茶道用語

三浦乾也(みうら けんや)
幕末の陶工。文政4年(1821)〜明治22年(1889)。幼名は藤太郎、初号は乾六、別号を天禄堂、通称は陶蔵。谷文晁に絵を習った他、蒔絵・彫刻等を習得し、小川破笠(おがわはりつ)が編み出した破笠細工の蒔絵を手がけるなど多芸多才で、西村藐庵から乾山伝書を授かり乾山流の作も多く、弘化2年(1845)には乾山六世を名乗った。安政元年(1854)幕府から西洋式軍艦の建造技術を習得するよう命ぜられ、長崎に赴いた。安政3年(1856)仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、松島湾の寒風沢島で洋式軍艦「開成丸」建造の設計・監督に当たった。仙台には万延元年(1860)まで滞在。その間、堤焼の陶工庄子義忠を弟子とし「乾山秘伝書」と「乾」の一字を与え「乾馬」の号を名乗らせるなど、初代針生乾馬を通して仙台の焼物に影響を与えた。明治2年(1869)神奈川県小田原に窯を築き、埼玉県の飯能窯にも携わり、翌年横須賀でガラスを作り、また東京小菅で煉瓦を製造、のち深川に窯を築き、明治8年(1875)には墨田区の向島に築窯し、根付や簪の珠を焼き「乾也玉」の名で流行した。

三浦竹泉(みうら ちくせん)
京焼の陶工、三浦家の通名。初代竹泉(1854〜1915)は、本名を渡邉政吉、のち駒次郎。「有声居」のち「篩月庵」と号す。13歳の時に3代高橋道八に師事。明治16年(1883)に独立し五条坂に開窯。西洋彩色を磁器に応用し、釉薬透明紋の製造に成功する。明治37年(1904)青華磁器に玉石珊瑚を挿入し、明治40年(1907)黄色原料を釉薬に用い淡黄陶に彫刻を応用するなど多くの新技法を工夫する。文人墨客と交わり、田能村直入に画を学ぶなど、みずからも書画に長じ、また明治36年(1903)清の朱海鹽の「陶説」を訳した「和漢対照陶説」を出版するなど、幅広く活躍した。二代竹泉(1882〜1920)父の死後襲名したが39歳で早逝。三代竹泉(1900〜1990)初代竹泉の三男。二代竹泉の末弟。幼名は三郎。号は篩月庵。二代竹泉早世とその子息幼少のため大正10年(1921)襲名。昭和6年(1931)に四代に家督を譲り、昭和9年(1934)別家し「竹軒」と号し製作を続ける。四代竹泉(1934〜)二代竹泉の長男。昭和6年(1931)に四代襲名。主に煎抹茶器を製作。五代竹泉(1911〜1976)四代竹泉の長男。本名は徹。昭和32年(1957)同志社大学文学部美学芸術学専攻卒。四代竹泉に師事、昭和47年(1972)襲名。京都伝統陶芸家協会会員。日本煎茶工芸展審査員。

三砂良哉(みさご りょうさい)
漆芸家。明治20年(1887)〜昭和50年(1975)。大阪池田住。はじめ画家を志し住吉派の帝室技芸員の守住貫魚(1809〜1892)に学び、貫魚没後は周魚(1859〜1925)に学ぶ。明治34年(1901)藤原真月の門に入り蒔絵を学ぶ。大正10年(1921)小林逸翁の後援を得て「阪急工美会」幹事となる。愈好斎の好み物を多く作る。

三島(みしま)
高麗茶碗の一種。李朝初期15〜16世紀の慶尚南道で焼かれた、鉄分が多い鼠色の素地に印や箆(へら)や櫛(くし)で紋様をつけ、白土の化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、長石釉や木灰釉を掛け焼成した白象嵌の陶器。「暦手(こよみで)」ともいう。その文様が、伊豆国三嶋明神(現三嶋大社)で版行された摺暦(すりこよみ;木版印刷)である「三島暦」の仮名の崩し文字に似ていることから「みしま」「こよみ」などと呼ばれたというのが通説。「古三島」「礼賓(らいひん)三島」「花三島」「渦三島」「三作(さんさく)三島」「彫三島」「御本三島」などが知られている。「礼賓三島」は、見込みに「礼賓」の字が白象嵌で書いてることによる。礼賓は礼賓寺という外国使臣を接待する役所で、ほかに長興寺・内資寺・内膳・司膳・仁寿府などの文字のあるものも礼賓と称す。この手は官用品として上納されたもので上品が多い。「古三島」来賓に続いて16世紀前半から中期へかけての物が多く、象嵌の手法が来賓ほど緻密ではない。「三作三島」は、内面は三島象嵌で、外側は胴まで粉引で高台脇に刷毛目のあるもの。刷毛目のないものは二作三島という。「彫三島」は、織部の意匠による日本からの注文品で、見込みだけに花紋の押し型を用い、見込み周辺や外側は箆で略紋を施してある。「御本三島」は御本によるもの。

三島唐津(みしまからつ)
唐津焼の技法のひとつ。李朝三島の技法を伝承したもので、素地がまだ乾かないうちに、浅い彫りをいれたり、スタンプ状のものを押し付け、印花紋、線彫、雲鶴等の文様などを施し、化粧土を塗った後、削り又は拭き取り仕上げをし、長石釉や木灰釉を掛け焼成するもの。象嵌(ぞうがん)の一種。

水指(みずさし)
茶碗をすすぐ水や、に足すための水を入れ点前座に据える道具。水指の種類は、金属・磁器・陶器・塗物・木地のものなどある。水指には、水を七・八分入れて用いる。季節や棚やその他合わせる道具などによって種々変化する。また、扱いが、水指や用いる棚の種類により、点前のはじめに運び出し終われば運び出す「運び」と、点前のはじまる前に、あらかじめ茶席に据えておく「置き」にわかれる。運び出す時は形に拘らず両側を両手にて持出す。水指の蓋には、水指と同じ材質の「共蓋(ともぶた)」と、元来蓋のないものや、別の用途で使用されていたものを水指に転用したものなどには漆塗りの「塗蓋(ぬりぶた)」をつくり使用される。共蓋のある場合は「替蓋(かえぶた)」と呼ぶ。 『源流茶話』 に 「古へ水指ハ唐物金の類、南蛮抱桶或ハ真ノ手桶のたくひにて候を、珠光 備前しからきの風流なるを撰ひ用ひられ候へ共、なほまれなる故に、侘のたすけに、紹鴎釣瓶の水指を好ミ出され、利休まけ物、極侘は片口をもゆるされ候」 とある。 利休所持のものとしては、南蛮胴張形、井戸雷盆(らいぼん)、瀬戸捻貫(ねじぬき)渋紙手、一重口、信楽一重口、備前破桶、利休好みとしては、木地 釣瓶木地 真塗 手桶真塗 茶桶形がある。

三人形蓋置(みつにんぎょう ふたおき)
七種蓋置の一。三閑人・三漢人・三唐子ともいい、三人の唐子が外向きに手をつなぎ輪になった形状のもの。中国では筆架・墨台で文房具の一つであるのが、蓋置に見立てられた。三体の内の一人だけ姿の異なる人形があり、その人形を杓筋にして使い、飾るときは、客付側手前にくるように飾る。『茶道望月集』に「三漢人の蓋置迚唐人三人並びたる形あり、其中に羽織着たる人形有もの也、夫を表として、四畳半炉にては真向になし、風炉の向点の炉は前へなして置也」とみえる。

三葉蓋置(みつば ふたおき)
七種蓋置の一。大小の三つ葉を上下に組み合わせた形の蓋置。大葉を上にし、その一弁が杓筋になるように置きつける。棚に飾るときは、大葉の方を下にし、その一弁が客付側手前にくるように飾る。

皆口(みなくち)
器物の形状の一。口回りが胴回りと同じで、胴部の切り立ちがそのまま口部になっている、寸胴で円筒形のもの。皆口形。茶入水指に見られる。

美濃伊賀(みのいが)
桃山時代から江戸時代にかけて、美濃地方の窯で焼かれた、伊賀焼の器形・技法を模した焼物。伊賀焼が無釉の素地に自然釉なのに対し、美濃では厚手の素地に一部分や全体に白化粧を施し、その上に鉄釉を一部分や全体に流し掛けし、匣鉢に入れないで焼成する。伊賀焼よりも明るい雰囲気で重厚さにかける。花入水指などに多く見られる。美濃織部と呼ぶ場合もある。

宮川香雲(みやがわこううん)
初代宮川香雲が、眞葛 宮川香斎家から分家して龍谷窯を開窯。2代香雲は、6代清水六兵衛に師事、昭和55年2代目香雲を襲名し、現在に至る。京焼色絵、乾山仁清・道八風、金襴手を得意とする。

宮川香斎(みやがわこうさい)
京都の陶工。宮川長造の縁戚が香斎と名乗り作陶。その養子である2代香斎(1846〜)が慶応元年(1865)ころ香斎を名乗り、初代真葛香山を手伝っていた。その長男が大正6年(1917)3代香斎(1894〜1919)を襲名。4代香斎(1897〜1986)は2代香斎の次男。3代香斎の弟。京都市徒弟伝習所において作陶を学び、陶芸活動を開始し、兄3代香斎が大正8年(1919)亡くなったため家督相続、香斎を襲名。昭和5年には帝展に初入選し「宮川長造香斎」のころの作風を志向し、やがて2代目真葛香山らにも認められ、昭和9年頃から眞葛を名乗るようになり、初代真葛香斎となる。永誉香斎とも呼ばれる。2代香斎(1922〜)は、東京都生まれ。陶芸家クラブにて先代清水六兵衛に指導を受けるが、昭和22年4代香斎の長女と婚姻し、4代香斎に師事する。昭和44年養子縁組。昭和47年5代宮川香斎(2代真葛香斎)を襲名する。京都真葛ともいう。

宮川長造(みやがわちょうぞう)
宮川長造(1797〜1860)。俗称は蝶三郎、号は延寿軒。京都祇園知恩院古門前(真葛ヶ原)の陶工。宮川家11代。宮川家は近江国(滋賀県)の住。宝永年間(1704〜1711)7代祐閑のとき京都に出て知恩院門前に住み、9代香斎のときには楽屋と名乗り五条坂で釉薬を商い陶器の焼継ぎを業とした。長造は最初は仁清風の焼物を学び、いったん江戸に出たが帰郷して、青木木米(あおきもくべい)の弟子となり、最晩年の木米の製陶を助ける。のちに祇園真葛原に築窯し、主に茶器を制作したという。窯が真葛原にあるとことから観勝寺安井門蹟より「真葛」の号を賜り、また晩年華頂宮より「香山」の号を授かる。仁清写しに優れた品が多く、染付赤絵交趾にも佳品がある。幕末の名工の一人に数えられ、木米、仁阿弥道八(にんなみどうはち)、永楽保全と並ぶ名声を得た。印は「眞葛」(行書体)大小の小判型のものを使用。長造の四男寅之助が、真葛香山(まくずこうざん)=宮川香山(みやがわこうざん)。

明珍(みょうちん)
具足鍛冶師。初代 増田宗介紀ノ太郎が、近衛天皇(1141〜54)に鎧、轡を献上したところ、触れあう音が「音響朗々、光明白にして玉の如く、類稀なる珍器なりとて明珍の二字を賜ひ」という伝があり、代々「明珍」と称した。元は京都で馬の轡を作る轡師で、室町時代くらいから刀の鐔を作るようになったという。安土桃山時代に宗広が具足のほか火箸・鐶などの茶道具を手がけた。江戸時代に、明珍宗信が江戸に居を構え、元禄・宝永ごろ中興の祖 明珍宗介が、系図や家伝書を整備するなどして家元制度を整え、古甲冑を自家先祖製作とする極書を発行し権威付けを始め、弟子の養成に努め、「明珍」の名乗りと名に「宗」の字の使用を許すなどしながら勢力の拡大を図り、甲冑と言えば「明珍」といわれるようになり、明珍派は上州・仙台・越前・土佐など各地にあり俗に脇明珍とよばれる。現在姫路明珍と呼ばれる家系は、前橋から移封され姫路城主となった酒井雅楽守忠清にお抱え甲冑師として仕え、茶道具も製作する。49代 明珍宗之のとき明治維新で禄を離れ、千利休の火箸を作ったという伝にならい、それまで余技だった火箸づくりに転じた。当代 明珍宗理は、平成4年に第52代明珍を襲名。

三好 木屑(みよし もくしょう)
指物師。初代木屑は、通称は弥次兵衛。木屑、知新と号す。天明8年(1788)大阪阿弥陀池に生まれる。文化5年(1808)堀江に移り、淡路屋弥次兵衛と名乗り、大坂城内御用指物師となる。唐木の寄木細工やからくり細工、奇観筐と称する用箪笥など,精巧な細工で名高い。慶応3年(1867)7月歿、80歳。阿波三好郡の郷士大久保家を祖とし、藩主蜂須賀侯より三好の姓を受け帯刀を許される。
三代 木屑軒也二(もくしょうけん なりじ)は、初代木屑の孫。知新の孫であることから知孫とも呼ばれた。稀代の名工として名高い。茶湯は武者小路千家を学び、平瀬家蔵品の名物棚の図録を編纂した。髹漆・蒔絵・書画・和歌・漢詩・俳句等も能くした。昭和17年(1942)歿、68才。門下に佐藤野州がいる。

三輪栄造(みわえいぞう)

萩焼の作家。人間国宝十一代三輪休雪の次男。武蔵野美大卒。1982年日本工芸会正会員となる。次代の萩を担う陶芸家として期待されたが、1999年7月52才という若さで亡くなられた。

  
  
  
  
  
 

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