茶席の禅語

                           

大綱宗彦(だいこう そうげん)
臨済宗の僧。大徳寺435世。大徳寺塔頭黄梅院第14世住職。安永元年(1772)〜安政7年(1860)。6歳で黄梅院に入室、融谷宗通に師事。空華室、昨夢と号し、のちに向春庵と称す。和歌、茶の湯を能くし、書画に優れた。裏千家十一代玄々斎宗室・表千家十代吸江斎宗左・武者小路千家七代以心斎宗守・松村宗悦らと親しく、武者小路千家蔵の日記「空華室日記」、示寂後刊行和歌集「大綱遺詠」がある。永楽保全の参禅の師としても知られている。

大道無門(だいどうむもん)
無門關』序に「佛語心為宗。無門為法門。既是無門。且作麼生透。豈不見道。從門入者。不是家珍。從縁得者。始終成壞。恁麼説話。大似無風起浪好肉〓(宛リ)瘡。何況滯言句。覓解會。掉棒打月。隔靴爬痒。有甚交渉。慧開紹定戊子夏。首衆于東嘉龍翔。因衲子請益。遂將古人公案。作敲門瓦子。隨機引導學者。竟爾抄説。不覺成集。初不以前後敘列。共成四十八則。通曰無門關。若是箇漢不顧危亡。單刀直入。八臂那〓(口モ)〓(才闌)他不住。縱使西天四七。東土二三。只得望風乞命。設或躊躇。也似隔窗看馬騎。貶得眼來。早已蹉過。曰。大道無門。千差有路。透得此關。乾坤獨歩。」(仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、門より入る者は、是れ家珍にあらず。縁によりて得る者は、始終成壊す。恁麼の説話、大いに風無きに浪を起し、好肉に瘡を抉るに似たり。何ぞ況んや言句に滞りて、解会を覚むるをや。棒を掉って月を打ち、靴を隔てて痒を爬く、甚んの交渉か有らん。慧開、紹定戊子の夏、東嘉の龍翔に首衆たり。因みに衲子請益す。遂に古人の公案を将って、門を敲く瓦子と作して、機に随って学者を引導す。竟爾として抄録するに、覚えず集を成す。初めより前後を以って敘列せず、共に四十八則と成る。通じて無門関と曰う。若し是れ箇の漢ならば危亡を顧みず、単刀直入せん。八臂の那陀、他をさえぎれども住まらず。縱使い西天の四七、東土の二三も、只だ風を望んで命を乞うことを得ん。設し或は躊躇せば、也た窓を隔てて馬騎を看るに似たり。眼を貶得し来たらば、早く已に蹉過せん。に曰く、大道無門、千差路あり。此の関を透得せば、乾坤に独歩せん。)とある。大いなる道に入る門は無く、至るところに道がある。 この関を透り得たならば、天地を独歩するであろう。

立花大亀(たちばな だいき)
臨済宗の僧。大徳寺塔頭徳禅寺長老。明治31年(1898)〜平成17年(2005)。大阪府堺市生まれ。(1921)南宗寺で得度し、妙心寺専門道場で修行。大徳寺511世。大徳寺別院徳禅寺住職などを経て大徳寺宗務総長に就任。大徳寺派管長代務者。昭和57年(1982)から昭和61年(1986)まで花園大学学長。大徳寺最高顧問。如意庵庵主。平成17年(2005)8月25日遷化。

月知明月秋(つきは めいげつの あきを しる)
禅林句集』五言対句に「月知明月秋、花知一樣春。」(月は明月の秋を知り、花は一様の春を知る。)とあり、注に「月花無心自不違其時言知作意也」(月花無心なるも自ら其の時を違えず知ると言う作意なり。)とある。出典不詳。

泣露千般草(つゆになく せんぱんのくさ)
寒山詩』に「可笑寒山道、而無車馬蹤。聯溪難記曲、疊嶂不知重。泣露千般草、吟風一樣松。此時迷徑處、形問影何從。」(笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと。)とある。聯谿(れんけい);連なった谷。畳嶂(ちょうしょう);重なった高く険しい山峰。

庭前柏樹子(ていぜんの はくじゅし)
碧巌録』に「一日僧問趙州。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。僧云。和尚莫將境示人。州云。老僧不曾將境示人。看他恁麼向極則轉不得處轉得。自然蓋天蓋地。若轉不得。觸途成滯。且道他有佛法商量也無。若道他有佛法。他又何曾説心説性。説玄説妙。若道他無佛法旨趣。他又不曾辜負爾問頭。」(一日、僧、趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。僧云う、和尚境をもって人に示すことなかれ。州云く、老僧かつて境ともって人に示さず。看よ、他恁麼に、極則転不得の処に向って転得して、自然に蓋天蓋地なることを。若し転不得ならば、途に触れて滞を成さん。しばらく道え、他仏法の商量ありやまた無しや。若し他仏法ありと道わば、他また何ぞ曾て心と説き性と説き、玄と説き妙と説かん。若し他仏法の旨趣なしと道わば、他また曾て爾が問頭に辜負せず。)とある。『無門關』に「趙州因僧問。如何是祖師西來意。州云。庭前柏樹子。無門曰。若向趙州答處。見得親切。前無釋迦。後無彌勒。頌曰。言無展事。語不投機。承言者喪。滯句者迷。」(趙州、ちなみに僧問う、如何なるか是れ祖師西来の意。州云く、庭前の柏樹子。無門云く、若し趙州の答処に向かって見得して親切ならば、前に釈迦無く後へに弥勒無し。頌に云く、言、事を展ぶること無く、語、機に投ぜず。言を承くるものは喪し、句に滞るものは迷う。)とある。一人の僧が趙州(じょうしゅう)に問う、達磨大師が印度から中国へ来た真意は何か。趙州は言う、庭にある柏の木だ。

傳燈録(でんとうろく)
景コ傳燈録(けいとくでんとうろく)。全30巻。「五燈録」の一。中国・北宋代の宣慈禅師道原の編。禅宗の史伝の書の最も代表的なもので、唐代にできた『宝林伝』『続宝林伝』『真門聖胄集』などの後を承けて、過去七仏から西天の二十八代、東土の六代を経て、法眼文益の嗣に至るまでおよそ53世1,701人に及び、俗に「1,700人の公案」と呼ばれるが、実際に伝のあるものは951人である。さらに巻尾に、偈賛、頌銘、歌箴等の代表的なものを併せ録する。景徳元年(1004)に道原が朝廷に上呈し、楊億等の校正を経て続蔵に入蔵を許されて天下に流布するようになったため、年号をとって『景徳傳燈録』と呼ばれる。

桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)
崔護(さいご)の七言絶句「人面桃花」「去年今日此門中。人面桃花相映紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。」(去年の今日 此の門の中、人面 桃花あい映じて紅なり、人面 いずれの処ところに去るや知らず、桃花 旧に依りて 春風に笑む)から。崔護は唐代の人、貞元十二年(796)の進士、字は殷功、博陵(現・河北省定県)の人。この詩については『太平廣記』卷第二百七十四・情感に「博陵崔護資質甚美。孤潔寡合。舉進士第。C明日。獨遊キ城南。得居人莊。一畆之宮。而花木叢萃。寂若無人。扣門久之。有女子自門隙窺。問曰。誰邪。護以姓字對。曰。尋春獨行。酒渇求飮。女入。以杯水至。開門。設牀命坐。獨倚小桃斜柯佇立。而意屬殊厚。妖姿媚態。綽有餘妍。崔以言挑之。不對。彼此目注者久之。崔辭去。送至門。如不勝情而入。崔亦〓(目卷)盻而歸。爾後絶不復至。及來歳C明日。忽思之。情不可抑。徑往尋之。門院如故。而已〓鎖矣。崔因題詩于左扉曰。去年今日此門中。人面桃花相暎紅。人面不知何處去。桃花依舊笑春風。後數日。偶至都城南。復往尋之。聞其中有哭聲。扣門問之。有老父出曰。君非崔護耶。曰。是也。又哭曰。君殺吾女。護驚怛。莫知所答。父曰。吾女笄年知書。未適人。自去年已來。常恍忽若有所失。比日與之出。及歸。見左扉有字。讀之。入門而病。遂絶食數日而卒。吾老矣。惟此一女。所以不嫁者。將求君子。以託吾身。今不幸而殞。得非君殺之耶。又持崔大哭。崔亦感慟。請入哭之。尚儼然在牀。崔舉其首枕其股。哭而祝曰。某在斯。須臾開目。半日復活。老父大喜。遂以女歸之。」とある。『續燈録』に「僧曰。未是直截之機。師云。目前可驗。師乃云。一氣不言。群芳競吐。煙羃羃兮水克R青。日遲遲兮鶯吟燕語。桃花依舊笑春風。靈雲別後知何許。」とみえる。

東山水上行(とうざんすいじょうこう)
雲門廣録』に「問如何是諸佛出身處。師云。東山水上行。」(問う、如何なるか是れ諸仏出身の処。師云く、東山水上を行く。)とあり、僧が、仏はどこにいるのかと問うたとき、雲門文堰は東山(湖北省馮茂山)が水の上を歩いて行くと言った。道元は『正法眼蔵』山水経に「雲門匡眞大師いはく、東山水上行。この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髓、修證活計に透脱ならん。」とあり、東山水上を行くの意味は、すべての山が東山であり、すべての山が水上を行くということである。それによって、九山(きゅうざん)や迷盧(スメール山)などの山々がありのままに出現し、悟りがある。しかし、雲門自身が果たして、東山についてのそのように悟っていたかどうかはわからない、という。

濤々(とうとう)
「濤」は、つらなる波の音を表す文字で、「涛」は俗字。「濤々」は、一指斎によって建てられた、利休居士を祀る利休堂としての「祖堂」に掲げられた讃岐高松藩12代当主松平頼寿(1874〜1944)筆の扁額に記され、釜の湯が煮えるときの音「松風」を表したものという。

遠觀山有色(とおくみて やまに いろ あり)
續燈録』に「問。楞伽四卷從何得。莫是當初錯下言。師云。蒋白元來是秀才。問。達磨西來。教外別傳。為什麼將往隨後。師云。錦上添花。師云。教外別傳。直指人心。見性成佛。敢問諸人。作麼生説箇見性底道理。良久。云。遠觀山有色。近聽水無聲。」(問う、楞伽四卷とは何に従いて得んや、是れ当初錯下の言にあらずや。師云く、蒋白元来これ秀才。問う、達磨西より来り、教外に別伝す、什麼の為にか将に後に隨いて住す。師云く、錦上に花を添う。師云く、教外別伝。直指人心。見性成仏。敢て諸人に問う、作麼生この見性底の道理を説く。良久して、云く、遠く観て山に色あり、近く聴く水の声なきを。)とある。『禅林句集』五言対句に「遠觀山有色、近聽水無聲。」とあり、注に「禅類十心眼門、佛鑑勤云」とあるが未見。楞伽四卷;楞伽(りょうが)は梵語ランカーの音写。楞伽山。楞伽経。『佛祖統紀』に「祖師達磨以付二祖。曰吾觀震旦所有經教。唯楞伽四卷可以印心。」(祖師達磨以って二祖に付して曰く、吾れ震旦にある所の経の教えを観る。ただ楞伽四卷を以って印心となすべし。)とある。『祖庭事苑』には「此經即宋元嘉中天竺三藏求那跋陀羅之所譯也、豈可宋經而反使梁菩提達磨持來。以此攷之、謬妄之論、不待攷而自破矣。」(この経即ち宋の元嘉中に天竺三藏求那跋陀羅の訳す所なり、豈に宋経の反って梁の菩提達磨をして持来せしむ可けんや。これを以って之を攷うるに、謬妄の論、攷うるを待たず自ら破られん。)とある。

獨坐大雄峰(どくざ だいゆうほう)
碧巌録』第二六則「百丈大雄峰」に「舉。僧問百丈。如何是奇特事。丈云。獨坐大雄峰。僧禮拜。丈便打。」(挙す、僧、百丈に問う、如何なるか是れ奇特の事。丈云く、独坐大雄峰。僧礼拝す。丈、すなわち打つ。)とある。奇特(きとく);有難いこと。大雄峰(だいゆうほう);百丈が住職した江西省百丈山の別名。大雄山。僧が百丈に尋ねた。有難いこととはなんでしょう。百丈が言う、俺が今現に生きてここに坐っておることが一番有り難いと。その答えを聞いた僧は、ひれ伏して百丈を拝んだ。すると、百丈はひれ伏した僧を棒で打った。

コ不孤 必有鄰(とくは こならず、かならず となりあり)
『論語』里仁篇に「子曰、コ不孤、必有鄰。」(子曰く、徳は孤ならず、必ず鄰あり。)とある。立派な心がけの人が一人ぽっちということはない、かならず仲間がいるとのこと。宋の朱熹(しゅき:1130〜1200)の『論語集注(ろんごしっちゅう)』に「鄰、猶親也。コ不孤立、必以類應。故有コ者、必有其類從之、如居之有鄰也。」(鄰、なお親のごときなり。徳は孤り立たず、必ず以って類応す。故に有徳者、必ずその類ありて之に従う、居の隣にある如くなり。)とある。「鄰」は「隣」と同字。隣は、親しいこと。徳は孤立するものではなく、必ず共鳴するものだ。だから有徳者には、必ずおなじ志をもつ仲間が現れる。人には隣人があるようなものである。

虎嘯風生(とらうそぶけば かぜしょうず)
虎嘯(こしょう)は、虎がほえること。『禅林句集』に「龍吟雲起虎嘯風生」(龍吟ずれば雲起こり、虎嘯けば風生ず)、「周易ノ語」とあり、『易経』の「子曰、同聲相應。同氣相求。水流濕、火就燥。雲從龍、風從虎、聖人作而萬物覩。本乎天者親上、本乎地者親下。則各從其類也。」(子曰く、同声相応じ、同気相求む。水は湿えるに流れ、火は燥けるに就く。雲は龍に従い、風は虎に従う。聖人作りて万物観る。天に本づく者は上に親しみ、地に本づく者は下に親しむ。すなわち各各その類に従うなり。)から来たものとする。『如淨和尚語録』に「可謂龍吟雲起。虎嘯風生。」、『碧巌録』に「龍吟霧起。虎嘯風生」とあり、『楚辞』に「虎嘯而谷風至兮、龍舉而景雲往。」、『淮南子』に「虎嘯而穀風至、龍舉而景雲屬。」とある。

 
 
 
  
  
  
  
  
 

inserted by FC2 system