茶道用語

横物(よこもの)
横に長い形のもの。掛物の形態上の呼称では、掛物の本紙の幅が丈よりも長いものをいう。横幅(よこふく)ともいう。本紙の丈が幅よりも長いものは竪物、竪幅(たてふく)という。

吉田一閑(よしだ いっかん)
大阪の塗師。初代吉田一閑 生没年不詳 本名休兵衛。幕末頃大阪で漆で刀の鞘を作る。二代一閑 〜明治10年(1877) 本名休兵衛。作品は残っていない。三代一閑 嘉永4年(1851)〜大正3年(1914) 二代の次男。本名熊七。四代一閑 明治14年(1881)〜昭和22年(1947) 三代の長男。本名光太郎。愈好斎の好み物を造る。

吉野椀(よしのわん)
懐石家具の塗椀の一。奈良県吉野地方で作られた塗椀。内外を朱または黒漆で塗り、黒または朱漆で吉野絵とよばれる草花文様を描いた椀。吉野絵は、木芙蓉、芍薬、葛の花を描いたなどといわれるが判然としない。端反りの落込み蓋で、壺皿のみ高台付で、その他は碁笥底となっている。『天王寺屋会記』天正5年(1577)4月13日荒木摂津守会に「吉野こき」と見える。元禄4年(1691)刊『茶道要録』に「利休形諸道具之代付」として「吉野椀但シ三人前 三十銭目。替汁椀但シ一組 五銭目。二ノ椀 十五銭目。大壺皿蓋共 同前。小壺皿同 同前。平皿同 同前。」とあり、三代宗哲(1699〜1776)造の丸折敷、飯椀、汁椀、平皿壺皿、飯器・杓子、手付飯器・杓子、通盆、弦付汁次、湯桶・湯の子掬い、酒次の吉野絵の大揃いがあるが、二ノ椀と大壺皿はなく、弘化4年(1847)刊『茶道筌蹄』には「吉野椀坪付 利休形、芍薬椀と云は不可也、葛の花也、親椀ばかり碁笥底、坪は了々斎好、尤以前は上り子の坪平を用ゆ」とあり、嘉永4年(1851)刊『茶式湖月抄』に「真の黒花塗、内外朱にして芙蓉の絵あり、身ふたとも同断、但蓋の糸底地ずり朱、椀四ツとも口も朱のいつかけ有之」とあり、飯椀と汁椀のみが載る。

四つ椀(よつわん)
懐石家具のうち、飯椀、汁椀、平椀壺椀の四つ揃えの椀。また、飯椀・汁椀の両椀で引入なっていて、身を重ね、蓋をその中へ重ねると四つ重ねに収まる四重椀も云う。

夜咄(よばなし)
茶事七式の一。の季節の、冬至に近い頃から立春までの間、夕暮れ時から行われる茶事。午後5時から6時頃の案内で、露地では灯篭や露地行灯に火を灯し、客は手燭で足元を照らしながら腰掛に進み、迎付のとき亭主と正客は手燭の交換をする。茶室では、短檠や竹檠、座敷行灯が使われ、点前や拝見のときは手燭を用いる。初座の挨拶のあと、とりあえず寒さをしのぐため前茶(ぜんちゃ)といって、水次や水屋道具で薄茶を点てる。拝見の所望はせず、正客以外は「おもあい」で一椀で二人が頂き早く済ませるようにする。その後、初炭懐石中立濃茶続き薄茶の順に進められる。『茶道筌蹄』に「夜咄 むかしは〓(日甫)時より露地入せし故、中立に露地小坐敷とも火を入れる也、昼、夜咄とも、いにしへの事にて、当時は夜咄も暮六ツ時に露地入する也、但し客入込て、炭をせずに前茶点じ、跡にて炭をいたし、水を張、食事を出す事」と、昔は日没前に露地入りし、中立になって灯を点したが、今では暮六ツ時(陽が沈み、まもなく宵闇に包まれる夕暮れ時。およそ冬至では午後5時頃、立春では午後6時頃)よりはじまるとある。『三斎伝』に「夜会に昔は掛物花も不置候、油煙掛物に可掛との事也と申候へ共、利休は掛物花も入申候由、赤き花昔は不入候、余り色過たりとの事か、夜会には白き花を専らとす、艸庵侘は白花なくば赤きも不苦哉、利休は入申候由被仰候」、『茶道望月集』に「座敷拵は床に中字以上の墨跡を用ふる事、夜咄の心得なり、夜は絵讃も見分け難きは不好なり、侘は格別なり」とあり、昔は掛物を飾らなかったが、利休が飾るようになり、暗いので掛物は大きな字のもの、は白花がよいとされる。また、の替りに払子や如意なども掛ける。夜咄は茶事のうちでも最も難しいものとされ、宗旦は「茶の湯は夜咄にてあがり申す」と教えていたという。

四方釜(よほうがま)
茶湯釜の一種。胴が四角形の。古くは芦屋釜天命釜にも見られるが、『茶湯古事談』に「四方釜も利休このみにて始て鋳させし、去人所持の利休か自筆の文 四方釜うけとり申候、与次同道にてはや御出可有候、心み一服可申候、かしく 易 下 道印」とあり、利休好みで辻与次郎に鋳させて以後、弥四郎、藤左衛門などの釜師により多く作られる。『茶道筌蹄』に「四方 クリ口、鬼面真鍮の平環、箟被少々切懸ケ、大は少庵好、小は元伯好、椎ツマミなり、当時うつし、大は石目蓋なり、古作は共蓋と唐金石目、花の実鋳ヌキツマミあり、又唐金蓋もあり」とあり、大きいものは少庵好み、小さいものは宗旦好みとされる。四方釜は利休が晩年に頻繁に用い、『利休百会記』によると芦屋作の「利休四方釜」が百回中七十三回使用されたという。四方釜の一種としては、弁釜、角釜、算木釜、観音寺四方釜、井桁釜などがある。

四方盆(よほうぼん)
四方同寸の正方形の盆。茶入盆、花入盆、菓子盆などとして用いられる。『山上宗二記』に「桃尻 関白様 本は紹鴎所持也。但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。」、「紹鴎茄子 四方盆に居わる。かんとうの袋に入る。関白様」などとあるように、花入茶入を載せている。『茶道筌蹄』の「茶入盆之部」に「若狭盆 此盆元七枚箱に入て、若狭の浜辺に流れ寄る。唐物の盆なり。此盆に似よりたるを何も若狭盆といふ。内朱外青漆、葉入角なり。いにしへ内朱の盆と云は此盆也。唐物 唐物といふは、皆朱の盆の事なり。存星 名高きは、松屋肩衝の許由の長盆なり。堆朱 丸角ともに内に鏡なきは、茶入盆に不用。青貝 青貝は形一定ならず。羽田 羽田五郎作。矢筈盆。松屋所持なり。松木 四方盆葉入春慶。紹鴎より利休へ伝へ、利休より今小路道三に伝ふ。道三箱書付に翠竹とあり、翠竹は道三の院号なり。老松同木にてうつしあり。原叟如心斎も製之。一閑 元伯好。ヒネリ縁の盆なり。初代一閑作。千家伝来。如心斎の書付あり。黒漆 保元時代。四方なり。利休所持判あり。千家に伝来す。八卦青貝 黒漆に青貝にて八卦あり。大円盆なり。乱飾に用ゆ。如心斎好。宗哲製す。黒の長盆 真台子に用ゆ。千家の外は用ゆる事をゆるさず。茶カブキ盆、旦座盆も此模様也。松屋許由の盆と同寸なり。」とあり、茶入を据える四方盆としては「若狭盆」、「松木盆」、「羽田盆」、「黒漆四方盆」を挙げる。また同書「総菓子盆」に「一閑四方 ヘギ目あるは元伯好、ヘギ目なきは宗全好。」とある。

寄付(よりつき)
茶会に招かれた客が待ち合わせたり、足袋を替え身仕度を整えて席入の準備をするための場所。掛物などが飾られ、煙草盆が置かれる。ここで通常、白湯などを頂く。袴着、袴付(はかまつけ)とも呼ばれる。客が最初に寄り付くところからの名か。待合(まちあい)。会記においては、武者小路千家・表千家は寄付、裏千家は待合の語を使っている。『和泉草』に「古来は路地なしに、表に潜を切開き、座敷に直に入たる也。」、『茶式湖月抄』に「利休の時代は、何方も一重露地なり。往還の道路よりすぐに露地の大戸を開き内にいり、大戸のきわに腰掛あり、板縁または簀子等の麁相なる仕立なり。露地草庵みなこれ侘の茶の湯なれば、誠に中宿のやすらひ迄なり。其の後古田織部正、小堀遠州等にいたつて、万に自由よきやうとて堂腰掛などいふもの出来て、衣装等をも着更しなり。よつて衣装堂ともいふなり。家来従臣も、ここまては自由に往来なすがゆへに、今は一重うちに塀をかけ中傴を構へ此内にまた腰掛をつけ初入に主中くぐりまで迎に出る。」、三斎『細川茶湯之書』に「昔はかならず外の廬路口まで亭主迎に出たれ共、近年は廬路の内、中のしきりくヾり迄来り、外のくちひらきて、共の者までも外の腰かけにはいりて、そこにてかみゆひなどをし、衣裳をきる客人もあり。」、石州『三百箇條』に「外路次といふ事、昔ハ無之也、利休時分ハ少腰掛なとして待合にせしとなり、金森出雲守可重虎の門の向に屋敷有之、台徳院様(徳川秀忠)へ御茶差上候時に、始て待合を作りしと也、是より待合出来始候」とあるように、江戸時代になって外露地に待合が設けられ、やがて母屋の中に設けられるようになり、露地にあるものは腰掛待合と呼ばれるようになったものか。明治になり待合の語感が好ましくないと寄付の語が用いられるようになったという。

 
  
  
  
  
 

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