茶席の禅語

                           

吾心似秋月(わがこころはしゅうげつににたり)
寒山詩』に「吾心似秋月、碧潭清皎潔。無物堪比倫、教我如何説。」(吾が心秋月に似たり、碧潭清くして皎潔たり。物の比倫に堪ゆるは無し、我をして如何が説かしめん。)とある。皎潔(こうけつ);白く清らかで汚れのないさま。比倫(ひりん);ならぶもの。たぐい。比類。私の心は秋の名月に似て、青々とした深い水のように透明で汚れがない。これにならぶことのできるものは他に無い。私はこれをどのように説明すればいいのか分からない。

和敬清寂(わけいせいじゃく)
千利休が茶道の精神をあらわしたとされる語。出典は『茶祖伝』(1730)とされ、その元禄12年(1699)の序文において巨妙子(大心義統:だいしんぎとう;1657-1730:大徳寺第273世)が「今茶之道四焉、能和能敬能清能寂、是利休因茶祖珠光答東山源公文所云」と著している。茶祖といわれる村田珠光が、足利義政から茶の精神をたずねられたとき、「一味清淨、法喜禪ス。趙州如此、陸羽未曾至此。人入茶室、外卻人我之相、内蓄柔和之コ、致相交之間、謹兮敬兮清兮寂兮、卒以及天下太平。」と答えたといわれたことを踏まえ、利休が「能く和し能く敬し能く清く能く寂」の「四諦(よんたい)」を茶の湯の根本として定めたことを述べている。「謹敬」は『韓非子・内儲説下』、「和敬」 は『礼記・楽記』にみえる。茶道の精神をあらわす語として、特に江戸時代後期によく用いられた。

和光(わこう)
『老子』に「知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、亦不可得而疏。不可得而利、亦不可得而害。不可得而貴、亦不可得而賤。故爲天下貴。」(知る者は言わず、言う者は知らず。その兌を塞ぎ、その門を閉じ、その鋭を挫き、その紛を解き、その光を和し、その塵に同じくす。これを玄同と謂う。故に得て親しむべからず、また得て疏んずべからず。得て利すべからず、また得て害すべからず。得て貴ぶべからず、また得て賤しむべからず。故に天下の貴となる。)とあり、「和光同塵(わこうどうじん)」の成句で知られ、『摩訶止觀(まかしかん)』に「和光同塵結縁之始。八相成道以論其終。」(和光同塵は結縁の始め、八相成道はもつてその終りを論ず)と、仏が菩薩が衆生済度のためにその本地の知徳を隠し煩悩の塵に同じて衆生に縁を結ぶことの意に用いられている。

 
 
 
 
 
 
 
  
  
  
  
  
 

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