茶席の禅語

                           

莫妄想(まくもうぞう)
傳燈録』の「汾州無業禪師」章に「凡學者致問。師多答之云。莫妄想。」(およそ学者の問いを致すに、師多く之に答えて云う、妄想する莫れと。)、『碧巌録』に「無業一生凡有所問。只道莫妄想。所以道。一處透。千處萬處一時透。一機明。千機萬機一時明。」(無業一生およそ所問あれば、ただ道う莫妄想と。このゆえに道う、一処透れば、千処万処一時に透る。一機明かなれば、千機万機一時に明かなりと。)とあり、中国唐代の禅僧・無業禅師が多用したことで有名な語。達磨の教えを伝えるとされる『小室六門』に「無妄想時。一心是一佛國。有妄想時。一心是一地獄。衆生造作妄想。以心生心。故常在地獄。菩薩觀察妄想。不以心生心、故常在佛國。若不以心生心。則心心入空。」(妄想なき時、一心これ一仏国。妄想ある時。一心これ一地獄。衆生、妄想を造作し、心をもって心を生ず、故に常に地獄に在す。菩薩、妄想を観察し、心をもって心を生ぜず、故に常に仏国に在す。もし心をもって心を生ぜずば、すなわち心心空に入る。)とある。

松無古今色(まつに ここんの いろなし)
禅林句集』五言対句に「松無古今色、竹有上下節。」(松に古今の色なく、竹に上下の節あり。)とある。鎌倉・南北朝の臨済宗の禅僧、夢窓疎石(むそうそせき:1275〜1351)の『夢窗國師語録』に「便向他道、竹有上下節、松無古今色。」(すなわち他に向っていう、竹に上下の節あり、松に古今の色なし。)とあるのが元という。『續燈録』には「問。如何是〓(水為)山家風。師云。竹有上下節。松無古今青。」(問う、如何なるか是れ〓(水為)山の家風。師云く、竹に上下の節あり、松に古今の青なし。)とあり、『五燈會元』も「僧問。如何是〓(水為)山家風。師曰。竹有上下節。松無今古青。」(僧問う、如何なるか是れ〓(水為)山の家風。師曰く、竹に上下の節あり、松に古今の青なし。)とする。松は昔も今も常に青々していてその色を変えることがない。竹はいつも青々しているが、上下の節があり、人はその性は不違だが、現成には歴然とした別がある。

萬年松在祝融峰(まんねんのまつ しゅくゆうほう にあり)
續燈録』に「開堂日。問。為國宣揚闢祖闈。九重城裏顯光輝。人人聳聽真消息。未審如何贊萬機。師云。千歳鶴鳴華表柱。萬年松在祝融峰。」(開堂日。問う。為国宣揚、祖闈を闢く。九重の城裏、光輝を顕す。人人聳みて真消息を聴く。未審如何か万機を賛う。師云く。千歳の鶴、華表柱に鳴き。萬年の松、祝融峰に在り。)とある。祝融峰(しゅくゆうほう)は、湖南省衡山県の西北にある衡山(こうざん)の最高峰で標高1290m。祝融を葬ったため、この名があると伝える。祝融は、中国の古伝説上の人物で、火の神、夏の神、南方の神とされる。『山海経』に「南方祝融、獸身人面、乘兩龍」(南方は祝融、獣身人面、双竜に乗る)、郭璞の註に「火神也」とある。また、『禮號謚記』に「伏羲・祝融・神農」、後漢の班固の『白虎通』号篇に「伏羲・神農・祝融」とあるように、中国古代の神話上の帝王である三皇の一人とするものもある。華表柱は、中国で宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱。

水緑山青(みずは みどり やまは あお)
『十牛圖頌』返本還源序九に「本來清淨。不受一塵。觀有相之榮枯。處無為之凝寂。不同幻化。豈假修治。水克R青。坐觀成敗。頌曰。返本還源已費功。爭如直下若盲聾。庵中不見庵前物。水自茫茫花自紅」(本来清浄にして一塵を受けず、有相の栄枯を観じて無為の凝寂に処す。幻化(げんけ)に同じからざれば豈に修治を假らんや、水は緑に山は青うして、坐らに成敗を観る。頌に曰く、本に返り源に還って已に功を費す、争でか如らん直下に盲聾の若くならんには。庵中には庵前の物を見ず、水は自ら茫茫、花は自ら紅なり。)とある。『五燈會元』文準禪師章に「上堂。大道縱横。觸事現成。雲開日出。水緑山青。」(上堂。大道は縱横にして、事に觸して現成す。雲開き日出で、水は緑に山は青し。)とある。

水和明月嫁(みずは めいげつに わして かす)
五燈會元』に「隆興府景福日餘禪師。僧問、如何是道。師曰、天共白雲曉、水和明月流。」(隆興府・景福日餘禅師。僧問う、如何なるか是れ道。師曰く、天は白雲と共に曉け、水は明月に和して流る。)とみえ、「水和明月嫁」は、「流」を「嫁」に転じたものか。

掬水月在手 弄花香満衣 (みずをきくすればつきてにあり はなをろうすればかえにみつ)
唐の詩人、于良史(うりょうし)の『春山夜月』「春山多勝事、賞翫夜忘歸。掬水月在手、弄花香滿衣。興來無遠近、欲去惜芳菲。南望鳴鐘處、樓臺深翠微。」(春山勝事多し、賞玩して夜帰るを忘る。水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ。興きたれば遠近無し、去らんと欲して芳菲を惜しむ。南のかた鳴鐘の処を望めば、楼台 翠微に深し)の中の五言対句。『虚堂録』に「僧問。有句無句。如藤倚樹。此意如何。師云。掬水月在手。弄花香滿衣。」(僧問う。有句無句は藤の樹に倚るが如し。此の意如何。師云う。水を掬すれば月手に在り、花を弄すれば香衣に満つ。)とこの詩が引かれ、有句と無句とは樹にからんだ藤のようなものという意味はどういうことですかと云う僧の問に、水を手ですくえばその水に月が写り、花を摘めばその香りが自分の衣服に満たされると云った。「有句無句。如藤倚樹」は『祖堂集』に「雲嵒至〓(三水為)山。〓(三水為)山泥壁次問。有句無句。如藤倚樹。樹倒藤枯時作摩生。雲嵒無對。」(有句無句は藤の樹に倚るが如し。樹倒るれば藤枯るる時作摩生。)とある公案で、「有句無句」は洞山良价禅師(807〜869)の『寶鏡三昧』に「汝是非渠。渠正是汝。如世嬰児。五相完具。不去不来。不起不住。婆婆和和。有句無句。終不得物。語未正故。」(汝これかれにあらず、かれまさにこれ汝。世の嬰児の五相完具するが如し。不去不来、不起不住。婆婆和和、有句無句、ついに物を得ず。語いまだ正しからざるが故に)とある。

看看臘月盡(みよみよ ろうげつ つく)
續燈録』の明覺禪師(980〜1052)に「問。如何是教外別傳一句。師云。看看臘月盡。」(問う、如何なるか是れ教外別伝の一句。師云く、看よ看よ臘月尽く。)とある。看看(かんかん);ちょっと看るという意味で、看の一字よりも軽微になる。又は、見る間に。臘月(ろうげつ);陰暦12月の異名。見る間に十二月も終わってしまう。時は見る間に過ぎ去ってしまうということか。『虚堂録』には「香林因僧問。萬頃荒田是誰為主。林云。看看臘月盡。師云。香林雖能坐致太平。要且不通物義。」(香林、因みに僧問う、萬頃の荒田、是れ誰を主と為す。林云う、看よ看よ臘月尽く。師云く、香林、能く坐し太平に致すと雖も、要且物義に通ぜず。)とある。

無(む)
無門関』の「趙州狗子」に「趙州和尚、因僧問、狗子還有佛性也無。州云、無。無門曰、參禪須透祖師關、妙悟要窮心路絶。祖關不透、心路不絶、盡是依草附木精靈。且道、如何是祖師關。只者一箇無字、乃宗門一關也。遂目之曰禪宗無門關。透得過者、非但親見趙州、便可與歴代祖師、把手共行、眉毛厮結、同一眼見、同一耳聞、豈不慶快。莫有要透關底麼。將三百六十骨節、八萬四千毫竅、通身起箇疑團、參箇無字、晝夜提撕。莫作虚無會、莫作有無會。如呑了箇熱鐵丸相似、吐又吐不出、蕩盡從前惡知惡覺、久久純熟、自然内外打成一片、如唖子得夢、只許自知。驀然打發、驚天動地、如奪得關將軍大刀入手、逢佛殺佛、逢祖殺祖、於生死岸頭、得大自在、向六道四生中遊戲三昧。且作麼生提撕。盡平生氣力擧箇無字。若不間斷、好似法燭一點便著。」
趙州和尚、ちなみに僧問う、狗子に還って仏性有りや也た無しや。趙州云く、無。無門曰く、参禅はすべからく祖師の関を透るべし、妙悟は心路を窮めて絶せんことを要す。祖関透らず、心路絶せずんば、ことごとく是れ依草附木の精霊ならん。且らく道え、如何が是れ祖師の関。只だこの一箇の無の字、すなわち宗門の一関なり。遂に之をなずけて禅宗無門関と曰う。透得過する者は、但だ親しく趙州にまみゆるのみならず、便ち歴代の祖師と手を把って共に行き、眉毛あい結んで同一眼に見、同一耳に聞くべし。世に慶快ならざらんや。透関を要するてい有ること莫しや。三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)をもって、通身に箇の疑団を起こして、箇の無の字に参じ、昼夜に提撕(ていぜい)せよ。虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ。箇の熱鉄丸を呑了するが如くに相似て、吐けども又た吐き出さず、従前の悪知悪覚を蕩尽し、久久に純熟して自然に内外打成一片す。唖子の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。驀然(まくねん)として打発せば、天を驚かし地を動じて、関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)に於て大自在を得、六道四生の中に向かって遊戯三昧(ゆげさんまい)ならん。しばらく作麼生か提撕せん。平生の気力を尽くして箇の無の字を挙せよ。若し間断せずんば、はなはなだ法燭の一点すれば便ち著くるに似ん。)とある。
一人の僧が犬にも仏性があるかと趙州に尋ね、趙州は「無」と答えた。無門がこれを評して、参禅は必ず禅の祖師よって設けられた関門を透過せねばならない。絶妙の悟りに至るには心の意識を完全に滅してしまわねばならない。関門を透ったこともなく心の意識を滅したこともなければ、その人たちはいわば薮や草むらに住みつく幽霊のようなものである。さあ言ってみよ。この祖師の関門とはどんなものか。ただこの「無」の一字、これが禅宗の第一の関門であり、これを「禅宗無門関」と称する。この関門を透った人は、親しく趙州と会うことができるのみか、歴代の祖師たちと、手に手をとって歩き、互いの眉毛が引っ付く程に親しくなって祖師たちの見たその眼ですべてを見、同じ耳で聞くことができる。本当にすばらしいことではないか。この関門を透過しようではないか。それには、三百六十の骨節、八万四千の毛孔といわれる全身全霊をあげて、疑問のかたまりとなり、「無」の字に集中し、日夜工夫しなさい。しかし「無」を単に「虚無」と理解してはいけないし、また「有る」とか「無い」とかの「無」と解してもいけない。無は、熱い鉄丸を呑みこんでしまったように、吐きたくても吐くこともできず、今までの間違った知識や意識をすっかり洗い落し、時機が熱すると、自然に意識と対象との隔たりがとれ完全に合一の状態に入る。それは聾唖者が夢みたことを人に語れぬように、自分自身では知覚しているが、言葉では説明のしようの無い状態に似ている。突如そのような別体験が発すると、驚天動地の働きで、関羽からその大刀を奪いとって自分の手にいれたようなもので、仏に出会えば釈迦を殺して仏の呪縛を破り、達磨に出会えば達磨を殺して祖師の呪縛を破って、生死無常の現世に在りながら、無生死の大自在を手に入れ、六道や四生の世界に在りながら、自分という存在を離れた境地に遊ぶことができる。それでは、どのように工夫したらよいのか。平生の精神力をつくしてただ「無」の一字に集中せよ。もし間断なく休止することがなければ、心中に悟りの光が一時に灯るといった境地になる、と云う。

無功コ(むくどく)
祖堂集』に「爾時武帝問。如何是聖諦第一義。師曰。廓然無聖。帝曰。對朕者誰。師曰。不識。又問。朕自登九五已來。度人造寺。寫經造像。有何功コ。師曰。無功コ。帝曰。何以無功コ。師曰。此是人天小果。有漏之因。如影隨形。雖有善因。非是實相。武帝問。如何是實功コ。師曰。淨智妙圓。體自空寂。如是功コ。不以世求。武帝不了達摩所言。變容不言。」(この時、武帝問う、如何なるか是れ聖諦第一義。師曰く、廓然無聖。帝曰く、朕に対する者誰ぞ。師曰く、識らず。また問う、朕は九五に登りてより已来、人を度し寺を造り、写経し造像す、何の功徳かある。師曰く、無功徳。帝曰く、何を以ってか無功徳なる。師曰く、此れは是れ人天の小果にして、有漏の因、影の形に隨うが如く、善因ありと雖も、是れ実相なるにはあらず。武帝問う、如何なるか是れ実功徳。師曰く、浄智は妙円にして、体自ら空寂なり、是くの如きの功徳は、世を以って求めず。武帝、達摩の言う所を了せず、変容して言わず。)とある。『碧巌録』第一則「達磨廓然無聖」に「武帝嘗披袈裟。自講放光般若經。感得天花亂墜地變黄金。辨道奉佛。誥詔天下。起寺度僧。依教修行。人謂之佛心天子。達磨初見武帝。帝問。朕起寺度僧。有何功コ。磨云。無功コ。早是惡水驀頭澆。若透得這箇無功コ話。許爾親見達磨。且道。起寺度僧。為什麼都無功コ。此意在什麼處。」(武帝かつて袈裟を披いて、自ら放光般若経を講ず。天花乱墜し、地黄金と変ずることを感得す。道を弁じ仏を奉じ、天下に誥詔して、寺を起て僧を度し、教に依って修行せしむ。人これを仏心天子と謂う。達磨初めて武帝に見えしとき、帝問う、朕、寺を起て僧を度す、何の功徳かある。磨云く、功徳なしと。早く是れ悪水驀頭に澆ぐ。もし這箇の無功徳の話を透得せば、爾に親しく達磨に見ゆることを。且く道え。寺を起て僧を度す、什麼と為てか都く功徳なき。この意什麼の処にか在る。)とある。

無常迅速(むじょうじんそく)
傳燈録』に「温州永嘉玄覺禪師者永嘉人也。姓戴氏。丱歳出家遍探三藏。精天台止觀圓妙法門。於四威儀中常冥禪觀。後因左谿朗禪師激勵。與東陽策禪師同詣曹谿。初到振錫携瓶。繞祖三匝。祖曰。夫沙門者具三千威儀八萬細行。大コ自何方而來生大我慢。師曰。生死事大無常迅速。祖曰。何不體取無生了無速乎。曰體即無生。了本無速。祖曰。如是如是。于時大衆無不愕然。師方具威儀參禮。須臾告辭。祖曰。返太速乎。師曰。本自非動豈有速耶。祖曰。誰知非動。曰仁者自生分別。祖曰。汝甚得無生之意。曰無生豈有意耶。祖曰。無意誰當分別。曰分別亦非意。祖歎曰。善哉善哉。少留一宿。時謂一宿覺矣。」(温州永嘉玄覚禅師は永嘉の人なり。姓は戴氏。廿歳に出家し遍く三蔵を探ね、天台止観円妙法門を精にし、四威儀の中に於いて常に禅観を冥す。のちに左谿朗禅師に因って激励され、東陽策禅師と同して曹谿に詣る。初め錫を振り瓶を携え到り、祖を繞ること三匝。祖曰く、夫れ沙門なる者は、三千の威儀、八万の細行を具す。大徳、何方よりして来りて大我慢を生ずや。師曰く、生死事大、無常迅速なり。祖曰く、何ぞ無生を大取して、本と無速なるに了せざるか。曰く、体は即ち無生、了すれば本と無速なり。祖曰く、如是如是。時に大衆愕然たらざるは無し。師方威儀を具して参礼し、須臾にして辞を告ぐ。祖曰く、返ること太だ速きや。師曰く、本と動くに非ず、豈に速きこと有らんや。祖曰く、誰か動くに非ざるを知る。曰く、仁者自ら分別を生ずるのみ。祖曰く、汝は甚だ無生の意を得たり。曰く、無生に豈に意あらんや。祖曰く、無意誰か当に分別す。曰く、分別するもまた意に非ず。祖、歎じて曰く、善きかな、善きかな、少留一宿せよ。時に一宿覚と謂う。)とある。

無門関(むもんかん)
禅宗無門関(ぜんじゅうむもんかん)。全1巻。南宋の無門慧開(むもんえかい:1182〜1260)著。紹定元年(1228)成立。古来からの公案48則を選び、これに評唱と頌を加えたもの。悟りへの入門書として重視される。

明月上孤峰(めいげつ こほうに のぼる)
續燈録』に「上堂。問。如何是維摩一默。師云。寒山訪拾得。僧曰。恁麼則入不二之門。師云。嘘。復云。維摩大士去何從。千古今人望莫窮。不二法門休更問。夜來明月上孤峰。」(上堂。問う、如何なるか是れ維摩の一黙。師云く、寒山、拾得を訪ねる。僧曰く、恁麼ならば則ち不二の門に入る。師云く、嘘。復た云う、維摩大士、何に従いてか去る。千古今人、窮なからんを望む。不二の法門、更に問うを休めよ。夜来たりて明月孤峰に上る。)とある。不二法門(ふにほうもん);『維摩經』入不二法門品第九に「爾時維摩詰。謂衆菩薩言。諸仁者。云何菩薩入不二法門。各隨所樂説之。」(その時に維摩詰、衆菩薩に謂って言く、諸の仁者よ、いかが菩薩の不二法門に入る。おのおの所楽に隨いて之を説く。)とあり、諸菩薩が各々所説を述べ、最後に「文殊師利曰。如我意者。於一切法無言無説。無示無識離諸問答是為入不二法門於是文殊師利。問維摩詰。我等各自説已。仁者當説。何等是菩薩入不二法門。時維摩詰默然無言。文殊師利歎曰。善哉善哉。乃至無有文字語言。是真入不二法門。説是入不二法門品時。於此衆中五千菩薩。皆入不二法門得無生法忍。」(文殊師利曰く、我が意の如きは、一切の法は言なく説なし、示なく識なし、諸の問答を離る、是れ不二の法門に入るを為す。是に於いて文殊師利、維摩詰に問う、我等各自已を説く、仁者まさに説け、何等是れ菩薩の不二法門に入る。時に維摩詰、默然無言。文殊師利、歎じて曰く、善きかな、善きかな、乃至、文字語言あること無し。これ真に不二の法門に入る。これ不二の法門に入る品を説く時、此に於いて衆中の五千の菩薩、皆、不二の法門に入り無生法忍を得る。)とあり、文殊師利(文殊菩薩)が、全てのものは、言葉もなく、説明もなく、示すこともなく、識ることもなく、もろのろの問答を離れている、と言葉をもって説いたのに対し、維摩は、黙然無言で答えた。これを「維摩の一黙」という。不二(ふに);対立していて二元的に見えるものも、絶対的な立場から見ると対立がなく一つのものであるということ。『聯燈會要』に「僧問。如何是不遷義。師云。落花隨流水。明月上孤峰。」(僧問う、如何なるか是れ不遷の義。師云く、落花、流水に随い、明月、孤峰に上る。)とある。

明歴歴露堂堂(めいれきれき ろどうどう)
圓悟佛果禪師語録』に「僧問。明歴歴露堂堂。因什麼 乾坤收不得。師云。金剛手裏八稜棒。進云。忽若一喚便回。還當得活也無。師云。〓(上秋下鳥)子目連無奈何。」(僧問う、明歴歴露堂堂、什麼に因って乾坤の收むるを得ざるや。師云く、金剛手裏八稜の棒。進云く、忽ち一喚すれば便ち回るが若し、還って活を得るやまたいなや。師云く、〓(上秋下鳥)子目連いかんともする無し。)とある。明歴歴露堂堂;歴々と明らかに、堂々と露れる。真理は歴然と明らかにして堂々と顕露しており隠されたものではない、もし見えないとすれば、見ようとしないだけで、目が曇っているに過ぎないとのこと。金剛手(こんごうしゅ);金剛杵を持つものという意味で金剛手菩薩。金剛杵は方便(慈悲心)を表し人間の煩悩を打ち砕き本来の仏性を引き出すための法具。八稜(はちりょう);。八画形のの先端を尖らせた形。〓(上秋下鳥)子(しゅうし);舎利仏のこと。『大佛頂首楞嚴經正脈疏』に「舍利弗。此云〓(上秋下鳥)子。〓(上秋下鳥)乃水鳥。是其母名。母辯流歴。似〓(上秋下鳥)之目。故連母為名。云是〓(上秋下鳥)之子也。」(舍利仏。此れ〓(上秋下鳥)子と云う。〓(上秋下鳥)すなわち水鳥。是れその母の名。母の流歴を弁ずるに、〓(上秋下鳥)の目に似る。故に母に連ねて名と為し、是れ〓(上秋下鳥)の子と云うなり。)とある。目連(もくれん);釈迦十大弟子の一人、神通第一といわれた。

盛永宗興(もりなが そうこう)
臨済宗の僧。大正14年(1925)〜平成7年(1995)。室号は碓庵。富山魚津市に生まれる。富山高等学校文科在学中、学徒出陣。戦後復学し、高等学校卒業後禅門に入り、昭和24年(1949)龍安寺塔頭大珠院の後藤瑞巌老師について出家。1949年から63年まで大徳寺専門道場で修行。小田雪窓老師に参じ、印可を受ける。妙心寺大珠院住職。昭和61年より花園大学学長を二期八年務め、平成6年3月任期満了に伴い辞任。1995年6月12日示寂。

開門落葉多(もんをひらけばらくようおおし)
禅林句集』五言対句に「聽雨寒更盡、開門落葉多」(雨を聴て寒更尽き、門を開けば落葉多し)、脚注に「無可上人詩也、是落葉比雨聲也、詩人玉屑九多字作深」(無可上人の詩なり、是落葉を雨声に比するなり、詩人玉屑九多の字を深に作る)とある。『全唐詩』に収められた、唐僧・無可上人の「秋寄從兄賈島」という題の五言律詩「暝(暗)蟲喧(分)暮色、默思坐(坐思)西林。聽雨寒更徹(盡)、開門落葉深。昔因京邑病、併起洞庭心。亦是吾兄事(弟)、遲迴共(直)至今。」(カッコ内は異本)から。深夜半、屋根打つ雨音が次第に強くなり冷えこみが一段と激しくなった。翌朝、門を開くと一面に敷きつめられた沢山の落ち葉。宋の釋惠洪の『冷齋夜話』に「唐僧多佳句、其琢法比物以意、而不指言一物、謂之象外句。如無可上人詩曰、聽雨寒更盡、開門落葉深、是落葉比雨聲也。」というように、言外に落ち葉の音を雨音に比したのもで、昨夜雨と思ったのは、この落葉が屋根に落ちる音だったのか、との意をこめたもの。『禅林句集』の引く『詩人玉屑』は『冷齋夜話』を引いたもの。紀貫之の「秋の夜に雨と聴こえて降りつるは風にみだるる紅葉なりけり」(拾遺集)は、この詩を元に詠ったという。無可は范陽の人、姓は賈氏、居天仙寺に住す。「開門多落葉」と作るものがあるが、陶淵明の「酬劉柴桑」にある「櫚庭多落葉、慨然知已秋」(櫚庭落葉多く、慨然として已に秋なるを知る)などとの混同あるいは趣向によるものと思われ、出典に従えば本来は間違い。

 
 
 
 
 
 
  
  
  
  
  
  
 

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