茶道用語

夜学(やがく)
甕形の四方に火灯窓のような大小の透しがあるもの。夜に学問をする際、机上を照らす灯明の火皿の台を転用したものといわれ、小さいものは蓋置、大きいものは香炉や手焙などに用いられる。

八坂焼(やさかやき)
17世紀前半、京都東山八坂の陶工清兵衛が製した陶器。鳳林承章の『隔蓂記』寛永十七年(1640)に「四月六日 ・・・茶入作之清兵衛初同道茶入共 香炉香合掛車而作也」、「五月七日 下京之清兵衛(八坂陶工)今日初来・・・清兵衛為持参焼物香合壱ケ恵之、香合之上ニ寿字以朱書之香合也」、正保三年(1646)に「八坂焼梅之紋有之鉢」ほか、八坂の双林寺の近くにあったことが記されており、轆轤を使って茶入・香炉・香合・鉢などを焼き、交趾風な色絵付のものも造っていたとされる。

やつれ
風炉釜の状態を表す語。腐食が激しく荒れたり、一部が壊れた状態になること。または、侘びた風情を出すために故意に打ち欠いた状態。風炉の欄干や口、釜の羽などに表される。ことに、鉄風炉では腐食で口縁部や甑等が欠け落ちることが多かったが、茶人はそこ風情を見出して、そのままか、割れを継いだり、破れに鎹を打って、その詫びたさまを景色に見立てて使い、「やつれ風炉」「欠風炉」「破れ風炉」と称して好んだ。大きな鬼面風炉の姿が多く、元来が釜と切合わせであったものを、風炉の上端を打ち砕いて欠き、異なったを掛けるようになったという。江戸中期以降は最初からやつれたものに作ることが多い。十月の名残のころに使用される。

矢筈口(やはずぐち)
器物の口造りの一。矢を弦につがえるために、凹字がたになった矢の頭部を「矢筈」といい、そのような凹形の口をしたものをいう。水指に多く、口造りが口辺から内部下方へ傾きながら狭まった形で、口の内側に置蓋の受けがあり、共蓋をのせるようになっている。日用雑器の見立てではなく、当初から茶陶として造られたようで、一重口で桶型の鬼桶水指にかわり、利休晩年にあたる天正年間(1573〜1592)後期頃に流行したという。

矢筈棚(やはずだな)
矢筈とは、矢を弦につがえるために、凹字がたになった矢の頭部をいう。七世直斎宗守好。天板の小口が矢筈状になっていることが、棚名の由来。堂上家で冠を置く(冠卓)に真塗で四方に赤い房の下がったものがあり、これをもとに、直斎が好んだ明七宝水指を生かして使うために考案されたという。
真塗の背の低い四方水指棚で、四本柱の右手前1本を柄杓が通いやすいように省き、天板の小口に矢筈形の溝を掘って、それに赤い紐を掛けまわし、省いた一本の柱の代わりに紅染の総(ふさ)を垂らしている。この棚には「判の柄杓」と呼ばれる、柄が一寸長く、柄の部分を煤竹にして裏を黒塗にした柄杓を使用する。

弥七田(やひちだ)
織部焼の一種。素地は薄手で繊細な鉄絵けを施し、薄い発色の緑釉を細く紐状にたらし掛けたものが特徴。名称は、主に岐阜県可児市の弥七田窯で焼かれていることに由来する。
牟田洞、窯下、中窯(岐阜県可児市久々利大萓)の近くに窯跡が残っている。 この窯は他の織部よりは時代が下り、慶長末期か寛永の頃まで焼かれていたのではないかといわれる。

山里棚(やまざとだな)
利休好みの小棚。杉木地で、長方形の地板と、寄付を大きく斜めに切り取った天板を三本の柱で支え、天板と地板の縁に胡麻竹の割竹が張られている。地板は砂摺りになっていて、湿らせて使用することが出来るため、備前・信楽などの素焼きの濡れ水指を用いることができる。大阪城内山里の茶席で初めて使われたという説と大阪城山里丸の仕付板を棚とされたという説がある。藪内剣仲に送ったと言われ、同流の代表的なとされ、小棚とも呼ばれている。

山田東哉(やまだ とうさい)
京焼の巧芸家。初代陶哉が、大正8年(1917)洛東清水音羽山嶺において創窯。昭和11年(1936)銀座に店舗「東哉」を開設。当代2代。伝統的な京都の雅に東京の粋を取り入れた「粋上品」の器物を創出する。ミラノトリエンナーレ金賞受賞(1953)、ブリュッセル万国博覧会グランプリ受賞(1958)、第二回日本グッドデザイン選定(1958)

山中塗(やまなかぬり)
石川県山中町で作られる漆器。天正8年(1580年)山中温泉の上流真砂の地に、良材を求め移住した挽者師たちの「轆轤(ろくろ)挽き」が始まりとされている。初め山中温泉の浴客の土産品として発展し、元禄年間に継燭台、茶托等を作り、宝暦年間漆を塗るようになった。慶安年間、蓑屋平兵衛が糸目挽千筋漆器を創製し、また笠屋嘉平等により蒔絵技術も広まり、山中塗の基礎ができ今日に至る。白木地を鉋と呼ばれる特殊な刃物で回転させながらくりぬく轆轤挽きに優れ、薄くて繊細な木地が特徴。特になどの茶道具の木地は全国の8割から9割は山中で挽かれる。木地に鉋で挽目を施し意匠とする筋挽きは、千筋、毛筋、糸目筋、ろくろ筋、びり筋、平みぞ筋、稲穂筋、柄筋など約五十種類の加飾挽きが行われている。塗り方もこの木地や杢目(もくめ)の美しさを引き立たせる拭き漆(ふきうるし、摺り漆とも云う)や木目溜塗が代表的な仕上げ。茶道具のなどの研ぎ出し蒔絵・高蒔絵の技術にも優れる。

山上宗二(やまのうえ そうじ)
安土桃山時代の茶人。天文13年(1544)〜天正18年(1590)。薩摩屋を屋号とする堺の商家に生まれる。瓢庵と号す。父は堺の数寄者山上宗壁。名は三二。堺の山上に住んだので山上を姓とした。 利休に茶を学び極意を皆伝された。信長に茶を持って仕え、李安忠の「馬の絵」「紹鴎小霰釜」「雀の絵」を拝領して愛顧を得ていたことが知られる。信長の死後は秀吉に仕え、茶頭八人衆のひとりに数えられた。元正10年(1582)秀吉の勘気にふれ浪人となり、浪人中は相模小田原に下り、北条氏の客分となって家臣に茶の湯を指南していた。天正18年(1590)4月小田原征伐の際、一旦は利休の取り成しで助命されたが、層雲時での茶会の席で秀吉の機嫌を損ねる言を吐いて処刑されたという。『長闇堂記』に「山の上宗二は、いろに火床と云て、切炭にて井筒のごとく組て、中三寸計にして、それら灰仕かけ、扨炭置流入一段能物也。某も久しく是を用たる也。客無時は釜つりさげ一日一夜あるもの也。其時分には火切れざるを手がらとせしなり。かの山の上の宗二さつまやとも云し。堺にての上手にて物をもしり、人におさるヽ事なき人なり。いかにしてもつらくせ悪く、口あらきものにて、人のにくみしもの也。小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、その罪に、耳鼻そがせ給ひし。其子道七とて故相国様の茶道して御奉公申せし。又父の伝をうけて、短気の口わる物にて、上様御風炉の内遊されし跡を見て、つきかへつ仕直しけるによりて、御改易にあひ、牢人して藤堂和泉守殿伊予在国の時下国し、其申ひらきなどして、我もあり合て一冬はなせし也。」とある。茶の湯秘伝書『山上宗二記』は茶道史の基本史料。

山上宗二記(やまのうえ そうじ き)
千利休の高弟である山上宗二が、茶の湯秘伝を編述した書。豊臣秀吉の茶頭であった山上宗二が秀吉の勘気にふれて浪々の身であったなかで、天正16年(1588)正月から同18年(1590)3月にかけて、子の伊勢屋道七や、弟子の桑山修理大夫重晴・板部融成・皆川山城守広照らのために、村田珠光が書き記した秘伝の目録に、武野紹鴎が追加したものを基本にして、千利休の口伝を含めた宗二の見聞を加えた「珠光一紙目録」を骨子とした書を編述して、与えた書。珠光から紹鴎利休に至る茶の湯の道統を明かにしたもので、現代の茶道成立史の経緯は、ほとんどこの書によって形作られたといわれ高い評価を受けている。

山の神(やまのかみ)
一翁好の信楽の丸三宝形の蓋置信楽の粗い土肌で、白い石粒がポツポツと全面に現れ、丸足の裾廻りは大胆に箆で面取りされている。足の部分の内側に「守」の漆書がある。一説には、伊勢神宮の祭器である丸三方に因んで好んだともいう。愈好斎が、一翁の二百五十年忌に際し、大正15年(1926)1月、永楽妙全に写しを100個作らせている。有隣斎が、一翁の三百年忌に際し作らせたものもある。有隣斎が「山の神」と追銘したもの。

山本雄一(やまもと ゆういち)
備前焼作家。昭和10年(1935)人間国宝故山本陶秀の長男として生れる。昭和34年(1959)父のもとで陶芸の道に入る。昭和42年(1967)日本工芸会正会員。昭和43年(1968)備前焼で初めてガス窯を導入。平成8年(1996)茶の湯造形展で田部美術館大賞を受賞。同年、岡山県重要無形文化財保持者に認定。金重陶陽賞、岡山県文化奨励賞、山陽新聞賞(文化功労)、玄画会展内閣総理大臣賞など多数受賞。稲藁を煮詰めて抽出したエキスを絵の具のように使い、素地に花や模様を描いた電気窯による人口の緋襷「緋紋」「緋彩」の技法を考案する。

槍鞘(やりのさや)
器物の形状の一。槍の穂先にかぶせる鞘のような形のもの。茶入建水などにある。槍鞘建水は、円筒形で寄せ口の建水で、蓋置は吹貫のものを柄杓の柄に刺通して持ち出す。七種建水の一。

薬籠蓋(やろうぶた).
器物の蓋の形態の一。印籠蓋(いんろうぶた)ともいう。器物の身の内側に立ち上がりを作り、蓋をすると身と蓋の境目が同じ高さになり、表面が平らに重なる蓋。身の内側の立ち上がりに蓋がぴったりとはまるため密閉性が高く、薬籠や印籠に見られるため、薬籠蓋、印籠蓋の名がある。

  
  
  
  
  
 

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