茶席の禅語

                           

彩鳳舞丹霄(さいほう たんしょうに まう)
聯燈會要』の「成都府昭覺克勤禪師」章に「師同佛鑑佛眼。侍五祖於亭上。夜坐。歸方丈。燈已滅。祖暗中云。各人下一轉語。鑑云。彩鳳舞丹霄。眼云。鐵蛇古路。師云。看脚下。祖云。滅吾宗者。克勤爾。」(師、佛鑑、佛眼と、亭上に五祖に侍し、夜坐、方丈に帰るに、灯已滅す。祖、暗中に云く、各人一転語を下せと。鑑云く、彩鳳、丹霄に舞う。眼云く、鉄蛇、古路に横たわる。師云く、脚下を看よ。祖云く、吾宗を滅する者は、克勤のみ。)とある。『禅林句集』の注には「正宗贊圓悟章」とあり『五家正宗贊』を挙げる。『五家正宗贊』の「圓悟勤禪師」章には「師一日同懃遠侍東山。夜坐欲歸。月K。山令各下一轉語。懃曰。彩鳳舞丹霄。遠曰。鐵蛇古路。師曰。看脚下。山曰。滅吾宗者。克勤耳。」(師、一日、懃と遠と東山に侍し、夜坐帰らんと欲す。月黒く、山、各一轉語を下せと令す。懃曰く、彩鳳、丹霄に舞う。遠曰く、鉄蛇、古路に横たわる。師曰く、脚下を看よ。山曰く、吾宗を滅する者は、克勤のみ。)とある。『皇明名僧輯略』に「徴三人之語。還有優劣也無。若道無優劣。五祖何以恁麼道。若道有優劣。什麼處是優劣處。」(三人の語を徴するに、還って優劣の有りやまた無しや。若し道に優劣なくば、五祖何を以ってか恁麼にいう。若し道に優劣あらば、什麼の処これ優劣の処か。)とある。彩鳳;五色の羽をもつ鳳凰。丹霄;澄み切った大空。懃遠;佛鑑慧懃と佛眼清遠。

猿抱子帰青嶂後(さるは こをいだいて せいしょうの しりえに かえる )
傳燈録』 夾山善會(かっさん ぜんね)禅師の章に「問如何是夾山境。師曰。猿抱子歸青嶂裏。鳥銜華落碧巖前。」 (問う、如何なるか是れ夾山の境。師曰く。猿は子を抱いて青嶂の裏に帰る、鳥は花を銜んで碧巌の前に落つ。)と見える。『祖堂集』に「羅秀才問。請和尚破題。師曰。龍無龍軀。不得犯於本形。秀才云。龍無龍軀者何。師云。不得道著老僧。秀才曰。不得犯於本形者何。師云。不得道著境地。又問。如何是夾山境地。師答曰。猿抱子歸青嶂後。鳥銜華落碧巖前。」(羅秀才問う、請う和尚、破題せよ。師曰く、龍に龍躯無し。本形を犯すを得ず。秀才云く、龍に龍躯無しとは何ぞ。師云く、老僧を道著することを得ず。秀才曰く、本形を犯すを得ずとは何ぞ。師云く、境地を道著するを得ず。又た問う、如何なるか是れ夾山の境地。師答えて曰く、猿は子を抱いて青嶂の後に帰る、鳥は花を銜んで碧巌の前に落つ。)とあり、羅秀才が夾山和尚に、あなたの境地はと問われたとき答えて、夾山和尚はその居所の景観を詠んで、猿が子を抱いて木々が青々と茂る山の向こうに帰っていき、鳥が花を口にくわえては緑の岩の前に舞降りてくよ。猿無心、鳥もまた無心、自ずからからなる動きをしている。これすなわち悟りの境地か。

更上一層樓(さらに のぼる いっそうの ろう)
盛唐の詩人、王之渙(おうしかん:688〜742)の五言絶句 『登鸛雀樓』の 「白日依山盡、黄河入海流。欲窮千里目、更上一層樓。」(白日 山に依りて尽き、黄河 海に入りて流る。 千里の目を窮めんと欲し、更に上る一層の楼。 )の一節。『續燈録』に「僧曰。向上還有事也無。師云。有。僧曰。如何則是。師云。欲窮千里目。更上一層樓。」(僧曰く、向上に還た事ありや。師云く、有り。僧曰く、如何ならんか則ち是れ。師云く、千里の目を窮めんと欲し、更に上る一層の楼。)とある。大局的な観点が必要で地上の些末にとらわれず、全体を見ることが大事。見えないものを見よ、心の境地を上げることが大事との意という。

山花開似錦(さんか ひらいて にしきに にたり)
碧巌録』八十二則「大龍堅固法身」に「舉。僧問大龍。色身敗壞。如何是堅固法身。龍云。山花開似錦。澗水湛如藍。」(舉す、僧、大龍に問う、色身敗壊す。如何なるか是れ堅固法身。龍云く、山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し。)とある。色身(しきしん);肉体。敗壊(はいかい);そこなわれくずれること。法身(ほっしん);法身・報身(ほうじん)・応身(おうじん)の三身(さんじん)の一つで、真理そのものとしての仏の本体、色も形もない真実そのものの体をいう。澗水(かんすい);谷川の水。僧が、肉体が滅んだ後には永遠不滅の真理はどうなってしまうのか、と大龍に問うた。大龍は、山に花が咲いて錦のようだ、谷川の水は藍のようだ、と答えたとのこと。

三級浪高魚化龍(さんきゅう なみたかうして うお りゅうとかす)
中国の夏王朝を開いた禹(う)が黄河の治水をした際、上流の竜門山を三段に切り落としたため三段の瀑布ができ、これを「禹門(竜門)三級」と称し、毎年3月3日桃の花が開くころに多くの魚が黄河を上り竜門山下に群集し竜門三級を登り、登りきった魚は頭上に角が生え尾を昂げ、竜となって雲を起し天に昇るという。『碧巌録』の第七則頌に「江國春風吹不起。鷓鴣啼在深花裏。三級浪高魚化龍。癡人猶戽夜塘水。」(江国の春風吹きたたず。鷓鴣啼いて深花裏にあり。三級浪高うして魚龍と化す。癡人なお汲む夜塘の水。)とみえる。のちに科挙の試験場の正門を竜門と呼び、及第して進士となったもの、さらに転じて一般に出世の糸口を「登竜門」といった。

山呼萬歳聲(さんこばんぜいのこえ)
五燈會元』に「朝奉疏中道、本來奧境、諸佛妙場、適來柱杖子已為諸人説了也。於斯悟去、理無不顯、事無不周。如或未然、不免別通箇消息。舜日重明四海清、滿天和氣樂昇平。延祥柱杖生歡喜、擲地山呼萬歳聲。」とみえる。『祖庭事苑』に「山呼萬歳者。自漢武始也。」(山呼万歳は、漢の武より始まるなり。)とあり、『漢書』巻六武帝紀に「親登嵩高、御史乘屬、在廟旁吏卒咸聞呼萬歳者三。」(親しく嵩高に登る、御史乗属、廟の旁に在る吏卒の咸、万歳を呼ぶ者の三なるを聞く。)とあり、中国、前漢の時代、元封元年(BC110)正月元日、武帝(BC141〜BC87)が天子自ら嵩高(河南省登封県北五嶽のひとつ嵩山)に登り、国家鎮護を祈ると、臣民たちが喊声をあげ、それが五岳の山々にこだまして「万歳万歳万々歳」と三たび聞こえたといわれ、これを「山呼」「三呼」と称す。


山色夕陽時(さんしょくせきようのとき)
虚堂録』巻三に「僧曰。泉聲中夜後。山色夕陽時。答曰。錯認定盤星。僧禮拜。」(僧曰く、泉声中夜の後、山色夕陽の時。答えて曰く、錯って定盤星を認む。僧礼拝す。)とある。

山水有清音(さんすいに せいおん あり)
西晋の詩人、左思(さし:250〜305)の詩『招隠詩』に「杖策招隱士。荒塗古今。巖穴無結構。丘中有鳴琴。白雪停陰岡。丹葩曜陽林。石泉漱瓊瑤。纖鱗或浮沈。非必絲與竹。山水有清音。何事待嘯歌。灌木自悲吟。秋菊兼餱糧。幽蘭間重襟。躊躇足力煩。聊欲投吾簪。」(策を杖いて隠士を招ねんとするに、荒塗は古今に横る。巌穴に結構無きも、丘中に鳴琴あり。白雲は陰岡に停まり、丹葩は曜林を曜らす。石泉は瓊瑤を漱ぎ、繊鱗も亦た浮沈す。糸と竹とを必するに非ず、山水に清音有り。何ぞ事として嘯歌を待たん、灌木は自から悲吟す。秋菊は餱糧を兼ね、幽蘭は重襟に間わる。躊躇して足力煩う、聊か吾が簪を投ぜんと欲す。)とある。木の枝をついて隠者を訪ね行くと、荒れた道が人も通らぬまま塞がっている。岩穴の住まいには立派な家などないが、丘から琴の音が流れてくる。白い雲が山の北に浮かび、赤い花が山の南の林に輝くように咲いている。岩の間を流れる水は玉のような石を洗い、小さな魚が泳いでいる。楽器を用意するまでもない、山や川にさわやかな音色がある。どうして歌を謡う必要があろうか、灌木が風に応じて、自然に哀愁のしらべを発している。秋菊の花は食用にもなるし、ひっそりと咲く蘭は重ね着につけて飾りにもなる。歩くうちに足がつかれ、暫く役人を辞めてこの地にいたいものだ。また、『宏智禪師廣録』に「繞籬山水有清音。」(籬を繞る山水に清音あり)とある。

山中無暦日(さんちゅう れきじつなし)
太上隱者の五言絶句「答人」(人に答う)に「偶來松樹下、高枕石頭眠、山中無暦日、寒盡不知年。」(たまたま松樹の下に来たり、枕を高うして石頭に眠る。山中暦日無し、寒尽くるも年を知らず。)とある。『全唐詩話續編』に「古今詩話云、太上隱者、人莫知其本末、好事者從問其姓名、不答、留詩一絶云。」(古今詩話に云く、太上隱者、人その本末を知るなく、好事者従ってその姓名を問うも答えず、詩一絶を留めて云う。)とある。たまたま通りかかった松の樹の下に来て、石を枕にぐっすり眠る。山の中には暦もなく、月日のたつのも忘れている。『平石如砥禪師語録』に「山中無暦日。從教晷運推移。」(山中暦日なし、晷運推移の教に従う。)とみえる。

山鳥歌聲滑(さんちょう かせい なめらか)
『白雲守端禪師廣録』に「上堂。舉雪竇道。春山疊亂青。春水漾虚碧。寥寥天地間。獨立望何極。乃迴顧。問侍者云。還有人守方丈麼。云有。自云。作賊人心虚。大衆。雪竇老人。放去收來。有舒卷乾坤之手。然雖如是。何似乾坤收不得。堯舜不知名好。法華今日忍俊不禁。當為古人出氣。乃云。山櫻火焔輝。山鳥歌聲滑。攜手不同途。任他春氣發。」(上堂。舉す雪竇道う、春山、乱青を畳み、春水、虚碧に漾わす。寥寥たる天地の間。獨り立ちて何をか極めんと望む。すなわち迴顧す。侍者問うて云く、還た方丈を守る人ありや。云う、有り。自ら云う、人心虚にして賊となる。大衆。雪竇老人。放去収来。乾坤の手、舒卷あり。是の如くなりと然雖も、何を似ってか乾坤を收むるを得ず。堯舜の知名好ましからず、法華、今日忍俊不禁、まさに古人出気すべし。すなわち云く、山櫻火焔輝き、山鳥歌聲滑らか。手を携え途を同じくせず、さもあらばあれ春気発す。)とある。忍俊不禁(にんしゅんふきん);笑いをこらえられない。

三冬枯木花(さんとう こぼくの はな)
虚堂録』に「上堂舉。黄昏脱襪打睡。晨朝起來旋繋行纏。夜來風吹籬倒。知事普請。奴子劈篾縛起。師云。諸方盡謂舜老夫坐在無事甲裏。那知三冬枯木花。九夏寒巖雪。」(上堂。挙す、黄昏、襪を脱ぎ打睡し、晨朝、起き来たり行纏を旋繋す。夜来風吹き籬倒れ、知事普請す。奴子篾を劈き縛起す。師云く、諸方尽く謂う、舜老夫無事甲裏に坐在すと。なんぞ知らん、三冬枯木の花、九夏寒巌の雪)とある。『禅林句集』は「三冬枯木秀、九夏雪花飛。」を挙げ、注に「會元續略巻一香嚴淳拙文才禪師章」「虚堂録一曰三冬枯木花九夏寒岩雪」(虚堂録一に曰く、三冬枯木の花、九夏寒岩の雪)とある。『五燈會元續略』ケ州香嚴淳拙文才禪師に「僧問。如何是理法界。師曰。虚空撲落地。粉碎不成文。曰。如何是事法界。師曰。到來家蕩盡。免作屋中愚。曰。如何是理事無礙法界。師曰。三冬枯木秀。九夏雪花飛。曰。如何是事事無礙法界。師曰。清風伴明月。野老笑相親。」(僧問う、如何なるか是れ理法界。師曰く、虚空撲て地に落ち、粉碎不成文。曰く、如何なるか是れ事法界。師曰く、到来の家蕩尽し、免作屋中愚。曰く、如何なるか是れ理事無礙法界。師曰く、三冬枯木秀で、九夏雪花飛ぶ。曰く、如何なるか是れ事事無礙法界。師曰く、清風、明月を伴い、野老、相親しみて笑む。)とある。事法界(じほうかい);事物が個々に存在する世界。理法界(りほうかい);事物の本体は真如であるとする世界。理事無礙法界(りじむげほうかい);現象の世界と真如の世界は同一であるとする世界。事事無礙法界(じじむげほうかい);現象界の一々の現象そのままが絶対であるとする世界。華厳経で説く、世界の四つのとらえ方である四法界(しほっかい)。三冬(さんとう);孟冬(十月)、仲冬(十一月)、季冬(十二月)の総称。冬の九十日間。九夏(きゅうか);夏の九十日間。

直心是道場(じきしんこれどうじょう)
『維摩經』に「佛告光嚴童子。汝行詣維摩詰問疾。光嚴白佛言。世尊。我不堪任詣彼問疾。所以者何。憶念我昔出毘耶離大城。時維摩詰方入城。我即為作禮而問言。居士從何所來。答我言。吾從道場來。我問道場者何所是。答曰。直心是道場無虚假故。」(仏、光厳童子に告げて、汝、行きて維摩詰に詣で疾を問え。光厳、仏に白して言く、世尊、我れ彼を詣で疾を問う任に堪えず。所以何となれば、憶念するに我れ昔、毘耶離大城を出る。時に維摩詰まさに入城す。我れ即ち作礼を為し問うて言く、居士、何所より来る。我が言に答え、吾れ道場より来る。我れ、道場は何所是と問う。答えて曰く、直心これ道場、虚仮なき故に。)とある。問疾(もんしつ);見舞い。憶念(おくねん);心に思って忘れないこと。毘耶離(びやり);ヴァイシァーリー。北インドの城市。維摩詰が住んでいた。仏が光厳童子に維摩詰の見舞いに行けというと、光厳は、私は彼の見舞いに行くことができません、なぜなら、忘れもしません、昔、ヴァイシァーリー城を出ようとするとき、維摩詰が城に入ってきたので、礼をして何処から来たかと問うと、道場より来たといい、私が道場は何処にあるのかと問うと、清純な心がそのまま道場なのだ、うそいつわりがないからと答えた。

詩經(しきょう)
孔子(BC552〜BC479)が、西周初期から春秋中期(BC11世紀〜BC6世紀頃)の約3000の古詩から305編を選んだといわれる中国最古の詩集。五経の一つ。諸国の民謡を集めた「風(ふう)」、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅(が)」、朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌(しょう)」の三部から成る。

時々勤拂拭(じじにつとめてふっしきせよ)
「身是菩提樹。心如明鏡台。時時勤拂拭。勿使惹塵埃。」(身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて拂拭して、塵埃を惹かしむること勿れ。)から出る。この身はさとりを宿す樹のごときもの、心は清浄で美しい鏡台の如きもの、常に勤めて汚れぬように払い拭いて、煩悩の塵や埃をつけてはならない、と言う意味の
中国禅宗の第六祖、慧能(えのう)の説法を弟子の法海が著したという『六祖壇経』に現れる、北宗禅の祖となる玉泉神秀(じんしゅう)の詩偈とされる。
初祖達磨(だるま)大師より第五祖の弘忍(ぐにん)が法嗣を決定するため、悟りの境地を示した詩偈を作れと弟子達に命じた。学徳に優れ信望厚く、六祖に相応しいと噂の神秀上座(じんしゅうじょうざ)がこの詩偈を廊壁に書いた。寺男として米搗きをしていた慧能がこれを聞き、綺麗だが未だ至っていないと、無学文盲のため童子に頼み「菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假惹塵埃。」(菩提もと樹無し、明鏡もまた台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん)と壁書した。菩提というのは樹ではなく、明鏡もまた台ではない。もともと何もないではないか、どこに塵埃がつくと言うのか、と言う意味である。これを聞いた五祖弘忍は夜になって慧能を呼び、法と師資相承の証である袈裟を渡し、伝法が済んだ今、ここにいては危ういから一刻も早く立ち去るがよいと、密かに逃がし、別れに臨んで「法縁熟するまで身を隠して聖胎長養し、市塵へ出るな」と忠告したという。道元はこれを偽書とする。

至道無難(しどうぶなん)
『信心銘』に「至道無難、唯嫌揀擇、但莫憎愛、洞然明白、毫釐有差、天地懸隔、欲得現前、莫存順逆。」(道に至るに難きことなし、ただ揀択を嫌う、ただ愛憎なければ、洞然として明白なり、毫釐も差あれば、天地懸に隔たる、現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ。)とある。揀擇(けんたく);比較選択の分別。毫釐(ごうもう);わずか 。道に至るに難しいことはない、ただ選り好みするのを嫌うのである。憎むとか愛するとかがなければ、すっきりとあきらかである。わずかの差でもあれば、天地のようにはるかに隔っているのだ。眼の前のことを得たいと思うのなら順序などがあってはならない。『碧巌録』第二則「趙州至道無難」に「舉趙州示衆云。至道無難。唯嫌揀擇。纔有語言。是揀擇是明白。老僧不在明白裏。是汝還護惜也無。時有僧問。既不在明白裏。護惜箇什麼云。我亦不知。僧云。和尚既不知。為什麼卻道不在明白裏。云。問事即得。禮拜了退。」(挙す。趙州衆に示して云く、至道無難。唯嫌揀択。わずかに語言あれば、是れ揀択、是れ明白。老僧は明白の裏に在らず。是れ汝還って護惜すやまた無しや。時に僧有り、問う、既に明白の裏に在らずんば、箇の什麼をか護惜せん。云く、我も亦た知らず。僧云く、和尚既に知らずんば、什麼としてか卻って明白の裏に在らずと道う。云く、事を問うことは即ち得たり。礼拝し了って退け。)とある。

柴山全慶(しばやま ぜんけい)
昭和期の仏教学者。臨済宗南禅寺332世。仏教学者。明治27年11月30日、愛知県生。道号は文明、号は寒松軒。花園学院卒。南禅寺派専門道場で河野霧海の法を嗣いだ。禅門高等学院・花園大学・大谷大学教授。南禅寺派管長・南禅寺住職となる。昭和49年8月29日歿。享年81。

釋門正統(しゃくもんせいとう)
宋代の天台宗の記伝史。全八巻。良渚宗鑑の撰。嘉煕元年(1237)に成る。釈門の正統が天台宗にあることを論述したもので、天台宗以外にも禅宗、華厳宗、法相宗、律宗、密教の相承についてもふれている。

且座喫茶(しゃざきっさ)
臨濟録』に「到三峰。平和尚。問曰。什麼處來。師云。黄蘗來。平云。黄蘗有何言句。師云。金牛昨夜遭塗炭。直至如今不見蹤。平云。金風吹玉管。那箇是知音。師云。直透萬重關。不住清霄内。平云。子這一問太高生。師云。龍生金鳳子。衝破碧琉璃。平云。且坐喫茶。又問。近離甚處。師云龍光。平云。龍光近日如何。師便出去。」(三峰に到る。平和尚問うて曰く、什麼の処よりか来たる。師云く、黄檗より来たる。平云く、黄檗、何の言句かある。師云く、金牛昨夜塗炭に遭う。直に如今に至るまで跡を見ず。平云く、金風、玉管を吹く、那箇か是れ知音。師云く、直に万重の関を透って、清霄の内にも住まらず。平云く、子が這の一問、太高生。師云く。龍、金鳳子を生じ、碧琉璃を衝破す。平云く。且坐喫茶。また問う。近離甚れの処ぞ。師云く、龍光。平云く、龍光近日如何。師便ち出で去る。)とある。三峰山に行った時、平和尚が問うて言った、どこから来た。臨済が言う、黄檗から来た。平和尚が言う、黄檗はどんな教えをする。臨済が言う、金の牛が昨夜ひどいめに遭い、そのまま今になっても姿が見えない。平和尚が言う、秋風に玉の笛を吹くようだ、誰がこれを聞き分ける人があろうか。臨済が言う、あらゆる関門を透過した晴れ渡った大空のような境地にも留まらない。平和尚が言う、おまえの答えは、たいへん高姿勢だ。臨済が言う、龍が鳳凰の子を生み、青い大空を破くように翔けまわっている。平和尚が言う、まあ坐って、お茶をおあがり。また平和尚が問うた、ところでどこから来た。臨済が言う、龍光。平和尚が言う、龍光はちかごろどんな様子か。臨済はさっさと立ち去った。

守一(しゅいつ)
『後漢書』襄楷傳に「其守一如此、乃能成道。」(其の一を守ること此の如し、乃ち能く道を成す)、『五代史』張薦明傳に「夫一、万事之本也、能守一者可以治天下。」(夫れ一は万物の本なり。能く一を守る者は、以て天下を治むべし)とある。

秋菊有佳色(しゅうきくかしょくあり)
陶淵明の「飲酒二十首」の「其七」に「秋菊有佳色、維露掇英。汎此忘憂物、遠我遺世情。一觴雖獨進、杯盡壺自傾。日入羣動息、歸鳥趨林鳴。嘯傲東軒下、聊復得此生。」(秋菊 佳色あり、露にぬれたる其のはなぶさをつみ、此の忘憂の物にうかべて、我が世を遺るるの情を遠くす。一觴 獨り進むと雖も、杯盡き 壺も自ずから傾く。日入りて 羣動やみ、歸鳥 林におもむきて鳴く。嘯傲す 東軒の下、いささか また此の生を得たり。)とある。

秋天萬里淨(しゅうてん ばんり きよし)
唐の王維(699〜759)の詩「送綦母校書棄官還江東」(きぼ校書が官を棄て江東に還るを送る)に「明時久不達、棄置與君同。天命無怨色、人生有素風。念君拂衣去、四海將安窮。秋天萬里淨、日暮澄江空。清夜何悠悠、扣舷明月中。和光魚鳥際、澹爾蒹葭叢。無庸客昭世、衰鬢日如蓬。頑疎暗人事、僻陋遠天聰。微物縱可採、其誰為至公。余亦從此去、歸耕為老農。」(明時久しく達せず、棄置、君と同じ。天命、怨色なし、人生、素風あり。おもう君が衣を払いて去るを、四海またいずくにか窮めんとする。秋天、万里きよく、日暮、澄江むなし。清夜、何ぞ悠悠たる、舷をたたく明月の中。和光、魚鳥の際、澹爾たり蒹葭の叢。庸無くして昭世に客たり、衰鬢、日に蓬の如し。頑疎、人事に暗く、僻陋、天聰に遠ざかる。微物たとい採るべきも、それ誰か至公となる。余もまた此より去りて、帰耕し老農とならん。)とある。明時(めいじ);よく治まっている太平の世。棄置(きち);官を棄てることと官に在ること。素風(そふう);生来の性質。澹爾(たんじ):水が揺れ動くのみ。蒹葭(けんか);芦(アシ)の意。無庸(むよう);無用に同じ。衰鬢(すいびん);数の減った髪。頑疎(がんそ);かたくなでうといこと。僻陋(へきろう);ひなびて文化が低いところ。天聰(てんそう);天子の聡明。

秋露如珠(しゅうろ たまの ごとし)
南朝 梁(りょう)の江淹(こうえん:444〜505)の『別賦』に「下有芍藥之詩、佳人之歌、桑中衛女、上宮陳娥。春草碧色、春水緑波、送君南浦、傷如之何。至乃秋露如珠、秋月如圭、明月白露、光陰往來、與子之別、思心徘徊。」(下に芍薬の詩、佳人の歌有り。桑中の衞女、上宮陳娥あり。春草は碧色にして、春水はロク波あり。君を南浦に送る、傷めども之を如何せん。乃ち秋露は珠の如く、秋月は珪の如きに至りては、明月白露ありて、光陰往来す。子と之れ別れ、思心徘徊す。)とある。鼓山の晦室師明の『續刊古尊宿語要』に「解夏示衆云。年豐歳稔。道泰時清。唱太平歌。樂無為化。秋露如珠。秋月如圭。」(解夏、衆に示して云く。年豊歳稔。道泰、時清、太平歌を唱す。楽無為化。秋露は珠の如く、秋月は珪の如し。)とみえる。

春秋多佳日(しゅんじゅう かじつおおし)
陶淵明の「移居」に「春秋多佳日、登高賦新詩。過門更相呼、有酒斟酌之。農務各自歸、閑暇輒相思。相思則披衣、言笑無厭時。此理將不勝、無為忽去茲。衣食當須紀、力耕不吾欺。」(春秋佳日多く、高きに登りて新詩を賦す。門を過ぎればこもごも相呼び、酒あらば之を斟酌す。農務には各自帰り、閑暇にはすなわち相思う。相思えば則ち衣をひらき、言笑して厭く時無し。此の理はた勝らざらんや、忽ち茲を去るを為す無かれ。衣食当に須く紀むべし、力耕吾を欺かず。)とある。

春色無高下(しゅんしょくこうげなし)
圓悟佛果禪師語録』に「小參。僧問。玄沙不過嶺。保壽不渡河。未審意旨如何。師云。直超物外。進云。雪峰三度到投子。九度上洞山。是同是別。師云。別是一家春。進云。恁麼則春色無高下。華枝自短長。師云。一任卜度。」(小参。僧問う、玄沙、嶺を過ぎず、保寿、河を渡らず。いぶかし、意旨如何。師云く、直超物外。進云く、雪峰、三度投子に到り、九度洞山に上る。是れ同か、是れ別か。師云く、別に是れ一家の春。進云く、恁麼ならば則ち春色高下なけれども、華枝おのずから短長。師云く、一に卜度に任す。)とある。『禅林句集』に「春色無高下、花枝自短長。」とあり、注に「春色雖無高下花枝自有短長故長者長法身短者短法身」(春色に高下なしと雖も、花枝おのずから短長あり、故に長者は長法身、短者は短法身。)とあり出典を「普燈十一ノ十丁」とする。『普燈録』巻第十一には「問。玄沙不過嶺。保壽不渡河。未審意旨如何。曰。直超物外。云。雪峰三度到投子。九度到洞山。又作麼生。曰。別是一家春。云。恁麼則春色無高下。華枝自短長。曰。一任卜度。」(問う、玄沙、嶺を過ぎず、保寿、河を渡らず。未審、意旨如何。曰く、直超物外。云う、雪峰、三度投子に到り、九度洞山に上る。また作麼生。曰く、別に是れ一家の春。云う、恁麼ならば則ち春色高下なけれども、華枝おのずから短長。曰く、一に卜度に任す)とある。

春水滿四澤(しゅんすい したくに みつ)
陶淵明の詩「四時詩」に「春水滿四澤、夏雲多奇峰。秋月揚明暉、冬嶺秀孤松。」(春水四沢に満ち、夏雲奇峰に多し。秋月明輝を揚げ、冬嶺孤松に秀ず。)とある。春水(しゅんすい);春になって氷や雪がとけて流れる水。四澤(したく);方々の池や湖。『彦周詩話』には「春水滿四澤、夏雲多奇峰。秋月揚明輝、冬嶺秀孤松。此顧長康詩、誤編入陶彭澤集中。」(春水四沢に満ち、夏雲奇峰に多し。秋月明輝を揚げ、冬嶺孤松に秀ず。此れ顧長康の詩、誤りて陶彭沢集中に編入せん。)とあり、顧卜之(こがいし)の詩とする。『如淨和尚語録』に「除夜小參。年盡月盡日盡時盡。以拂子劃一劃云。盡情劃斷。舉拂子云。者箇無盡。還見麼。喚作清涼拂子。受用無盡。今夜共諸人分歳。説法無盡。所以春水滿四澤無盡。夏雲多奇峰無盡。秋月揚明輝無盡。冬嶺秀孤松無盡。一年如是。過去無盡。一年如是。到來無盡。若恁麼見得。日日眼睛定動。時時鼻孔軒昂。依舊年月日時悉皆無盡。雖然盡與無盡。」(除夜小参。年尽き月尽き日尽き時尽く。仏子を以って画一画して云く、尽情画断。仏子を挙げて云く、者箇尽きず。還た見る麼。喚んで清涼仏子と作す。受用尽きず。今夜、諸人分歳を共にし、説法尽きざる所以、春水四沢に満ち尽きず、夏雲奇峰に多く尽きず、秋月明輝を揚げ尽きず、冬嶺孤松に秀じ尽きず。一年是の如く、過去尽きず。一年是の如く、到来尽きず。若し恁麼に見得し、日日眼睛を定動し、時時鼻孔を軒昂せば、旧年月日時悉皆尽きざるに依り、尽きると雖も与に尽きず。)とある。

諸悪莫作 衆善奉行(しょあく まくさ しゅぜん ぶぎょう)
傳燈録』の「道林禪師」に「元和中白居易出守茲郡。因入山禮謁。乃問師曰。禪師住處甚危險。師曰。太守危險尤甚。曰弟子位鎮江山。何險之有。師曰。薪火相交識性不停。得非險乎。又問如何是佛法大意。師曰。諸惡莫作衆善奉行。白曰。三歳孩兒也解恁麼道。師曰。三歳孩兒雖道得。八十老人行不得。白遂作禮。」(元和中。白居易、出守茲郡。因みに入山して礼謁す。乃ち師に問うて曰く、禅師の住むところ甚だ危険。師曰く、太守の危険もっとも甚だし。曰く、弟子、鎮江山に位す、何の険のあらんや。師曰く、薪火相交し、識性停らず、険あらざるを得んや。また問う、如何なるか是れ仏法の大意。師曰く、諸の悪をなすなかれ、衆の善を奉行せよ。白曰く、三歳の孩兒もまた恁麼いうを解す。師曰く、三歳の孩兒も道得ならんと雖も、八十の老人も行い得ず。白、遂に作礼す。)とある。『撓繹「含經』に「尊者阿難便説此偈。諸惡莫作。諸善奉行。自淨其意。是諸佛教」とある。ありとあらゆる悪をなさず、ありとあらゆる善きことは身をもって行えということ。『七佛通戒偈』に「願諸衆生。諸惡莫作。諸善奉行。自淨其意。是諸佛教。和南聖衆。」(願わくば諸の衆生とともに、諸悪は作すこと莫く、諸善は奉行して、自ら其の意を淨せん。是れ諸仏の教なり 聖衆に和南したてまつる)とある。

小室六門(しょうしつろくもん)
宋代に達摩関係の書六部をまとめたもの。「心經頌」「破相論(觀心論)」「二種入」「安心法門」「悟性論」「血脈論」の六門からなる。少室六門。少室六門集。

趙州(じょうしゅう)
趙州従諗(言念)(じょうしゅう じゅうしん)。中国唐末の禅僧(778〜897)。曹州(山東省)の人。俗姓は郝(赤β)。幼くして曹州の龍興寺で出家し、嵩山の琉璃壇で受戒。後に池陽の南泉普願の下に参じ、師の「平常心是道」で大悟し法嗣となる。南泉の没後60歳で遊方の途に出て、黄檗希運、塩官斉安らの下で修禅する。80歳で趙州(河北省)の観音院(東院)に住し、その後、40年間「口唇皮禅」と称される特異な禅風を宣揚し、120歳で没した。諡して真際大師という。彼と門弟との問答の多くが「公案」として世に大行した。

松樹千年翠(しょうじゅ せんねんの みどり)
禅林句集』五言対句に「松樹千年翠、不入時人意。」(松樹千年の翠、時の人の意に入らず。)とあり、下注に「薫石田樹作佰。續傳三八丁。石田章同禪類。」(薫石田、樹を佰に作る。續傳、三の八丁。石田章、禅類同じ。)とある。その『續傳燈録』巻三「石田法樞W師」章には「但得本莫愁末。喚恁麼作本。喚恁麼作末。松柏千年青。不入時人意。牡丹一日紅。滿城公子醉。」(但だ本を得て、末を憂えること莫れ。何を喚んでか本となし、何を喚んでか末となすや。松柏千年の青、時の人の意に入らず。牡丹一日の紅、満城の公子酔う。)とある。

清淨身(しょうじょうしん)
蘇軾の七言絶句「贈東林總長老」(東林総長老に贈る)に「溪聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。他日如何舉似人。」(渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、他日いかんが人に挙似せん。)とある。『普燈録』に「内翰蘇軾居士。字子瞻。號東坡。宿東林。日與照覺常總禪師論無情話。有省。黎明獻偈曰。溪聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。他日如何舉似人。」(内翰蘇軾居士。字は子瞻。東坡と号す。東林に宿し、日に照覚常総禅師と無情話を論じ、省あり。黎明、偈を献じて曰く、渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、他日いかんが人に挙似せん。)とある。清淨身は、煩悩を去った、清くけがれのない心。『妙法蓮華經』にも「復次、常精進。若善男子、善女人、受持是經、若讀、若誦、若解説、若書寫、得八百身功コ。得清淨身、如淨琉璃、衆生喜見。」とある。『羅湖野録』に「程待制智道・曾侍郎天游。寓三衢最久。而與烏巨行禪師為方外友。曾嘗於坐間舉東坡宿東林。聞谿聲。呈照覺總公之偈。谿聲便是廣長舌。山色豈非清淨身。夜來八萬四千偈。它日如何舉似人。程問行曰。此老見處如何。行曰。可惜雙脚踏在爛泥裏。曾曰。師能為料理否。行即對曰。谿聲廣長舌。山色清淨身。八萬四千偈。明明舉似人。二公相顧歎服。吁。登時照覺能奮金剛椎。碎東坡之巣窟。而今而後。何獨美大顛門有韓昌黎耶。雖烏巨向曾・程二公略露鋒鋩。豈能洗叢林噬臍之歎哉。」(程待制智道と曾侍郎天游、三衢に最久く寓して、ともに烏巨行禅師の方外の友と為る。曾、嘗て坐間に挙す、東坡、東林に宿し、渓声を聞き、照覚総に公の偈を呈す。渓声すなわち是れ広長舌、山色あに清浄身にあらずや。夜来八万四千の偈、它日いかんが人に挙似せん。程、行に問いて曰く、これ老見るところ如何。行曰く、惜しむべし双脚を踏むに爛泥裏に在り。曾曰く、師よく料理を為すや否や。行、即ち対して曰く、渓声広長舌、山色清浄身。八万四千の偈、明明人に挙似せん。二公、相顧みて歎服す。ああ、照覚能く奮って金剛椎に登るの時、東坡の巣窟を砕く。而今而後。何んぞ独り美大顛門に韓昌黎ありや。烏巨、曾・程二公に向うに、ほぼ鋒鋩を露わすと雖も、豈に能く叢林噬臍の歎を洗うや。)とある。韓昌黎(かんしょうれい);韓愈(かんゆ:768〜824)。中国唐の詩人。噬臍(ぜいせい);「噬」は噛むこと。臍(ほぞ)を噛む。後悔すること。悔いること。

松柏千年青(しょうはくせんねんのせい)
續燈録』等に「松柏千年青。不入時人意。牡丹一日紅。滿城公子醉。」(松柏千年の青、時の人の意に入らず。牡丹一日の紅、満城の公子酔う。)とある。松柏は、中国では常緑樹の代表として連称されることが多い。この柏は落葉樹の「カシワ」ではなく、『本草綱目啓蒙』に「凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(略)側柏ハ、コノテガシハナリ(略)扁柏ハ、ヒノキナリ」とあり、コノテガシワ或はヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹の総称。松柏の千年常に変わらぬ青は、世の人々には気に入らない。牡丹の一時の艶やかな花に、満都の貴公子達は酔いしれる。人は不易な本質には意をとめず、表層の現象のみに心を奪われるということか。

松柏見貞心(しょうはくに ていしんをみる)
『論語』に「歳寒然後、知松柏後凋也」(歳寒くして、然るのちに松柏の凋むに後るるを知る)とあり、寒い冬なればこそ、葉を落とさない松や柏の木を知ることができるということで、松や柏は冬の霜や雪にも屈せずいつも緑色を変えないことから、君子が逆境にあってもその節操を変えないことを比喩する。『本草綱目啓蒙』に「凡ソ単ニ柏ト称スルハ側柏、扁柏ヲ通ジテ言フ(略)側柏ハ、コノテガシハナリ(略)扁柏ハ、ヒノキナリ」とあり、コノテガシワ或はヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹の総称。『易経』に「貞正也」(貞は正なり)とあり、貞心とは正しく定まって惑わない心のこと。『晉書』に「誌シ筠之雅操、見貞心於歳暮」、范雲 (451〜503)の『詠寒松詩』に「凌風知勁節、負雪見貞心」、孟郊(751〜814)の『大隱詠三首』に「破松見貞心、裂竹看直文」、何敬宗の『遊仙詩』に「青青陵上松、亭亭高山柏。光色冬夏茂、根柢無凋落。吉士懐貞心、悟物思遠託。」(青青たる陵上の松、亭亭たる高山の柏。光色は冬夏に茂り、根柢は凋落すること無し。吉士は貞心をいだき、物に悟りて遠く託せんことを思ふ。)とみえる。

松風供一啜(しょうふう いっせつに きょうす)
『介石禪師語録』の「偈頌」に「瓦瓶破曉汲清冷、石鼎移來壞砌烹。萬壑松風供一啜、自籠雙袖水邊行」(瓦瓶、破暁に清冷を汲み、石鼎、移り来て壊砌に烹る。万壑の松風、一啜に供し、自ら双袖を籠し水辺に行く)とある。「瓦瓶」は「ツルベ」のこと。「壑」は「谷」の意。萬壑(ばんがく)は多くの谷。『江湖風月集抄』に「瓦瓶ー、暁き寅の刻にくむ水をば清華水と云也。清冷なるを以て汲之也。移来は石鼎を懐砌に移来也。又は汲みたる水を石鼎に移来也。万壑のー、煎茶の声如松風也。供一啜にあてんの義。而後に両手を袖裡に入て水辺に横行する也。」とある。多くの谷々から響き渡る松風を、ひと啜りにする義は、大なり小なり、長なり短なりと論ずる上にある絶対の大も小も、長も短もないと、差別を越した一味平等のおしえとあり、「一口吸盡西江水」と同じ境地をあらわしたものという。

松風颯颯聲(しょうふう さつさつの こえ)
續燈録』對機門の彭州慧日堯禪師に「師云。松風颯颯。細雨微微。紅日銜山。冰輪出海。照古照今。未嘗有間。目前無法。日用分明。法爾熾然。絲毫不立。人人具足。各各圓明。向諸人前。更説箇什麼即得。良久云。參。」(師云く、松風は颯颯と、細雨は微微たり。紅日は山に銜ち、冰輪は海より出ず。古に照らし今を照らすに、未だ嘗て間あらず。目前に法なく、日用は分明たり。法爾は熾然として、糸毫も立たず。人人に具足し、各各に円明なり。諸人の前に向い、更に箇の什麼を説いて即ち得んや。良久して云く、参れ。)とある。『寒山詩』に「可重是寒山、白雲常自閑。猿啼暢道内、虎嘯出人間。獨歩石可履、孤吟藤好攀。松風清颯颯、鳥語聲〓(口官)〓(口官)。」(重んずべきは是れ寒山。白雲常に自ずから閑か、猿啼いて道内を暢べ、虎嘯いて人間を出ず。独り歩んで石を履むべく、孤り吟いて藤を攀じるを好む。松風清く颯颯、鳥の語る声官官。)とある。謡曲『高砂』の「千秋楽」に「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命をのぶ。相生の松風、颯々の聲ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ」がある。颯颯(さつさつ);風のさっと吹くさま。また、その音。

正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)
圜悟克勤の法嗣で大慧派の始祖 大慧宗杲(だいえそうこう:1089〜1163)の撰した公案集の一つで、古来の宗師の上堂示衆の語句六百六十一則を選び、評唱あるいは著語を付し、最後に大慧自身の示衆一段を付したものと、曹洞宗の開祖 道元(1200〜1253)の撰したものとがある。日本では『正法眼蔵』といえば後者を指すのが一般的。書名の「正法眼蔵」は、「靈山百萬衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、我有正法眼藏涅槃妙心、附屬摩訶迦葉。」(靈山百萬衆の前にして、世尊、優曇華を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉、破顔微笑せり。我に正法眼藏涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附屬す。)と『正法眼蔵』にあるように、釈迦が、霊鷲山(りょうじゅせん)の山頂で説法していたとき、釈迦が優曇花(うどんげ)の花をひねって瞬きをした、そのとき摩訶迦葉(まかかしょう)が破顔微笑したのをみて、釈迦は言葉ではない正しい教え、悟りの境地がある、それを摩訶迦葉に授ける、とし「いまこの如来一大事の正法眼蔵、無上の大法を禅宗と名づくる」といわれる不立文字・教外別伝の禅の根本義の意。道元が、寛喜3年(1231)より建長5年(1253)にいたる23年間にわたって説示したもので、全95巻。宗門の規則・行儀・坐禅弁道など520編からなる、曹洞宗の根本聖典。

從容録(しょうようろく)
萬松老人評唱天童覺和尚頌古從容庵録。全六巻。南宋末、曹洞の万松行秀が、燕京報恩院の従容庵に在って、宏智正覚の「頌古百則」を提唱し、『碧巌録』にならって、示衆と著語、および評唱を加えたもの。行秀が嘉定十六年(1223)に湛然居士に与えた書、および湛然居士がその翌年に撰した序がある。曹洞宗で重んぜられる。

人間好時節(じんかんの こうじせつ)
無門関』の「平常是道」の南泉と趙州の問答に対する無門の評語に「無門曰。南泉被趙州發問。直得瓦解冰消分疏不下。趙州縱饒悟去。更參三十年始得。頌曰。春有百花秋有月。夏有涼風冬有雪。若無閑事挂心頭。便是人間好時節。」(無門曰く、南泉、趙州に発問せられて、直に得たり、瓦解冰消、分疏不下なることを。趙州、縱饒い悟り去るも、更に參ずること三十年にして始めて得ん。頌に曰く、春に百花有り秋に月有り、夏に涼風有り冬に雪有り。若し閑事の心頭にかくる無くんば、すなわち是れ人間の好時節。)とある。無門が言った。南泉は、趙州に質問されて、すぐに崩れ落ちて消えてしまい、弁解も出来ないことが分かった。趙州も、たとい悟つたとしても、まだあと三十年参禅して始めて真の悟りを得ることができるだろう。頌に曰く、春に百花あり、秋に月あり、夏に涼風あり、冬に雪あり。つまらぬ事を心にかけねば、これがこの世の極楽だ。

新月一張弓(しんげつ いっちょう の ゆみ)
白居易(772〜846)の五言律詩「秋寄微之十二韻」に「娃館松江北、稽城浙水東。屈君為長吏、伴我作衰翁。旌旆知非遠、煙雲望不通。忙多對酒榼、興少閲詩筒。淡白秋來日、疏涼雨後風。餘霞數片綺、新月一張弓。影滿衰桐樹、香凋晩尅p。饑啼春穀鳥、寒怨絡絲蟲。覽鏡頭雖白、聽歌耳未聾。老愁從此遣、醉笑與誰同。清旦方堆案、黄昏始退公。可憐朝暮景、銷在兩衙中。」(娃館は松江の北、稽城は浙水の東。君を屈して長吏となし、我に伴いて衰翁たり。旌旆遠きにあらざるを知る、煙雲望み通ぜず。忙多くして酒榼に対し、興少くして詩筒を閲けり。淡白なり秋来の日、疏涼なり雨後の風。餘霞数片の綺、新月一張の弓。影は衰桐の樹に満ち、香は晩恵の叢に凋む。飢えて春穀の鳥を啼かしめ、寒くして絡絲の蟲を怨みしむ。鏡を覧るに頭は白しと雖も、歌を聴くに耳未だ聾せず。老愁はこれより遣らん、酔笑は誰と同じくせん。清旦にまさに案を堆くし、黄昏に始めて公より退る。可憐なる朝暮の景、銷して両衙の中に在り。)とある。○旌旆(せいはい)はた。官職を表す旗。○酒榼(しゅこう)さかだる。酒尊。○絡絲蟲(らくしのむし)はたおり。

神光照天地(しんこう てんちをてらす)
碧巌録』九六則「趙州三轉語」の「」に「泥佛不渡水。神光照天地。立雪如未休。何人不雕偽。」(泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。雪に立って未だ休せずんば、何人か雕偽せざらん。)、その「評唱」に「泥佛不渡水。神光照天地。這一句頌分明了。且道為什麼卻引神光。二祖初生時。神光燭室亙於霄漢。又一夕神人現。謂二祖曰。何久于此。汝當得道時至。宜即南之。二祖以神遇遂名神光。」(泥仏水を渡らず。神光天地を照らす。この一句に頌して分明にし了る。しばらく道え、什麼としてか卻って神光を引く。二祖初め生るヽ時、神光室を燭して、霄漢にわたる。また一夕神人現じて。二祖に謂って曰く。なんぞ此に久しき。汝まさに道を得べき時いたれり。宜しく即ち南に之くべしと。二祖神遇を以て、遂に神光と名づく。)とある。『祖庭事苑』に「神光 二祖生時、神光照室、故舊名神光。後達摩改名慧可。」とあり、「神光」とは禅の開祖達磨大師の後を継ぎ二祖とされる「慧可(えか)」のこと。慧可(487〜593)は初め名を「光光」といい、40歳の時、神人が現れ南方に行けとのお告げがあり「神光」と名を改め、南方で達磨に相見する。そのとき入門を請うが許されず、片臂を切って決意を示し、許され「慧可」の名をもらう。「泥佛不渡水。神光照天地。」は、土で作った仏は水に溶けてしまうが、達磨の法を伝えた神光によって世の中が明るく照らされている、というところか。

翠巌宗a(すいがん そうみん)
江戸初期の臨済宗の僧。慶長13年(1608)〜寛文4年(1664)。大徳寺195世。和泉堺生。俗性は半井。江月宗玩(1574〜1643)の甥にあたり、その法を嗣いだ。。宗aは名、号に似玉・栖蘆子等。勅諡は法雲大仰禅師。明暦3年(1657)奉勅入寺。大徳寺塔頭寸松庵二世として、紫野寸松庵に住む。本山に引清軒・為隣軒、京北に山陰軒、肥前平戸の春江庵等を創し、宇治の蔵勝庵を再興した。平戸の是興寺、清浄庵、涼月庵の開祖。詩文・書画・茶の湯をよくす。

隨處作主(ずいしょさくしゅ)
臨濟録』に「師示衆云。道流。佛法無用功處。秖是平常無事。屙屎送尿著衣喫飯。困來即臥。愚人笑我。智乃知焉。古人云。向外作工夫。總是癡頑漢。爾且隨處作主。立處皆真。境來回換不得。縱有從來習氣五無間業。自為解脱大海。」(師、衆に示して云く、道流、仏法は用功の処なし。ただ是れ平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困し来たれば即ち臥す。愚人は我を笑う。智は乃ち焉を知る。古人云く、外に向って工夫を作す、総に是れ癡頑の漢、と。爾、且く随処に主となれば、立処みな真なり。境来たれども回換することを得ず。たとい従来の習気、五無間の業あるも、自ら解脱の大海となる。)とある。師が大衆に示して言った、お前たち、仏法は計らいを加えるところはない。ただ平常で無事がそれである。大小便をしたり、服を着たり飯を喰ったり、疲れたら寝るばかりである。愚人は笑うだろうが、本当に出来た人ならそこが分かる。古人も、外に向って求めるのは、みんな大馬鹿者だ、と言っている。お前たち、どんな場合でも自分が主となれば、存在するところがそのまま真実なのだ。どんな環境になっても振り回されることはない。たとい従来からの身にしみついた習慣や、五種の無間地獄の苦果を受けるような業があっても、それが自然と解脱の大海となる。
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吹毛剣(すいもうのけん)
碧巌録』第百則「巴陵吹毛劍」本則に「舉。僧問巴陵。如何是吹毛劍。陵云。珊瑚枝枝撐著月。」(挙す。僧、巴陵に問う、如何なるか是れ吹毛剣。陵云く、珊瑚枝枝月を撐著す)とある。 吹毛剣(すいもうけん):毛を吹き付けただけで二つに裂けるほどの鋭利な名刀。巴陵(はりょう):名は鑑(こうかん)。雲門の嗣。撐著(とうじゃく):支える。

青山元不動(せいざんもとふどう)
景徳傳燈録』に「時有僧問。如何得出離生老病死。師曰。青山元不動。浮雲飛去來。」(時に僧問う有り、如何でか生老病死を出離することを得ん。師曰く、青山もと不動にして、浮雲飛去来。)とあり、『聯燈會要』に「問如何是一老一不老。師云。青山元不動。澗水鎮長流。手執夜明符。幾箇知天曉。」(問う、如何なるか是れ一は老いて一は老いず。師云く、青山もと不動。澗水、長流を鎮む。手に夜明符を執りて、幾箇の天暁を知る。)とある。澗水は、谷川の水。青山は、人が本来持っている仏性の比喩。人は絶え間ない妄想や煩悩に惑わされるが、それは表面的現象にすぎず、本来は不動の仏性を持っているということ。『禅林句集』には「青山元不動。白雲自去來。」(青山もと不動。白雲自ら去来す。)とある。

青箬笠前無限事(せいじゃくりゅうのまえ むげんのこと)
黄庭堅の浣溪沙に「新婦灘頭眉黛愁。女兒浦口眼波秋。驚魚錯認月沈鉤。青箬笠前無限事。獄ェ衣底一時休。斜風吹雨轉船頭。」(新婦灘頭に眉黛愁い。女兒浦口に眼波秋。驚魚月を沈鉤と錯認す。青箬笠の前無限の事。獄ェ衣の底一時休す。斜風吹雨に船頭を転ず。)とある。唐の詩人 張志和の「漁歌子」に「西塞山前白鷺飛、桃花流水鱖魚肥。青箬笠、獄ェ衣、斜風細雨不須歸。」(西塞山前白鷺飛び、桃花流水鱖魚肥たり。青箬笠、獄ェ衣、斜風細雨帰るを須いず)、顧況の「漁歌子」に「新婦磯邊月明。女兒浦口潮平。沙頭鷺宿魚驚。」があるが、蘇軾が張志和の詩をもとに浣溪沙「西塞山邊白鷺飛、散花洲外片帆微。桃花流水鱖魚肥。自庇一身箬笠、相隨到處獄ェ衣。斜風細雨不須歸。」(西塞山辺白鷺飛び、散花洲外片帆微かなり。桃花 流水鱖魚肥ゆ。自ら一身を庇うき箬笠、到る所に相い隨う高フ蓑衣。斜風細雨帰るを須いず。)を作り、これを見た黄庭堅が張志和と顧況の二詩を合せて作ったものという。『五燈會元』に「隆興府泐, 潭山堂コ淳禪師 上堂。倶胝一指頭。一毛拔九牛。華嶽連天碧。黄河徹底流。截卻指急回眸。青箬笠前無限事。獄ェ衣底一時休。」とあり、この句を引く。○箬笠(じゃくりゅう);竹の皮(または熊笹)で作った編み笠。竹皮笠。○蓑衣(さい);みの。萱、菅、藁等の茎や葉を編んで作った雨具。○黄庭堅(こうていけん:1045〜1105)は中国、北宋の詩人・書家。分寧(江西省)の人。字は魯直(ろちょく)。号は山谷道人、晩年は涪翁(ふうおう)と号す。治平3年(1066)、23歳で進士に及第、山西太和知県、校書郎、著作左郎、起居舎人、鄂州、涪州、戎州、宜州などの知州を歴任。蘇軾に師事、張耒、晁補之、秦観とともに「蘇門四学士」と称された。その詩書画は「三絶」と称され、師の蘇軾(そしょく)とともに「蘇黄」と並称される。
宗旦の書に「青箬(着?)笠前無此事 緑蓑底一時休」としたものがある。

青松多寿色(せいしょう じゅしょく おおし)
青々とした松はそのままでめでたい色をしているという意味。 唐の詩人・孟郊の詩、『西上經靈寶觀(觀即尹真人舊宅)』の「道士無白髮、語音靈泉清。青松多壽色、白石恒夜明。放歩霽霞起、振衣華風生。真文秘中頂、寶氣浮四楹。一片古關路、萬里今人行。上仙不可見、驅策徒西征。」から。

清風動脩竹(せいふう しゅうちくを うごかす)
普燈録』に「上堂。古人道。墮肢體。黜聡明。離形去智。同於大道。正當恁麼時。且道是甚麼人刪詩書。定禮樂。還委悉麼。禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。僧問。真如界内。本無迷悟之因。方便門中。願示無生之曲。曰。六六三十六。清風動脩竹。云。洪音一剖驚天地。有無情類盡霑恩。曰。一曲兩曲無人會。雨過夜塘秋水深。」(上堂。古人道く、肢体を墮て、聡明を黜け、形を離れ智を去り、大道に同す。正当恁麼の時。且く道え、是れ甚麼なる人の詩書を刪して、礼楽を定む。還た委悉すや。礼と云い、礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い、楽と云うも、鐘鼓を云わんや。僧問う、真如界内、もと迷悟の因なし、方便門中、無生の曲を示すを願う。曰く、六六三十六、清風脩竹を動かす。云く、洪音一剖天地を驚かし、有無情の類ことごとく恩に霑(うるお)う。曰く、一曲両曲人の会する無く、雨過ぎて夜塘に秋水深し。)とある。古人道;『荘子』大宗師篇に「顔回日。堕枝體。黜聰明。離形去知。同於大通。此謂坐忘。」(顔回日く、肢体を堕り、聡明を黜(しりぞ)け、離形を離れ知を去り、大通に同す。此を坐忘と謂う。)、心身一切の束縛を離れ道と一体となる境地を坐忘と言う、とある。正當恁麼時;まさにこういう発問に直面した時。禮云禮云;『論語』陽貨に「子曰。禮云禮云。玉帛云乎哉。樂云樂云。鐘鼓云乎哉。」、礼だ礼だと言っても、玉や絹布のことであろうか。楽だ楽だと言っても、鐘や太鼓のことであろうか(礼や楽は形式よりもその精神こそが大切)、とある。脩竹(しゅうちく);長い竹。また、竹やぶ。

清風拂明月(せいふう めいげつを はらう)
普燈録』に「問。如何是先照後用。曰。清風拂明月。云。如何是先用後照。曰。明月拂清風。云。如何是照用同時。曰。清風明月。云。如何是照用不同時。曰。非清風而無明月。」(問う、如何なるか是れ先照後用。曰く、清風、明月を払う。云う、如何なるか是れ先用後照。曰く、明月、清風を払う。云う、如何なるか是れ照用同時。曰く、清風明月。云う、如何なるか是れ照用不同時。曰く、清風あらずんば、すなわち明月なし。)とある。

清流無間斷(せいりゅう かんだん なし)
普燈録』に「問。如何是廣コ境。曰。清流無間斷。碧樹不曾凋。」(問う、如何なるか是れ広徳の境。曰く、清流間断なく、碧樹かつて凋(しぼ)まず。)とある。碧樹(へきじゅ);松などの常緑樹。清らかな流れは絶えることなく、常緑樹の青さも衰えることがないとのこと。

雪裏梅花(せつりばいか)
『如淨禪師語録』に「臘八上堂。瞿曇打失眼睛時。雪裡梅花只一枝。而今到處成荊棘。卻笑春風繚亂吹。」(臘八上堂。瞿曇、眼睛を打失する時、雪裏の梅花只だ一枝なり。而今到處に荊棘を成す、却って笑う春風の繚亂として吹くことを。)とある。臘八(ろうはつ);臘は歳末の意。すなわち十二月八日、釈尊成道の日のこと。瞿曇(ぐどん);釈迦が出家する前の姓。梵語のGautamaの音写。ゴータマ。眼睛(がんせい);瞳、目玉、釈尊の慈悲と知恵の象徴。而今(じこん);ただ今。如浄禅師は道元の師で、道元は『正法眼蔵』でこの一節を引く。

仙雲擁壽山(せんうん じゅざんを ようす)
蘇軾(1036〜1101)の『皇太后閣六首』に「瑞日明天仗、仙雲擁壽山。倚欄春晝永、金母在人間。」(瑞日、天仗に明かに、仙雲、寿山を擁す。欄に倚れば春昼永く、金母、人間に在り。)とある。瑞日(ずいじつ)は、めでたい日。天仗(てんじょう)は、宮中の儀仗。倚欄(いらん)は、欄干によりかかる。一に猗欄に作る。春昼永(しゅんちゅうながく)は、春の日差しが麗らかで長閑であること。金母(きんも)は、中国で西の果てにいるとされた仙女で天帝の娘ともされる西王母(せいおうぼ)のこと。

洗心(せんしん)
『易経』繋辞上に「聖人以此洗心。退藏於密。吉凶與民同患。」(聖人此を以て心を洗い、退きて密に藏(かく)れ、吉凶民と患いを同じくす。)とある。

禅林句集(ぜんりんくしゅう)
日本で編まれた禅句集。仏典・祖録・仏教以外の外典などから、一言から八言対句まで、字数別に禅門で用いる句を収録している。各類あり、室町以来禅僧の間で広く用いられていた。句双紙。禅林集句。

禪林類聚(ぜんりんるいじゅう)
禅宗の公案と拈頌の最も総合的な集大成の書。全20巻。元の天寧万寿寺善俊、智境、道泰らの編。大徳十一年(1307)に成る。「五燈録」と諸家の語録中より五千二百七十二則を選び、その内容により、これを帝王、宰臣、儒士以下一百二門に分類し、編集したもの。

啐啄同時(そったくどうじ)
碧巌録』第七則「法眼慧超問佛」に「舉僧問法眼。慧超咨和尚。如何是佛。法眼云。汝是慧超。法眼禪師。有啐啄同時底機。具啐啄同時底用。方能如此答話。所謂超聲越色。得大自在。縱奪臨時。殺活在我。不妨奇特。然而此箇公案。諸方商量者多。作情解會者不少。不知古人。凡垂示一言半句。如撃石火似閃電光。直下撥開一條正路。」(挙す。僧、法眼に問う。慧超、和尚に咨す、如何なるか是れ仏。法眼云く、汝は是れ慧超。法眼禅師、啐啄同時底の機あり、啐啄同時底の用を具して、方に能く此の如く答話す。所謂声を超えて色を越えて、大自在を得たり。縱奪の時に臨み、殺活我に在り。妨げず奇特なることを。然れども此箇の公案は、諸方に商量する者多く、情解の会を作す者少なからず。知らず、古人およそ一言半句を垂示するに、撃石火の如く、閃電光に似て。直下に一條の正路を撥開することを。)とある。啐(口卒)(そつ);驚く、叫ぶ、呼ぶ。啄(たく);ついばむ。鳥が嘴で物をつつくこと。雛が卵の殻を破って出ようとして鳴く声を「啐」、母鳥が外からつつくのを「啄」とし、師家と修行者との呼吸がぴったり合うこと。機が熟して弟子が悟りを開こうとしているときにいう。禅で、機が熟して悟りを開こうとしている弟子に師がすかさず教示を与えて悟りの境地に導くことを啐啄同時という。

續傳燈録(ぞくでんとうろく)
元末の円極居頂(?〜1404)の撰。禅宗の史伝の書の一。全36卷。『傳燈録』の後を承けて、『五燈會元』から『傳燈録』と重複する部分を除いて、北宋以後の部分を改編したもの。『五燈會元』『僧寶傳』『分燈録』等から取捨し、北宋初期より南宋末に至る、禅宗の展開を宗派別に記し、機縁、垂示の語句等を録す。

續燈録(ぞくとうろく)
建中靖國続燈録(けんちゅうけいこくぞくとうろく)。「五燈録」の一。仏国惟白の編。『景徳傳燈録』 『天聖廣燈録』の後を承ける禅宗史伝の書の一つ。建中靖国元年(1101)に成り、上進して徽宗の序を賜わり入蔵を許されたため、建中靖国の年号を冠して『建中靖國続燈録』という。正宗、対機、拈古、頌古偈頌、の五門に分類編集されている。

續高僧傳(ぞくこうそうでん)
唐の道宣(どうせん)撰の中国の高僧の伝記集。全30巻。貞観19年(645)の成立。梁の慧皎(497〜554)の『高僧傳』に続けて撰せられ、梁の初めから唐の初めに至る約160年の間の僧伝を集めている。全体は訳経・義解・習禅・明律・護法・感通・遺身・読誦・興福・雑科声徳の10篇に分類され、自序では貞観19年に至る144年の僧侶500名(正伝340名、附伝160名)の伝記を収めるとある。『唐高僧傳』(唐傳)ともいう。増補改訂が繰り返されており、現行本には、正伝・附伝あわせて700名余りの伝記が収められている。当該時期の仏教や僧侶に関する状況を知る上での基本的文献とされる。道宣(596〜667)は、南山律宗の開祖で『広弘明集』『集古今仏道論衡』『大唐内典録』など、数々の中国仏教史上の重要な著作を残した。また、貞観19年(645)玄奘の訳経に参加を要請され筆受・潤又ともなる。

蘇軾(そしょく)
北宋第一の詩人(1036〜1101)。蘇東坡(そとうば)。唐宋八大家の一人。名は軾(しょく)、字は子瞻(しせん)、号は東坡(とうば)。四川省眉山県紗穀行の人。嘉祐2年(1057)21歳で進士となり地方官を歴任、英宗の時に中央に入る。次の神宗のとき王安石の新法に反対して左遷され諸州の地方官を歴任。湖州知事のとき詩文で政治を誹謗したと讒言を受け、元豊2年(1079)投獄ののち黄州に5年間流された。このとき東坡に雪堂を築き、自ら東坡居士と号す。哲宗元祐の旧法党時代に翰林学士兼侍読として中央に復帰したが、紹聖元年(1094)新法党の復活によって広東に配流され、建中靖國元年(1101)常州で病死。死後、文忠公(ぶんちゅうこう)と諡される。父の洵(じゅん)、弟の轍(てつ)と共に三蘇といわれ、洵の老蘇、轍の小蘇に対して大蘇といわれる。

祖庭事苑(そていじえん)
宋の睦庵善卿(ぼくあんぜんきょう)の編纂した禅宗辞典。全八巻。大観2年(1108)に成る。雲門、雪竇、義懐、風穴、法眼らの語録、『池陽百問』『八方珠玉集』『証道歌』『十玄談』『釋名讖辨』などから二千四百余の事項を選んで、一語ごとに詳細な解説を加えたもの。

祖堂集(そどうしゅう)
現存最古の禅宗史伝の一。五代南唐の保大10年(952)に、泉州の招慶寺に住していた浄修禅師の下で、静・均の二禅徳が、過去七仏より天竺の二十七並びに震旦の六祖、大鑑慧能を経て、青原下八世、雪峰義存の孫弟子、南岳下七世、臨済義玄の孫弟子に及ぶ、二百五十六人の伝灯相承の次第と、機縁の語句を二十巻に編集したもの。『祖堂集』は、景徳元年(1004)に成った『景徳傳燈録』に先立つこと52年、総合的な禅宗史伝の書としては現存最古のもので、契嵩(1007〜1072)の『夾註輔教編』巻二の「勧書要義」に、韓愈が大顛に学んで仏法に理解をもっていたことの根拠として、『祖堂集』の名を挙げているところから、おおよそ北宋初11世紀末まで中国に行なわれていたらしいが、入蔵されず、高麗に持ち込まれ高麗高宗の32年(1245)に麗版大蔵経の蔵外補版として開版された版木が遺存していたが、20世紀初頭に発見されるまでその存在は知られていなかった。朝鮮半島出身の禅僧の伝記を数多く含むほか、『景徳傳燈録』には含まれない独自の問答を収録するなど貴重な史書とされる。

  
  
  
  
  
 

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