茶道用語

逢坂金襴(おうさかきんらん)
名物裂の一つ。縹(はなだ)地に、文様は金糸で七曜文を散らし、丸竜紋と霊芝雲文を交互に配する。中興名物「相坂丸壺茶入」の仕覆として用いられていることからの名称といわれ、「相坂金襴」とも書く。
「縹(はなだ)」は、藍だけで染めた青。古くは藍で染めた色の総称。藍のほかに黄色の染料である黄蘗を用いて染める藍色より薄い。「七曜文(しちようもん)」は陰陽五行で太陽、月、木、火、土、金、水を表し、中央に一つの円、そして周囲に六個の円を配列した形。中国では皇帝の礼服に、また奈良時代には天皇の礼服柄として用いた。「霊芝雲文(れいしうんもん)」は茸の霊芝に似た不老を象徴する瑞雲(ずいうん)をかたどった形。「丸竜紋」は中国皇帝の文様である竜を丸くかたどったもの。

大内桐金襴(おおうちきりきんらん)
名物裂の一。通常花色の朱子地に、桐の葉三枚の上に、桐の花を中央に七つ、左右に五つ配した、五七の桐の文様を織った金襴。周防山口(山口県)の戦国大名である大内義隆(おおうち よしたか:1507〜1551)が明に注文して織らせたものと伝えられる。

大菊棗(おおぎくなつめ)
松平不昧公好みの。原羊遊斎造。黒漆地に蓋上から身にかけて八重菊、一重菊、裏菊の菊花三輪が重なる豪華な図案。金高蒔絵で立体的に菊の花弁をあらわし、花芯と萼に金の薄板を貼り付けてある。蓋裏に不昧花押「一〃」が朱書きされ、底に羊遊斎の黒漆描銘「羊」がある。不昧の墨書した共箱が備わる。原羊遊斎(はら ようゆうさい:1772〜1845)は、古河藩などの御用蒔絵師を務め、江戸琳派の酒井抱一(さかい ほういつ)との交流から、抱一が下絵を描き羊遊斎が蒔絵におこすという、琳派の意匠を漆の加飾である蒔絵に取り入れ、瀟洒で洗練された作風は圧倒的な支持を集め、当代随一の蒔絵の名工といわれた。

大津道観(おおつ どうかん)
安土桃山時代の侘茶人。生没年未詳。安積澹泊(1656〜1737)著『澹泊史論』に「大津追分有一數奇者曰道觀。極貧窶。家貯一鍋三足有喙。呼曰手取鍋。毎焼松毬爲薪。湘泉作茶湯。或煮攝飯充晨夕。自詠狂歌一首以述其趣。太閤秀吉公聞而奇之。將給月俸。道觀固辭曰。貧賤嗜茶湯。外無所求。而不累于物。一仰廩食。則身有餘饒。而心不閑曠。與其冨而屈志。不如貧而待死也。太閤不奪其志。乃點大津驛馬往來京師者。使征其什一以資生活。道觀又欲辭之。人或勸而受之。於是出杓於窓外。毎馬一匹。收錢一文。盈杓則納之。錢未盡。杓不出。及盡出之。率以爲常。」(大津追分に一数奇者あり、道観と曰う。極貧に窶れ。家に一鍋を貯う。三足にして喙あり。呼びて手取鍋と曰う。毎に松毬を焼き薪と為す。泉に湘し茶湯を作る。或は増水飯を煮て晨夕に充つ。自ら狂歌一首を詠い以て其の趣を述ぶ。太閤秀吉公聞きて之を奇とし、将に月俸を給せんとす。道観固辞して曰く、貧賎にして茶湯を嗜む。外に求むる所無く、物を累はさず。一たび廩食を仰がば、則ち身には余饒あるも、心は閑曠ならず。其の富みて志を屈するよりは、貧にして死を待つに如かずと。太閤その志を奪えず。乃ち大津駅馬の京師に往来する者に点き、其の什に一を征せしめ、以って生活の資とせん。道観また之を辞せんと欲す。人の或は勧めて之を受く。是に於て窓の外に杓を出し、馬一匹毎に銭一文を収む。杓盈つれば則ち之を納む。銭尽きざれば、杓を出さず、尽くるに及び之を出す。率ね以て常と為す。)とある。

大西清右衛門(おおにしせいえもん)
千家十職の釜師。
大西家の家祖は山城国南山城広瀬村の出身で広瀬姓を名乗る。釜師としての大西家は、初代浄林が上洛し三条釜座の座人になり、のち大西姓を名乗ったのが始まり。2代浄清は古田織部、織田有楽斎の釜師として有名で、小堀遠州好みの釜も多く作り、大西家歴代の中でも第一の名手と言われる。6代浄元の代より千家出入りの釜師となる。7代浄玄は3代浄玄と区別するため「くろ玄」といわれ、2代浄清に次ぐ名手として大西家中興の祖とされている。
初代浄林(1590〜1663)。2代浄清(1594〜1682)。3代浄玄(1630〜1684)。4代浄頓(1645〜1700)。5代浄入(1647〜1716)。6代浄元(1689〜1762)。7代浄玄(1720〜1783)。8代浄本(1747〜1785)。9代浄元(1749〜1811)。10代浄雪(1777〜1852)。11代浄寿(1808〜1875)。12代浄典(1841〜1869)。13代浄長(1866〜1943)。14代浄中(1888〜1960)。15代浄心(1924〜2002)。当代16代清右衛門(1961〜)。

大西定林(おおにしじょうりん)
江戸中期の釜師。名は延貞、通称は 五郎左衛門。千家十職大西家2代浄清(じょうせい;1594〜1682)の次男。江戸大西家の初代。浄清とともに古田織部小堀遠州に従って江戸に赴き、定林は江戸にとどまり、江戸大西家を開く。生年不詳、享保12年(1727)没。織部、遠州、石州の釜を作り、数代続いた。

大樋長左衛門(おおひちょうざえもん)
大樋焼の窯元。 初代長左衛門(1631〜1712)は、土師長左衛門、のちに大樋長左衛門。隠居名は芳土庵。河内国土師村出身で、明暦2年(1656)京都に出て、二条瓦町に居住し、楽家四代一入のもとで楽焼を学んだといわれる。寛文6年(1666年)加賀藩の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室に同道し加賀国河北郡大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築き、屋名を荒屋と名乗り、茶道具を製作し、 後、妻を大樋村の石動屋から娶り、貞享3年(1686)二代目長左衛門が生まれる。同年仙叟宗室が帰京の際、藩主に願い出て、加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」姓とすることを許される。正徳2年(1712)没。享年82歳。 2代長左衛門(1686〜1747)初代長左衛門の子。芳土庵。3代長左衛門(1728〜1802)初名は勘兵衛。芳土庵。4代長左衛門(1758〜1839)初名は勘兵衛。土庵。歴代の中で初代に次ぐ名工とされる。5代長左衛門(1799〜1856)4代長左衛門の子。初名は勘兵衛。土庵。大樋焼の中興の祖といわれ、食器も焼き始め、従来の飴釉に加えて黒釉も用いるようになる。6代長左衛門(1829〜1856)5代長左衛門の長男、7代道忠の兄。初名は朔太郎。7代長左衛門(1834〜1894)5代長左衛門の三男、6代長左衛門の弟。初名は道忠。時代は幕末から明治にかかる激動の時期で加賀藩の保護を失った大樋焼は一時廃業をむかえる。8代長左衛門(1851〜1927)7代長左衛門の弟子(異説あり)。本名は奈良理吉、明治27年(1894)裏千家13世円能斎より宗春の号を受ける。松涛の号を大徳寺松雲老師から受ける。隠居名は以玄斎。9代長左衛門(1901〜1986)8代長左衛門の長男。陶土斎の号を15世裏千家鵬雲斎宗室より受ける。10代長左衛門(1927〜)9代長左衛門の長男。昭和62年(1987)10代大樋長左衛門襲名。

大樋焼(おおひやき)
加賀金沢の楽焼。寛永6年(1666)加賀藩5代藩主前田綱紀(1643〜1724)の茶道奉行として仕官した裏千家四世仙叟宗室が、京都在住の楽一入の弟子と伝えられる河内国土師村の人、土師長左衛門を茶碗造り師として金沢に同道し、河北郡小坂庄大樋村(現金沢市大樋町)に窯を築いた事より始まる。貞享3年(1686) 仙叟宗室が帰京の際、長左衛門が藩主に願い出て加賀国に住むことを許され、陶器御用を勤め、地名の「大樋」を姓とすることが許される。京都の楽焼よりは薄手のものが多く、楽家から楽焼の黒や赤を使うことを禁止され、独自に考案した飴釉(鉄釉の一種で酸化焼成すると飴色に発色することからこの名がついた)が特徴となっている。飴色にも、薄飴、飴、濃飴、飴黒など種類がある。他に、飴色の上に白の幕釉をかけた「白幕飴釉」や「黒飴釉」「かせ黒」「黒幕釉」などがある。明治時代になり加賀藩の保護を失った大樋焼は7代長左衛門の時に一時廃業をむかえたが、7代長左衛門の弟子(異説あり)の奈良理吉が再興し、8代長左衛門を名乗り、現在に至る。また、廃業した7代大樋長左衛門道忠(1834〜1894)の直系子孫である大樋知新から認証を受けたとする、8代目大樋長楽(1902〜1991)陶玄斎とその長男である9代目大樋勘兵衛がある。

大名物(おお めいぶつ)
茶道具の格付け分類名称。東山御物をはじめ千利休以前の名物の称。大名物の呼称が一般化するのは、18世紀末で、それを定着させたのは、松平不昧の『古今名物類聚』という。不昧の酒井宗雅宛の書状に「従古名物と申候は当世申習候大名物にて是そ誠の名物にて御座候」とあり、大名物の称が当世言い習わすようになったものであることを述べている。『古今名物類聚』の序に「小堀遠州公古器を愛し給ひ。藤四郎以下後窯国焼等のうちにも。古瀬戸。唐物にもまされる出来あれとも。世に用ひられさるを惜み給ひ。それかなかにもすくれたるを撰み。夫々に名を銘せられたるより。世にもてはやす事とはなれり。今是を中興名物と称す。」として中興名物を規定してから「それよりしてのち。古代の名物をは。大名物と唱る。」と、中興名物と大名物の二種に名物を規定した。その範囲は『君台観左右帳記』『山上宗二記』『玩貨名物記』各所載の品を中心に、桃山時代の茶会記にのる名物などや、『古今名物類聚』大名物之部所載の品、『雲州蔵帳』宝物および大名物所載の品などとされるが、その範囲は必ずしも明確でないという。

大脇指(おおわきざし)
建水の一。利休所持。黄瀬戸で、一重口で筒形の建水。大脇差とも。高さ四寸、径四寸七分、厚三寸と大振りで、常に腰の脇を離れないことからその名があるという。利休から芝山監物へ送られたが、のち少庵に戻り、宗旦が「利休大脇指」と箱書付している。江岑宗左の時、紀州徳川家に献上され 後に了々斎が極書をしている。『茶道筌蹄』に「利休所持大脇差は黄瀬戸 紀州公御所持」、「利休所持さしかへは捻貫也 加州公御所持」、『千家茶事不白斎聞書』に「水こぼし利休銘大脇指、黄瀬戸百会茶に出る名物也、楽焼に写」、『茶道望月集』に「楽焼に利休の大脇指とて、真録にツヽ立て、ひとへ口にて、ロクロメ有建水、長次郎に始て好にて器にして焼かせたると也、本歌は黒楽と也、小形成を小脇指とて用るは後世の事也、名は黒楽にてロクロメあれば、脇指の割さやに似たる故の名ぞと也」とある。

尾形乾山(おがた けんざん)
寛文3年(1663)〜寛保3年(1743)。京都の富裕な呉服商「雁金屋」尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれる。尾形はもと緒方で本国は豊後、緒方三郎惟義がその遠祖という。初名は権平のち深省、諱は惟允、別号に霊海・紫翠・習静堂・尚古斎・陶隠。すぐ上の兄が市之丞(いちのじょう)のちの尾形光琳(1658〜1716)。二人の曽祖母にあたる初代「雁金屋」の妻が本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の姉・法秀(ほうしゅう)。貞享4年(1687)25歳の時、父親が他界し、父の遺産を元に元禄2年(1689)御室に隠宅「習静堂(しゅうせいどう)」を構え、仁清に陶法を学び、元禄12年(1699)仁清から「陶法伝書」をさずけられ、二条綱平公から譲り受けた鳴滝(なるたき)の山荘に窯を開き乾山と名付けた。正徳2年(1712)50歳の頃、鳴滝泉谷の屋敷を桑原空洞へ譲渡し、二条通寺町西入ル北側に移り、三条粟田口五条坂辺で窯を借り「焼物商売」として絵付の食器類を多く作り「乾山焼」として世にもてはやされた。鳴滝時代の末期から丁子屋町時代にかけ光琳が絵付をし乾山が画賛をした合作の作品が作られる。享保16年(1731)69歳の頃に輪王寺宮公寛法親王に従い江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送り、81歳で没するまで江戸に在住した。乾山の著した『陶工必用』に「愚拙元禄卯之年洛西北泉渓ト申処ニ閑居候処ニテ陶器ヲ製シ始 則京城ノ西北ニ相当リ候地ニ候故陶器ノ銘ヲ乾山ト記シ出申候、其節手前ニ指置候細工人孫兵衛ト申者右押小路寺焼之親戚ニて則弟子ニ候而細工焼方等巧者ニ候故御室仁清嫡男清右衛門ト共ニ手前江相頼ミ置 此両人押小路寺内かま焼キ御室仁清焼之伝ヲ受継申候」とあり、作品は仁清の長男・清右衛門と押小路寺焼職人の孫兵衛らが施釉、焼窯といった作業のほとんどを行い、自らは絵付や画賛をしたという。

置形(おきがた)
茶入の正面となるところ。釉のなだれなど、景色や見どころある面を正面にして置きつけるところからの名称。点前をするときに正面にする面で、拝見のときは客にその面を向ける。景色のない茶入には置形はなく、景色の多い松屋肩衝では四つのなだれがあり、それぞれ遠州見立、古来見立、利休見立、織部見立として四つの置形ある。

置筒(おきづつ)
竹花入の一。一重切の釘穴がなく後にも窓を開け左右に柱を残し吹貫にした形をいう。吹きぬきになっているところから「吹貫」(ふきぬき)ともいう。『茶道筌蹄』に「置筒 庸軒始り也、千家にては原叟始て製す」、速水宗達(1727〜1809)の文政8年(1825)刊『喫茶指掌編』に「藤村庸軒物数寄にて利休の一重切の姿にて後の釘穴を広く明て置筒となして旅衣と銘したり、会後に前後同様に窓を作しとか」とあり、藤村庸軒が利休一重切と同じ姿の花入を作り、その一重切を作り変えたのが始まりと云う。『茶話指月集』に「暇ある時は、茶匙・竹筒を製して俗事に渉らず」とあるように、庸軒作の置筒には、『生花口伝書』に「一 遅馬の事 藤村庸軒作なり。ある時一重切を切られしに釘穴かけたり。夫故月の輪を切すて置筒に用られし由、されはかけられぬといふ縁語をとりて遅馬とは名付られしと也。」とあるように駆(掛)けられぬということから「遅馬」、置くという縁語から「露」、凡河内躬恒「心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花」の歌より「白菊」と名付けられたものなどがある。

奥高麗(おくこうらい)
桃山時代の古唐津茶碗の一種。高麗茶碗の特色を備えた初期の唐津茶碗で、奥とは古いという意味といわれる。作為の無いおおらかな姿が特色。普通の古唐津より土が細かく、全体にごく薄い土灰釉が掛けられている。枇杷色、黄色、青褐色のものなど火度により変化があり、無文のものが多い。

奥村吉兵衛(おくむら きちべえ)
千家十職の表具師。近江国谷ノ庄の地侍奥村三郎定通の次男吉右衛門清定が正保3年(1646)京に出て小川通上立売に住し、承応3年(1654)表具を業とし近江屋吉兵衛と称し、二代吉兵衛のとき表千家六代覚々斎の取りなしで紀州徳川家御用達となり、千家職方も務める。
初代吉右衛門 元和4年(1618)〜元禄13年(1700) 名は清定、法名を宗勢。正保3年(1646)に上洛。承応3年(1654)表具屋業を開業、屋号「近江屋吉兵衛」を名乗る。二代吉兵衛 寛永10年(1633)〜享保4年(1719) 初代の長男。号は休意。元禄11年(1698)表千家六代覚々斎の取りなしで紀州徳川家御用達となる。三代吉兵衛 寛文6年(1666)〜寛保3年(1743) 二代吉兵衛の婿養子。法名を休誠。近江国浅井郡馬渡村の松山家の出身。狂歌の作者、能書家として知られる。四代吉五郎 元文2年(1737)〜天明元年(1781) 三代吉兵衛の婿養子。法名を道順。近江国伊香郡高月村の田辺家出身。五代吉兵衛 宝暦5年(1755)〜文政8年(1825) 三代吉兵衛の婿養子。法名を了誠。近江国伊香郡高月村の松井家出身。天明8年(1788)天明の大火に遭遇し家伝などの一切を消失。六代吉兵衛 安永9年(1780)〜嘉永元年(1848) 四代吉五郎の婿養子。号は休栄。近江国伊香郡高月村の宮部家出身。「奥村家系図」、「千家御好表具并諸色寸法控」を著す。七代吉次郎 寛政7年(1795)〜天保8年(1837) 六代吉兵衛の婿養子。号は休音。八代吉兵衛 文化元年(1804)〜慶応3年(1867) 号は?所、鶴心堂、出家し蒿庵と号す。歴代中最も表具の達人と言われる。九代吉兵衛 天保11年(1840)〜明治41年(1908) 八代吉兵衛の長男。名は義道。小川町上立売から現住所の釜座通夷川上ル亀屋町へ転居。十代吉次郎 (明治2年(1869)〜昭和19年(1944) 九代吉兵衛の長男。名は一夫。号は一道。十一代吉兵衛 明治34年(1901)〜昭和62年(1987) 十代吉次郎の長男。当代十二代吉兵衛 昭和9年(1934)〜 十一代吉兵衛の子。名は吉男。

折敷(おしき)
檜のへぎで作った縁つきの盆。多く方形で、食器などを載せる。形としては、四角の物を平(ひら)折敷(角切らず)、四隅を落とした角切(すみきり)折敷(隅切折敷)、隅切の縁を高くした縁高(ふちだか)折敷、足を付けた足打(あしうち)折敷(高折敷)、足打折敷の脚に刳形(くりがた)のない傍(そば)折敷等がある。折敷とは折って敷く意で、『倭訓栞』に「おしき 東鑑に折敷と書り。所謂方盆也。一説に和卓の音とす。木の葉を折敷て盤となせし、上古の名の遣れるもの也。」、『北史』に「倭國・・・俗無盤俎、藉以槲葉、食用手餔之。」とあるように、昔は木の葉を折り敷いて食器の代用としたものを、後世に至って檜のへぎを押し曲げて角盆にして用いたが、呼称を古名のまま「折敷」と云うとする。『茶道筌蹄』に「角きらず 元来利休形の湯盆なり、膳に用ゆる事は仙叟より始る、依て曲折敷を湯盆にもちひても然るべき歟。鉋目 利休形溜角切、カンナ目あり。曲 利休形黒ツハメ角きり。山折敷 飛騨作にならふて利休形なり、カンナメ内ニ桜皮のトジメあり、側深くして打合せなり。吉野折敷 根来作なり、鏡は黒ハケメ側朱也、裏は春慶、卒啄斎より吉野折敷と呼ぶ、吉野椀にとり合す、千家に本歌あり。半月折敷 如心斎好一閑作、黒クルミ足、糸目椀にとりあはす。山崎盆 織部好、溜塗鉋目、裏黒形丸。」とある。

尾垂釜(おだれがま)
の形状の一。釜の胴の下部が不規則な波型に欠けて垂れた形になったもの。本来は、古芦屋や古天明など、古い釜の下部が腐食して破損したものを、その部分を打ち欠いて取除き、新しく別の底を取り付けたとき、打ち欠いた個所を不揃いのまま残したところからの形態。後には始めから尾垂の形を作っている。

落葉切(おちばぎれ)
西行筆と伝えられる熊野懐紙。落葉が詠まれているので、古来「落葉切」もしくは「落葉色紙」と呼ばれている。建仁元年(1201)十月十九日の「深山風、寺落葉」の歌題で詠まれた熊野懐紙(二首懐紙)の半分、「寺落葉」の歌の部分を切り取り、茶の掛物として表装したものと思われる。

落穂籠(おちぼかご)
籠花入の一。愈好斎好み。愈好斎が敦賀を訪れた際に、落穂を入れる籠を持ち帰り、黒田正玄に手をつけさせた花入。名残の季節によく使われる。

御茶入日記(おちゃいりにっき)
茶師が、茶壷に詰めた茶葉の銘や量、詰主、日付などを記して、茶壷の箱の蓋裏に貼り付けたもの。単に「入日記」ともいう。

鬼丸碧山(おにまる へきざん)
小石原高取焼 鬼丸雪山窯元。本名は鬼丸勝弘(おにまる かつひろ)。1947年鬼丸雪山の子として福岡県小石原に生まれる。轆轤の名人父雪山に師事。1976年日本伝統工芸展入選以来、西部工芸展・九州山口陶磁展・日本陶芸展・中日国際陶芸展に入選。1982年日本工芸会正会員。1985年福岡県展県知事賞受賞。小石原焼陶器協同組合理事長。

澤潟棚(おもだかだな)
愈好斎好みの二重棚で、の足、地板と天板から側面と背面に澤潟の葉を縦半分にした形を施した。初飾りでは、の地板に水指を、中板の中央にを飾る。 点前後はは拝見に出され、中板には柄杓蓋置を飾る。柄杓は合を上向きに、中板幅の奥側1/3、手前側1/4に斜めに飾る。 蓋置柄杓の号の手前延長線上に飾る。

凡手(およそで)
瀬戸 茶入の窯分け名の一。瀬戸破風窯の中興名物「凡」を本歌とする。凡の銘は「凡そこれに及ぶものあるまじ」との意で名付けたとされるが、一説には「凡」の文字がこの茶入の姿に似ているからともいわれる。下膨の肩衝で、肩が庇状をなし、胴に轆轤目が荒く、黄釉が幅広く段々をなして裾まで流れている。遠州所持で、寛政ころ松平不昧に渡っている。挽家・内箱・袋箱を遠州書付、蓋箱・外箱を不昧書付している。名物としては本歌のほかに「撰屑」「玉津島」「蓮生」などが知られる。

阿蘭陀焼(おらんだやき)

江戸時代にオランダ船により舶載された陶磁器の総称。和蘭焼、紅毛焼ともいう。鎖国下の江戸時代の日本ではオランダとのみ正式な交易が行われていたため、元来はオランダを意味した「紅毛」「阿蘭陀」「和蘭」は、「西洋」と同じ意味で使われた。オランダのデルフト、イギリスのウエッジウッド、イタリアのマジョリカや、フランス、スペイン、ポルトガル、さらには中近東諸国のものまで含まれる。藍・黄・緑・赤などで胴の前後に煙草の葉を思わせる文様と蔓唐草文楊を描き胴の上段と共蓋の外周に累座が描かれた容器を水指に見立てたものは「莨葉(たばこのは)水指」と呼ばれ珍重され、写しも多い。煙草の葉を輸入する際の容器であったとも言われるが、大中小さまざまな類品があり、水指花入茶器建水火入などに見立てられている。また、白地や青磁色の無地のものが、水指建水火入などに用いられている。

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織部焼(おりべやき)
慶長年間(1596〜1615)から寛永年間(1624〜44)に美濃で焼かれた斬新奇抜な加飾陶器の総称。慶長年間に天下一の茶の湯宗匠とされた古田織部正重然(ふるたおりべのかみしげなり)の名から呼ばれ、織部の好みで焼かれたとされる。ただ、織部が直接関わっていることを示す一次資料はなく、『宗湛日記』の慶長4年(1599)2月28日の織部茶会に「ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」とあるのが織部茶碗であるとされる。いわゆる織部は、黒釉を使い焼成中に引出し常温まで急冷させる引出黒による「瀬戸黒」(美濃焼も瀬戸と呼ばれていた)のなかで歪みの大きい沓形(くつがた)と呼ばれる器型の「織部黒」、黒釉を窓抜にし鉄釉で文様を描いた「黒織部」の織部茶碗と、織部釉といわれる緑釉(灰釉に銅を混ぜた釉薬)を総掛けした「総織部」、緑釉と鉄絵を組み合わせた「絵織部」、赤土に鉄絵、白土に緑釉を施した「鳴海織部」、赤土に白泥鉄絵の「赤織部」の向付・皿類・鉢類・花生・水指・香合・香炉などに大別される。加藤景延が唐津の連房式登り窯を学び、慶長初年に美濃の久尻・元屋敷に登り窯を築窯し織部を焼き始めたといい、寛永時代には弥七田窯、久尻勝負窯、妻木窯、田尻窯、下切窯等の窯で盛んに織部が焼かれた。大川東窯は江戸前期、笠原窯は江戸中期の窯である。また、志野焼も元禄頃までは織部焼と呼ばれていたが、のち織部焼と区別されるようになり、さらに近年、登り窯で焼かれたものは釉調が透明で硬い感じになるところから、大窯で焼かれた志野(古志野)とは区別して「志野織部」と呼ぶことが多い。

  
  
  
  
  
 

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