茶席の禅語

                           

山是山水是水(やまこれやま、みずこれみず)
雲門文偃の『雲門廣録』に「諸和尚子莫妄想。天是天地是地。山是山水是水。僧是僧俗是俗。」、『圓悟佛果禪師語録』に「雲門一日示衆云。和尚子莫妄想。山是山水是水。僧是僧俗是俗。」、『正法眼蔵』に「古佛云、山是山水是水。この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。」とある。江味農居士(1872〜1938)の『神經喜喜』に「古コ又云。不悟時、山是山、水是水。悟了時、山不是山、水不是水。山是山水是水者、只見諸法也。山不是山水不是水者、惟見一如也。又有悟後歌云。青山還是舊青山。蓋謂諸法仍舊也、而見諸法之一如、則青山雖是舊、光景煥然新矣。」とあり、悟りに至らないときは山は山、水は水にしか見えない。悟ると、一切が無差別平等となり、山は山でなく、水も水でなくなってしまう。ところが、さらに修行が深まって悟りの心さえも消え去ってしまうと、山が山として水が水として新鮮に蘇ってくるとする。

山静如太古(やま しずかなること たいこのごとし)
北宋の詩人、唐庚(とうこう:1070〜1120)の五言律詩「醉眠」(酔うて眠る)に「山靜似太古、日長如小年。餘花猶可醉、好鳥不妨眠。世味門常掩、時光簟已便。夢中頻得句、拈筆又忘筌。」(山静にして太古に似たり、日長くして小年の如し。余花なお酔うべし、好鳥も眠を妨げず。世味には門常に掩い、時光簟に便ぐのみ。夢中頻りに句を得たり、筆を拈ればまた筌を忘る。)とあり、「山靜如太古、日長似小年」に作るもある。時光(じこう);時間、ひととき。簟(たん);たかむしろ、竹で編んだむしろ。忘筌(ぼうせん);『荘子』外物篇に「筌者所以在魚、得魚而忘筌、蹄者所以在兎、得兎而忘蹄、言者所以在意、得意而忘言、吾安得夫忘言之人而與之言哉。」(筌は魚を在るる所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在るる所以なり。兎を得て蹄を忘る。言は意に在るる所以なり。意を得て言を忘る。吾れいずくにか、かの言を忘るるの人を得て、これと言わんかな。)とある。山は静まりかえって太古のようで、日は一年もあるかのように長い。散り残った花を見ながら飲むのがよい。佳い声で啼く鳥は眠りを妨げることもない。門は閉ざしたままで世事ともかかわらず、たかむしろの上でくつろいだ時を過ごすのみ。夢の中で頻りに詩句が浮かんだが、目が覚めて筆をとるとすっかり忘れている。

山深雪未消(やまふこうして ゆきいまだきえず)
虚堂録』に「僧云。老胡今日成道。有何祥瑞。師云。山深雪未消。僧云。諾諾。師以拂一指。」(僧云う。老胡、今日の道を成すに、何の祥瑞かあらん。師云く、山深うして雪未だ消えず。僧云う、諾諾と。師、以って一指を払う。)とある。「老胡」は、『祖庭事苑』に「稱西竺爲胡、自秦晉沿襲而來、卒難變革、故有名佛爲老胡。」(西竺を胡と称すは、秦晉より沿襲して来り、卒に変革し難し、故に名ある仏を老胡と為す。)とあり、達磨大師のことをいう。『祖堂集』に「時大和十年十二月九日、為求法故、立經夜、雪乃齊腰。天明師見問曰、汝在雪中立、有如何所求耶。神光悲啼泣涙而言、唯願和尚開甘露門、廣度群品。師云、諸佛無上菩提、遠劫修行。汝以小意而求大法、終不能得。神光聞是語已、則取利刀自斷左臂、置于師前。師語神光云、諸佛菩薩求法、不以身為身、不以命為命。汝雖斷臂求法、亦可在。遂改神光名為惠可。」(時に大和十年十二月九日、求法の為の故に立ちて夜を経、雪乃ち腰に斎し。天明、師を見て問うて曰く、汝は雪中に在りて立つ、如何なる求むる所有りや。神光は悲啼し泣涙して言く、唯だ願わくば和尚、甘露門を開きて広く群品を度せよと。師云く、諸仏の無上菩提は遠劫に修行す。汝は小意を以って而も大法を求む。終に得ること能わじ。神光、是の語を聞き已って則ち利刀を取りて自ら左臂を断ち、師の前に置けり。師は神光に語げて云く、諸仏菩薩の求法は、身を以って身と為さず。命を以って命と為さず。汝は断臂すると雖も、求法は亦た可なりと。遂に神光を改めて惠可と為せり。)とある一事を指すか。

悠然見南山(ゆうぜんとして なんざんを みる)
中国六朝時代の東晋の詩人、陶淵明(とうえんめい:365〜427)の「飮酒二十首」に「結廬在人境、而無車馬喧。問君何能爾、心遠地自偏。采菊東籬下、悠然見南山。山氣日夕佳、飛鳥相與還。此中有眞意、欲辨已忘言。」(盧を結びて人境にあり、しかも車馬の喧しきなし。君に問う何ぞ能く爾る、心遠ければ地おのずから偏なり。菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。山気に日夕に佳く、飛鳥あいともに還る。この中に真意あり、辨ぜんと欲してすでに言を忘る。)とある。東籬(とうり); 東のまがき。『虚堂録』に「師云。弋不射宿。乃云採菊東籬下。悠然見南山。陶靖節雖是箇俗人。卻有些衲僧説話。雖然他是晉時人未可全信。」(師云く。弋して宿を射ず。すなわち云く、菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。陶靖節、これ俗人と雖も、却って些か衲僧の説話あり。然りと雖もかの晋の時の人、未だ全て信ずべからず。)とある。弋不射宿(よくしてしゅくをいず);『論語』述而に「子釣而不綱、弋不射宿」とあり、狩りはするが巣にいるものは射ないの意。陶靖節(とうせいせつ);陶淵明のこと。靖節は諡、名は潛、字は淵明、元亮。五柳先生ともいう。

幽鳥哢真如(ゆうちょう しんにょを ろうす)
人天眼目』に「古松搖般若。幽鳥哢真如。況有歸真處。長安豈久居」(古松、般若を談じ、幽鳥、真如を弄す。況んや帰るに真処あり。長安、豈に久居せん。)とある。幽鳥(ゆうちょう);山の奥深い処に住む鳥。古松が般若を語り、山奥の鳥が真如をもてあそぶ。松風や鳥の声も全て万物の本質である。

雪團團(ゆきだんだん)
禅林句集』に「雪團團雨冥冥。」とあり「雪團團は雪の積もる皃」とある。出典不詳。

葉上無愁雨(ようじょう むしゅうのあめ)
禅林句集』に「芭蕉葉上無愁雨、只是時人聽斷腸。」(芭蕉葉上に愁雨無し、只だ是れ時の人聴いて断腸す。)とあり、「只」字に「自」字を併記する。『全唐詩』の「佚句」に「芭蕉葉上無愁雨、自是多情聽斷腸。」とある。佚句(いつく);散逸した詩句。名前だけ、あるいは本文の一部分しか伝わっていない詩句。

葉々起清風(ようよう せいふうを おこす)
虚堂録』の「衍鞏珙三禪コ之國清」(衍・鞏・珙の三禅徳、国清にゆく)に「「誰知三隱寂寥中。因話尋盟別鷲峰。相送當門有脩竹。為君葉葉起清風。」(誰か知らん三隠寂寥の中、話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす。相送って門に当たれば脩竹あり、君が為に葉々清風を起こす。)とある。脩竹(しゅうちく);長い竹、また竹やぶ。虚堂和尚の住まう鷲峰庵に、法弟三人が天台山の国清寺の三隠(寒山、拾得、豊干)の遺蹟を訪れるため、虚堂和尚に別れの挨拶をしに来たときに詠じたもの。門のところまで見送りに出てきたら、門前の竹薮の一葉一葉がさらさらと音をなして清風を送ってくれている。衍(えん)は石帆惟衍、鞏(きょう)は石林行鞏、珙(王共)(きょう)は横川行珙。

 
  
  
  
  
 

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