茶席の禅語

あ                           

案山子(あんざんす)
傳燈録』に「問孤迥峭巍巍時如何。師曰。孤迥峭巍巍。僧曰。不會。師曰。面前案山子也不會。」(「問う孤迥峭巍巍たる時如何。師曰く、孤迥峭巍巍たり。僧曰く、会せず。師曰く、面前の案山子もまた会せず。」とある。作物を荒らす鳥獣を脅すため田畑に立てる人形「かかし」を「案山子」と書くことについては、北慎言の弘化2年(1845)刊『梅園日記』に「玉池難藻三篇に、案山子禅語に出、愚此文字を鹿驚しに当る事、或禅師に問しに、云、案山子とは、大山に添し小山を云、人ならば、前に書案を置形なり、陰に有て不用の山故、影法師の意にて、用立ぬ人を案山子と云と、是にて思へば、わらにて作り人の影法師同前の物ゆへ、右の文字をかり用ひしなるべしとあり、按ずるに、いふにもたらぬ僻説なり、隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、案山は増集続伝燈録巻四如珙伝にも拈却門前大案山放儞、諸人東去西去など、禅家にてよくいふ語也、按に、此語はもと堪興家とて、地理のことを業とするものゝいへること也、唐土にては人を葬る土地むづかしくして、親など死たる時、葬るべき地を撰に、彼堪興家をたのみて撰ばするなり、もしよき地を見あたらぬ時は、数年葬らで置事などあり、撰みてその詮もなき事あり、西湖遊覧志餘侫倖盤荒論に、葬京之父準、葬臨平山為駝形術家謂駝負重乃行、遂作塔山頂以浙江為帯水、泰望為案山、何其雄也、富貴既極、一旦顛覆、幾于滅族、俗師風水之説、安定憑哉、按にこれもと陸游いへる事なり、入蜀記 宿臨平者、太師葬京、葬其父準於此、以錢塘江為水、會稽山為案、山形如駱駝、老学庵日記にもこの説あり、是なり、さて諧話に、案山は低く、上平かに机の如き意ならんとあれど、平かならぬをもいふべし」とある。

一期一会(いちごいちえ)
井伊直弼(1815〜1860)の『茶湯一会集』の序に「此書は、茶湯一会之始終、主客の心得を委敷あらはす也、故に題号を一会集といふ、猶、一会ニ深き主意あり、抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへハ幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたゝひかへらさる事を思へハ、実に我一世一度の会也、去るニより、主人ハ万事ニ心を配り、聊も麁末のなきよう深切実意を尽くし、客ニも此会ニまた逢ひかたき事を弁へ、亭主の趣向、何壱つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るへき也、是を一期一会といふ」とあるのが出典とされる。山上宗二の『山上宗二記』には「常の茶の湯なりとも、路地へ入るより出るまで、一期に一度の会のように亭主を敬畏すべし、世間雑談、無用也。」とある。「一期」は、人が生まれてから死ぬまでの一生の意。

一日不作一日不食(いちじつ なさざれば、いちじつ くらわず)
祖堂集』巻十四 百丈和尚に「師平生苦節高行、難以喩言。凡日給執勞、必先于衆。主事不忍,密收作具、而請息焉。師云、吾无コ、争合勞于人。 師遍求作具、既不獲、而亦忘喰。故有一日不作、一日不食之言、流播寰宇矣。」(師、平生苦節高行にして喩を以て言うこと難し。凡そ日給の執労は必ず衆に先んず。主事忍びず、密かに作具を収めて、息わんことを請う。師云く、吾に徳なし。争でか合に人を労すべけんと。師、遍く作具を求め、既に獲ずして亦た喰することを忘ず。故に一日作さざれば一日食わずの言有りて、寰宇に流播せり。)とある。

一無位真人(いちむいしんにん)
臨濟録』に「上堂云。赤肉團上有一無位真人。常從汝等諸人面門出入。未證據者看看。時有僧出問。如何是無位真人。師下禪床把住云。道道。其僧擬議。師托開云。無位真人是什麼乾屎撅。便歸方丈。」(上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ。時に僧あり、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。師、禅床を下りて把住して云く、道え道え。その僧、擬議す。師、托開して云く、無位の真人これ什麼の乾屎撅ぞ。便ち方丈に帰る。)とある。赤肉團(しゃくにくだん);生身の身体、肉体。面門(めんもん);口。『天台智者大師禪門口訣』に「面門者口也。」(面門は口なり。)とある。乾屎撅(木厥)(かんしけつ);糞掻きへら。『敕修百丈清規』に「入廁用籌分觸淨」(廁に入るに籌分を用い触浄す。籌は竹の棒。)とある。臨済禅師が上堂して言った。この肉体に一無位真人がいて、常にお前たちの口を出たり入ったりしている。まだ見届けていないものは見ろ見ろ。その時ひとりの僧が進み出て問うた。その無位真人とはなんですか。師は、席を下りて、僧の胸倉を掴んで言った。言え、言え。その僧は躊躇した。師は僧を突き放して、無位真人もこれでは糞かきべらではないかと言って、そのまま居間に帰った。

一華開五葉(いっか ごようを ひらく)
小室六門』に「説頌曰。吾本來茲土。傳法救迷情。一華開五葉。結果自然成。江槎分玉浪。管炬開金鎖。五口相共行。九十無彼我。」(頌に説いて曰く。吾れもと茲の土に来り、法を伝え迷情を救う。一華五葉に開き、結果自然に成る。江槎は玉浪を分かち、管炬は金鎖に開す。五口相い共に行き、九十にして彼我なし。)とある。『傳燈録』に「問一華開五葉。結果自然成。如何是一華開五葉。師曰。日出月明。曰如何是結果自然成。師曰。天地皎然。」(問う、一華五葉を開き、結果自然に成る。如何なるか是れ一華五葉を開く。師曰く、日出月明。曰く、如何なるか是れ結果自然に成る。師曰く、天地皎然。)とある。『祖堂集』に「惠可便頂禮、親事九年、晝夜不離左右。達摩大師乃而告曰、如來以淨法眼並袈裟付囑大迦葉、如是展轉乃至於我。我今付囑汝、女聽吾曰、吾本來此土、傳教救迷情。一花開五葉、結果自然成。」(惠可便ち頂礼し、親しく事うること九年、昼夜、左右を離れず。達摩大師すなわち告げて曰く、如来は淨法眼ならびに袈裟を以って大迦葉に付囑せり、是くの如くして展転して乃ち我に至れり。我れ今、汝に付囑す。汝は我がを聞け、曰く、吾れ本と此の土に来りて、教を伝えて迷情を救う。一花五葉に開き、結果自然に成る。)とあり、印度より中国に禅を伝えた「達磨大師」が、弟子の二祖慧可に自分の教えを伝えるに際して与えたという伝法偈で、私は印度よりこの中国に来て、仏の正しい教えを伝え迷いや苦悩を救った、そしてそれは一つの花に五弁の花びらが開き、やがて自然に果実が結ぶように、より多くの人の迷いや苦悩を救い世の中を明るく照らすというところか。

一花開天下春(いっかひらいて てんかはるなり)
『宏智禪師廣録』に「上堂云。一塵起大地收。一花開天下春。衲僧變態。須是恁麼始得。便乃一切時一切處。任運自在。應用無方。諸人還委悉麼。風行草偃。水到渠成。」(上堂して云う、一塵起って大地収まり、一花開いて天下春なり。衲僧変態。須く是れ恁麼始めて得るべし。すなわち一切の時、一切の処、運に任せ自在、応用無方。諸人また悉麼すや。風行けば草偃(のべふ)す。水到りて渠(みぞ)成る。)とある。『宗鏡録』卷第三十一に「如大集經云。不待莊嚴。了知諸法。以得一總得餘故。所以云。一葉落。天下秋。一塵起。大地收。一華開。天下春。一事寂。萬法真。則上根一覽。終不再疑。中下之機寧無方便。」(大集経に云う如く、莊嚴を待たず、諸法を了知す。以って一總を得、餘故を得る。ゆえに云うなり、一葉落ちて天下秋なり、一塵起って大地収まり、一華開いて天下春なり、一事は寂なれど万法真なり。則ち上根を一覽し、終に再疑せず。中下の機は寧ろ方便なからん。)とみえる。

一口吸盡西江水(いっくに きゅうじんす せいこうの みず)
龐居士語録』に「居士後之江西參馬祖大師。問曰。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水即向汝道。士於言下頓領玄旨。遂呈偈。有心空及第句。」(居士、後の江西、馬祖大師に参じ、問うて曰く、万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。祖曰く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。士、言下に於いて頓し領玄旨を領す。遂に偈して、有心空及第の句を呈す。)とあり、『法演禪師語録』に「龐居士問馬大師。不與萬法為侶是什麼人。大師云。待汝一口吸盡西江水。即向汝道。師云。一口吸盡西江水。洛陽牡丹新吐蕊。」(龐居士、馬大師に問う。万法と侶(とも)と為らざる是れなんびとぞ。大師云く、汝の一口に西江の水を吸尽するを待ちて、即ち汝に向っていわん。師云う。西江の水を一口に吸尽すれば、洛陽の牡丹、新たに蕊を吐く。)とあり、『碧巌録』に「不與萬法為侶。是什麼人。祖云。待爾一口吸盡西江水。即向汝道。士豁然大悟。作頌云。十方同聚會。箇箇學無為。此是選佛場。心空及第歸。」(万法とともと為らざる是れなんびとぞ。祖云く。なんじが一口に西江の水を吸尽せんを待って、即ち汝に向かっていわん。士豁然として大悟し、頌を作って云く。十方同聚会。箇箇学無為。これは是れ選仏場。心空及第して帰ると。)とある。利休古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたという。 「松風供一啜」 と同じ境地という。

雨滴聲(うてきせい)
碧巌録』第四六則「鏡清雨滴聲」に「舉。鏡清問僧。門外是什麼聲。僧云。雨滴聲。清云。衆生顛倒迷己逐物。僧云。和尚作麼生。清云。〓(シ自)不迷己。僧云。〓(シ自)不迷己意旨如何。清云。出身猶可易。脱體道應難。」(挙す。鏡清、僧に問う、門外これ什麼の声ぞ。僧云く、雨滴の声。清云く、衆生は顛倒して己を迷い物を逐う。僧云く、和尚は作麼生。清云く、ほとんど己に迷わず。僧云く、ほとんど己に迷わざるの意旨如何。清云く、出身はなお易かるべきも、脱体に道うことは応に難かるべし。)とある。出身(しゅっしん);官に挙げ用いられることから、悟ること。脱體(だったい);まるごと、さながら。鏡清が僧に問う、門外の音は何だろう。僧が言う、雨だれの音です。鏡清が言う、衆生というものは己を見失って外の物を追うものだな。僧が言う、和尚はどうですか。鏡清が言う、なんとか己を見失わずにいる。僧が言う、なんとか己を見失わずにいるとはどういうことですか。鏡清が言う、悟ることはまだやさしいが、その境地をそのままに言うことはほんとうに難しい。

雲門廣録(うんもん こうろく)
雲門匡真禪師廣録。禅門五家七宗の一つ雲門宗の始祖、雲門文堰の言行録。全三巻。熙寧丙辰(1076)三月二十五日の序がある。

雲門文堰(うんもん ぶんえん)
中国、唐末・五代の禅僧。禅門五家七宗の一つ雲門宗の開祖。(864〜948)。姓は張氏。蘇州嘉興(浙江省嘉興)の人。諱を文偃。諡号は大慈雲匡真弘明禅師。17歳で嘉興の空王寺の志澄律師の元で出家し、20歳で江蘇省毘陵の戒壇で具足戒を受け、再び志澄律師のもとに戻り、戒律を集大成した四分律を学んだ。黄檗希運禅師の法嗣である睦州の道蹤禅師に謁したが、三度門を閉じられ足を挫いて大悟し、慧能門下の雪峰義存(822〜908)に参し法を嗣ぎ、広東省の雲門山に住み、雲門宗を開いた。紫を賜い、匡真大師と号す。『雲門匡真禪師廣録』など。

慧可(えか)
中国禅宗の第2祖。慧可(487〜593)は、中国南北朝時代の禅僧。正宗普覚大師。初祖の菩提達磨(ぼだいだるま)に師事。禅宗の第二祖とされる。『祖堂集』に「第二十九祖師慧可禪師者、是武牢人也。姫氏。父寂、初無其子、共室念言、我今至善家而無慧子、深自嘆羨、何聖加衛。時後魏第六主孝文帝永宜十五年正月一日、夜現光明、遍於一宅。因茲有孕、産子、名曰光光。年十五、九經通誦。至年三十、往龍門香山寺、事寶靜禪師、常修定慧。既出家已、至東京永和寺具戒。年三十二、卻歩香山、侍省尊長。又經八載、忽於夜靜見一神人而謂光曰、當欲受果、何於此住、不南往乎而近於道。本名曰光光、因見神現故、號為神光。」(第二十九祖師慧可禅師なる者は是れ武牢の人なり。姫氏。父寂して初め其の子なし。共室念言すらく、我れ今善家に至りて而も慧子なく、深く自ら嘆羨す、何の聖か加衛すると。時に後魏第六主孝文帝永宜十五年正月一日に、夜、光明を現じて、一宅に遍し。茲れに因りて孕ありて子を産み、名づけて光光と曰う。年十五にして九経通誦す。年三十に至り、龍門香山寺に往し、宝静禅師に事え、常に定慧を修す。既に出家し已って、東京の永和寺に至りて具戒せり。年三十二にして却って香山を歩し、尊長に侍省す。又た八載を経て、忽ち夜静に於いて一神人を見る。而して光に謂いて曰く、当に受果せんと欲すべきに、何ぞ此に於いて住まいて、南往してか而して道に近づかざるやと。本と名づけて光光と曰うも、神の現わるるを見るに因るが故に号して神光と為せり。)とあり、俗姓は姫氏(きし)。初名は光光。洛陽武牢(河南省栄陽郡)生れで、30歳で香山で出家した。各地を遊方し、香山に戻り参禅すること八年、疑念を解明することが出来ず、40歳で神人に南へ行けというお告げを得て「神光」と号し、南に行き、嵩山の少林寺で面壁していた達磨に弟子入りを請うが認められず、自らの腕を切り落とし(慧可断臂、雪中断臂)、入門を許され、達磨より慧可の名を与えられる。『續高僧傳』には「遭賊斫臂」とあり、賊に遭って臂を斬られたとする。

慧能(えのう)
中国禅宗の第6祖。貞観12年(638)〜先天2年(713)。姓は盧。諡は大鑑禅師。「惠能」とも書く。本貫は范陽だが、父が新州(広東省新興県)に流され幼少時に死亡した。薪を売って母を養ったが、あるとき『金剛経』を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に参じたが、学識がなかったため、寺の米つきをしていた。そのころ弘忍は自らの法嗣をきめるため、弟子たちに偈をつくらせた。首座であった神秀は「身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。」と修行の段階をへて悟りにいたる漸悟の境地をしめしたが、慧能は「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」と修行の段階をふまずに悟る頓悟の境地をしめした。この結局、慧能がえらばれ、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、世間にかくれて住んだ。弘忍が死んだ翌年、39歳で広州の法性寺にはいり、兄弟子の印宗について髪をそり、智光律師によって具足戒をさずけられ正式な僧侶となり、曹渓宝林寺に移って布教を続け、神竜元年(705)兄弟子の神秀の奏挙で朝廷に召されるも病と称して断り、新州国恩寺で没した。韶州曹渓宝林寺での説法を弟子の法海が編集し,授学の際の伝持本とした『六祖大師法寶壇經』がある。神秀の漸悟主義であったのに対し,頓悟主義を説いた点に特色があり,禅宗が南頓北漸に分かれるもととなった。北宗禅が貴族的教学的になったのに比べて、南宗禅は唐末に新興の士大夫に支持され、以後の中国禅宗の本流を形成していった。慧能の弟子には,青原行思・南岳懐譲・荷沢神会・石頭希遷らがおり,おのおの一家をなした。後の五家七宗全てがその一門から出ている。

圜悟克勤(えんごこくごん)
中国・北宋時代の禅僧。嘉祐8年(1063)〜紹興5年(1135)。成都彭州崇寧(四川省)の人。姓は駱、名は克勤、字は無著。妙寂寺の自省法師に就いて出家。のち五祖山の法演に参じ印可を得る。生前に北宋の徽宗(きそう)皇帝から「佛果禅師」、南宋の高宗皇帝から「圜悟禅師」の号を賜い、諡号を「真覚禅師」。弟子に大慧宗杲、虎丘紹隆らがいる。『碧巌録』の著者として名高い。他に『撃節録』二巻、『佛果禪師心要』二巻、『圓悟佛果禪師語録』二十巻等がある。

圜悟録(えんごろく)
圜悟佛果禪師語録(えんごぶっかぜんじごろく)。圜悟克勤の語録。全20巻。門人紹隆等の編集。はじめに紹興三年(1133)の竜図閣耿延禧の序と、検校少保張浚がその翌年に書いた序があり、上堂小参、普説、法語、書、拈古、頌古偈頌、真讃、雑著、仏事の順に一代の語を集める。

円相(えんそう)
円い形、また、それを描くこと。無欠無余の、仏性、実相、真如、法性などと呼ばれる絶対の真理を現すという。一円相(いちえんそう)、円相図(えんそうず)などとも呼ばれる。『人天眼目』に「圓相因起 圓相之作。始於南陽忠國師。以授侍者耽源。源承讖記傳於仰山。遂目為溈仰宗風。」とあり、六祖慧能の法嗣とされる南陽慧忠(〜775)が最初に描いたとされ、耽源応真から仰山慧寂(807〜883)に伝えられ、仰山が修行者を導く手段としてよく用いた。

 
  
  
  
  
 

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