茶道用語

宗薫緞子(そうくんどんす)
今井宗薫所持に因む裂。縹地に二重の七宝繋ぎ文に宝尽文と梅花文を入れた緞子。今井宗薫は、安土桃山・江戸前期の茶人。天文21年(1552)〜寛永4年(1627)。和泉堺生。今井宗久の嫡子。名は兼久・久胤、通称は帯刀左衛門、別号に単丁斎。父宗久に茶湯を学び豊臣秀吉の茶頭・お伽衆となる。のちに徳川家康・秀忠・家光と三代の将軍に仕え、茶頭をつとめた。「宗薫肩衝」など多数の名物道具を所持。

宗全籠(そうぜんかご)
久田宗全(ひさだ そうぜん)好みの置籠花入。女竹を用い、底が長四角で、口は丸く編み上げ、底と四方に細い女竹を当てて藤蔓で粗く結び、口縁は真竹を廻して藤で止め、丸篠を二本合わせた手がついた籠。始め、仙叟宗室の依頼により作った置籠に、創意で手を付けたものと云う。本作の流れとして、同じ形でも油竹の覚々斎好みの「置籠花入」、敬翁宗左(惺斎)好みの「千鳥籠」がある。久田宗全(1647〜1707)は、江戸前・中期の茶人。表千家流久田家三世。二世宗利の子。通称は雛屋勘兵衛、号は徳誉斎・半床庵。千宗旦に茶を学ぶ。籠組物などの手工に秀でたとされ、宗全籠も宗全自作といわれる。宝永4年(1707)歿、61才。宗全作の籠には、他に、向掛けの「蝉籠花入」、柱掛けの「振々籠花入」、「掛置花入」、「編み残し籠」、「巻上壷形手付籠」などがある。

宗湛日記(そうたんにっき)
神谷宗湛が、天正14年(1586)から慶長18年(1613)にかけての茶事に関する日記。三巻。「天正十四年丙戌小春二十八日上松浦唐津村を出行」するところから始まり、慶長4年(1599)に至るまで豊臣秀吉や大小名、堺の豪商たちとの茶会を通しての交流が詳しく記述されており、特に名物道具拝見記は詳しい。慶長6年(1601)以降は有楽や織部茶会会記がやや詳しく見えるのみで他は茶会の開催のみを記している。天正15年大阪城の大茶湯は興味深く「正月三日寅刻より罷出候時御門外にて宗及御取合にて宗易に始て懸御目候」。堺衆5人と広間に控えていると「奥より石田治部少輔どの御出有りて宗湛一人ばかりを御内に被召連御茶湯のかざりを一返拝見させられ候」。その後堺衆5人と「御かざりを拝見仕候へとの御諚にて関白様御跡より各同前に拝見仕候處筑紫の坊主どれぞと御尋被成候へば是にて候と宗及御申に候被仰出にはのこりの者はのけて筑紫の坊主一人に能みせよとの御諚に候條堺衆みな縁に出宗湛一人拝見仕」「御膳出候時我々どもは罷立次の広間に罷居候へば、関白様、御諚につくしの坊主にめしをくわせよと被仰出候ほどに座敷まん中になや宗久宗湛とうしろを合て罷居候。其外には京堺の衆とても一人も御前に無之。御かよいの衆多人数なり、其内石田治少御かよいにて宗湛が前に馳走被成候事」「御茶の時に、関白様御立ながら被成、御諚には多人数なほどに一服を三人づゝにてのめや、さらばくじ取て次第を定よと被仰出候へば、内より長さ三寸よこ一寸ほどの板に名付書て小性衆持参に候御前になげ被出候を座中有之大名衆このふたをばい取にして其後誰々は誰か手前、誰々は誰か手前にとさしよられて御茶きこしめさるゝ時、そのつくしの坊主には四十石の茶を一服とつくりとのませよやと被仰出候ほどに、宗易手前に参一服被下候」と、秀吉の歓待振りが覗える。

宗入(そうにゅう)
楽家5代。寛文4年(1664)〜亨保元年(1716)。雁金屋三右衛門の子として生まれ、寛文5年(1665)2歳で一入の養子となる。名は平四郎・惣吉。元禄4年(1691)5代吉左衛門を襲名。宝永5年(1708)剃髪隠居して宗入と号す。雁金屋三右衛門は尾形宗謙の末弟、その子尾形光琳、乾山とは従兄弟にあたる。尾形光琳・乾山の徒弟。元禄元年(1688)に樂家の系図をまとめた「宗入文書」を書いた。器形・釉調ともに長次郎の茶碗を倣っている。全体にやや厚作りで、口作りはむっくりして、胴に変化をつけない。初楽のような肌を再現しようとして、俗に「宗入のカセ薬」と称される黒樂釉を用い、光沢のないざらざらした感じで黒く錆びた鉄塊の如き重厚感がある。五十歳の半白の祝いに焼いた茶碗二百個は数の茶碗の嚆矢である。この茶碗には原叟(げんそう)による「癸巳(きし)」の箱書付がある。印は、俗に崩れ印といって字体がはっきりしない。

蕎麦(そば)
高麗茶碗の一種。蕎麦の名は、江戸中期以降というが、地肌の色合が蕎麦に似ている、ソバカスのような黒斑がある、作行きが井戸に似ているので「井戸のそば」など諸説あり判然としない。わずかに鉄分を含んだ薄茶の砂まじりの素地に、淡い青灰色の釉が総体に薄く掛かる。時には酸化して淡い黄褐色もある。形は平らめで、高台から伸びやかに開き、轆轤目が入る。口は広くかかえ気味で、見込みに大きく鏡落ちがあり、その部分が外側の腰のあたりで張り出し段になっている。鏡のなかに目跡が残るものもある。

染付(そめつけ)
 白素地に藍色の顔料である酸化コバルト(呉須)を含む顔料で絵付けをし、さらに透明な上釉を掛けて還元焼成をした磁器の総称。また下絵付けを施したものに対する広義の名称として用いられる場合もある。 
 「染付」とは、もともとは染織用語から派生した言葉で、室町時代にはじめて中国から輸入されたときに、見かけが藍色の麻布(染付)に似ているので日本ではその名で呼ばれるようになった。中国では青花(華)・釉裏青と呼び、英語ではブルー・アンド・ホワイトという。
 文献的には室町時代の『君台観左右帳記』には染付の語は見えず、1603年(慶長8)刊行の『日葡辞書』に載る。
  染付は1,300度といった高火度の還元焼成を必要とするため,相当の築窯技術の発達を背景としていなければならない。中国における染付は宋時代に創設されたことがしだいに明らかにされつつあるが,完成を見るのは明の宣徳期(1426〜1435)である。
  朝鮮の染付は李朝期(16世紀末)に始まるといわれ、日本の染付は、元和・寛永期(1615〜1644)李朝染付けの流れをくむ肥前有田の金ケ江三兵衛(李参平)を創始者としている。文化・文政期(1804〜1830)には日本の染付は全盛期を迎える。

曾呂利(そろり)

花入の形状の一。「ぞろり」とも。座露吏とも書く。古銅花入の一種で、文様がなく、首が細長く、肩がなく、下部がゆるやかに膨らんでいて、全体に「ぞろり」とした姿なのでこの名が出たという。『山上宗二記』に「一 そろり 古銅無紋の花入紹鴎。天下無双花入也。関白様に在り。 一 そろり 右、同じ花入四方盆にすわる。宗甫。 一 そろり 右、同じ花入。京施薬院並びに曲庵所持す。四方盆にすわる。」とある。『南方録』には「ソロリ合子獅子ノ飾」に「名物ノ五道具ハ二具アリシト云々」として「杓立 ソロリ、柑子口」とあり、杓立として用いられている。『今井宗久茶湯日記抜書』の永禄元年(1558)9月9日の松永久秀会に「一、床ソロリ 白菊生テ」とみえる。


存星(ぞんせい)
漆芸加飾技法の一。存清とも。中国では彫填(ちょうてん)とか填漆(てんしつ)と称す。器胎に彩漆を厚めに塗って、研ぎだした素地の表面に模様を色漆で描き、輪郭・細部を線彫りするもの、また彫口に別の彩漆を埋め込んだり、沈金を施したもの。明時代の前半の宣徳期に遺品があるが、文様の輪郭線を沈金(鎗金)の手法によるようになるのは嘉靖期、萬暦期になってからという。茶道具としては、香合、食籠、茶器、盆、椀、盒子、箱などにある。『君台観左右帳記』に「存星ト云物有。赤モ黒キモアリ。チツキンノヤウニホリタル物也。稀也。」とある。天文23年(1554)一謳軒宗全の『茶具備討集』には「彫りに星のようなる物ある故に存星という」とあるという。『万宝全書』の「和漢諸道具古今知見抄」に「存清、唐作者、唐彫物師。存清、作人の名也。赤又黒き地に紋をあさくして地をほりて、ちんきんに似たる物也。まれなる物云々」、『嬉遊笑覧』に「人倫訓蒙図彙 堆朱彫の処に唐土にてハ珍星張成其外数多の名人ありといへり。是を按るにいづれもいたく誤れりとみゆ。雍州府志 漆器條に有称藤重者、元樽井氏而南京之漆工也、是漆工羽田氏之類也、至今藤嚴十一代、第七世人剃髪号藤重、特為巧手、自?後不称樽井従倭訓号藤重、是専製中次茶器云々、この漆工もと南京の者にて樽井なる故にこれか作れる器を(其始ハ彼国の式にて作りけむハ中次茶器のみにハあらぬなるべし)やがて音に呼て樽井といへるが唐物の漆器をもしか称へしを後に〓(倉戈)金の盆に星のこときもの有から樽井(そんせい)を存星と誤りしものと見ゆ。」とある。

存星盆(ぞんせいぼん)
松屋三名物の一。唐物存星長盆。散逸して現存しない。『長闇堂記』に「松屋源三郎茶湯の時、存成の長盆所望あれハ、はり物の香箱すへて出せる」、『茶道筌蹄』に「存星 名高きは、松屋肩衝の許由の長盆なり。」、『嬉遊笑覧』に「東〓(片上戸下甫)子に世に存星の盆といふ古器有て珍蔵す。目利する者存星の若出来或ハ後出来などと鑑定す。存星ハ器物作人の名と覚えたるやう也。作は宋の張成なり。盆の地図に星顕れたれハ存星と称す。張成古今の細工人なりとぞ。南土御門氏所持三種の内存星の盆あり、是ハ東山殿御所持なりしを伝来す。下絵は馬麟なり図ハ許由なりといへり。存星をまた誤りて珍星といひたり。」とある。松屋三名物は、松本肩衝(松屋肩衝)、徐熈の白鷺の絵、存星の長盆。

尊形(そんなり)
器物の形状の一。尊式とも。アサガオ状に開いた口をもつ器形をいう。中国の青銅器製の酒の礼器の形で、商代(殷、BC17〜11世紀)中期に現れ、商代末から西周(BC1066〜BC771)の時代に盛行した。一般に、アサガオ状に開いた口と膨らんだ胴、末広がりの台をもつ。のちに陶磁器のものがつくられた。後漢(25〜220)の許慎(58 〜147)の撰した最古の字書『説文』に「尊酒器也。从酋廾已奉之。周禮六尊、犧尊、象尊、著尊・壺尊・大尊・山尊、巳待祭祀賓客之禮」とあり、尊は酒器で、酒壷を両手で持ち上げ捧げる姿を表し、『周礼』には六種の尊があり、祭祀や賓客の礼器とある。

  
  
  
  
  
 

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