茶席の禅語


諸  堂|法  堂佛  殿山  門経  蔵鐘  楼方  丈茶  堂僧  堂庫  院浴  室勅使門唐  門総  門梶井門雲門庵
現在塔頭二十二|龍翔寺徳禅寺如意庵真珠庵養徳院龍源院大仙院興臨院瑞峯院聚光院総見院黄梅院三玄院正受院大慈院高桐院玉林院大光院龍光院芳春院龍泉庵孤篷庵

諸堂
法堂(はっとう)
開山大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が、嘉暦元年(1326)赤松氏の建立により落慶し、龍寶山の山号を掲げ寺号を大徳寺と定め、嘉暦2年(1327)開堂。亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が佛殿を兼ねて再建したが、応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。文明6年(1474)勅請により大徳寺住持となった47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により文明11年(1479)再興したが、佛殿を兼ねていたため、156世江月宗玩(こうげつそうがん)の勧化により小田原城主稲葉正勝(1597〜1634)が建立を約したが、没したため、その遺命によって寛永13年(1636)その子正則(1623〜1696)が建立した。法堂は、住持または導師が上堂し修行者に説法する場所で、説法堂のこと。天井の雲龍図は狩野探幽筆。桁行五間・―梁間四間・入母屋造・本瓦葺。重文。
佛殿(ぶつでん)
1世徹翁義亨(てつとうぎこう)が創建。亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が法堂を兼ねて再建したが、応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。文明11年(1479)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により再興。旧来どおり法堂を兼ねていた。その後寛文5年(1665)156世江月宗玩(こうげつそうがん)により、京の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進で建てられた。佛殿は、寺院の本尊を祀る。百丈懐海 『禪門規式』に「不立佛殿唯樹法堂者。表佛祖親囑授當代為尊也。」(仏殿を立てず、ただ法堂を樹つは、仏祖親囑授の当代の尊と為すを表するなり。)とあり、禅宗寺院では仏殿はなく法堂だけだったが、宋代に至ると仏殿を中心にして、その後方に法堂が置かれるようになる。桁行三間・梁間三間・一重裳階・入母屋造・本瓦葺。重文。
山門(さんもん)
創建不詳。亨徳2年(1453)焼失。その後連歌師宗長(1448〜1532)の寄進で大永6年(1526)に立柱、享禄2年(1529年)竣工した。その後天正17年(1589)利休の寄進で上層を建て、閣上に旧龍翔寺大雄殿安置仏の釈迦迦葉阿難三像と利休寄進の十六羅漢像を安置し、「金毛閣」の額を掲げた。『千利休由緒書』に「大徳寺山門は、応仁の乱の後、大破仕候て、取立候人も無之候所、連歌師島田の宗長、飯尾宗祗が弟子也、再興仕り候へ共、資料銀不足にて、門斗再興、上の閣をば立不申候所を、利休則ち門の上に閣を建候て、金毛閣と名付申候。棟札にも、利休が姓名を書記し、金毛閣の額榜をもかけ、其身木像を造り置候に、頭巾を冠らせ、尻切をはかせ候。利休天下に秀、出頭無双をそねみ、時々讒言仕候輩有之候に付、秀吉公機嫌損申候。龍宝山の山門は、主上も行幸被遊、院も行幸、摂家清家の尊貴皆被通候。其門の上に、己か木像に、草履をはかせ置候段、不礼不義、不可勝斗との御咎にて、天正十八年の霜月より御勘当」とあり、金毛閣が利休の賜死の原因とする。 一名「三門」といい、宋の釈道誠の天喜4年(1020)刊 『釋氏要覽』に「寺院三門 凡寺院有開三門者。只有一門亦呼為三門者何也。佛地論云。大宮殿。三解脱門。為所入處。大宮殿喩法空涅槃也。三解脱門謂空門。無相門。無作門。今寺院是持戒修道。求至涅槃人居之故由三門入也。」とあり、空・無相・無作の「三解脱門」の略称とされる。重文。
経蔵(きょうぞう)
寛永13年(1636)156世江月宗玩(こうげつそうがん)の乞いで、京師那波宗旦が建立し、蔵経を贖って櫃中に蔵めた。重文。
鐘楼(しゅろう)
創建年代不詳。慶長14年(1637)135世寶叔宗珍(ほうしゅくそうちん)に帰依した毛利家家老益田玄蕃頭元祥が建立。文化13年(1816)龍翔寺の火災で延焼。文政2年(1819)法堂の東に再興。重文。
方丈(ほうじょう)
正中2年(1325)天台僧の洗心子玄慧法印ら儒者九人が禅宗を論破しようとした「正中の宗論」において、開山大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に敗れた玄慧法印が宗峰に弟子の礼を執り、方丈を建てた。亨徳2年(1453)焼失し、26世養叟宗頤(ようそうそうい)が大用庵を移して方丈としたが、応仁元年(1467)応仁乱の兵火で焼失。文明10年(1478)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により再興。寛永13年(1636)147世玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)に帰依した京の豪商後藤縫殿益勝の寄進で、開祖宗峰妙超三百年遠忌を記念して新たに建立された。通常前後二列、左右三列の六室の方丈形式に二室を加えて八室とし、開山大燈国師の遺骨と像(重文)を安置した雲門庵と花園法皇の御髪塔(ごはっとう)とする。大燈国師の「置塔於方丈中、不別営塔」(塔を方丈の中に置き、別に塔を営まず)との遺言により、大徳寺独自の形式になっている。障壁画は狩野探幽(重文)。東庭は小堀遠州の作と伝えられる。方丈は、睦庵善卿の大観2年(1108)『祖庭事苑』に「方丈 今以禪林正寢為方丈。蓋取則毘耶離城維摩之室。以一丈之室。能容三萬二千師子之座。有不可思議之妙事故也。」(方丈 今、禅林正寝を以って方丈と為す。蓋し毘耶離城維摩の室を取りて則とす。一丈の室を以って、能く三万二千師子の座を容す。不可思議の妙事有る故なり。)とあり、出典の『維摩詰所説經』(維摩経)には「小室」とのみあるが、宋の釈道誠の天喜4年(1020)刊『釋氏要覽』に「方丈 蓋寺院之正寢也。始因唐顯慶年中敕差衛尉寺承李義表前融州黄水令王玄策往西域充使。至毘耶黎城。東北四里許。維摩居士宅示疾之室。遺址疊石為之。王策躬以手板縱量之得十笏。故號方丈。」(方丈 蓋し寺院の正寝なり。始て唐の顯慶年中に、差衛尉寺丞の李義表・前融州黄水令の王玄策に勅して西域に住しむるに使に充つに因る。毘耶黎城に至る。東北四里許に、維摩居士の宅、疾を示すの室、址を遺し石を畳んで之を為す。王策、躬ずから手の板を以って之を縦横量るに十笏を得る。故に方丈と号す。) 、唐の釈道世(〜683)の『法苑珠林』に「於大唐顯慶年中。敕使衛長史王玄策。因向印度過淨名宅。以笏量基。止有十笏。故號方丈之室也。」(大唐・顯慶年中に於いて、敕使衛長史の王玄策、印度に向うに淨名(維摩)の宅を過ぐ、笏を以って基を量る。十笏ありて止む。故に方丈の室と号するなり。)とあり、麟徳2年(665)インドに赴いた王玄策が維摩詰の居宅跡を測ったら一丈四方であったところから方丈という。笏は礼服の時持つ板 此処では長さの単位。十笏(尺)が一丈。禅宗で寺院の住持や長老の居所・居室のこと。入母屋・桟瓦葺。国宝。
茶堂(ちゃどう)
一名「寝堂」という。創建不詳。法堂の後ろに在り。寛永7年(1630)毛利家家老益田玄蕃頭元祥が建立。寝堂は、方丈の前にある応接室をいう。桁行二間・梁間三間・切妻造・桧皮葺。重文。
僧堂(そうどう)
初め佛殿の西に建立されたが、その跡に101世雲叔宗慶(うんしゅくそうけい)が玉雲軒を移した。僧堂は、禪林で修行僧が日常修禅起臥する修行のための根本道場で、雲堂、坐堂、選佛堂、聖僧堂、枯木堂ともいう。百丈懐海 『禪門規式』に「所褒學衆無多少無高下。盡入僧堂中依夏次安排。設長連床施椸架。掛搭道具。」(所褒学衆の多少無く、高下無く、尽く僧堂中に入りて、夏次(出家の年次)によって安排す。長連牀を設けて、施架に道具を掛搭せん。)とある。
庫院(くいん)

創建不詳。亨徳2年(1453)焼失、応仁元年(1467)応仁乱で焼失。文明年中(1469〜1486)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等により再興。その後寛永13年(1636)後藤縫殿益勝の寄進で新たに方丈が建立されたとき、旧方丈を移して庫院とした。庫裏ともいう。庫院は、寺院で食事を調える建物。重文。

浴室(よくしつ)
創建不詳。元和8年(1622)129世天淑宗眼(せんしゅくそうげん)の勧めにより京の豪商灰屋紹由(?〜1622)が再興した。桁行五間・梁行六間半、三十二坪五合、本瓦葺。額は張即之の筆。浴室は、入浴のための設備。『揶鼈「含經』に「爾時世尊告諸比丘。造作浴室有五功コ。云何為五。一除風。二病得差。三除去塵垢。四身體輕便。五得肥白。若有四部之。欲求此五功コ者。當求造浴室。」とあり、『敕修百丈清規』 に「寒月五日一浴。暑天毎日淋汗。鋪設浴室。掛手巾。出面盆拖鞋脚布。參頭差行者直浴。」とある。重文。
勅使門(ちょくしもん)
慶長年間(1596〜1614)に建立された御所の門を後水尾天皇より下賜され、寛永17年(1640)山門前に移築されたもの。勅使来駕の時、ここより輿を入れる。前後唐破風・左右切妻・屋根桧皮葺の四脚門。重文。
唐門(からもん)
慶長8年(1603)越後村上城主村上周防守頼勝(〜1604)が聚楽第にあったものを拝領し寄進したとされる。『龍寶山大徳寺誌』に「方丈南門明智日向守光秀所建、故名明智、日向守光秀弑其君信長公、知命不保、納白金千両於本寺、為冥福、因建方丈南門」とあり、もと明智光秀が天正10年(1582)白金千両(寄進状には銀子百枚とある)を寄進して方丈の南に建立させた唐門「明智門」があったが、明治元年(1868)に南禅寺の塔頭の金地院に移築され、興臨院・瑞峯院・大悲院の総門として勅使門の西に在ったものを現在の方丈南の正面に移築したもの。桧皮葺四脚門。国宝。
総門(そうもん)
文明年中(1469〜1486)47世一休宗純(いっきゅうそうじゅん)の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨および同郷の寿源(淡路屋某法名滴澗)等が建立。
梶井門(かじいもん)
一名「南門」という。もと、延暦年間(782〜806)最澄が創建した天台門跡寺 「梶井御所」(現大原三千院)が元弘元年(1131)船岡山東麓(大徳寺の南方)に本坊を営み、応仁の乱(1467〜1477)で焼失し、 「梶井御所」は大原に移ったが、この門だけは焼けずに残ったため今の場所に建てたもの。
雲門庵(うんもんあん)
開山大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の塔所。方丈の内にある。大燈国師の「置塔於方丈中、不別営塔」(塔を方丈の中に置き、別に塔を営まず)との遺言により、開山大燈国師の遺骨と像(重文)を安置した。後醍醐天皇宸翰「霊光」の額を掲げてあったが、享禄年中(1528〜1532)に焼失し、あらためて後土御門天皇の宸翰を下された。花園法皇の御髪塔(ごはっとう)があり、法皇の詔によって御髪を小塔の中に納め、霊光塔に安置した。
別山
龍翔寺(りゅうしょうじ)
瑞鳳山萬歳龍翔禅寺。開山 円通大応国師 南浦紹明(大徳寺開山宗峰妙超の師)。後宇多天皇が円通大応国師の没後その徳を慕って、延慶2年(1309年)3月西京安井(現右京区)の離宮を寄進し、大応国師を開山としたものである。至徳3年(1386)足利義満が定めた五山十刹で京十刹中の第十とされ、寺の広さも三町歩に及ぶ大寺院だった。しかし応仁乱(1467〜1477)後荒蕪し、天文8年(1539)大徳寺の西隣に移建した。文化13年(1816)自火により焼失、翌年再建された客殿は現在三玄院の客殿として遺存、明治維新後廃絶していたが、大正年間天瑞寺跡地に再興され、現在は大徳寺派の修行専門道場になっている。山口玄洞好み五畳中柱「韜光庵(とうこうあん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町61。 境内3000坪。
塔頭
徳禅寺(とくぜんじ)
霊山徳禅寺。開山 1世 徹翁義亨(てつとうぎこう)。徹翁義亨が、山名を「霊山」、寺号を「徳禅」として、大徳寺と別に開山したのが始まり。『龍宝山大徳禅寺世譜』に「伝言ふ、寺前に池を穿ち、池中に山を築く、山上に玲瓏閣竹影閣等ありて、舟を泛て往来す、今の松源、養徳の地、及び宝山門前東南いにしの霊山の封彊なり」とあり、広大な寺域を持つ大寺院であった。応仁乱(1467〜1477)で焼失。一休の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が、大徳寺総門東南角の現在地に再興。511世大龜宗雄(だいきそうゆう)好み、昭和27年(1952)「又隠」を元にした四畳半台目床 「向東庵(こうとうあん)」、昭和35年(1960)「今日庵」「官休庵」を元にした一畳台目中板向板丸炉壁床「骨清庵(こつせいあん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町86。
如意庵(にょいあん)
開祖 7世 言外宗忠(げんがいそうちゅう)。応安年中(1368〜1375)方丈北に創建。応仁乱(1467〜1477)で焼失。一休の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が再興し、後奈良帝の宸翰額字を賜う。寛永年中(1624〜1644)徳禅寺東南に移り、明暦2年(1656)龍翔寺東北に移り、享保年間(1716〜1736)松源院西南に移る。昭和47年(1972) 511世 大龜宗雄(だいきそうゆう)が再興。大龜宗雄好み四畳半向切「玄庵(げんあん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町106-2。
大用庵(だいゆうあん) 
開祖 22世 華叟宗曇(けそうそうどん)、26世 養叟宗頤(ようそうそうい)。応仁乱(1467〜1477)で焼失。一休の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が再興。古くは旧方丈の北にあり、寛永年中(1624〜1644)に松源院の門内に移す。
松源院(しょうげんいん) 
開祖 40世 春浦宗熈(しゅんぽそうき)。文明14年(1482)徳善南西隅に創建。永禄12年(1569) 大用庵、松源院を一院とする。如意庵大用庵、松源院を一院とする。松源院の下に龍泉庵養徳院が出る。昭和55年(1980)如意庵住職の大龜宗雄(だいきそうゆう)が廃絶していた松源院を奈良県大宇陀に再興。奈良県宇陀郡大宇陀町迫間350。
真珠庵(しんじゅあん)
開祖 47世 一休宗純(いっきゅうそうじゅん)。永享年中(1429〜1441)建立。応仁乱(1467〜1477)で焼失。延徳3年(1491)一休の帰依者である泉州堺の貿易商 祖渓宗臨(俗名宇和屋四郎左衛門[真珠庵過去帳]または尾和四郎左衛門[龍寶山大徳寺誌])が再興。「応仁の火後宗臨一休和尚と心を同じうして、当山の伽藍及び諸院を重興して次第に落成す。宗臨等師に請て此庵を営んとす、師辞して云、先師の塔所悉く兵火す、これを造らば幸甚ならんのみ、於是先こゝにおいてづ如意大用等の祖塔を営す。功終つて後一休和尚薪村酬恩菴に寂す、宗臨乃前志しを続て当庵を新建して師の塔所とす、方丈の北にあり。」とある。寛永15年(1638)京の豪商 後藤益勝の寄進により方丈が造営。方丈には長谷川等伯・曽我蛇足の襖絵。正親町天皇皇后化粧殿を移建した書院「通僊院」に付属して金森宗和好み二畳台目「庭玉軒(ていぎょくけん)」がある。村田珠光作の七五三の庭。方丈に一休の像を安置。村田珠光の墓がある。京都市北区紫野大徳寺町52。境内1700坪。

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養徳院(ようとくいん)
開祖 56世 實傳宗眞(じつでんそうしん)。明応年中(1492〜1501)創建。はじめ足利義満の弟の満詮(みつあきら:1364〜1418:謚号養徳院)が亡夫人妙雲院善室慶のため、東山祇園の地に、妙雲院という寺を開き尼寺とし、満詮の娘の竺英聖瑞(じくえいしょうずい)を住持とする。竺英が大徳寺の春浦宗煕に帰依し、寛正5年(1464)幕府に妙雲院を僧寺・養徳院となすことを願い出て、養徳院と改め、後に實傳宗眞が明応年中(1492〜1501)に大徳寺内にこれを移す。竺英は、曇華院の住持でもあったため、曇華院の歴代は、養徳院に葬られている。茶室「閑雲席」がある。京都市北区紫野大徳寺町85。境内700坪。
龍源院(りょうげんいん)
南派。開祖 72世 東溪宗牧(とうけいそうぼく)。文亀2年(1502)能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏が創建。当初は霊山一枚軒と号したが、永正7年(1510)頃現寺号に改めた。明治の廃仏棄釈により大阪住吉神社内の慈恩寺と飛騨高山城主金森長近が大徳寺内に建立した金龍院を合併した。徳禅寺西の本山南境にあったため、東溪宗牧の弟子を南派といい、大仙院を本庵とする大徳寺北派に対して、大徳寺南派の本庵とされている。龍源院の下に龍福院興臨院が出る。茶席「参雨軒(さんうけん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町82-1。境内767坪。
大仙院(だいせんいん)
北派。開祖 76世 古嶽宗亘(こがくそうこう)。永正6年(1509)六角近江守政頼がその子古嶽宗亘を開祖として創建したという。方丈は永正10年(1513)に建立したもので国宝。本山の北境にあったため、古嶽宗亘の弟子を北派といい、龍源院を本庵とする大徳寺南派に対して、大徳寺北派の本庵とされている。本山に子院はないが、泉州堺に三好氏の建てた南宗寺に古嶽宗亘の法嗣90世大林宗套(だいりんそうとう)が住し、大林宗套の法嗣107世笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)が聚光院を創建する。六畳半「生苕室(すいしょうしつ)」がある。京都市北区紫野大徳寺町54-1。境内894坪。
興臨院(こうりんいん)
南派。開祖 86世 小溪紹怤(しょうけいじょうふ)。大永年中(1521〜1528)に能登守護の畠山義総(法号興臨院伝翁徳胤)が創建し、自らの法号を寺号とした。以来畠山家菩提寺となる。のち焼けたが、天文年中(1532〜1555)に再建。天正5年(1577)畠山氏が滅ぶが、天正9年(1581)能登領主となった前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となる。興臨院の下に瑞峯院正受院玉雲軒が出る。本堂・表門・唐門は大永年中の建築で重文。昭和3年(1928)築の織部好みの四畳台目隅板八窓洞床「涵虚亭(かんきょてい)」がある。京都市北区紫野大徳寺町80。境内600坪。
瑞峯院(ずいほういん)
南派。開祖 91世 徹岫宗九(てっしゅうそうきゅう)。天文2年(1533)大友義鎮(法号瑞峰院休庵宗麟)が興臨院の南に創建し、自らの法号を寺号とした。瑞峯院の下に黄梅院大慈院の二院が出る。方丈は天文4年(1535)に造立した室町末期の建築で重文。表八代啐啄斎好みの席を写した「餘慶庵(よけいあん)」、表十二代惺斎好み逆勝手席「安勝軒(あんしょうけん)」、利休の待庵を平成になって復元した「平成待庵」がある。京都市北区紫野大徳寺町81。境内600坪。
聚光院(じゅこういん)
北派。開祖 107世 笑嶺宗訢(しょうれいそうきん)。永禄9年(1566)三好義継が、義継父 三好長慶(法号聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門)の菩提を弔うため創建し、長慶の法号を寺号とした。利休笑嶺古渓の二師に参禅したため、天正17年(1589)利休は、亡父母や亡童、自ら夫婦の永代供養の寄進を行う。『聚光院文書』に「為聚光院へ寄進米、合七石取定納也永代進上如件。一、一忠了専十二月八日。一、月岑妙珍十月七日。一、利休宗易逆修。一、宗恩逆修。一、宗林童子八月一日。一、宗幻童子七月十七日。以上。一、但墓ニ石灯籠在之。利休宗恩石灯籠シユ名在之。天正十七年已丑正月日。利休(花押) 聚光院常住納所御中」との永代供養寄進状があり、以来三千家の菩提寺となっている。聚光院の下に総見院三玄院大光院の三院が出る。「百積の庭」は利休の作と伝えられる。利休150回忌の寛保元年(1741年)に表7代如心斎が寄進した利休好みの三畳台目「閑隠席」、表六代覚々斎好み四畳半「桝床席」がある。京都市北区紫野大徳寺町58。境内500坪。
総見院(そうけんいん)

北派。開祖 117世 古渓宗陳(こけいそうちん)、130世 玉甫紹j(ぎょくほしょうそう)。天正11年(1583)に豊臣秀吉が織田信長(法号総見院殿贈大相国一品泰厳大居士)の一周忌の追善のために創建し、信長の法号を寺号とした。古渓宗陳を開祖に請じが天正16年(1588)秀吉の怒りにふれ九州に配流されると玉甫紹jが接続したため、古渓・玉甫の両祖とする。白毫院旧跡に建つ。明治維新後、一時修禅道場となっていたが、近時道場を他に移し、旧に復した。山口玄洞(1863-1937)寄進の八畳「寿安席(じゅあんせき)」、表十三代即中斎の好みの「香雲軒(こううんけん)」、「龐庵(ほうあん)」がある。 京都市北区紫野大徳寺町59。

黄梅院(おうばいいん)
南派。開祖 98世 春林宗俶(しゅんりんそうしゅく)。織田信長が入洛した永禄5年(1562)父信秀の追善菩提のために春林を開祖とし秀吉に命じて創建した「黄梅庵」が始まり。天正10年(1582)本能寺変後、信長の塔所とされたが、その後、秀吉は寺領が小さいとし「総見院」を建立し信長の菩提所とする。春林法嗣の112世 玉仲宗eが豊臣秀吉・小早川隆景らの帰依のもと、天正11年(1583)より築を改め、天正14年(1586年)に秀吉により本堂・唐門が、天正17年(1589年)に鐘楼・客殿・庫裏などが小早川隆景により創建され、黄梅院と改められた。本堂・唐門・庫裏は創建時のもので重文。書院「自休軒」の四畳半茶室「昨夢軒(さくむけん)」は永祿元年(1558)紹鴎作と伝える。利休66歳の作庭と伝える「直中庭」は苔一面の枯山水庭園で、瓢箪を象った池を手前に配し、加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠が据えられている。京都市北区紫野大徳寺町83。境内2000坪。
天瑞寺(てんずいじ)
南派。金鳳山天瑞寺。開祖 112世 玉仲宗e(ぎょくちゅうそうしゅう)。天正16年(1588)豊臣秀吉が母・大政所の病気平癒を祈願して創建した。総見院の西にあった。功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1595)石造りの寿塔を建て、これを覆堂内に納めた。この覆堂は、瑞光院黄梅院を経て、明治35年(1902)三渓園に移築され現存する。天瑞寺の下に金龍院が出る。天瑞寺は明治7年(1874)廃寺となる。
三玄院(さんげんいん)
北派。開祖 111世 春屋宗園(しゅんおくそうえん)。天正17年(1589)石田三成、浅野幸長、森忠政等が創建した。三玄院の下に龍光院芳春院見性庵が出る。明治維新の際、堂宇を取り除き現在地に移る。宗旦が喝食(かっしき;見習いの僧)として、春屋宗園のもとで修業していた。石田三成、森忠政、古田織部、薮内紹智等の墓所。織部好み三畳台目八窓の「篁庵(こうあん)」、十畳「自得軒(じとくけん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町76。境内1000坪。
正受院(しょうじゅいん)
南派。開祖 93世 清菴宗胃(せいあんそうい)。天文年中(1532-55)創建。伊勢の関民部盛衡が檀越となり、のち蜂屋出羽守頼隆が造立。慶長年間(1596〜1614)関長門守一政重修。堂宇は明治維新に焼失し、今の本堂は昭和に至って山口玄洞による再建。里村紹巴の墓所。昭和3年(1928)造立の山口玄洞好み四畳半「瑞応軒(ずいおうけん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町78-1。境内1656坪。
大慈院(だいじいん)
南派。開祖 129世 天淑宗眼(せんしゅくそうげん)。天正13年(1585)大友左衛門督義鎮の女見性院、織田信長の女兄安養院、村上周防守義明、山口左馬介弘定等が檀越となり創建。天保元年(1830)の地震で堂宇に被害を受けたが、弘化4年(1847)に古材をもって再建された。大慈院の下に準塔頭の碧玉庵が出る。現在、本堂前庭にある紫式部碑は、寛政7(1795)年に紫野御所田町の式部の墓の傍らに建立する予定だったものが、故あって碧玉庵に建立され、明治維新により同庵が廃寺になったとき移されたものと伝える。この時、碧玉庵にあった立花宗茂の位牌や墓、肖像画も当院に引き継がれた。大正13年に表12世惺斎と裏13世円能斎の監修によって建てられた「頓庵(とんあん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町4-1。境内998坪。
高桐院(こうとういん)
北派。開祖 130世 玉甫紹j(ぎょくほしょうそう)。慶長6年(1601)細川忠興(三斎)が、父の藤考(幽斎)の菩提所として創建し、三斎の舎弟玉甫を請じた。書院「意北軒(いほくけん)」は利休の邸宅を移築したもので書院につづく二畳台目「松向軒(しょうこうけん)」は北野大茶会の折に三斎が建てたものを移したと伝える。客殿の西の庭に建っている石灯篭が三斎とガラシャ夫人の墓塔で、もとは利休秘蔵の灯篭だったが、豊臣秀吉と三斎のふたりから請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠いて疵物と称して秀吉の請を退け、のちに利休割腹の際、三斎に遺贈されたもので、遺命により遺歯を埋めその上に立てたと伝える。墓塔銘を「無双」といい別名「欠灯篭」という。高桐院の下に準塔頭の清源泰勝東林養華祥林の五庵が出る。京都市北区紫野大徳寺町73-1。境内3500坪。
玉林院(ぎょくりんいん)
北派。開祖 142世 月岑宗印(げっしんそういん)。慶長8年(1603)医師曲直瀬正琳が自らの菩提所として創建し、開基の名を寺号とし「正琳院」と名付けられた。慶長14年(1609)焼失したが、元和7年(1621)月岑自ら衣盂を整て重建、そのとき「正琳院」の「琳」の字を分けて「玉林」と名を改めた。玉林院の下に準塔頭の洞雲常楽の二庵が出る。寛保2年(1741)鴻池家が、341世大龍宗丈(だいりゅうそうじょう)に帰依して、その祖山中幸盛の墓と共に建てた、表七世如心斉好み「南明庵(なんめいあん)」に三畳中板台目切「蓑庵(さあん)」、四畳半「霞床席(かすみどこせき)」がある。京都市北区紫野大徳寺町74。
大光院(だいこういん)
北派。開祖 117世 古渓宗陳(こけい そうちん)。文禄元年(1592)豊臣秀吉の同母弟秀長(1540〜1591)の養子秀保(1579〜1594)が、秀長(法号大光院殿前亜相春岳紹栄大居士)の菩提寺として、古渓宗陳を請じて大和郡山に創建し、法号を寺号とする。文禄3年(1594)秀保が没し子がなく断絶したため、慶長4年(1599)藤堂高虎(1556〜1630)が金龍院の南に移した。文政7年(1824)焼失し、文政13年(1830)藤堂家によって再建された。 昭和29年(1954)現在地である龍光院の南に移転した。 墓地には豊臣秀長の墓がある。茶席「三石席」がある。京都市北区紫野大徳寺町92。境内600坪。
金龍院(きんりゅういん)
南派。開祖 150世 傳叟紹印(でんそうしょういん)。慶長年中(1596〜1615)飛騨高山城主金森長近(1524〜1608)が織田信長の追福のため137世 松嶽紹長(しょうがくしょうちょう)を請じて創建した。天瑞の西にあり。元和3年(1617)故有て当山を擯出して後、金森長近の未亡人久昌院が改めて傳叟を請して住持とした。明治の初期に廃寺となり龍源院に統合された。紫野高校脇に金龍院趾の石標がある。
昌林院(しょうりんいん)
南派。開祖 124世 先甫宗賢(せんぽそうけん)。永祿(1558〜1570)元龜(1570〜1573)間に103世 和溪宗順(わけいそうじゅん)が霜筠軒を創建し、文禄元年(1592)文禄年中蒲生氏郷(1556〜1595)の長男秀行が氏郷(法号昌林院殿高岩宗忠大居士)の菩提寺として改めて造立し、和溪の法嗣 先甫宗賢を祖とする。大雄殿の西にあり。天保年中(1830〜1844)に倒壊する。昌林院は廃寺となり、黄梅院に統合された。
龍光院(りゅうこういん)
北派。開祖 156世 江月宗玩(こうげつそうがん)。慶長11年(1606)筑前福岡藩主黒田長政が父孝高(如水)の菩提を弔うために玉林院の南に創建し、春屋宗園(しゅんおくそうえん)を請じたが、春屋が遷化したため江月が祖となる。有栖川宮好仁が江月に帰依し、以来同家の菩提所となる。明治の廃仏毀釈で堂宇を切縮められる。龍光院の下に準塔頭の瑞源院看松庵寸松庵孤篷庵正宗慈眼小含の一院六庵が出た。これを龍光院派という。書院は国宝、慶安2年(1649)建立の本堂及び盤桓廊、兜門は重文。小堀遠州好み四畳半「密庵席(みったんせき)」がある。京都市北区紫野大徳寺町14。境内500坪。
芳春院(ほうしゅんいん)

北派。開祖 147世 玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)。慶長14年(1609)前田利長の母まつ(法号芳春院華岩宗富)が春屋宗園と相談し大仙院総見院の寺内を買上げて創建し、法号を寺号とし、春屋の法嗣玉室宗珀を請じ、前田家の菩提寺とした。元和3(1617)横井等怡と小堀遠州が飽雲池、打月橋、呑湖閣を建立。寛政8年(1796)焼失するが、寛政10年(1798)前田家13代治修により再建された。文化13年(1816)呑湖閣、書院など再建。芳春院の下に高林庵大源庵が出、寮舎数宇があった。これを芳春院派という。明治の廃仏毀釈で荒廃するが、明治8年(1875)旧金牛院閣を移築、書院などを新設して復興。堂宇を切縮め、貞岳庵松月軒閑田庵龍泉庵滴凍太清などの諸庵を統合し、後に東隣の高林庵も統合した。 二畳二台目「落葉亭(らくようてい)」、七畳出床席「松月軒(しょうげつけん)」、四畳半下座床「如是庵(にょぜあん)」がある。京都市北区紫野大徳寺町55。境内1660坪。

準塔頭
龍泉庵(りょうせんあん)
開祖 70世 陽峯宗韶(ようほうそうしょう)。明応年中(1492〜1501)多賀豊後守高忠等が檀越となり建立。元和年中(1615〜1624) 162世 日新宗u(にっしんそうえき)が再興。龍泉庵の下に太清雑華清心雲林の四庵が出た。子院は少ないが、小田原早雲寺、江戸下谷広徳寺、赤坂種徳寺、播州法性寺、豊前大隆寺などを隷下に置く、龍泉庵派の本山。関東に勢力をのばしたので関東派とも呼ばれる。明治の排仏棄釈で明治9年(1876)芳春院に統合されるが、昭和33年(1958)アメリカ人ルース婦人(紹溪尼)によって再興される。京都市北区紫野大徳寺町107。
玉雲軒

南派。開祖 101世 雲叔宗慶(うんしゅくそうけい)。天文年中(1736〜1741)94世 天啓宗〓(垔欠)(てんけいそういん)が加賀に創建したものを、雲叔が大徳寺仏殿西に移したもの。玉雲軒の下に昌林院真常軒 臨流軒瑞光院威徳院が出る。これを玉雲軒派という。

真常軒
南派。開祖 121世 明叔宗哲(みょうしゅくそうてつ)。永禄年中(1558〜1570)に玉雲軒の北に創建。文化年中(1804〜1818)に廃壊。
臨流軒
南派。開祖 136世 心溪宗安(しんけいそうあん)。慶長(1596〜1615)の初めに昌林院門内に創建。文政天保間に廃寺。
碧玉庵(へきぎょくあん)
南派。開祖 182世 雪庵宗圭(せつあんそうけい)。寛永(1624〜1644)の初めに大慈院の寮舎であった碧庵を改め、天瑞寺の西に壮麗な堂宇を造り、碧玉庵と号した。後に立花宗茂が壇越となる。碧玉庵に伝えられていた、大慈院二世藍渓宗英撰、大仲宗?筆の賛文を持つ土佐光起筆の立花宗茂肖像は、当庵が明治維新の寺社の統廃合によって廃寺となったため、宗茂の位牌や墓と共に大慈院へ移された。
清泉寺(せいせんじ)
北派。法寶山清泉寺。文明13年(1481)伏見に創建され、40世 春浦宗熈(しゅんぽそうき)が請に応じ、56世 實傳宗眞(じつでんそうしん)を住持とする。前に宇治川の流、後に木幡山の麓に拠る清流を臨むゆへ清泉と名付けられた。慶長5年(1600)に本山方丈の北に移す。196世 傳外宗佐(でんがいそうさ)中興。
雲林院(うりんいん)
龍泉派。元は淳和天皇の離宮「紫野院」であったが、天長9年(832)「雲林亭」と改名、貞観11年(869)仁明天皇の皇子の常康親王に伝領され「雲林院」と呼ばれるようになり親王の出家に伴い仏寺となり、貞観11年(869)親王の死後僧正遍昭に付属され天台宗の官寺として隆盛したが、その後衰微した。元亨4年(1324)宗峰妙超が花園天皇から雲林院菩提講東塔の中の北寄り20丈の土地を賜わり大徳寺を創建すると、大徳寺付属の寺となり、以後禅宗の寺となったが、応仁乱(1467〜1477)で廃絶。宝永3年(1706)291世 江西宗寛(こうせいそうかん)が江戸冬木氏を檀越として再興した。寛政享和間に廃し、観音堂一宇と門一棟が残る。京都市北区紫野雲林院町23。
瑞源院(ずいげんいん)
北派。開祖 176世 安室宗閑(あんしつそうかん)。福山城主水野勝成(1564〜1651)が父忠重(1541〜1600)のために大光院の西に創建し、忠重の法号を寺号とし、156世江月宗玩(こうげつそうがん)に請い、江月が安室宗閑を付け、塔頭とした。元禄11年(1698)水野氏が断絶し、塔頭を辞す。明治の廃仏棄釈で廃寺となる。紫野高校北門横に瑞源院趾の石標がある。
見性庵(けんしょうあん)
北派。開祖 134世 萬江宗程(はんこうそうてい)。寛永年中(1624〜1644)に毛利家益田景祥(1577〜1630)が室児のために三玄院の門左に創建。文化13年(1816)龍翔寺の火災で延焼。見性庵の下に梅巌庵が出る。
梅巌庵(ばいがんあん)

北派。開祖 169世 天祐紹杲(てんゆうしょうこう)。寛永20年(1643)友松宗祐が父梅巌紹薫のために寸松庵の西に創建。梅巌庵の下に西江心華の二庵が出、清泉寺が隷する。これを見性庵派という。廃された。狐蓬庵附近に寸松庵・梅巌庵趾の石標がある。

瑞光院(ずいこういん)
南派。開祖 149世 琢甫宗璘(たくほそうりん)。慶長18年(1613)因幡国若桜城主山崎家盛が父堅家・祖父宗家のために堀川鞍馬口に創建し、家盛の没後、その法号を寺号とした。明暦3年(1657)山崎氏が無嗣断絶。瑞光院3世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩夫人瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となり、元禄14年(1701)長矩が江戸城中で吉良上野介に忍傷に及んで切腹したとき、供養塔が建てられ、翌年上野介を討った大石良雄らが切腹した際その遺髪が寺内に葬られた。長矩及び四十七士の墓があった。昭和37年(1962)山科に移った。京都市上京区堀川通寺之内上ル瑞光院前町大日本スクリーン敷地に瑞光院跡の石標がある。京都市山科区安朱堂ノ後町19-2。
威徳院(いとくいん)
南派。慶長年中(1596〜1615)天瑞寺北寮舎であった甘棠院を改めて、檀越の対馬府中藩藩主宗義智(1568〜1615)の夫人の法号を寺号とし、213世 雪渓宗雪(せつけいそうせつ)を住持とした。嘉永7年(1854)崩倒し、廃寺となる。
通仙院(つうせんいん)
真珠庵派。真珠庵 1世 没淪紹等(もつりんじょうとう)が創建。半井通仙院瑞策(1503〜1577)が真珠庵北に造立した。院宇は東福門院の旧殿。のち真珠庵に移る。
庭玉軒(ていぎょくけん)
真珠庵派。真珠庵 1世 没淪紹等(もつりんじょうとう)が、永享年中(1429〜1441)に創建。その後廃され、金森宗和の好みの茶室のみが通仙院の東北隅に残った。のち通僊院書院が移築されるのに際し真珠庵に移る。
滴凍軒(てきとうけん)
真珠庵派。真珠庵 6世 濟嶽紹派(さいがくしょうは)が、永享年中(1429〜1441)に創建。寛永再興。寛政初年廃される。
東雲庵
真珠庵派。真珠庵 2世 睦室宗睦(ぼくしつしょうぼく)が、長禄年中(1528〜1532)に創建。柳河藩矢嶋隼人が檀越真珠庵にあった。
主心軒
真珠庵派。泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が創建。真珠庵にあったが、廃された。
梅屋軒
真珠庵派。泉州堺の貿易商 祖渓宗臨が創建。のち碓坊となる。真珠庵にあった。
太清軒(たいせいけん)
龍泉派。45世 岐庵宗揚が文明年中(1469〜1487)に旧方丈の北に創建。のち大用庵にある頂相庵に移し廃された。寛永正保間に175世 随倫宗宜(ずいりんそうぎ)が龍泉庵門右に建てた庵に太清軒の旧号をつけて住した。 龍泉派。明治維新後芳春院に統合される。
清心庵
龍泉派。養徳院の裏にあったが廃されたが、貞享3年(1686)224世 別源宗甄(べつげんそうけん)が再興した。安永天明間に廃された。
雑華庵(ざつかあん)
龍泉派。旧号は春渓庵。檀越は榎並宗吟が父春渓宗英のために天瑞寺の北隅に建て、海室宗巨を請じ住持とした。天明年中(1781〜1789)に廃された。
安勝軒
南派瑞峯院寮舎。永禄年中(1558〜1570)に大友義鎮(1530〜1587)が建立。享和2年(1802)に廃された。
向春庵
南派黄梅院寮舎。135世 寶叔宗珍(ほうしゅくそうちん)が慶長年中(1596〜1615)に黄梅院門左に建立。のち清水美作守景治が重修。天明年中(1781〜1789)に廃された。
泰勝庵
北派。開祖 202世 實堂宗傳(じつどうそうでん)。寛永年中(1624〜1644)に細川休済が父幽済(泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士)のために高桐院北隅に建立し、法号を寺号とした。
清源庵
北派。開祖 218世 天倫宗忽(てんりんそうこつ)。もと大仙院寮舎を、細川宗枕が高桐院庫北に移し、天倫を請じ開祖としたもの。
祥林軒
北派。もと大仙院寮舎。弘治永禄間に102世 江隠宗顯(こういんそうけん)が創建。委叟悉首座を付ける。元和年中(1615〜1624)中嶋藤右衛門が再興。慶安年中(1648〜1652)170世 清巌宗渭(せいがんそうい)が高桐院の東北隅に移した。
耕雲軒
北派。もと大仙院寮舎。慶長年中(1596〜1615)高桐院に移し、のち大龍庵に改め、その後廃された。
松泉庵
北派。開祖 130世 玉甫紹j(ぎょくほしょうそう)。佐久間宗岸が創建。
東林庵
北派。もと大仙院寮舎。88世 傳庵宗器(でんあんそうき)が創建。のち、170世 清巌宗渭(せいがんそうい)の法嗣乾英単公が住す。真珠庵の北にあった。天明年中(1781〜1789)に廃された。
養華院
北派。130世 玉甫紹j(ぎょくほしょうそう)が慶長年中(1596〜1615)総見院の北隅に開創。織田信長の寵妾帰蝶(濃姫:1535〜1612:法号養華院殿要津妙玄大姉)が施し、法号を院名とし、玉甫が瑚月l首座を付す。寛政(1789〜1801)初め廃され、祭祀は祥林軒に遷した。
洞雲庵
北派。142世 月岑宗印(げっしんそういん)開創。桑山左近(1560〜1632)が建立し、法号を庵名とする。寛文(1661〜1673)頃再興。天保年中(1830〜1844)重修。玉林院門左にあった。
常楽庵(じょうらくあん)
北派。もとは山城国市原村にあり、117世 古渓宗陳(こけい そうちん)韜晦の地、遷化したあと高桐院の西南隅に移し、のち廃されたが、延宝4年(1676)肥後熊本藩3代藩主細川綱利が、叔父の235世天岸宗玄(てんがんそうげん)を請じて、玉林院東に重興。表七代如心斎(1705〜1751)が川上不白を連れて3年間常楽庵へ座禅の修行に通い「八角磨盤空裏走」の語で悟ったと伝える。 弘化嘉永年間(1884〜1854)に造られた楽焼「常楽焼」が知られる。高台内に「常楽」の丸枠印がある。
瑞應軒
南寮舎。関長門守一政(1564〜1625)の夫人が伏見邸を移して正受院の北に建てる。天保年中(1830〜1844)に廃された。
慈峯庵
南寮舎。179世 笑堂宗ァ(しょうどうそうきん)の安禅室。中島宗清が正受院の東南隅に建てる。端堂肅公重修。天明年中(1781〜1789)に廃された。
聨芳庵
南寮舎。129世 天淑宗眼(せんしゅくそうげん)の檀徒 佐野常由が大慈院の南に建てる。その後廃された。
久昌院(きゅうしょういん)
南寮舎。慶長(1596〜1615)初めに金森法印(1524〜1608)の夫人袈裟子(久昌院)が建て、法号を院名にする。宝暦年中(1751〜1764)に廃された。
遠塵軒
南寮舎。金龍院の衆僧寮となる。享和年中(1801〜1804)に廃された。嘉永2年(1849)小室を作り、遠塵軒の額を掲げる。
以春庵
南寮舎。182世 雪庵宗圭(せつあんそうけい)が碧玉庵庫東に建てる。寛政(1789〜1801)頃廃される。天保年中(1830〜1844)初め旧址に429世明堂宗宣(みょうどうそうせん)が一宇を架けたが、また廃された。
月心庵
南寮舎。威徳院住持の寝室。嘉永7年(1854)廃された。
高林庵
北派。開祖 185世 玉舟宗瑋(ぎょくしゅうそうばん)。片桐貞昌(1604〜1673)が自らの墓所として、寛永15年(1638)芳春院の東に建立し、法号を庵名とした。明治維新後芳春院に統合される。
大源庵
北派。開祖 190世 天室宗竺(てんしつそうちく)。元和8年(1622)横井氏正栄尼が、147世玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)のため、上野村(北区紫竹牛若町)東の源義朝(1123〜1160)の別荘があったという跡地に、退老の坊として、また徳川秀忠の正室崇源院(1573〜1626)の母(織田信長の妹お市の方)の旧恩に報いるため建立した。横井氏は江北の浅井家の出で厚遇を蒙ったとある。のち蜂須賀家が檀越となる。宗旦の長男閑翁宗拙が一時大源庵天室和尚の元へ身をよせていたと伝える。源義経が産湯を汲んだという井戸が大源庵方丈の南庭にあったと伝え、今は「牛若丸の誕生井」の石碑が残る。
松月軒(しょうげつけん)
北寮舎。もと西賀茂郷正伝寺裏にあり。153世澤庵宗彭(たくあんそうほう)の弟子説渓演首座が聚光院の裏に移す。演没後、211世一渓宗什(いっけいそうじゅう)が芳春院門左に移し、本山住持の退休の坊とする。明治維新後芳春院に統合される。
貞岳庵
北派。111世 春屋宗園(しゅんおくそうえん)の安禅室。天正年中(1573〜1592)播州三木の別所主水正重棟(1529 〜 1591)が聚光院の北に建てる。のち芳春院に隷す。明治維新後芳春院に統合される。
通玄庵
北寮舎。171世 義峯宗寔(ぎほうそうしゅく)のために、匠師中井大和守が芳春院の裏に建てる。廃したいたが、文政年中(1818〜1830)に、418世 宙寶宗宇(ちゅうほう そうう)が般若池北草山裏に一宇を建て再興する。
閑田庵(かんでんあん)
北寮舎。門前前裏街東側にあり。文政年中(1818〜1830)に、418世 宙寶宗宇(ちゅうほう そうう)が重修。明治維新後芳春院に統合される。
西江庵
北派。238世 列堂義仙(れつどうぎせん)が、貞享(1684〜1688)頃梅巌庵背に建て、のち書院を作る。その後梅巌庵後山に移し、別に小門を立てる。檀越柳生但馬守。
心華庵
北派。梅巌庵門左にあったが、廃された。
自得庵
北寮舎。見性庵の裏にあったが、文化13年(1816)龍翔寺の火災で見性庵と共に焼失した。
看松庵(かんしょうあん)
北派。旧名は韓松庵。開祖 181世 江雪宗立(こうせつそうりゅう)。寛永年中(1624〜1644)猪飼宗怡が龍光院庫東に建て、156世 江月宗玩(こうげつそうがん)を開祖に請じ、江月は江雪を付した。
寸松庵(すんしょうあん)
北派。開祖 195世 翠巌宗a(すいがんそうみん)。元和7年(1621)佐久間将監真勝(1570〜1642)が龍光院の南隅に創建し、法号を庵名とし、156世江月宗玩(こうげつそうがん)を開祖に請じ、江月が翠巌宗aを付した。寛永19年(1642)本山の西北、碧玉庵の隣に移そうとしたが、真勝が亡くなり、遺命を継いで、正保2年(1645)に移す。天保5年(1834)焼失し、のち一宇を再興。狐蓬庵附近に寸松庵・梅巌庵趾の石標がある。
孤篷庵(こほうあん)
北派。開祖 184世 江雲宗龍(こううんそうりゅう)。慶長17年(1612)小堀遠州龍光院門内に自らの菩提寺とし創建し、156世 江月宗玩(こうげつそうがん)を請じ開祖としたが、狭隘であったため、寛永20年(1643)本山西南瑞源院隣に移した。江月宗玩は遠州の子 江雲宗龍を付した。その後、寛政5年(1793)焼失するが、寛政9年(1797年)再興。方丈は雲林院客殿を移したもの。書院「直入軒」は寛政11年(1799年)の棟札がある。九畳と三畳の相伴席の十二畳「忘筌(ぼうせん)」、龍光院の茶席「密庵」写しと伝える四畳半台目「山雲床(さんうんじょう)」がある。京都市北区紫野大徳寺町66。
大圓庵(だいえんあん)
北寮舎。古くは禅徳庵と号し、孤篷庵の寮舎であり廃されていたが、文政2年(1819)松平不昧(法号大圓庵不昧宗納大居士)が、孤篷庵西の地に創建し、法号を名とし、415世 寰海宗ラ(かんかいそうしゅん)を中興とする。文化9年(1812)大圓庵及びに茶室を起工。文化14年(1817)大圓庵の茶室披きの茶会を催す。嘉永5年(1852)焼失し、嘉永7年(1854)牌堂を再建。
慈眼庵
北派。215世 傳心宗的(でんしんそうてき)が、延宝(1673〜1681)頃に寸松庵の東に建てる。
高松庵
北寮舎。鷹峯西北山麓にあり。旧号を山隠軒。佐久間氏が建てる。山を買い寸松庵に付し、195世 翠巌宗a(すいがんそうみん)が庵を開く。その後佐久間の夫人が号を改め牌所としたが、天保年中(1830〜1844)に廃された。
正宗庵
北派。開祖 156世 江月宗玩(こうげつそうがん)。寛永9年(1632)平戸城主松浦隆信(1592〜1637)瑞源院南西隅に建てる。
東光庵
北派。234世 閑徹宗安(かんてつそうあん)が、貞享年中(1684〜1688)に建て、その後廃された。
小含庵
北派。299世 天庵宗篤(てんあんそうとく)が、享保年中(1716〜1736)に龍光院南に建てる。
龍福院
北派。87世 休翁宗萬(きゅうおうそうまん)が開創。檀越大内義隆(1507〜1551:法号龍福寺殿瑞雲珠天大居士)。廃されて久しい。
 
 
 
 
  
  
  
  
 

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