与次郎藤原実久 干時慶長拾伍歳庚午六月十八日」の鋳出銘がある。京都三条釜座に住み、西村道仁の弟子と伝えられている。千利休の釜師として阿弥陀堂釜、雲龍釜、四方釜などを鋳造し、羽落ちや焼きぬきを考案したとされる。

津田宗及(つだ そうきゅう)
〜天正19年(1591)。茶人。堺の豪商「天王寺屋」津田宗達(1504〜1566)の子。通称は隼人・助五郎、号は天信・幽更斎。父宗達から武野紹鴎流の茶道を学び、南宗寺の開祖大林宗套から禅を学び、利休今井宗久とともに信長の茶頭になり、豊臣秀吉にも仕え、天正15年(1587)の北野大茶湯の茶頭を務める。
父宗達が執筆を開始した茶湯日記を書きつぎ、その後宗及の子宗凡に引き継がれ、宗達・宗及・宗凡三代の茶湯日記(それぞれ他会記・自会記に分たれている)を合わせ『天王寺屋会記』と称する。

土田友湖(つちだ ゆうこ)
千家十職の袋師。帛紗仕覆などを制作。西陣織の仲買人だった初代が、利休三斎の袋物を作っていた亀岡家に弟子入りし、業を継ぎ、表千家覚々斎(1678〜1730)に引き立てられ千家の袋物師となる。友湖の号は如心斎(1705〜1751)から与えられ、初代以降、通称を半四郎、号を友湖と称す。5代までは仕覆を専業としたというが、現在は、帛紗仕覆の他に、懐紙入、数寄屋袋、茶壺にかける網、口覆、敷絹、糸組釜敷訶梨勒など多岐にわたり、昔は水屋の布巾・雑巾・手拭や茶巾まで手掛けていたという。初代友湖(1688〜1765)半平、不染斎。2代友湖(1731〜1757)半四郎、了圓。3代友湖(1746〜1784)半四郎、一得斎、友甫。4代友湖(1719〜1801)くに、鶴寿院貞松。初代の娘。5代友湖(1778〜1825)半四郎、蓮乗。6代友湖(1803〜1883)半四郎。7代友湖(1835〜1911)半四郎、聴雪。8代友湖(1861〜1911)仙之助、淡雪。9代友湖(1892〜1914)半四郎、安次郎。10代友湖(1859〜1940)阿さ、浄雪院妙要。8代の妻。11代友湖(1903〜1965)半四郎、良三。当代友湖()半四郎、陽三。

土屋蔵帳(つちや くらちょう)
常陸国土浦藩主土屋家に蔵された器物の目録。主に、小堀遠州の門人であった二代藩主 土屋相模守政直(1641〜1722)の蒐集にかかるもので、小堀遠州所蔵の中興名物が多い。

豆子(づつ)
懐石家具の一。筒型で小形の木椀。酒や菜を盛った。猪口と壺との中間のもの。現在では、精進椀に付随する。『和漢三才図会』に「按楪子浅盤而有高台。豆子者壺盤之小者楪子與此漆器僧家多用之盛調菜蓋祭祀器有俎豆二物豆子即豆之畧制矣。」(按ずるに楪子は浅き盤にして高台有り。豆子は壺盤の小者なり、楪子と此と漆器、僧家に多く之を用いて調菜を盛る。蓋し祭祀の器に俎豆の二物あり、豆子は即ち豆の畧制か。)とある。

続き薄茶(つづきうすちゃ)
茶事で、濃茶のあとの炭点前後炭)を省略して続けて薄茶をすること。ふつう、席入したあと、ならば初炭懐石風炉なら懐石初炭と続き、そのあと菓子が出て、中立となり、銅鑼の合図で席入(後入)し、濃茶後炭と続き、そのあと薄茶が出るという流れになっているが、連客の都合、炭の熾りがちょうどよい場合、正客からの所望で濃茶を仕舞わず、続いて薄茶を供する作法を云う。朝茶夜咄茶事は、亭主のほうから「続いて薄茶を差し上げます」と挨拶して続き薄茶とするのが通例。

壷飾(つぼかざり)

茶壷を床に飾ること。また、茶壷を床に飾り、客が拝見を所望する場合の習い。小習の一。茶壷は、蓋をしてその上に口覆を掛け、口緒を結び、床中央掛物の下に飾り、客の所望により拝見に出す。正客が「茶壷の拝見を」と請うと、亭主は水屋に戻り、網を持ち出し床に進み、茶壷の左側に網を広げて茶壷を載せ両手で網の取手紐を持ち、包むように下から被せる。軽く一回結んで網を整えてから、もう一回しっかりと結び、その結び目を右手でしっかり持ち左手で抱えて床から運び出し、点前座に進む。かぎ畳正面に座り、茶壷を炉の右横に置く (通常のお道具を拝見に出すように膝前中央に)。網の取手紐の結び目を一つほどいて茶壷を右に寄せ、結び目を解き網を下方へはずし、茶壷を左側(最初に運び出した中央の位置)に置く。網は取手紐と底を持ち半分に、さらに半分に畳んで四折にし、右手で勝手付に置く。口覆の片結びの紐をとき、網の上に置く。口覆のシワをのばし(右手で右向う角と左手で左手前角を、右手で右手前角と左手で左向う角を持ち斜めに引き、しわをのばす)、右回りに二回まわして正面を客に向けて拝見に出す。正客がとりに出て、両手で抱き込むように抱えて席に戻る。まず、正客が口覆をとり拝見の後、次客へと送り順次拝見する。次に茶壷の拝見をするが、まず全体の姿を拝見し少し手前へもってきて、次に茶壷を向こう側へ静かに倒してから、右へ転がしては膝前に戻し転がして拝見する。全体を拝見したら、茶壷をおこして再度全体を拝見し、次客へ送る。茶壷を扱うときは、掌をつけないように指先で持つ。茶壷は素焼のものが多かったので、手脂をつけないようにとの配慮という。お詰まで拝見が済んだら、出会いで正客に壺を返し、正客からお返しする。正客から茶壷口覆について問答があり、さらに「入日記はございますか」との所望があれば、茶壷を下げたあと、入日記の貼ってある箱の蓋を運び出し、拝見に出す。『南方録』に「葉茶壺小座鋪にもかざることあり。大方口切の時のことなり。初入にかけ物かけて前にかざるべし。小座鋪にてのかざりは口覆口緒までにてよし。自然に長緒などむすぶとも、やすやす目にたたぬやうにすべし。さまざま、ようがましきむすび形など、物しりがほにてあしし。網は凡小座鋪にてはかけぬなれども、口切にてなき時は壷によりかくるも苦しからず。」、『逢源斎書』に「一葉茶壺床に置候。会席前に一軸懸、真中に置候。口覆か又は網か一色懸候。世二色出候は小座敷には悪敷候。口覆の緒はわなの下を下座、二筋之方を上座に置也。亭主すみ置、仕廻候てから、客壺おろし御見せ候と申候。亭主おろし候て、口覆取壺よこにして、土の方客へ見せ候。壷よこにして置候。口覆も見申候。扨、亭主後取に出候は網を持出候。客は見しまい候て、壺立て置申候」、『茶道望月集』に「古法に小座敷にては、網は不掛事也。併し利休三斎公を招請して壷飾の時、網を掛て飾し事有り。三斎公格好能思召て、小座敷にて壷に網の掛りたるも能き物也、所持の柴栗と云ふ壷にも、重ねては網を掛けて可飾と、御相談有之時、宗易返答には、小座敷にて網を掛けたるは不宜候へ共、此壷は殊の外響多く候故、格別と存じ網に入候と答し事あり。然れば古法には何か故なくては、網に入れる事はなしと可知。」、『正伝集』に「壷を網に入て荘事は紹鴎が頃迄はなき事也。壷を網に入置く事は、勝手にて壷の家より出入の能き故に入る也」とある。流儀では、網は単に茶壷を運ぶためのものとして、網に入れて飾らないのが普通。


壺皿(つぼざら)
懐石家具の一。壺盤、壺椀とも云う。深めの小振りな椀で、胴に帯状の「かつら」と称される加飾挽きが施される。和え物などが盛られる。伊勢貞丈(1717〜1784)の故実書『四季草』に「椀に平皿、壷皿、腰高といふ物あり。式正の膳には、さいも皆かはらけにもるなり。煮汁の多くある物は、かはらけにてはこぼるヽゆゑ、杉の木のわげ物に盛なり。そのわげ物の平きをかたどりて、平皿を作り、其わげ物のつぼふかきをかたどりて、つぼ皿を作りたるなり。そのわげ物にかつらとて、白き木を糸の如く細く削りて、輪にしてわげ物の外にはめるなり。平皿、壷皿の外に、細く高き筋あるは、かのかつらを入たる体をうつしたるなり。腰高の形は、かはらけの下に、檜の木の輪を台にしたる形をうつして作れるなり。かはらけには必輪を台にして置く物なり。是を高杯と云ふなり。」とある。

坪島土平(つぼしま どへい)
陶芸家。昭和4年(1929)大阪市に生まれる。大阪市立錦城商業学校卒業。昭和21年(1946)川喜田半泥子に師事、直弟子として廣永窯に入り陶芸の修行を積む。昭和24年(1949)半泥子より土平の号を受ける。昭和38年(1963)半泥子没後、廣永窯を継承。三重県文化功労賞受賞。公募展には出品せず高島屋、松坂屋など個展中心に活動。

壷々(つぼつぼ)
文様意匠の一。三千家家元の替紋。元伯宗旦が、京都市伏見の伏見稲荷の門前で初午の日に売られていた直径一寸ほどの素焼きの壺型の土器「つぼつぼ」を意匠したものといわれる。三千家家元によって各々その組み方には相違がある。「つぼつぼ」は、延宝4年(1676)黒川道祐『日次紀事』(ひなみきじ)に「初巳午日、稲荷社詣、俗称初午詣、又謂福参、(中略)、農民参詣特多、門前家々賣百穀種并雑菜種、又賣大小陶器、其大者謂傳法、言始於摂津傳法海濱製之、故謂傳法焼、今直謂傳法、以是炒物、又盛煙草粉、其小者謂都保々々、此土器於両手掌内、運轉之則有都保々々之音、故名之、参詣男女買之賺兒童、大人亦満塩於其内、入火而焼之資膳食」(初の巳午の日、稲荷の社詣で、俗に初午詣と称す。又た福参と言う。(中略)、農民の参詣特に多し。門前の家々百穀の種并びに雑菜の種を売る。また大小の陶器を売る。其の大なる者伝法と言う。言は始め摂津伝法海浜(大阪市此花区伝法)に於いて之を製す、故に伝法焼と言う。今直に伝法と言う。是を以って物を炒り、また煙草粉を盛る。其の小なる者都保々々と言う。此の土器両手掌の内に於いて、之を運転せば則ち都保々々の音あり、故に之に名り、参詣の男女之を買い兒童を賺す。大人も亦た其の内に塩を満て、火に入れ之を焼きて膳食を資く。)、文政13年(1830)『嬉遊笑覧』に「つぼつぼ、此手遊古きものに見えて、慶長ごろの古画人物の衣のもやうなどにも付たり。犬筑波集、わらはべの縁にてくるふ薬師堂もてあそびぬる瑠璃のつぼつぼ、もと壺とのみいふべきを、小兒の詞のかさねいふ例にて名付るにや。懐子、立別れいなかあたりの朝ひらきつぼつぼほどの涙たる中、重頼。松の落葉、京童といふ東上るり、きさらぎや初午参のみやげとて鈴やつぼつぼ風ぐるま。好色盛衰記、貞享五年、稲荷の前つぼつぼ、かまかま作り売、これも土仏の水あそび云々、これ壺と釜となり。」とある。

壷々棚(つぼつぼだな)
一啜斎好みで、天板と地板が杉木地、竹の四本柱で、腰板が桐木地、畳つきに低い足がついた棚で、腰板に、つぼつぼ紋の透かし彫りがあるところから、この名がある。一啜斎が、松平不昧公の江戸大崎の屋敷での茶事に招かれた折、遠州好みの品川棚を拝見し、これを基にして考案したといわれる。の場合にのみ使用する。初飾りは、地板に水指を、天板の中央に茶器を飾る。後飾りは、柄杓を天板勝手寄りに縦に、蓋置柄杓の右横手前に飾る場合と、柄杓の合をうつぶせにして勝手付の柱に付けるように向こう側の腰板に掛け、蓋置を地板の右手前、茶器を天板の中央に飾る場合がある。

爪紅(つまぐれ)
黒漆あるいは青漆で塗った器物の外縁を朱漆でふちどったもの。端紅とも書く。

詰筒(つめづつ)
茶杓を入れる竹製の容器。ふつう単に筒と呼ぶ。千利休以前の竹茶杓は「折りだめ」といい一会限りの消耗品として扱われており、茶杓を進呈するときに竹筒に栓をして、封印と花押、宛先を記したりした物だったようで、利休作の「タヽイヘ様参」の送筒がある。利休以降作者への敬慕から筒に入れて保存するようになり、秀吉に切腹を命ぜられた利休が自から削り最後の茶会に用いた茶杓「泪(なみだ)」を与えられた織部は四角く窓をくり抜いた総黒漆塗りの筒を作り位牌代わりに拝んだという。宗旦遠州のころに共筒、自筆銘が多くなる。筒の蓋を「爪(つめ)」といい、杉が一般的。爪と筒の合に筆書や墨判で封印したものを「口判(くちはん)」「〆印(しめいん)」、筒の表に銘や宛名・年号などを書いたものを「筒書(つつがき)」という。筒には「真」「行」「草」があり、「真」は皮を全部削って磨きをかけた筒。「行」の筒は上下に皮目をそろえて残す。「草」は皮を残し、銘などを書く部分だけ削ってある。また、筒の種類には「共筒」「送筒」「追筒」「替筒」「会所筒」「極筒」がある。「共筒(ともづつ)」は茶杓と同じ竹で、同一作者が作ったもの。「送筒(おくりづつ)」は茶杓を人に贈るために入れる共筒。「追筒(おいづつ)」は茶杓の作者以外によって後世の人により作られた筒。「替筒(かえづつ)」は共筒とは別に替えのために新たに作られた筒。「会所筒(かいしょづつ)」は対銘をなす複数の茶杓を収納するための筒。「極筒(きわめづつ)」は筒がない場合、後世の人が筒を作り作者名を書いた鑑定・証明のための筒。

釣釜(つりがま)
天井から吊るして使う。小間では自在で、広間では鎖でを釣る。の終わりに近い時季には、暖気に向かって火気の温度を厭うので、を深くし、少しの火で湯の沸くように小釜で釣釜にする。筒形、棗形、鶴首、車軸といった細長い目のが好まれる。釣釜には、釣(つる)を用い、木瓜形(もくこうがた)、丸釣(まるつる)、鎌刃形(かまはがた)の三種の利休形がある。釣釜では五徳を使用しないのが約束で、その代りに五徳蓋置を用いることが多い。

釣舟(つりふね)
舟の形をした釣り花入。銅・砂張・竹・陶磁器・籠などがある。床の天井から釣り下げて用いる。釣舟は掛物のほうに舳先を向けるのが約束。釣手が一本と二本両方あるときは一本の方が舳先、二本の方が艪。 『山上宗二記』 の 「花入の事」 には名物として二点の釣舟花入が記され 「釣舟数多在り。当世主遠きもの也。但し、此の舟は宗易褒美す。数寄道具也。」 とあり、当時は必ずしももてはやされなかったようである。また同書の釣舟貨狄の花入に注して 「花の入やう口伝多し。舟に口伝在り」 とあるように色々約束事が多かった。 『南方録』 の正月廿七日朝会に 「床まきてつり舟 但出舟にかくる め柳」 とあり、後世云われる様な「舟の花入れは卯月中旬より八月半迄用」(古今茶道全書)と云うような時季の限定はなかったとみえる。また、舳先を上座にむける出舟、艪を上座に向ける入舟とし、朝から昼までは出舟にかけ、以後は出舟にかける。出舟なら花は梢の方を舳先、入舟は花を勝手に向け、晩には泊り舟といい入舟に釣って花を真中に、なるべく寝るように入れるのが習い(茶道望月集)というような舟の釣り方による区別は、利休時代より後は区別をすること自体を避けるようになっていったと思われる。竹釣舟は、竹筒の先端を斜めに切り落として、舟の舳先に見立てた竹花入。竹釣花入は、『茶道筌蹄』に「舟 元伯嵯峨にて筏の流るヽを見て始て好む。丸太舟 元伯好前後節きり切りたるなり、原叟此舟に左右へ耳を出す。太鼓舟 仙叟このみ根のふし合ひのせまき所にてきり床へかくる由」、『逢源斎書』に「一、花入竹之事。切様在之候。面談に而なく候ヘは不被申候。船は宗旦初而切出し被申候。」とあるように、宗旦が京都嵐山の大堰川の筏を見て想を発し、嵯峨野の竹を切り、藤蔓で釣るようにした 「丸太舟」が始めという。宗旦作には、他に「横雲」「貨狄舟」などがある。

 釣瓶水指(つるべみずさし)
 
水指の一。井戸の水を汲み上げる釣瓶の形をした水指で、風炉に用いる。『山上宗二記』に「釣瓶 面桶、竹の蓋置、この三色、紹鴎好み出だされ候」、『源流茶話』に「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光備前・しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎、釣瓶の水指を好ミ出され、利休ハまけ物、極侘は片口をもゆるされ候」とあり、武野紹鴎が井戸から汲み上げた水をそのまま水屋に置くために木地で好んだのが起こりとされ、それを利休が座敷へと持ち出したとされる。ただ『和漢茶誌』には「本邦宗易始用之、以代水壷。・・・或人曰、紹鴎作之也。不知其所拠。蓋宗易以降也。其底面有花押可見也。」とある。『茶道筌蹄』水指之部 同木地之部に「釣瓶 利休形、檜の木地柾目。松の板目は妙喜庵形なり」、同和物金類に「釣瓶 利休所持、塗蓋、花入に兼用」とあり、利休好は下のやや狭まった角形の檜柾目を鉄釘で止め一文字の角の手が付き二枚の割蓋が添う。そのほか松材を使った妙喜庵形、春慶塗、素銅の釣瓶に塗りの割蓋をつけたものなどがある。夏季に水に十分濡らして、運びや置きで使われる。棚物や長板の上には置かない。なお、古くは一会限りで使うたびに新調したと云う。
 
 
  
  
  
  
  
 

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