茶道用語

前土器(まえかわらけ)
風炉の火窓からの火気を防ぐために立てる半円形の素焼きの土器。前瓦とも書く。紅・白二種があり、土風炉には白を、鉄風炉には赤を用いる。酷暑には二枚重ねて用いる。流派により好みがある。

前端雅峯(まえはた がほう)
山中塗の塗師。伝統工芸士。本名は雅雄。昭和11年(1936)加賀山中(石川県山中町)で木地師 前端春斎(哲二)の長男として生まれる。村田道寛、中村長寛、保谷美成に師事。昭和48年(1973)瑞峯院本堂古材でを作り、桂堂師より「雅峯」の号を受ける。大徳寺650回忌記念棗製作。財団法人無限庵理事長。ローマ法王・天皇陛下・高円宮殿下献上。

蒔絵(まきえ)
木地に漆で文様を描き、漆が乾かないうちに金・銀・錫などの粉末・色粉等を蒔き、模様をつくり出すもの。「蒔」とは粉末を散らして落とす意。基本的な技法として、平蒔絵(ひらまきえ)、研出蒔絵(とぎだしまきえ)、高蒔絵(たかまきえ)の3種類がある。「平蒔絵」絵漆で文様を描いて粉を蒔き、文様の部分だけ透漆を塗ってその上を磨く技法。「研出蒔絵」絵漆で文様を描いて粉を蒔き、全面に漆を塗り、これが乾いてから木炭で研ぎ、磨いてから仕上げたもの。「高蒔絵」漆や炭粉で高く盛り上げた文様の上に平蒔絵を施したもの。これらの技法を単独あるいは総合して施したり、螺鈿(らでん)、平文(ひょうもん)、截金(きりかね)など他の技法を併用する事もある。螺鈿は、夜光貝、蝶貝、鮑などの貝殻の裏側の真珠光を放つ部分の薄片を貼るもの。平文は、金銀の薄板を文様に切り、漆面に貼って漆で塗り埋め、研ぎ出したもの。截金は、金・銀・銅・錫の箔または薄板を線状或いは細かく切り、これを貼付して種々の文様を施す技法のこと。

真葛焼(まくずやき)
幕末の名工の一人に数えられる宮川長造(1797〜1860)が、観勝寺安井門蹟より「真葛」の号を賜り、「真葛」を称する。また晩年華頂宮より「香山」の号を授かる。仁清写しを多く作る。長造の長男・長平が2代真葛長造(〜1860)だが早世したため、長造の四男・寅之助(1842〜1916)が長平の妻と子を引き取り19歳で家督を継ぎ真葛焼の名をさらに高め、有栖川宮の勧誘と薩摩藩士小松帯刀の後援により明治3年(1870)に家族を連れて横浜に移住。同所の南太田に陶窯を築き、真葛焼 「真葛香山」と称した。2代真葛香山(1859〜1940)宮川半之助もこれを手伝う。明治26年アメリカ合衆国シカゴで開催された万国博覧会にも出品する等、主に欧米向けに鮮やかな装飾をもって制作され「マクズウエア」の名で広く世界に知られ、明治29年帝室技芸員となる。3代真葛香山葛之輔が昭和20年横浜大空襲に被災して死亡。戦後、3代目の弟智之助が4代目を名乗り復興を目指すが昭和34年に亡くなり「真葛窯」は絶えた。これを「横浜真葛焼」と呼ぶこともある。
別に、京都において宮川長造の縁戚が香斎と名乗り作陶。その養子である2代香斎(1846〜)が慶応元年(1865)ころ香斎を名乗り、初代真葛香山を手伝っていた。その長男が大正6年(1917)3代香斎(1894〜1919)を襲名。4代香斎(1897〜1986)は2代香斎の次男。3代香斎の弟。京都市徒弟伝習所において作陶を学び、陶芸活動を開始し、兄3代香斎が大正8年(1919)亡くなったため家督相続、香斎を襲名。昭和5年には帝展に初入選し「宮川長造」のころの作風を志向し、やがて2代目真葛香山らにも認められ、昭和9年頃から真葛を名乗るようになり、初代真葛香斎となる。永誉香斎とも呼ばれる。2代香斎(1922〜)は、東京都生まれ。陶芸家クラブにて先代清水六兵衛に指導を受けるが、昭和22年4代香斎の長女と婚姻し、4代香斎に師事する。昭和44年養子縁組。昭和47年5代宮川香斎(2代真葛香斎)を襲名する。「京都真葛」ともいう。
他に、宮川香斎家から分家した龍谷焼宮川香雲がある。

曲物(まげもの)
薄い板材を、円形・楕円形などに曲げて底をつけた容器の総称。檜・杉・ヒバ・サワラなど比較的くせのない材料で薄板を作り、熱湯の中につけて煮込む「蒸煮」という工程を経て、柔らかくなった板を曲げ、木または竹の鋏で挟んで乾燥させ、合わせ目を薄く帯状にした桜の皮などで縫い合わせ底を取り付けたもの。 曲建水、曲水指などがある。
建水は、面桶(めんつう)ともいい、『長闇堂記』に「一 つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、数寄をせられし時、初てこの作意有となん」、『源流茶話』に「古へこぼしハ合子、骨吐、南蛮かめのふたのたぐひにて求めがたき故に、紹鴎、侘のたすけに面通を物すかれ候、面通、いにしへハ木具のあしらひにて、茶湯一会のもてなしばかりに用ひなかされ候へハ、内へ竹輪を入れ、組縁にひさくを掛出され候、惣、茶たて終りて、面通の内へ竹輪を打入られ候は、竹輪を重て用ひ間敷の仕かたにて、客を馳走の風情に候」とあり、紹鴎が茶席に持ち込んだとされる。

萬壽棚(ますだな)
棚物の一。利休袋棚の右側をもとにした、一指斎好の青漆 爪紅(せいしつつまぐれ)の二重棚。満寿棚とも書く。一指斎が兄の表千家碌々斎と共に一指斎門下の数寄者で近江八幡の豪商 西川貞二郎家に長期滞在した際、これを記念して各々が西川家の暖簾印曰(なかいち)を意匠した一閑の作で、一指斎は中棚を一文字形に、碌々斎は四方を糸巻形に抜いて曰(なかいち)にかたどったもので、前者は地板のない運び水指として「青漆 爪紅 萬壽棚」と名付けられ、後者は地板が取り外しのできる兼用のとして「青漆 爪紅 糸巻 二重棚」と名付けられている。「萬壽棚」は「枡」に因んで、節分の頃によく用いられる。

斑唐津(まだらからつ)
唐津焼の技法のひとつ。唐津でも最も古い岸岳系の窯で多く用いられた技法で、白色の藁灰釉(わらばいゆう)をかけたもので、全体が乳白色の表面に粘土の中の鉄分や燃料の松灰が溶けだし青や黒の斑点が現れる。「白唐津」ともいう。使い込むほどに色合いが変化していく。

松平不昧(まつだいら ふまい)
出雲松江藩七代藩主。宝暦元年(1751)〜文政元年(1818)。父は六代藩主天隆院宗衍(むねのぶ)、母は側室大森歌(うた)。幼名鶴太郎。明和元年(1764)十代将軍家治に拝謁。家治から一字を授かり元服、治好(はるたか)を名のる。明和4年(1767)17歳で藩主となり出羽守治郷(はるさと)と改める。明和5年(1768)18歳で石州流茶道を三世伊佐幸琢に学ぶ。明和6年(1769)19歳で麻布天真寺・大巓宗硯禅師に禅を学ぶ。この頃、無学和尚から「未央庵宗納」の号を授かる。明和7年(1770)20歳のとき『贅言(むだごと)』を著す。不昧の号は明和8年(1771)大巓和尚より授かったもの。文化3年(1806)56歳で致仕を許され、茶室11を備えた品川大崎下屋敷に隠居、剃髪して不昧を公称する。「三斎流」「石州流」を極め、後に「不昧流」を立てる。また、茶道具の収集を行い、その総目録である『雲州蔵帳』で、自らの審美眼に従い宝物之部、大名物之部、中興名物之部、名物並之部、上之部、中之部、下之部の7つに格付けし、伝来や購入年、当時における評価額、購入金額まで記録している。著書に、寛政元年(1789)〜同9年(1797)にかけ陶斎尚古老人の名で刊行した名物茶道具の図説書 『古今名物類聚』(茶入の部7冊(中興名物5、大名物2)、雑の部(後窯・国焼1、天目茶碗1、楽焼茶碗1、雑器の部2)、拾遺の部4冊、裂の部2冊の計18冊。不昧自ら実見したものは詳細な図版入りで所蔵者や法量、付属物までも詳細に記されている)、伝来する和漢の茶入を分類し、整理、論述した文化8年(1811)筆の『 和漢茶壺鑒定(わかんちゃつぼかんてい)』(瀬戸陶器濫觴ともいい、『和漢茶壺濫觴』『和漢茶壺竈分』『和漢茶壺時代分』の3巻からなる)がある。

松木盆(まつのきぼん)
松の木地に溜塗の葉入四方盆。『茶道筌蹄』に「松木 四方盆葉入春慶。紹鴎より利休へ伝へ、利休より今小路道三に伝ふ。道三箱書付に翠竹とあり、翠竹は道三の院号なり。老松同木にてうつしあり。原叟如心斎も製之。」、『千家茶事不白斎聞書』に「松ノ木盆 紹鴎、五葉松也。」とある。『茶式湖月集』に「指度八寸五分 惣高八分 (表)此キワニチリ四リン カガミ六寸二三分四方 (裏)底板一分半 大ワ高一分六リン 同外高二分一リン 大ワ厚二分一リン 右利休好ノ寸法。松木ノフシナシヤニ無之松ニテ造リ ウスクタメ塗ウラヲモテトモ如此 外ノ角ハ黒ヌリニテ 大輪ヘカケテツクラヒハ強クニシタルモノナリ ツクライヒ黒ウルシ ツクラヒ二分ホドノ太ミナリ」などとある。

松屋会記(まつや かいき)
奈良の塗師 松屋の茶会記。天文2年(1533)に松屋久政(〜1598)によって起筆され、のち子の久好(〜1633)、孫の久重(1566〜1652)の3代にわたって慶安3年(1650)まで書き継がれた他会記。久政は天文2年(1533)から慶長元年(1596)、久好は天正14年(1586)から寛永3年(1626)、久重は慶長9年(1604)から慶安3年(1650)にわたって記されており、全体を久重が編纂したといわれる。千利休茶会をはじめ、当時の茶の湯を知るうえで貴重な史料。久重は、松屋の他会記や自会記から、利休織部三斎遠州の四人が関わる茶会の様子を編纂し『茶道四祖伝書』を刊行した。

眉風炉(まゆぶろ)
風炉の一。火窓の上が風炉の口までいかず繋がっていて、透かしになっている風炉。真の風炉とされる。火窓の上部と口縁との間のつながった部分が眉に似ているところからの名という。暑い時期に火気がなるべく客に感じられないように使われることが多い。『正伝集』に「眉ありの風炉と云は、金風炉の口の如く、上へ切り揚げず、前に狭間を開きたるを云也。眉ある風炉は多分透木据にする也。是を真の台子の時用ふと也。透木据の風炉の内は、廻りに畦を立て、丸く灰を置廻し候也。前土器は如常立る也。頬当風炉は、軸足にして多分五徳据也。是を草の風炉と云也。当世数多く有之風炉にて子細なし。但し眉有に軸足もあり、頬当に乳足もあり、大方は古より定置候共、時節の作意次第と心得べし。故に宗易時代より以来、口の差別なしに乳足にも、軸足にも、好みに任せ候也。」とある。

丸卓(まるじょく)
二本柱で、天板と地板が丸い一重小棚。中国から伝えられた飾り棚、卓を棚物として応用した棚の一種。風炉いずれの場合も使用される。利休好みは、桐木地で、二本の柱が天板と地板の内側に付いている。地板裏には低い三つの足がついている。宗旦好みは黒の一閑張片木目。二本の柱は天板と地板の外側に付く。地板は厚く足は無い。初飾りは天板に茶器、地板に水指を飾る。後飾りは天板に蓋置柄杓を飾る。

丸椀(まるわん)
懐石家具の塗椀の一。現在最も一般的に使用されている椀。口から腰にかけて丸味を帯びているところから丸椀という。利休形は四つ椀で、両椀は四重椀、壺皿平皿は被せ蓋。江戸初期までの会記には見られない。元禄4年(1691)刊『茶道要録』に「利休形諸道具之代付」として「丸椀三人前但シ小道具共ニ 五十七銭目。」とあり、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』に「黒塗丸椀 坪平付大小とも利休。」とあり、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』に「大丸小丸差別しらず、右内外黒花塗、花宗旦所持の椀を写ところ」とあり、飯椀と汁椀のみが載る。

  
  
  
  
  
 

inserted by FC2 system